N さんの例会・集会リポート   2005.9.24 例会
 
  
 「百万長者」のイメージに重なるもの――『雪の中の三人男』二つの序


 文教研のNです。

 先日の例会では、秋季集会へ向けてケストナー『雪の中の三人男』(創元推理文庫)の二つの序を読みあいました。


 第一の序文 芸術的主題としての百万長者

 この序文にある以下の部分は、以前例会で取り上げられたときも話題になり、私としてもとても印象的な場面でした。
 「――読者諸君は太陽が地平線の彼方に没する瞬間に、偶然空を見上げたことが、かならずあるにちがいない。日没後数分にしてたちまち西の雲が燃え始める。雲は紅くなる。たそがれていく灰いろの地球の上に雲は寂しく光っている。/雲は薔薇いろを帯びた紅の微光を放っているが、太陽は没している。百万長者はこの雲に似ていないだろうか? すでに沈んでしまった過去の残照ではないだろうか? それだから流行にとり残されたのではないだろうか?」
 そのとき引き合いに出されたチェーホフ『桜の園』が最も強い印象だったように思います。

 さて、今回、あらためて印象が深まった点はこの本が出版された1934年という歴史的場面において、「百万長者」のイメージと迫害されていくユダヤ人たちのイメージが重なるはずだ、という I さんの指摘でした。この指摘は以前からされていたわけですが、自分の中でまだしっかり定着していなかったことを実感しました。
 
 この序の書き出しはこうです。
 「百万長者はすたれた。映画評論家さえはっきりそう言っている。これは大いに考えさせられる。」
 ナチスが映画をプロパガンダの重要な手段として利用したことを考えれば、そこにケストナーらしい風刺の感覚が働いていることは確かでしょう。 I さんは多くのユダヤ人たちが亡命し、ワイマールを支えていたサロンもまた消えていったことを話されました。
 
 こうした眼であらためてこの序を読み直していったとき、次のような部分が強烈な風刺として響いてきました。
 「……たとえば道路の反対がわを自転車で走ることは危険であって、これは禁じられている。それと同じようなことを、画家や作家が作品の中で行ったとしたら、事実はなはだ穏当でない。それならばわかる。/強盗や追剥も、芸術上の主題としては、やはり不穏当だ。なぜならそれは、実生活の上でも、本人の泥棒以外の者からは歓迎されないからだ。」
 ルールを無視し、ここも道だとばかりに逆に進む。自分たちにとって歓迎なら追剥も強盗も良心の目を通してみれば、実はそれはナチスのやり方そのものであると同時に、その只中に生きて麻痺させられた自分たち自身の感覚でもあるわけです。


 第二の序文 作者がねたを明かす

 ここで話題の中心だったのは、「作者(わたし)」と友人のローベルト、彼の恋した若い女流美術史家であるところのエルフリーデ、特にエルフリーデの人間像でした。
 若きインテリであるところの彼女。彼女はこの当時において強きドイツの典型的イメージであったという「バンベルクの騎士」を見ていない男とは結婚しないといいます。しかし、実際に彼女が選んだのは、本気で「バンベルクの騎士」を見に行ったローベルトではなく、彼女の横っ面を張り倒した歯科医師でした。 
 
 高い教養を持ちながら、むしろ自分を否定するような力の強いものに、自ら身を任せていく女の姿。『ファービアン』の中に描き出されていた人間群像を思い起こさせられました。
 
 この日の例会は、総選挙のあとの初めての例会でした。次のような I さんの指摘は、非常に強烈でした。殴られた人間にむしろついていくエルフリーデ、この姿は今の日本と同じだ。さんざん「小泉構造改革」の名の下に「痛みに耐え」させられながら、ところがその人間に期待を持って抱きついていく……

 今こそ私たちにはケストナーが必要だ、そう感じさせられる例会でした。

 次回は本文に入ります。

 〈文教研メール〉2009.10.7 より

 

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