〔日本文学 2003.8〕 

〈座談会〉文学と教育における公共性の問題──文学教育の根拠──
 
 司会(都留文科大学 田中実) 本日は「日本文学」の八月号、「文学教育の根拠」というテーマで三人の先生方に集まっていただきました。メンバーは日文協としては極めて異色の組み合せ、まず最初に松澤和宏さん、松澤さんのご専門はフランス文学、フローベールやソシュールテクストの草稿のご研究で、パリ第八大学に留学され、今は名古屋大学にお勤めです。今日は日本の近代文学の研究状況が松澤さんの目から見てどんなふうに見えているのか、それに文学教育の根拠というか意義といいますか、そういうこととどう絡むとお考えになっているのか、お話ししていただきたいと思っております。 松澤さんの『生成論の探求』というご本が六月に出る予定だそうですが、松澤さんのご専門についてもう少しお尋ねしますと、渋沢・クローデル本賞というこれはどういう?

 松澤 これは毎年日本とフランスでそれぞれ文科理科含めて、優れた業績を収めたものに与えられます、日仏の大使館、毎日新聞と日仏会館が主催しています。「フローベール『感情教育』草稿の生成研究序説──恋愛・金銭・言葉」、これはフランス語なんですけれども、一九九三年に受賞いたしました。

 司会 そうですか。それではよろしくお願いします。
 それから、二番目は難波博孝さん、難波さんは京都大学大学院で言語学の研究をなさって高校の教師をされて、その後、神戸大学の大学院の教育学研究科にお入りになり国語教育をご専攻され、現在は広島大学大学院の教育学部に所属していらっしゃいます。難波さんのご本ももうすぐ出ると聞いております。難波さんはかなり激しい調子で文学教育を批判されたことがあり、その根拠が何だったのか私ごときにはよく理解しきれていないのですが、ともかくこれまでの文学教育がある面、厳しい批判をあびなければならないのは当然で、というより、これを一旦壊さなければ始まらないと私などは考えています。難波さんは他方で演劇活動もされ、最近では臨床国語教育学会も立ち上げられ、今もっとも注目すべき国語教育界の麒麟児でいらっしやいます。
 三番目に高木まさきさん、高木さんは昨年の八月号にも「ふたりの犯罪者から──人として必要な言葉の力とは何か──」という優れた論文が載っておりますが、高木さんの経歴も少し変わっておりまして、筑波大学の大学院をお出になり、都立高校にお勤めになりその後は文部省の教科書調査官をお務めになり、教育現場を求めて今、横浜国立大学にいらっしやるわけです。そういう方は恐らく珍 しく、そのあたりの事情は大修館書店の高木さんの著書『「他者」を発見する国語の授業』のあとがきにあり、大変興味をひかれました。高木さんには明治前期の国語教科書の研究とともに「読むこと」の研究があり、国語教育界の流行便乗の「用語の病」を糺し、上すべりを掘り起こす重要な位置にいらっしやいます。
 そこで今日は八〇年代のバラダイムチェンジが微温化され、残念ながら「日本文学」誌に限らず呑気な状況論や展望がなされているなか、お三方にそれぞれの専門から見た研究状況を忌憚なくお話し いただいて、文学研究と文学教育の今後、あるいは文学教育のあり方というような問題に挑発的に語っていただけたらと思います。それでは最初に松澤さんからお話しいただきたいと思います。

   真に共有すべき公共的価値について

 松澤 私は日本文学の専門ではありませんので、少し距離をおいた外野からの発言ということになるんですが、今日の文学研究の現状に関連した話を私の感想も交えて、させていただこうと思います。最近、田中さんが右文書院から『「読むことの倫理」をめぐつて』という本を出されまして、その前書きに今日の文学研究の状況の問題点が明快に書かれています。これをもう少し具体的に申しますと、文学研究の場では、二〇年以上前から構造主義、物語論それからテクスト論、その後カルチュラル・スタディーズ、ポスト・コロニアリズムという動きが盛んに導入されて、従来の文学研究の根拠というもの自体が、常に問われるという展開になったわけですね。そのなかで特にテクスト論が追求した問題というのは、還元不可能な複数性を理念的に主張し、既成の通説を崩し、さまざまな読みの可能性を追求していくということが盛んになされてきたと思います。ただ、その結果出てきた問題というのは十分に掘り下げられなかったと思うんですね。それは文学というのは、国民国家のイデオロギーとか制度的な産物であるという考え方が一方にあってネガティブに批判される対象としてのみ取り上げられてきた。そのことによって広い意味では文学研究、あるいは文学教育の根拠が十分に問われないまま、研究や教育に何らかのかたちで携わっている人たちによって文学研究が、あるいは文学なるものが非常に否定的に捉えられていくという、言わば自分の足場を切り崩していくような作業がなされてくるという一種バラドキシカルな状況となっていた。
 そうなりますと、文学というものがまだ暗黙のうちに信じられているうちは、それが制度や国民国家の産物であるという指摘が非常に有意義に見えるわけですね。そして実際に有意義な面があったと 思うんです。しかし、今日の日本では文学というものが、研究や教育のなかで次第にその根拠が文字通り見えなくなり、暗黙のうちに共有されていた価値として、文学というものがこのまま存在し得るのか、危うくなる状況にさえ至っているのではないかと私は痛感しているわけです。テクスト論以降見失われたものは、文学研究あるいは文学教育のもっている一種の公共的な価値、公共性という問題であり、そこでは積極的にこれが取り上げられることがほとんどなかったのではないかという気がするわけです。一つの言語文化を共有する社会なり共同体なりには、暗黙の価値体系というものが必ずあるわけです。その価値体系の一部は例えば成文化された法のようにテクストとして明示されるケースがありますが、すべてが法律のようなかたちで文章として明示されるわけではないんですね。世代から世代に受け継がれてきた一種の遺産のようなもの、膨大なものをバックにしてはじめて現在の文学・文化というものも可能になると思うんです。それは喩えて言えば、言語文化というものは、水や空気と同じように、私たちが生きていく上で不可欠なものであって、それゆえに逆にその存在が日ごろ必ずしも十分に意識にのぼらない。しかしそれなくして恐らく人間は人間として生きていけなくなるようなそういう不可欠な存在ではないかと私は考えています。
 そうしますと、そういう考え方に対して当然反論が予想されるわけです。それは、文学なり文化というものは、法秩序とは違って個人の趣味嗜好の領域にかなり関わる。したがって例えばテクスト論が主張する複数性というのが、ある種の「個人の自由を最重視するリベラリズム」というような政治思想と結びついて今日、主張されてくるわけです。そうしますと、文学というのは究極的には個人の主義、私的な感性ですとか恣意性に最終的には委ねられるほかないものなのかどうかというところが一つの大きな論点だろうと思います。もし文学の研究・教育の根拠が最終的に私的な個人の感性や恣意的な好悪に切り詰められてしまった場合には、文学の公共的社会的な根拠は非常に弱いものにならざるを得ないことは明らかです。ですからテクスト論が主張する複数性というのは政治的にはある種のリベラリズムと結びつくことによって一見すると反論不可能にさえ見えるほど今日、猛威をふるっていますが、しかしそれがもたらしているものは実際には公共的な価値の問題を退けるかたちになってしまったのではないかと考えます。
 そういった現象は実は新しいことではなくて丸山真男が指摘しているように、日本のある種の知的な伝統かもしれません。しかし、日本の伝統ということにすべてを流し込んで処理するよりは、今日の日本の社会、とりあえず戦後の日本の社会における価値の相対主義の問題に結び付けて考えるべきではないかと思います。
 日本の戦後民主主義におけるリベラルな解釈共同体において複数性というものが理念化され自己目的的に追求されるようになりますと、社会や解釈共同体にとって真に共有されるべき価値の模索が実はないがしろにされて、私的な趣味に準じる矮小なモラルしか最終的には残らないというのが今日進行している事態なのではないかと思います。もう少し別な言い方をしますと、文学研究や文学教育の根拠を狭い意味での文学に求めても無理であって、それを汲み上げ る源は恐らく生きた人間以外のなにものでもないと。したがってもう一度そこに立ちかえって文学の価値というものを考えなければいけない。それは言いかえれば、今日の日本の社会が自らの社会の基底にある暗黙の価値というもの、共有されるべき価値とは何なのかということが今、問われていてそこに文学研究・文学教育の根拠というものが重ね合わせられていくだろうと思います。(中略) 

 司会 松澤さんの言うモダニズムは八〇年代の日本のポストモダンの運動を内包していて、そのモダニズムにおける進歩主義が一見ラディカルに見えながら、その実、批判や否定に偏っていた状況を捉え直し、そのもっと根底にあるものを求めようとされている。これを一言でいうと、あるべき文学を広く公共的な価値の問題として取り上げるというお説で、私にとってはとても共感できるし、真っ当でありながらユニークと申しましょうか、目からうろこが落ちるような思いで伺っておりました。テクスト論と言ってもさまざまでしょうが、確かにこれはリベラリズムと結びつき、それが見せかけという意味でなくとも、そこにある種の権力的なイデオロギーが形成されがちですね。松澤さんのお話はこれと対決するかたちをと り、文学研究の復権の拠点を示されて、「読むこと」の新たなベー ス「読むことの倫理」の基本の空間を用意していると言ってもよいように思います。それでは、次に難波さん、お願いします。

    新しい公共性を作り出す困難さ

 難波 今の松澤さんのお話を受けるとすれば、非常によくわかる部分ともう少しお聞きしなければいけない部分があると思うんですね。特にそれは教育とは何なのかという問題、つまり教育とは公共的なものを受け継いでいくという面を強くおっしゃられたと思いますが、もちろんそうじやない側面もあると思うので、その部分との関わりということと、公共性と伝統というのを果して等価に置いていいのかどうか。つまり、公共性という概念の再構築をしなければいけないと私は強く思っているので、その辺りをもう少しお聞きしたいと思います。と言いますのは、教育とか文学教育とかを語るときにどういう場から語るのか、そしてその語ったことがどういうふうに回収されていくのか、非常に慎重にならざるを得ないと思うんですね。私は一時期文学教育に対する批判をすごくしてきたし、これからもしていくつもりなんですが、それはどうしてかということは今の松澤さんのお話でもよく見えてくると思います。と言いますのは、文学研究で起こってきたそういうさまざまな読みへの志向性というのが、教育でも大きく起こってきた時代があります。それに対する苛立ちのような反発が今いろんなところで起こってきている。それが新自由主義的な競争原理と重なって、一番大きなところの問題としては教育基本法の改正につながっていこうとしています。「国を愛する心」ということ自体は否定する人はそんなにいないと思うんですが、そのことばのもつバックグラウンドとかそのことばがもつ影響力といったものを考えたときに、それがどの場から発言されてどこに向かっているのかということに私たちは敏感にならざるを得ないと思うわけですね。
 文学教育や文学を称揚するということはそういった大きなマクロな流れに、いわば加担してしまう、あるいは加担したようにとられてしまうという恐れをここ何年か強くもっていました。それは現場の先生としやべっていて、教育の世界では読者論というんですが、何でも読んでいいよという、あれが先生にも子どもにも大変な苛立ちとなって表れているという現実があるからです。それはただどう評価していいのかという問題だけではなく、まさしく松澤さんがおっしゃったように、文学教材あるいはもっと広く国語教育とは何をすべきものなんだと。何でもいいんだったら何にもできない、立ち止まり感があるんですね。そこに「いや、文学には価値があるんだ、そしてそれはこういう価値なんだ」ということを非常に明確に見せようとしてきているのが今、文科省あるいは国立教育政策研究所が、僕はあえて「発布した」と言うんですが、発布した評価規準というものです。規準の「き」は規則の「規」なんですよね。文学教育者にとってこの評価基準、俗名「評価ののりじゅん」が現場に与えている影響は大変なものがあると思います。評価が相対評価から絶対評価になることによって一体何によって評価していけばいいのかと当然みんな迷ってしまうわけですね。国の方、お上から「こういう規準で評価してはいかがですか」というようなものが発布された。それまでの指導要領はガイドラインが非常にあやふやなものです。この評価規準は非常に明確なかたちで評価の基準を出してき たために、そしてそれが評価できなければ授業じゃないという、いわば手段と目的が逆になっていくような動きが出たがために今の国語の教室というのは、かなりしんどいものになっていると思っています。
 つまりここで評価規準なるものが、文学教材の授業にどう当てはめられていくのか。ここのところを非常に強く考えなければいけないなあと思います。文学というのは、松澤さんがおっしゃったように非常に公共的なもの、いわば価値を継承していくという側面と、個人的なものとがないまぜになったもの、常にそれは相反しながらも互いに互いを改変していくものだろうと私は思っています。そしてそこにこそ文学教材の授業の力があるし、教材としての文学の力もあると思うんですね。いわば個的であって公共的であり、公共的であって個的であると。
 多くの優れた文学教材の実践はそこを利用していったと思うんですが、こういうふうに教えなさい、こういうふうに評価するんだと。それを先生たちが自由に決められたらそれはいいんですが、大学でもそうですが今はシラパスといって公開されるんですね。そしてその公開されるのをチェックするのが決して受益主体の学習者 じゃなくて校長、教頭であり教育委員会であるという状況。まあ私自身はそこをうまく組み替えていくような仕事をしていく必要があると強く思っているんですけれども、今、文学教材の授業というのをあるいは文学を教育の場面で使用するということは、マクロなレベルではそういう新自由主義と愛国的な、まあ新保守主義とまでは言わないですが、それに近いような動きに加担するところから発話しているのではないかと思われてしまうような部分、あるいはそれを発言することによって与えていくさまざまな影響力がマクロ的にはあると思いますし、ミクロ的にはそういう文学教材の評価規準といったなかで枠づけしてしまおうという動きがある以上、文学教材 を称揚していくのは大変厳しいと思っています。
 私自身がそういうことを感じていたので恐らく文学教育なるものに対して批判しなければいけないという切迫感があったんだなあと、今の松澤さんの話を聞いていて思いました。私は教育の世界で言う読者論、テクスト論というものに対してそれはニヒリズムを生むだけであると強い思いをもっています。かと言って単純なかたちで公共性というものに回帰したくはない。教育の役割は新しい公共性なる概念を何とか多くの人々とともに作っていくことではないかと思うわけです。(中略)

 私がテクスト論なり読者論がニヒリズムにつながっていくだろうと思ったのは、先ほどの松澤さんのお話のなかにあった「抽象的な個人しか立ち上げない」というのは本当にその通りだと思いますね。そこで立ち上がってくるのは単なるアトムとしての個人です。 アトムになっている個人を全体主義的な一体にまとめていくことは 非常に簡単なことだと思います。そういう状況が起こりつつあると。ですから今、恐らくはこの辺は高木さんのお話と繋がると思うんですが、一人一人が他と関わることなくアトムになってしまったと思い込んでいる教師なり学習者なりを再びつなげていく作業はどうしたらいいんだろうか。それは文学教材にはその力があると私は思っていますが、今の国語教育という枠組みのなかでそれを語ること、それを実践することは大変難しい。(略)

 司会 新しい公共性の概念を作り出していこうとするところ、はからずも松澤さんと通底しながら、それが教育の場でなされることの困難さや危険性、新保守主義と結びつく可能性など極めて大事な問題を言われています。ありがとうございました。  

    速い情報と遅い情報

 高木 私が最近思っていることをお話しします。最近、教科書会社の人とか学校の先生方と直接接していると、今回の教科書は話す・聞く、それから言語活動にページを割いていて、文学教材をかなり減らしています。そういうなかで一年間小学校や中学校でやってみたときに、「やっぱりもういちど文学教材やりたいよね」「大事だよね」という声が随分上がってきているようです。それはなぜだろうと思うんですが、一つはノスタルジーですね。昔やっていた文学教育あるいは文学教材の指導みたいなことをもう一度やりたいという思いもあるのでしょう。それからもう一つは少し違う、状況がそういうふうに言わせているんじゃないかと思わせることがあるんですね。僕は決してお二人のようによき文学の理解者でもないし、 あまり詳しくはないんですが、それでも「たまにはゆっくり小説を読みたいな」と個人的にも思うことがありますし、教室でも朝の十分間読書というのがはやったりしていますよね。そこで非常に単純に小説や物語を読みひたるというようなことが何となく時代の雰囲気のなかで求められているのかなあと思っています。例えば青木保 さんという文化人類学者が『異文化理解』(岩波新書)という本を出していて、そのなかの一節に「異文化を理解するためには速い情報と遅い情報のうち遅い情報が大事だ」というようなことが述べられています。例えばマスコミを伝って流れてくる情報は当然速い情報で、青木さんが遅い情報の例として挙げているのは、フランス文学、長い関わりのなかでいろいろな情報の蓄積ができてフランスの小説がやっと最近わかるようになってきたこと。つまり異文化を理解するには非常に時間がかかって、いろんなレベルでの交流を重ねて、やっと自分なりの相手に対する深い理解が成立していく。それに対して、今の世の中はどちらかと言うと、速い情報が飛び交っている時代なんですよね。教育現場でも新しい指導要領が実施される前からもう批判されていますし、今回のイラクの戦争の問題でもそうですし、情報がボンボン飛び交っていくなかでとてもそれに追いついていけない。そういうなかで遅い情報、ゆったり流れる時間を味わう、そのなかを生きるということが必要なんだというのを感覚としてみんなもっているんじゃないかと。文学教材に先生たちが惹かれるというのは単なるノスタルジーだけではなくて、そういう思いが湧き上がってきているのではないかと思っています。
 もうちょっとそのことに関連して話をしてみますと、例えば小学校二年生の教材で「お手紙」というアーノルド・ローベルの有名な作品がありますが、あれはお手紙をもらえない「がまくん」がすねているところへ「かえるくん」が手紙を書くんですが、その手紙を 「かたつむりくん」に託したばかりになかなかそれが着かない。それで「がまくん」にこういうお手紙を書いたんだということを言っちゃうんですね。そしてその手紙が着くまでふたりで四日間待っているという話。そのお話をある研究会で中学校の先生が読まれて、これはすばらしい作品だとおっしゃって、それで私も考えてみたんです。「かえるくん」が「親愛なるがまがえるくん、ぼくはきみが親友であることをうれしく思っています。きみの親友かえる」というお手紙を書くんですね。そのことばというのは、さっきの話で言えば速い情報で、いくらでも更新できるしウソもつける。それは情報として伝えることはできるんだけれども、実際にぼくが君の親友だということをわかりあったり証明したりするためには、やっぱり 四日間の時間が必要だったのかなという感じがするわけですね。ことばと、ゆっくり体感して伝わるものとのズレがあの作品には非常によく出ていると読むことができると思います。そしてそういうゆったりとした時間の流れというものが読み手の心をひきつけている部分があって、そういうことを教育現場にいらっしやる先生方はしみじみと感じておられて、もっと文学の授業をやりたいなあという思いになっているのだという気がします。
 それを難波さんがおっしゃったように評価規準の問題として捉えていくと確かに厳しい面があるでしょう。言語技術というのは評価規準になじみやすいのかもしれないですが、そうではなくて文学との出会いをどうそのなかに盛り込んでいくか、あるいは難波さんの言い方では盛り込めないということになるかもしれないが、そういうことをどう実現していくかということが大切だと思っております。

 司会 ありがとうございました。速い情報と遅い情報を区分けすることは現代の見えない制度を可視化する重要なポイントで、インターネットではない内面の井戸掘りの効率の悪さが文学の問題、役割でもある。これも急所を衝いた発言だったと思います。それではお互いに質問をし合うというかたちで始めます。(以下略)
 


国語教育・文学教育論議の「現在」