N さんの例会・集会リポート   2005.10.08 例会
 
  
 雪人形と「三人の父親」たち――ケストナー『雪の中の三人男』前半


 文教研のNです。
 
 先日の例会は、秋季集会へ向け『雪の中の三人男』 1章から13章までを読みあいました。
 
 討論は話題提供を含め、さまざまな方向へと「拡散」(総会で I さんが紹介した、乾孝さんの討論方法のような意味で)しながら、深まっていったと思います。
 ここでは私が印象に残ったところとして、三点ほど紹介したいと思います。

 一つはこの高級ホテルにやってくる人たちの遊びと、トーブラーやハーゲドルンたちの中にある「あそび」との対比の問題です。
 お客たちは冬の間、昼間は屋外でウィンタースポーツをやり、夜は夜会服で舞踏会に興じます。昼の姿と夜の姿はまるっきり違う。しかしそれは金持ちだからこその遊びの形態です。
 一方のトーブラーたちの「あそび」は雪人形つくりです。山の冷気、夜空の月や星、その下で三人で作る雪人形。雪崩の雪が転がっていく自分の力でどんどん膨れ上がるのとは違って、三人の力で転がして大きくなっていく雪だるまのイメージ。ここで自分たちのことを「三人の父親」といっていることも、楽しみながら生み出していくものへの深い愛情を感じさせます。
 ホテルの人々と三人のメンタリティーの違い。そして、この三人のメンタリティーを通して、「あそび」の精神とは何かを考える。今次集会の大切なテーマの一つです。

 もう一つは、トーブラーやハーゲドルンの人間描写の仕方です。
 トーブラーはどうしてこんなことを思いついたか。彼はこういっています。「人間てものが実際どんなもんだか、もうちっとでおれは忘れちゃうとこだったからねえ。おれは自分のはいっているガラス室をぶち毀してみたいんだよ」。そして、この地でハーゲドルンと出会うわけです。
 トーブラーは戦争以来だれとも親しく付き合ってこなかった、ハーゲドルンは大学以来一人も友人がいない、といいます。彼らの過去が見えてくる場面です。
 こうした彼らの過去との連続の中で、問題が探られていく方法。単なる娯楽小説ではなく、現代小説としての力を感じさせる描写でもあります。

 そして、最後に I さんが指摘されていたことを紹介します。
 このトーブラーはいわゆる百万長者からすれば、らしくない人間だ。いわば、はみだした人間。しかし、この問題を1933年ごろから激しさを増すナチスの「強制的同一化政策」という状況下においてみれば、違いを許さず、画一的な型にはめられていく現実の中で、「変身」という方法で自分の人間的なものを取り返す精神の柔軟性というものが、強くクローズアップされてくるのではないか。

 次回は14章から最後まで読みあいます。

 〈文教研メール〉2005.10.21 より

 

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