≪『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎):作品と作者をめぐって≫ | ||
吉野源三郎 作品について (『ジュニア版 吉野源三郎全集T 君たちはどう生きるか』ポプラ社 1967) 一九三五年十月に新潮社から山本有三先生の『心に太陽をもて』という本が出ました。これは山本先生が編纂された『日本少国民文庫』全十六巻の第十二巻で第一回の配本でした。この文庫は、ときどき間をおきながらも、だいたい毎月一巻ずつ出して、一九三七年の七月に完結しました。『君たちはどう生きるか』は、その最後の配本でした。 一九三五年といえば、一九三一年のいわゆる満州事変で日本の軍部がいよいよアジア大陸に侵攻を開始してから四年、国内では軍国主義が日ごとにその勢力を強めていた時期です。そして一九三七年といえば、ちょうど『君たちはどう生きるか』が出版され『日本少国民文庫』が完結した七月に盧溝橋事件がおこり、みるみるうちに日中事変となって、以後八年間にわたる日中の戦争がはじまった年でした。『日本少国民文庫』が刊行され『君たちはどう生きるか』が書かれたのは、そういう時代、そういう状況の中でした。ヨーロッパではムッソリーニやヒットラーが政権をとって、ファシズムが諸国民の脅威となり、第二次世界大戦の危険は暗雲のように全世界を覆っていました。 『日本少国民文庫』の刊行は、もちろん、このような時勢を考えて計画されたものでした。当時、軍国主義の勃興とともに、すでに言論や出版の自由はいちじるしく制限され、労働運動や社会主義の運動は、凶暴といっていいほどの激しい弾圧を受けていました。山本先生のような自由主義の立場におられた作家でも、一九三五年には、もう自由な執筆が困難となっておられました。その中で先生は、少年少女に訴える余地はまだ残っているし、せめてこの人々だけは、時勢のわるい影響から守りたい、と思い立たれました。先生の考えでは、今日の少年少女こそ次の時代を背負うめき大切な人たちである。この人々こそまだ希望はある。だから、この人々には、偏狭な国粋主義や反動的な思想を越えた、自由で豊かな文化のあることを、なんとかしてつたえておかねばならないし、人類の進歩についての信念をいまのうちに養っておかねばならない、というのでした。荒れ狂うファシズムのもとで、先生はヒューマニズムの精神を守らねばならないと考え、その希望を次の時代にかけたのでした。当時、少年少女の読みものでも、ムッソリーニやヒットラーが英雄として賛美され、軍国主義がときを得顔に大手をふっていたことを思うと、山本先生の識見はすぐれたものでした。 先生は、こういう考えから少国民のための双書の刊行を思いたち、その計画を私に相談なさいました。なくなった吉田甲子太郎さんも入れて、この相談は、前後、五、六十回も重ねられ、その結果十六巻の『日本少国民文庫』ができましたが、『君たちはどう生きるか』は、その中で倫理をあつかうことになっていました。そして最初は、山本先生自身がこれを執筆される予定になっていたのですが、この計画をいよいよ実行にうつす段階になって、残念にも先生は重い目の病気にかかって、執筆はとうていのぞめないということになりました。それで、他に頼む人もないままに、私が代わってこの一巻を書くことになったのです。 私は、そのころ哲学の勉強をしていて、文学については、学生時代から好きで親しんではいましたが、なんといってもまったくの素人でした。とても山本先生の代わりをつとめる資格はありませんでした。しかし、いまのべたような動機からはじまった計画であり、『君たちはどう生きるか』は、十六巻の中でも特にその根本の考えをつたうべき一巻でした。私は非力でしたけれど、計画者の一人として、先生に代わって、この文庫発刊の趣旨をこの一巻に盛りこむ仕事を引き受けねばなりませんでした。一九三六年十一月ごろから執筆にとりかかり、文庫の編集主任としての事務をとりながら書きつづけ、一九三七年にはいってからしばらく中絶しましたが、春ごろにまた筆が動き出して、同年の五月に書きあげました。少年のための倫理の本でしたけれど、三百枚という長さを、道徳についてのお説教で埋めても、とても少年諸君には読めないだろうと考えましたので、山本先生に相談して、一つの物語として自分の考えをつたえるように工夫しました。文学作品として最初から構想したのであったなら、また、別の書きようがあったかもしれません。 (…) |
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