文学と教育 ミニ事典
  
芸術過程
○ デューウィは(中略)、芸術の創造や鑑賞と、芸術理論――芸術の認識機能に関して、そのなに〈何〉と〈いかに〉を問う芸術科学の理論――との関連について次のような説明を試みているが、わたしが芸術科学の理論として志向しているものも、究極において、デューウィがそこに考えているような理論以外のものではない。すなわち、「花が咲くのは、土壌や空気、湿度、種子などが作用し合った結果であるが、この相互作用のことは知らなくとも、花を愛玩することはできよう。しかし、そうして相互作用のどういうものかを考えてみなくては、花を理解 することはできないだろう。理論 とは理解のことなのである。……植物をどんなに愛玩しようと、その原因となる条件を理解できないことには、植物の成長と開花を左右することは、まず偶然的にしかできはしないのだ。」云々(『経験としての芸術』)(中略)

 花と植物――植物の部分としての花と、花という部分を含み込んだ、トータルとしての植物。言い換えれば、芸術と人間=人間自我との関係でる。いわば人間という名の植物の“開花”への過程としての
芸術過程 と、そうした芸術過程を導く根源であると同時に、実はそれ(芸術過程)を部分として含み込んでいる、人間の全
生活過程(広義の生活過程)との関係である。端的に言って、芸術過程は人間の全生活過程の部分にほかならない、という理解――上記、 デューウィの言う意味の理解である――が実践的な芸術科学の理論にとって必要とされるものである。日常性への回帰の必要ということを、わたしが言うのも、あとの叙述のどこかで多少ともその点についてコメントを用意するつもりでいるが、日常性が全生活過程の結節点であるからだ。
 つまりは、日常性に帰り着くことで、芸術性なら芸術性という分化 された生活過程――芸術過程というの生活過程――が、もう一度、全人的な全生活過程部分 として統一にもたらされ、真に全体に対する部分としての位置づけをかちえるのである。日常性は、人間自我の認識機能ということで言うなら、科学性・芸術性などもろもろの非日常性における自我の認識のはたらきの結節点として、行動の系に直結するのである。そのような意味において、日常性は、単に「人間の体験における芸術の源泉」であるにとどまらず、科学――科学的な理論の源泉でもあり、人間のいっさいの行為・行動・実践の源泉であるわけなのだ。
 このようにして、実を言えば、常住、日常性をくぐり直して思考を組み替えよう、という基本の姿勢が、あらゆる理論への思考において必要とされるのである。不毛の芸術科学
*における理論的思考にあっては、それは必要にして不可欠 と言っていいだろう。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.17-19〕

* 「不毛の芸術学」――たとえば、本書p.3-4には次のようにある。
 「あえて言うが、芸術認識論の現状・現況は、たとえて言えば算数的な基礎もあやふやなまま、代数なり微積分に宙乗りした格好のものになっている」云々。


○ 今、自分は小説を読んでいるんだということを意識している間は芸術過程は成り立たない。それが小説でなくなった時に、言い換えれば何かを読んでいる という感じではなく、自分がそこに一枚加わって生活過程の中にあるという感じになってきた時に、実は芸術過程の中に自分自身がいる、ということなのだろう。ではないのか。
 つまり、芸術の源泉は日常的な日常性の中にあると同時に、芸術作品が芸術作品として機能し作用するのも、その体験の
日常性――日常性とのつながりにおいてである、ということにほかならない。日常性と芸術性との大きな差異にもかかわらず、この両者が〈感情まるごとの体験〉としてひとつながりのものであるという理解は、意外にだいじなことのように思われるのだ。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.25-26〕



〔関連項目〕
日常性/生活過程
芸術遊離説(芸術隔離説)


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