≪抄録≫  道徳に関する文学的観念  戸坂 潤    〔 『道徳論』 1936.5 〕 


■(…)一体極めて通俗な常識は、とかく何かと云うと、道徳というものに就いて拘泥(こうでい)する。事物を道徳的に角立(かどだ)てたがる。審美的判断よりも所謂(いわゆる)道徳的判断の方が、下し易いし興味も多い。つまり通俗常識とは通俗道徳で物を考えたり云ったり生活したりすることだろう。――だが少し教養のある常識(教養は必ずしも教育と同じではない)は、道徳というものをもっと自由に(、、、)理解しているのが、世間の事実だ。既成の所与の所謂道徳などに拘泥しないことこそ、或いはそういう拘泥を脱却するだけの見識をもつことこそ、道徳的だ、とこの常識は考えるだろう。道徳道徳と云うことが道徳ではない、丁度(ちょうど)人格者というものの人格程貧困なものはないように、とも考えられる。道徳は、所謂道徳という名がつきレッテルがはられ看板が掲げられてある処にばかりあるのではない、ということになる。丁度自称の良心は却(かえ)って決して良心的ではないだろうし、俺は偉いと称する人間は必ず馬鹿であるというようなものだ。処が馬鹿な人間ほど、俺は偉いと自ら称する人間を本当に偉いと思い込むものだ。
 で、之
(これ)こそ道徳だとみずから名乗り出るものは、実は道徳としてあまり尊重すべきものではなく、却って所謂道徳という領域には普通属していないものに、道徳の実質があるとも考えられる。(…) p.227-228   (20180115)
 
■(…)芸術作品に於ける、特に直接には文芸作品における、道徳(…)それが仮に芸術のための芸術であり、また純粋文学であるにしても、それだけにそれが表わすモラル(、、、)は、却(かえ)って純粋だとも云えるのだ。所謂道徳なるものを目指していなければいない程、そのモラルは純粋になりリアリティーを(も)ったものとなる。道徳の否定そのものが、又優れた道徳だ(多少文学的とも云うべき哲学者、ニーチェやスティルナー[シュティルナー]などを見よ)。そしてこういう文学は、よい常識・良識ならば、実は苦もなく(それ)を理解出来る処のものだ。そういう大衆性(、、、)を有たない純粋文学は、そのモラルが偉大でないからこそ、ケチ臭ければこそ、非大衆的なのだ。 
 だから、常識のある常識は、世間の道徳や人格商売屋や倫理学者達などが道徳を感じない処にこそ、却って自由な生きた闊達な道徳を発見するのだというのが事実である。殆
(ほと)んどあらゆる文化領域・社会領域に即して、道徳が見出される。だからこの道徳は、もはや単なる一領域の主人を意味するのではない* ことが判るのだ。(…) p.228-229  
 * 「通俗常識では極めて漫然と、倫理学では不変不動な超越的な一つの永久世界として、社会科学では発生変化消滅せねばならぬ一イデオロギーとして、取り扱われた道徳は、結局、道徳という一つの何等か特定な領域(、、)を意味するのであった。」という、この論文の冒頭部分を受けている。(抄録編者注)
 (20180120)
 
■(…)こうした広汎な含蓄ある道徳の観念は、これまで色々の名称で呼ばれて来ている。文化的な自由(、、)が(自由は経済的・政治的・文化的・等々に区別されるだろう――文化的自由は人道的自由(、、、、、)とも呼ばれている)その近代的な名称の一つだし、ヒューマニティー(、、、、、、、、)(人道ではなくて寧(むし)ろ人間性)はその近世的な名称である、等々。――夫(それ)は併しもっと適切にはモラル(、、、)又は倫理(、、)と呼ばれている処のものだ。モラルというフランス語は(之(これ)は後に見るようにフランス文化を離れては歴史的に理解できないものなのだから)、大体物理という言葉に対立する。つまり之は、フューシス(物理・自然)に対立する処のエトス(倫理)であり人事であり精神なのである。(…) p.229   (20180125) 
 
■(…)人々は文学の内に (文学を必ずしも狭く文芸に限らず広く芸術の思想的イデーと理解してよいが)、常にモラルを求めている。処がこのモラルが所謂道徳――例の領域道徳として善悪とか道徳律とか修身徳目とかに帰する処の通俗常識的道徳――でないことは、判り切ったことだろう。文学の内にそういう通俗常識的道徳や勧善懲悪や教訓を求めることは、専ら通俗常識か道学者かの仕事であって、常識ある文学読者のなすべきことではない、ということに世間では事実なっているだろう。
(…)或る意味に於て、文学が追求するものこそこのモラルだと云うことが出来る。――でこのモラル乃至
(ないし)倫理を、私は仮に文学的(、、、)な道徳観念と呼ぶことにしよう。(…)道徳に関するこの文学的観念は、少なくとも夫(それ)が普通世間に存在している形では、全く一つの ――但し相当優れた―― 常識 にぞくする。(…) p.229-230   (20180130)
 
■(…)文学 (広く芸術に於ける精神)がモラル (この文学的道徳の観念) を追求するものだという事実は、文学が常に常識(、、)に対する反逆(、、)を企てるものだという処に、一等よく見て取れるだろう。(…)かくて文学的道徳・モラルは結局通俗常識的道徳に対立しているわけなのだ。ではどういう風に之(これ)に対立するのかと云えば、要するに通俗道徳に対してその批判者(、、、)として立ち現われるのが、モラルだということに他ならぬ。夫(それ)が通俗道徳を批判するものである限り、夫も亦(また)一つの道徳でなくてはならぬ、モラルでなくてはならぬ。(…)道徳を納得的に否定し得るものは、一種の道徳(、、、、、)の他にはあり得ない。モラルは少くとも現在、事実上そういう一種の道徳の観念だ。(…)道徳の文学的観念は、道徳を道徳として、モラルとして、云わば止揚し且つ高揚する処の観念に他ならない。ただ文学自身では、この観念が極めて曖昧で無限定なのだ。そこで今吾々は、之を理論的に表現しなければならぬというのである。
 (…)吾々にとってまず第一に必要なのは、モラルという文学的観念を、どうやったならば科学的な道徳(モラル)観念にまで、洗練出来るかに答えることだ。そのために社会科学的道徳観念とこの文学道徳観念との、相違点をもう少し考えて見なければならぬ。
 p.230-235    (20180205)
 
■(…)本当に個人(、、)が考えられていない処に道徳というものもあり得る筈(はず)はない。社会意識は個人が社会に対して持つ意識か、それでなければ社会という主体が持つと譬(たと)えられた意識のことだが、(…)社会意識たる道徳意識も、だからこうした個人意識としての道徳意識の総和であるか、それとも個人が社会に対して有(も)つ道徳の自意識に他ならぬ。――いずれにしても道徳は、社会(、、)個人(、、)との関係に於てしか成り立たないことを見るべきだ。
(…)社会科学的道徳観の科学的高さをなす所以
(ゆえん)の一つは、道徳が社会と個人との関係に於て初めて成り立つものであって、単に個人自身の内で成立ち得るものではないという、云われて見れば初めから当然至極なこの関係を、ハッキリ組織的に解明したことにあった。(…)元来社会科学は個人を問題にしないどころではない。実は例えば、如何なる個人は如何なる社会条件の所産であるかを問題にすることこそ、社会科学の具体的な現実的な課題なのだ。(…) p.236-237    (20180210)
 
■(…)だがこの一般的な個人 (或る意味では主観や主体もそうだが) は、まだ決して「自分」 ([私]「我」「自我」等々) ではない。というのは、ナポレオンという個人が個人的であり個性的であることは、シーザーという個人が個人的であり個性的であることと、共通なことである。無論二人の個性は別だが、歴史家は二人が夫々(それぞれ)の異(ことな)った個性の、有(も)ち方までを異にしているとは考えない。そういう不公平な歴史家は少くとも科学的な歴史家ではなくて、ナポレオン党員か何かだろう。処がナポレオン自身(、、)は、自分がナポレオンであるという関係と、或る男がシーザーだという関係とを、同一共通なものとは考えない。もしそうでないと反対する読者がいるなら、その読者が偶々(たまたま)ナポレオンでないからに過ぎない。何人(なんぴと)も「自分」の自分を他人の自分と取り換えることは出来ない。ここに古来人間が一日も忘れることのなかった「自分」というものの意味があるのである。この自分(、、)はもはや決して個人(、、)ではない。個人はなお一般的だ、従って「自分」こそ最後の特殊的(、、、)なものだ、ということとなる。――処でモラルはこの「自分」というものと深い関係があるだろう。(…) p.238-239    (20180215) 
 
■(…)問題はそこでまず、この自分(、、)なるものが社会科学でどう取り扱われ得るかである。自分というこのごく日常的な常識にぞくする観念を、下手に哲学的に解明しようとすると、忽(たちま)ち札つきの観念論に陥らざるを得ない。事実之(これ)までの思い切った観念論(バークレーやフィヒテの主観的観念論)は、単に観念を馬鹿馬鹿しく尊重したことがその動機なのではなくて、この「自分」なるものを観念のことだと思い誤ったり、又之を観念的に掴むことが相応(ふさ)わしいことだと思い込んだりしたことに由来する。「自分」は社会科学(つまり史的唯物論――唯物論)でどう取り扱われるか。
 M・スティルナー[マックス・シュティルナー(1806-1856)。ドイツの哲学者。ヘーゲル左派。唯一者としての自我の絶対性を主張し、無政府主義に影響を与えた。]は何と云っても参照を免れまい。スティルナーに云わせれば、「神と人類とは何物にも頓着しない、自分以外の何物にも。だから自分も同様に、自分のことを自分の上に限ろう。神と同じく他の凡(すべ)てのものにとっては無である自分、自分の凡てである自分、唯一無二である自分の上に」(『唯一者とその所有』――岩波文庫訳)、である。「自分にとっては自分以上のものは何もない」のだ。自分だけが自分の唯一無二の関心事だ。だがどうしてそんな馬鹿げたことが主張出来るのか。併(しか)しスティルナーが、自分というものを人間や人類というものから区別しているという点を今忘れてはならない。スティルナーが云っているのは、個人が凡(すべ)てだというのではない、個人ではない(、、)処の「自分」が凡てだというのだ。
(…)自分が一切のものの創造者であり、世界はつまり自分の所産だというのである。そして自分は世界を創造するに際しても何ものにも負うのではなくて自分自身にしか負う処がない。だから「無からの創造」だというのである。人間の生涯とその歴史的発達は、この自分の創造物だというのだ。――だがこうなるとこの自分と人間(個人)とはどうして別なのだろうか。なる程人間(個人又はその集合としての人類)ならば、それが歴史を創ったということも何とか辛
(かろ)うじて説得できるかも知れない。併し誰が一体、自分が古代から現代までの歴史を造ったと実感するものが、狂人でない限りあるだろうか。――自分なるものが個人や人間と別な範疇だという論理はよい、だがそうだからと云って、「自分」なるものの形而上学的体系は困る。之は独りスティルナーに限らず、彼の先輩たるフィヒテに就いても同様に困る点だ。(…) p.239-241    (20180220)
 
■(…)スティルナーの根本的なナンセンスは、彼が「自分」というものを正面へ持ち出したことではなくて、却(かえ)ってこの自分を安易にも、結局に於ては個人人格というようなものだと想定し、そしてこの個人人格から歴史と社会とを体系づけようとした処の、観念論的な大風呂敷にあったのだ。彼の人間に関する理論が、機械的で非歴史的で意識主義的であるのは、全くここから来る。
 自分というものを個人(人間)から区別しながら、なお結局に於て自分を個人と考えねばならなくした根本的要求は、自分を何か世界の説明原理(、、、、、、、)としようとする企ての内に存する。個人を世界の説明原理としようとするのが典型的な観念論であるが、之に倣
(なら)って「自分」なるものを世界の「創造者」という説明原理にしようとしたのが、スティルナーによって典型的に云い表わされたエゴイズム(理論的又道徳的)なのだ。――だが「自分」とは実は、そういう世界の説明原理(創造者・元素・其他)である或る物(、、、)ではなくて、単に世界を見るものであり之を写す(模写する)ものなのだ。「自分」は個人とは異(ことな)って交換することの出来る()ではない。自分とは自分一身(、、、、)だ。之は鏡面であって物ではない。(…) p.241-242    (20180225) 
 
■(…)社会を特殊化せば個人になる。ここまでは明らかに社会科学の領域だ。併(しか)しこの個人を如何に特殊化しても「自分」にはならぬ。一体もはや特殊化し得ない分割不可能であるということはが個人乃至(ないし)個体(In-dividuum)の意味だったのだから、これは寧(むし)ろ当然だと云わねばならぬ。もし同じ(、、)特殊化の原理で「自分」というものにまで到達出来るのなら、この特殊化の原理を恰(あたか)もその科学的方法としている処の社会科学は、同様に「自分」というものをも、そのままで(、、、、、)科学的に(、、、、)取り扱える筈(はず)だが、特殊化の原理が「個人」以上にし得なかったのだから、社会科学的方法は個人の処で止まらざるを得ない。つまり一般に社会科学的概念は、そのままの資格に於てでは(、、、、、、、、、、)、「自分」という事情をうまく科学的に問題に出来ないのである。
(…)個人から自分にまで行くには、社会から個人にまで来るのに使った社会科学的方法・社会科学的個別化原理を、何か適当に改革乃至修正しなければならぬということだ。恐らくこの仕方以外に、理論的に「自分」なるものの概念を規定出来る途はないだろう。モラルの概念も亦
(また)、ここで初めて理論的に成り立つことができるだろう、ということになる。(…) p.242-243    (20180305) 
 
 ■(…)もう少し「自分」というものを分析して見る必要がある。(…)自分というものの存在に就いては、古来哲学はその証明に苦心しているのだ。たしかに自分はあるようだ。併(しか)しどういうことが自分が存在しているということであるか、又なぜ自分が存在していると云う(、、)ことが出来るか、という問題になると、解答は極度に厄介なのである。デカルトの、「自分が考える、故に自分が存在する」というのが、何等の推論でないことは云うまでもないので、この「故に」は単に、彼が自分というものの存在を事実上すでに仮定していることの告白を示す気合か掛声にしか過ぎない。――とに角、少くとも自分というものは、普通の意味での存在性を持ってはいない、普通の意味では存在しない(、、、、、、)、従って普通の意味では()だ。(無である(、、)とは云えない、ただ無だ。)(…) p.243-244   (20180310)
 
 ■(…)之(これ)[自分]同じような事情におかれたもう一つのものがある。夫(それ)意識(、、)だ。(…)意識(Bewusstsein)はDas bewusste Sein という或る存在(Sein)であるように書かれるが、之は単にドイツ語で哲学の術語を造る時の便宜から起きたことに過ぎない。そして之は恐らく「意識ある存在」という意味にはならずに、「意識された存在」即ち存在が意識された、という意味になるのだろう。いずれにしても、存在(、、)意識(、、)とは別であり、従って意識は存在ではない、存在しない、無だ。――自分は自分で自分を考えることが出来る。自分が自分で自分を考えなければ、即ち自覚しなければ、即ち又自意識を有(も)たなければ、自分というものは考えられない、処がこの考えるとか考えられるとかいうことが、他ならぬ意識するということだ。で之を以て、自分というものと意識というものとが、同じ性質のものだということが判る。その意味で、自分はあるかないか知らないが、とに角(それ)は意識だ、と云うことが出来る。(…) p.244-245   (20180315)
 
 ■(…)物質は云うまでもなく普通の意味で、存在(、、)している。之を写し反映するものが意識だ。簡単に機械的に考えると、物質を反映し模写するものは頭細胞其他の物質だ、と云われるかも知れない。だが外界の物質と頭物質との関係は物質相互間の物的相互間の物的因果交互作用関係にすぎないのであって、それ自身は反映でも模写でもない。反映・模写とは物質と意識との間にしか起きない関係を云い表わす言葉だ。で外界の物質と頭細胞物質との物的相互の物的関係が存在していて、その存在に沿って随伴(、、、、、)して起こる或る関係が、意識による反映・模写ということであり、つまりそういう作用としての意識なのである。この関係は存在に随伴することなしには決して起きない。存在が存在しなくなれば起きなくなる関係だ。それでこの存在とこの関係との間には又何等かの関係(、、)がある。之は一応不離な関係だが併(しか)し直接には因果関係ではない。反映・模写という言葉は、こうした非因果的な直接関係を云い表わす範疇なのである。だから実は意識があって存在を反映するのではない(意識は元来なかった)、却(かえ)って反映という存在の随伴現象が意識ということだ。夫(それ)が「自分」ということなのだ。(…) p.245    (20180320) 
 
 ■(…)自分乃至(ないし)意識は、存在に随伴する関係であるが(その随伴の仕方関係が意識とも反映とも模写とも写すとも見るともいうことだ)、処が一般に存在に随伴する関係は、意味(、、)と呼ばれる。意味は厳密に云うと存在の因果所産でも何でもなくて、存在が()(も)()処の一つの関係のことだ。存在に意味があり、存在が意味する(、、、、)のである。(意識が意味するのではなくて存在が意味するのだ。インテンションとは実は之(これ)だ。)意味がある(、、)とは、意味が存在するということではなく、又意識が意味を産み(、、)与えるというのでもなくて、存在が意味を有つ(、、)ということだ。で意味はない(、、)のだ。――そうすると、例の自分乃至意識は意味(、、)にぞくするものだということになるだろう。
 さて私はここに二つの秩序界を並べねばならぬ事情に立ち到った。一つは存在・物・物質の秩序界だ。もう一つは自分・意識・意味の秩序界だ。前者は存在し後者は存在しない。そして後者は前者の存在に随伴するのである。――「個人」と「自分」とを隔てたあのギャップは、実はこの二つの秩序界の間に横
(よこた)わるギャップであった。而(しか)もこのギャップならば、随伴という橋渡しは一応ついた。(…) p.245-246    (20180325)
 
■(…)[一つには<存在・物・物質>という秩序界、他方には<自分・意識・意味>という秩序界。前者は存在し、後者は存在しない。後者は前者に随伴する、という関係にある。](しか)しそうすると、つまり自分というものは個人に随伴するというだけでケリがつきそうだ。それなら社会科学は個人の問題を取り扱うことによって、随伴的に(、、、、)自分というものの問題を取り扱えばよいわけだ。処がそう簡単には行かない。自分・意識・意味はそれ自身一つの秩序界だ、というのは、独自の体系をなすことが出来る。(尤(もっと)も夫(それ)存在(、、)の世界の体系ではないが。)今物質界乃至(ないし)存在界が独自の体系をなすことは自明だろう。処でこの二つの独自の体系が並べられたとすると、簡単に一つの存在と一つの意味とを対応させて済ますことは出来なくなるので、意味は更に意味同志[ママ]、存在は云うまでもなく存在同志、の間に、意味的聯関や因果的交互作用的関係を有っている。――この二つの体系を綜合することは、二つを簡単に加え合わせるようには行かぬ。二つを掛け合わせなくてはならぬ。と云うのはつまり、存在の体系に意味の世界を附加(、、)することによって、存在の体系をば意味の世界を含んだ(、、、)体系にまで、拡張的に(、、、、)組織し直さねばならぬということだ。個人から自分なるものへの橋渡しをするためには、そういう論理的工作が要るのである。――モラルとはこの論理的工作の内に、必然的に出て来るものだ。(…) p.246-247    (20180330) 
 
■(…)存在の体系を、どうすれば意味の世界をも含んだ体系に、拡張できるかという、論理上の工夫を考えねばならぬ(…)。
 存在の体系の諸規定を云い表わす諸範疇は、実験的・技術的な検証性を有
(も)った科学的概念(、、、、、)である。だが之(これ)だけでは意味の世界を含んだ体系を築くカテゴリーにはなれない。そこでこの科学的概念を、意味の世界との連絡と云い表わし得るようなカテゴリーにまで、改造しなければならぬ。それには他の手段はないので、実験的技術的に検証し得るというこの科学的範疇の性質を、或る点で制限し、比較的且(か)つ一応そうした検証的実証性から独立に見えるような性質を、外被のように之にかぶせる他はないだろう。実験的科学的機能だけではなく、そういうものから一応比較的に独立であるように見える機能をば、この実験的科学的機能という肉体の上に、被服として纏(まと)わらせねばならぬ。こうしてこの科学的概念(、、、、、)は、様々のニュアンスを得、一種のフレクシビリティーを得、例のギャップを飛躍する自由を得るのである。この機能は空想力(想像力・構想力)とか象徴力とか誇張力とかアクセント機能とかだ。
 こうして大体象徴的な性質を有
(も)たされた限りの科学的概念は、もはや之までの科学的概念ではなくて、文学的表象(、、、、、)文学的影像(、、、、、)である。象徴や空想や誇張其他は、そうしたニュアンスやアクセントは、正に文学的な影像と観念との、特色ではないか。――この間の消息の内に、一般に、科学と文学(独り文芸に限らず広く芸術一般に於ける精神・イデーでよい)との論理的聯関が設定される。(…) p.247-248    (20180405)
 
■(…)今この科学的概念が社会科学乃至(ないし)史的唯物論のものだとすれば、この文学的表象が持つ象徴や空想や誇張その他の、この非存在的(、、、、)な機能が、自分(、、)というものを個人(、、)から区別する例のギャップを埋めるものに他ならぬ。個人とは社会科学的概念だ。之は史的唯物論によって片づく。之に反して「自分」とは、文学的表象だ。之は一切の文学的又実に道徳的なニュアンスとフレクシビリティーとを有っているだろう。個人に関する体系は立派に社会科学という科学になる。だが自分に就いての体系は、文学にはなっても科学的――実証的・技術的――理論とはならぬ。ニーチェやスティルナーなどの自我思想が文学的特色を有つのは、広義に於けるそのスタイルの問題には止まらない。(…) p.248-249    (20180410) 
 
■(…)さて私はどうやら道徳・モラルの問題に帰ることが出来るようだ。以上述べた科学的概念と文学的影像との関係、科学と文学との関係、の内に、正にモラル(文学的観念による道徳)なるものが横(よこた)わるだろうからだ。
 モラルは自分一身上の問題であった。尤(もっと)も之は何も個人道徳(、、、、)を意味するものでもないし、又道徳が個人的なのもだというのでもない。個人が自分(、、)と別だということは既に述べた処だ。寧(むし)ろモラルは常に社会的モラルだ。社会機構の内に生活する一人の個人が、単に個人であるだけでなく正に「自分」だということによって、この社会の問題は所謂(いわゆる)社会問題や個人問題としてではなく、彼の一身上の(、、、、)問題となる。一身上の問題と云っても決して所謂私事(、、)などではない。私事とは社会との関係を無視してよい処のもののことだ。処が一身上の問題は却(かえ)って正に社会関係の個人への集堆の強調であり拡大であった。社会の科学的理論の体系も(また)、この一身上の問題を単に私事として顧みずにおくことは出来ない。モラルはこうしたものだと云うのである。――科学的概念が文学的表象にまで拡大飛躍することは、他でもないので、この科学的概念がモーラライズされ道徳化されヒューマナイズされることだ。この概念が一身化され(、、、、、)自分というものの身につき(、、、、)、官能化されることだ。今や、自分(、、)モラル(、、、)文学(、、)は一続きの観念なのである。社会の問題が身についた形で提出され、自分一身上の独特な形態として解決されねばならぬということが、文学的モラルを社会科学的理論から区別する処のものだ。(…) p.249-250    (20180415) 
 
■(…)処で考えねばならないのは、すでに述べた文学的モラルのあの抽象性(幸福の如き)に就いてである。というのは、道徳に関する文学的観念としてのモラルは、事実の問題として見る時、文学者が有(も)たねばならぬ社会科学的認識とは、殆(ほと)んど全く無関係(、、、)な場合が普通なのである。吾々はモラルと社会科学的認識とを区別はしたが、その区別の根拠は実は寧(むし)ろ両者の橋渡し(、、、)の説明の上に立ってのことだった。科学的概念による科学的認識と、文学的表象による文学的認識との間に、一定の合理的な関係を設定したればこそ、科学的認識と文学との間の区別も出て来たわけであった。処が多くの文学的モラルは、社会科学的認識と関係なしに、何か自分だけで纏まり得たようなモラルとなっている。そういう独自に自分だけで結末のつくモラルの内容は、精々かの幸福のようなものだったろう。そしてそういう超社会科学的幸福は、事実上は、独善的な逃避的な貧弱な幸福に堕す他はあるまい。之は富まずして淫するモラルである。
 こうした独善的モラルの観念を私は、文学主義(、、、、)的なものと呼ぶことが出来ると思う。文学的表象はその現実的肉体として、社会科学的概念をその核心に持っていなければならなかった。処がこの科学的核心がない時には、文学的表象は自分自身で勝手な核心を――再び全く文学的にすぎぬ核心を――造り出す。そうやって文学的表象をそのまま文学的な概念(、、、、、、)(之は何と矛盾した表現だ!)にして了
(しま)う。要するに科学的概念を排撃して文学的概念を、手近かににわか造りするのである。こういう文学的表象の幽霊か漫画のおかげで、その際なり立つモラルも幽霊か漫画のようなモラルとなる。而(しか)もそういうモラルに限って、社会的には無知な反動的勢力として凡(およ)そ社会のモラルを蹂躙するものなのだが。そしてその際「自分」や「自我」は、極めて皮相な思い上った又は卑屈な自意識となって了(しま)うのだ。(…) p.250-251    (20180420) 
 
■(…)真に文学的なモラルは、科学的概念による認識から、特に社会科学的認識から、まず第一に出発しなければならない。この認識を自分の一身上の問題にまで飛躍させ得たならば、その時はモラルが見出された時だ。逆に初めから文学的モラルから出発するなら、ついに何等の科学的認識へも行きつくべき方法を見出さすことは出来まい。そのモラルは自慰的なものとならざるを得ない。そしてこの自慰的環境から脱出するには、もはや文学的モラルでは間に合わないだろう。――例えば階級対立が社会そのものの一切の本質的な規定を決定しているこの社会に於て、階級道徳を抜きにした文学的モラルなどは、本当は想像も出来ない代物だろう。社会のこの歴史的なリアリティーのあくどさや強大さに心を動かさぬということは、モラルのないことの証拠になりはしないか。――「自分」を発見するということは、そんなに素手で方法なしに出来るものではない。そしてその方法は社会科学的認識の渕をばモラルにまで飛躍するという機構であり手続きであるのだ。之を抜きにして見出された自己などは、誠に賤しいものだ。(…) p.251-252    (20180425) 
 
■(…)文学とモラルとのこの結びつきを、特別な形で示しているものは、フランスの文学的伝統の一つであるモラリスト(、、、、、)たちの立場であろう。モラルという文学的な道徳の観念や言葉も、実はこのモラリストのものであったのだ。道徳の倫理学的観念が初めイギリス的乃至(ないし)ドイツ的であったに対して、モラルという文学的観念は主としてフランスのものだ。処でモラリストの特色の一つが、矢張(やはり)「自分」を探求することにあったのを忘れることは出来ない。(…)モンテーニュは云わばモラリストの父だが、夫(それ)が自分を描こうとした最初の人だというわけである。
 処がこの自分・自己とはモンテーニュでは何か。彼の『エッセー』は云っている、「各人は自己の前方を見る。私は私の内部を見る。私はただ私に用があるだけだ。私は私を検査し、私を思料する。……わたしは常に己れの内を省
(かえりみ)る」云々。(…)自分を単に内部として感じることは、自分を「自分」としてではなしに人間として感じることだ。(…)つまり夫(それ)は、欲すると否とに関係なく、自分を自分としてではなしに、例の個人という物体として見ることに帰着せざるを得ないだろう。――かくてモラリストの立場は、所謂(いわゆる)人間学(、、、)に甚だ近いと云わねばならぬ。
 (…)だがそれにも拘
(かかわ)らず、モラリストは、文学とモラルとの必然的な結合を、その意味で、道徳に関する文学的観念の一つの典型を、思想史の内に印象づけた。その歴史的意義は之を尊重し又利用すべきだろう。――もし多少の歴史的語弊を忍ぶとすれば、道徳に関する文学的観念は、正にこのモラリスト的な(、、、、、、、)道徳観念だと云っていいかも知れぬ。ただ吾々に必要なのは、之が科学的認識、特に社会科学的認識を踏み渡った上での、道徳・モラルでなければならなぬという点だったわけである。(…) p.252-254    (20180430) 
 
■(…)最後に科学と文学とを図式的に対比させる事によって、文学的観念による道徳なるものの、一つの総括的な意味を、云い表わしておきたい。――科学は云うまでもなく事物の探求だ。文学も亦(また)この科学的探究を踏み渡った揚句、課題を(あらた)にした事物の探求(、、)である。処で科学の探求の対象は真理(、、)と呼ばれる。之に対して、文学の探求の対象が道徳(、、)モラル(、、、)なのである。この人間的(実は「自分」の)真理は吾々のムードやマナーの末にまで現われるのだ。かくて道徳・モラルとは、一身上の真理(、、、、、、)のことだ。
 だから道徳とは、丁度
(ちょうど)科学的真理がそうであるように、常に探究される処のものなのだ。その点から見れば、道徳は与えられた道徳律や善悪のことや一定の限定された領域などのことではない。特に、科学が決して、真理と虚偽との対立を決めるというような妙な形の興味を有(も)つものではないと同じに、何が善で何が悪かというような設問の内を堂々巡りしていることは、道徳の探求の道ではなく、従って又道徳の本義ではないのである。
 道徳が自分一身上の鏡に反映された科学的真理であるという意味に於
(おい)て、道徳は吾々の生活意識(、、、、)そのものでもなければならぬ。そういう生活意識こそ偉大な真の常識というものだろう。そしてこの道徳を探求するものこそ、本当のそして云わば含蓄的な意味に於ける文学(、、)の仕事なのだ。モラル乃至(ないし)道徳は、「自分」が無かったように、無だ。それは領域的には無だ。それは恰(あたか)も鏡が凡(すべ)ての物体を自分の上にあらしめるように、みずからは無で而(しか)も一切の領域をその内に成り立たせる。
 私が道徳を社会科学的に見ることに満足しないで、何か文学的に見ようとした、と或る種の人達は考えるかも知れない。併
(しか)し科学が文学に解消でもして了(しま)わない限り、道徳を文学の探求対象のことに他ならぬと見ることは、決して道徳に就いての余計な観念でもないし妙な観念でもない筈(はず)だ。何となれば、もしそうでなかったら、一体、文学というものは何のために、何をなしつつ、存在するのか。 p.254-255    (20180505)
(了)

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