マルセル・ライヒ=ラニツキ著
  『わがユダヤ・ドイツ・ポーランド――マルセル・ライヒ=ラニツキ自伝
   (西川賢一・訳/2002.3 柏書房刊)より
   
[ケストナーについて集中的に言及している章からの抜粋]   
魂の役に立つケストナー                                                             
        さしあたって私が読んだのは、クラスメートが読んだ本と同じで、教師たちが時おり出してくれるヒントやアドバイスに沿ったものだった。ごく初めのころだが、ポピュラーな歴史小説に興味をそそられる時期が私にもあった。たとえばアメリカの作家ウォレスのベストセラー『ベン・ハー』、ポーランドのノーベル賞作家ヘンリク・シェンキェヴィチの『クォ・ヴァディス』、フランドル作家コンシャーンスの『フランドルの獅子』、イギリス作家ブルワー=リットンの『ポンペイ最後の日』などである。
 さらにクーパーの『革脚絆(かわきゃはん)物語』を読んだけれど、敬意はおぼえながらも少々退屈させられた。いっぽうドイツ作家でありながらインディアンものをたくさん手がけたカール・マイには、私も一時期わくわくしたものだ。あえて安直きわまる手法を使い、プリミティヴな要素、センチメンタルな要素もかまわずぶちこみ、それでいて相当なストーリーをこしらえていった、驚くべき物語作者といえよう。
 しかし例のグリーン版を何冊か読み終えると、さすがにカール・マイはもうたくさん、といった気分になった。私からすると主人公のオールド・シャターハンドが強すぎ、勇ましすぎ、おまけに模範的なくらい私欲がなかったせいかもしれない。いや、もう一つ考えられる。彼はさも偉そうな口をきく正真正銘の大いばりで、それが私たちベルリンの生徒にはとりわけ野暮ったく思えたのだ。
 「ドイツ的あり方に即しさえすれば/この世はもういちど回復するかもしれない」――いまでは忘れ去られた詩人エマーヌエル・ガイベルの一節である。当時の私だって、この詩句を知っていたわけではない。しかしカール・マイの小説で、しいたげられた人たちを救い悪者どもをこらしめるヒーローが必ずドイツ人だというのは、すでに引っかかるものがあった。素手で(鉄拳で)ではないにしても、珍奇な武器で(いわば魔法の武器で)秩序と正義を守る、それがどうしていつもドイツ人でなければならないのかと。
    (中略)
 十九世紀に描かれたドイツの歴史小説で「極上」とされたものも、ことさら愛国的な傾向が鼻についた。
    (中略)
ケストナーの新しさ
                                         
  
 前記の本はみな、読んで一応面白い気がしたけれど、熱狂はしなかった。豪傑と騎士の世界、英雄とつわものの世界、力強い王侯と勇ましい闘士の世界であって、気質のほうはまあ単純というか素朴というか――要するに私の世界ではなかった。そんなとき、まったく別種の本にぶつかり、夢中になったのだ。エーリヒ・ケストナーの『エーミールと探偵たち』で、「子供のための小説」と銘打ってあった。
 ケストナーの存命中、私は一度ならず書いたものだ、いくぶん世評に抗して「ささやかな自由を歌いあげ、とるにたらぬ人々を作品化したこの詩人は、二十世紀ドイツ文学の第一級作家に属する」と。買いかぶりだったろうか。いかに私とて承知している――彼の小説は代表作『ファービアン』もふくめ、忘れ去られてはいないにせよ、とうに色あせている。舞台用の作品は何ひとつ成功しなかった。評論はおおむね発表当時こそ有益だったが、いま見れば格別意義をもたぬ時評ていどにすぎない。では何が残るか。詩のごく一部も確実に残るとはいえないし、児童書の一冊ないし二冊にしたって同様なのかもしれない。
 しかし当時エーミール・ティッシュバインと、警笛を持ったその友グスタフは、赤銅色の紳士ウィネトゥや高貴な闘士オールド・シャターハンドより、はるかにぴったり来るものがあった。ローマのために闘う軍司令官たち(ツェテーグス、ナルゼス、ベーリザル)も比較にならなかった。列車の中でエーミールから盗みをはたらいた悪いやつ、それをまんまとつかまえるベルリンの子供たち――たしかに彼らもオールド・シャターハンドと同じく、正義が通り秩序が回復されることを心がけており、話自体にお涙ちょうだい的な要素がなくはない。けれどもカール・マイの場合とちがって、ここにはエキゾチックなもの、おおげさなものは皆無なのだ。ケストナーの話は、遠い時代、遠い国で展開されたのではなく、「いま」「ここ」で起こったことになっていた。ベルリンの街角や裏庭とくれば、私たちには先刻なじみの舞台である。登場人物のしゃべり方も、私たち、この大都会で育ったみんなとそっくりである。それがだいじなところで、この本は信用できると思われベストセラーとなったのも、つきつめれば日常語が本物だったおかげだろう。
 引きつづき何点か出たケストナーの少年少女小説も、やはり気にいりはしたけれど(とくに『点子ちゃんとアントン』)、受けた感銘は『エーミール』ほど強くなかった。そうこうするうちに作者ケストナーの名はぱったり聞かれなくなった。一九三三年五月十日、ベルリン国立オペラ劇場まえの広場で「有害図書」がやかれたが、そのなかにはケストナーの本もあった。このとき当人は、近代で例のないものを見ものを目撃しようとした大勢の人たちにまじって、焚書(ふんしょ)の様子を見とどけた。にもかかわらず彼はドイツ国内にとどまった。だがうわべ だけ見れば亡命者ではないけれど、亡命者なみに扱っても間違いとはいいきれまい。一九三三年から四五年まで、この二股かけた男は腹をくくっていた。作者本人は国外亡命しなかったものの、著書は国外亡命し、スイスでだけにせよともかく刊行された。エーリッヒ・ケストナーはドイツ亡命文学の名誉作家なのである。
 そんなわけで彼の著作はあの八年間、ごくまれにしか私の手に入らなかった。市立図書館からも町の本屋からも姿を消してしまったためである。ただし古本屋をていねいにまわれば、二束三文で買い取ることはできた。いまや好ましからざる作品群として、こっそり売られていたからだ。でも私はもうケストナーを読まなかった。けっこう成長したので、詩もふくめてケストナーは卒業、というつもりだったろう。だからといって、忘れきることなどできなかったが。
 
ゲットーで読んだ詩
                                      
  
 いくら時がたとうと、愛着は根本的にちっとも変わってない――俄然そう判明したのは数年後、ワルシャワ・ゲットーにおいてである。あるとき何か必要があって、私は知人を訪ねた。中に入ると、予期してなかったものが並んでいた。ドイツ書だ。ぱっと瀟洒(しょうしゃ)な小型本が目に飛び込んできた。タイトルは『エーリヒ・ケストナー先生の抒情的救急箱』といい、一九三六年チューリヒで刊行とあった。さっそく私は巻頭詩「鉄道の比喩」を読んだ。「ぼくらはみんな同じ列車に乗り/時代を斜めに横切ってゆく」と始まり、「ぼくらはみんな同じ列車に乗っている/ただし大半は間違った車室にいるのだが」と終わる詩だ。
 私はこの本がどうしても欲しくなった。可能でありさえすれば、すぐにも買ったろう。しかしゲットー内の新刊書店はおろか、古本屋にも見あたらなかったため、とうとう入手できなかった。そこでともかく借りることにした。期限つきだったのはいうまでもない。それをテオーフィラという娘(愛称トーシャ、彼女についてはあとで再三ふれる)が、私のために手書きで写してくれた。彼女は詩に彩飾画も添え、全篇しあがるとていねいに綴じてくれた。こうして完成した“写本”を私は二十一歳の誕生日にもらったわけである。一九四一年六月二日ワルシャワ・ゲットーで、これに優るプレゼントが私にありえただろうか。断言はできない。ただ確かなのは、これほど苦心がはらわれこれほど愛情がこもったプレゼントはなかった、ということだ。
 トーシャと私は並んで腰かけ、暗い夜中に乏しい照明のもとで、ゆくっりしみじみドイツ語の詩を読んでいった。近所のゲットー入口からは時おり、ドイツ兵の銃声とユダヤ人の叫声が聞こえてきた。私たちは身をすくませては震えた。それでも先へ先へと読みつづけた、『抒情的救急箱』を一篇一篇。私たちは愛を知りあって間もなかったが、物悲しいながらすばらしい「リアルなロマンス」に陶然とした。「ほかの人たちにとってはステッキや帽子がなくなるみたいに」愛情が八年たったら急になくなってしまった二人――しかもなぜだか全然わからない二人――をとりあげあた詩である。私たちは共通の未来に思いをはせた。まあ強制収容所に送られれば別だが、共通の未来なんてありえないことは百も承知で。
 「きみ知るや、大砲の花咲く国」とか「どこにプラス要因が残っているんですか、ケストナーさん」などと、いらだたしげに問いかける詩もあった。立身出世主義者の性格を描写した詩句「先祖は原生林ではいあがりをしていた/子孫の彼は文化の森の猿さ」には、思わず笑みを誘われた。ぎくりとさせられる警句もあった、「笑いものになるのも知らず/毒さえかまわず飲んでしまう/そんなにどっぷり浸かるじゃないよ」と。私たちのみじめな在り方をぴったり言い当てていたのは、「モラル」と題する詩の二行だった。いわく、「ろくなことがない/これではやる しかないじゃないか!」
 ケストナーの実用詩を、偉大なドイツ詩に加えるわけにはとうていいかない、ということは重々承知している。だが当時、その知的で小粋で、しかもどこかセンチメンタルな詩に私は心から感動し、それこそ夢中になった。日々くりひろげられることが、私の読書にも影響をおよぼさずにはすまなかったのだろう。ワルシャワ・ゲットーの悲惨のまっただなかで、毎日死を覚悟しなければならない時期にあって、長篇小説など読めたものではなく、短篇集さえなかなか読めないありさまだったから。
    (中略)
 私が読んだのは詩、わけてもゲーテとハイネである。日常があんなだったにもかかわらず、詩だけは依然おもしろく、興味はつきなかった。ただし、もともとたいして好きではなかった何人かの詩人は、耐えがたいとはいわぬまでも、よそよそしく思えてきた。司祭めいた身ぶりがつきまとう詩人たちといったらいいだろうか、要するに予言者であり、神秘口調の人であり、「聖なる焔の番人」であって、具体的にはヘルダーリン、リルケの一部、シュテファン・ゲオルゲの全部がこれに該当する。彼らの御託宣がいまや私の神経をさかなで し、まま壮麗な“言葉の音楽”も魔力を失ってしまったのである。もっともずっとのちに判明するとおり、それきり失いっぱなしではなかったが。
 ケストナーを無条件でリルケやゲオルゲと並称したり、ましてやヘルダーリンと並称するなど、どだい無理である。けれども人生の状況によっては、ブルックナーの交響曲など我慢ならないが、ガーシュインならよくてたまらない、といったこともあろう。それと同じで、当時しばらく私には、エーリヒ・ケストナーのとことん平俗な都会風抒情詩にこもる懐疑とユーモアが、予言者たちの崇高な詩魂よりもはるかにピタッときたわけである。
 じつはもう一つ、ワルシャワ・ゲットーではあまり深く考えなかったが、まったく違う事情もあずかっていた。『抒情的救急箱』は、ワイマル文化の精神風土を思い出させてくれたのだ。ヒットラーが政権をとる直前の数年間、こちらはまだ子供だったけれど、あの文化に魅了され有頂天になっていた。そして共和国が崩壊した直後の数年間、こちらは一九二〇年代に出た書物・レコード・雑誌・プログラム冊子にやみつき になっていた。だからこそ、その精神風土がなつかしかったのだ。
 もちろん、私が一九四一年にケストナーの詩集を見つけたのは偶然にすぎない。ブレヒトの詩句でも、トゥホルスキーのエッセイでもよかったはずだろう。ヨーゼフ・ロートやエゴン・エルヴィン・キッシュのルポルタージュでも、アルフレート・ケルやアルフレート・ポルガルの評論でもよかったし、『三文オペラ』や『マハゴニー』のソングでも、『青い天使』のリートでもよかったろう。マレーネ・ディートリヒ、ロッテ・レーニャ、エルンスト・ブッシュ、フリッツイ・マッサリー、リヒャルト・タウバーらの声音(こわね)でもよかったろう。ゲオルグ・グロスのデッサンでも、ジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュでもよかったろう。これらはみな、若年の私を形づくった世界――つい先ごろまで自分のものだと感じた世界――を如実に表わしていた。私はその世界を熱愛しながら、すげなく追放されていたのだった。 
晩年のケストナーに会う
 いつかケストナーと知合いになろう、なんて考えもしなかった。戦争を生き延びる見込みは極小だったが、それを度外視しても、もし誰かが「きみはケストナーと会見する」と予想したなら、私はきっと答えていただろう、「ばかげた考えだね、ヴィルヘルム・ブッシュやクリスティアン・モルゲンシュテルン〔ともに故人〕と会見するのを夢見るようなもんじゃないか」と。しかし一九五七年十二月になって、私は依然ポーランド国籍のまま、西ドイツを訪れる機会に恵まれた。ハンブルクからスタートし、ケルン、フランクフルトをへてミュンヒェンにいたる旅程だ。私はさっそくケストナーの電話番号を調べにかかった。ずいぶん手間どったけれど、とうとうわかった。電話口に出たケストナーは、私がワルシャワの批評家だと聞くと(当時ミュンヒェンでそういう客人はめったにいなかった)、あっさり申し出を受け、シュヴァービング地区のカフェ・レーオポルトで会おうと提案してくれた。
 ケストナーは一九三三年直前のころと同様、ふたたびポピュラーになっていた。あいかわらず過小評価ぎみながら、ともかく評価はされていた。ちょうどビューヒナー賞をもらったばかりで、七巻本「評論全集」の編集が進んでいるところだった。なのにあまり尊大な感じはせず、むしろ好意あふれる人という感じがした。すらりとしてチャーミング、粋でエレガント。五十八歳という年齢を考えれば、驚くほど若々しく見えた。
 こちらの質問にていねいに答えてくれたあと、ケストナーは私が戦時中どんな目にあったか知りたがった。私はできるだけ簡潔にワルシャワ・ゲットーの報告をし、すぐ彼の詩集に言いおよんだ。そして手書きの『抒情的救急箱』を見せた。たまたま手もとに残ったものの、かなりよれよれ になっていた例の写本だ。彼は不意討ちをくらったような顔をし、黙りこくってしまった。どんなことでも想像がつくつもりでいたが、まさかワルシャワ・ゲットーで自分の詩が読まれていたとは、しかも中世さながら手書きで写されていたとは、という驚きの気持だったろう。深く心打たれ、このスマートな詩人は目に涙を浮かべていたように思う。
    (中略)
 一九七四年七月二十九日のことである。そのころ私は『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の編集局で文芸部門をとりしきっていたが、そこへ中年のメッセンジャーがドイツ通信社の通報を持ってきた。しかたなさそうな顔で彼は通報をデスクに置くと、ありきたりなコメントを添えた、「また名士がお亡くなりです」と。私はすばやく目を通した。「ドイツ作家エーリヒ・ケストナー、ミュンヒェンの病院で死去」とある。そういう場合の常として、まず第一に時計を見た。大急ぎで書けば、追悼文はまだ間にあうことがわかた。でも取りかかる前に電話をかけた、一九四一年ワルシャワ・ゲットーでケストナー詩集を書き写してくれた当人にである。彼女はひとこと「そんな(ナイン)!」と言ったきり絶句してしまった。記憶に誤りがなければ、このとき私はまたしても涙ぐんでいたはずだ。彼女にしても同様だったろう。
 一九九八年、私たち夫婦(トーシャと私)にちょっと珍しい依頼が舞い込んだ。共同で一冊、ケストナー詩集を編んでくれないかと、作家兼出版人〔ハンザー書店編集長〕のミヒャエル・クリューガーから頼んできたのだ。詩を選ぶのはトーシャ、あとがきを書くのは私にしてほしい、ということだった。私たちは喜んで引き受けた。そして本がしあがると、タイトルはケストナーの一句を引いて『魂に役立つ』とした。

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