Nさんの例会・集会リポート   2005.11.13 秋季集会
 
  
 市民性を失わない百万長者――ケストナー『雪の中の三人男』ゼミ


 文教研のNです。

 11月13日(日)世田谷区・三軒茶屋で文教研・秋季集会が開かれました。 ケストナー『雪の中の三人男』(創元推理文庫)をみんなで読みあいました。会場風景1

 おなじみの方々がまた足を運んでくださり心強かった一方で、高校生、大学生、会員の教え子さんである新社会人の方々が参加、積極的に発言してくれたのがとても印象的でした。一冊の本が対象で、なかなかゼミ形式で発言するのは難しい面がある中で、この若い方たちの発言に大いに助けられたというのが実感です。

 さて、この作品のキイワードは、やはり「百万長者」でしょうか。
 第一の序文の表題は「芸術的主題としての百万長者」です。最初チューター提案の中で I さんが紹介された資料、ハンザー社版『ケストナー全集四巻』の注解、その一部を引用すると。
 「この小説では、彼は、自分の行為の道徳的意味をじっくり考える百万長者のタイプ(典型)を描いている。……」
 そして、ケストナーの言葉の引用として、以下のような部分。
 「百万長者が存在しないなら、彼らは、発見されなければならないだろう。人類は彼らを必要としているのだ。芸術のパトロンとして、納税者として、経済の指導者として、話の種として、そして、喜劇の登場人物として。」

 そして、この作品が書かれた時期と同時期の論文、ヘルマン・ヘラー「市民とブルジョア」という論文を紹介されながら、「市民性を失った百万長者 vs 市民性を失わない百万長者」という切り口を示してくれました。これはこの作品を読んでいく上で、きわめて今日的な意味を持つ大切な切り口であろうと思われます。

 ケストナーの序はどの作品においても、読者にその作品への読む構えを作ってくれるものです。その位置から本文を見ていったとき、読者は本当にケストナーが語り合おうとする主題と向き合うことができる、そうしたことを実感します。

 さて、そうした点でいうと、今次集会で序の部分を語り合いながら見えてきたことの一つのポイントは、「流行におくれる」ということだったように思います。
会場風景2
 第一の序の冒頭は「百万長者はすたれた」というところから始まっています。そして、「雲は薔薇いろを帯びた紅の微光を放っているが、太陽は没している。百万長者はこの雲に似ていないだろうか? すでに沈んでしまった過去の残照ではないだろうか? それだから流行にとり残されたのではないだろうか?」

 第二の序文に出てくる私の友人のローベルトと彼の恋した若い女流美術史家のエルフリーデ。彼女がローベルトに要求するのは、当時、ドイツの理想としてもてはやされたという中世の騎士像「バンベルクの騎士」の姿です。
 若きエリートである彼女にとって、それが理想の男のイメージだというのです。しかし、彼女が実際に選ぶのは、彼女のわがままに張り手を食らわした歯科医でした。
 そこには知識や教養がその主体的な選択にはなんら関係なく、結局強いものに付き従っている、しかし、そのことになんら疑問を感じない、メンタリティーが描かれています。
 そして、それはまさにもっとも時流に乗ったメンタリティーなのです。

 ローベルトはかわいそうでした。
 しかし、読者はこのエピソードに感謝しなければなりません。というのは、このハンベルクの騎士像を見に「私」とローベルトが出かけたその汽車の中で、今回のこのお話の材料に出会ったのですから。

 ここからお話は始まります。

 真実はいったいどこに隠されているのか、種明かし会場風景3を知っている読者を十二分に笑わせてくれながらお話は進みます。
 と、同時に、ナチス政権下を生きる自分自身の現実と重ねあわせて読める読者へ向けて、鋭い現実批判、自己批判の精神で問いを投げかけてくる。
 そうしたイメージに重層性を持った、そして、それだけ歴史的場面との関係において骨太な、そうした作品となりえているようです。

 「流行」とは何か。
 そこで問われているものの性質は、きわめて今日的です。今、私たちはどこへ向かっていっているか。自ら「主体的」に選んでいるかのような幻想の中で、実は「流行」に流され、そして、その先に待ち受けているものは何なのか。

 ケストナーの精神を今こそ私たち自身のものに、と改めて実感させられました。

 今日の例会、秋季集会総括は、武蔵小杉・総合自治会館です。


 〈文教研メール〉2005.11.26 より
 

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