『飛ぶ教室』 (ケストナー) と 『君たちはどう生きるか』 (吉野源三郎)           《検討課題メモ》 
 
    <座談会> 「飛ぶ教室」を語る ―― それにもかかわらず、飛ぶんだ! 
 
文学教育研究者集団 編 『ケストナー文学への探検地図 ―― 「飛ぶ教室」 から 「動物会議」 の世界へ』 (2004年11月 こうち書房刊) より
 

 
 佐 藤 (司会)(…)「飛ぶ教室」は、一九三〇年代初頭のドイツのキルヒベルクにあるヨハン・ジギスムント高等中学(ギムナジウム)の寄宿舎を舞台として、出身階級や性格の異なる五人の、寄宿生五人組を軸に展開される、彼らにとっては短くて長い四日間の物語です。
 クリスマスが間近に迫っています。彼らはクリスマス劇として「飛ぶ教室」を企画しその稽古に余念がないのですが、そこに大事件が持ち上がります。長年、高等中学と敵対関係にあった実業学校の生徒が、通学生を拉致し、高等中学生たちのノートを燃やしちゃうんです。こりゃあ頭にきますよね。無断外出厳禁、寄宿学校としては当然の規則でしょうが、彼ら腕白少年どもには規則も何もあったものじゃない。それっ、捕虜奪還だ、です。

 でも、この少年たち、規則無視のどうしようもない腕白小僧、直情漢ではありません。頭を寄せ合って考えに考えます。考えあぐねた場合は、信頼し敬愛する大人の意見を聞き、取り入れていきます。友を第一に、やむを得ず規則に反してでも救出する。そのためには、実業学校生徒のいわば戦争ですが、戦いもいとわない。けれども、互いに代表を出して戦わせ勝敗を決することを提案、戦争に歯止めをかけていく。そして、戦い済んで見事に勝利した暁には、舎監の先生の前に出頭、懲罰を甘んじて受けるわけです。実に困った奴らなんですが、本当にいい奴たちなんです。少年たちと先生との、問題解決に向けての真剣な対話が印象的です。(…) p.38-39

   
 佐 藤 (…)ところで、この作品、従来、ヒトラーが政権を掌握する前、一九三二年の秋頃に書かれ、翌三三年の一月頃に出版されたとされてきましたが、(…)どうも違うらしいんですよね……。

 井 筒 ドイツで『ケストナー全集』を一九九八年に出したフランツ・ヨセフ・ゲルツですが、彼とハンス・ザルコヴィッチの書いたケストナー伝記『Eine Biographie(ある伝記)』によると、一九三三年一月三〇日にヒトラーが首相になり、五月には焚書事件が起こる。ケストナーは排斥され、図書館でも『エーミールと探偵たち』以外全て閲覧を禁じられた。ケストナーはブラック・リストに載り、追いつめられていくという状況の中で、ドイツ出版協会、これはケストナーの本ばかり出すということでナチスから攻撃を受けていたんですが、なんとかケストナーの児童文学を出したいというんで、六月から準備を始め一一月末に新しい本を出す。『飛ぶ教室』ですね。このことは、ケストナーが、「今朝、『教室』の初版本が届いた。ほんとうに素敵な本だ。」と、そして「
[絵を担当した] トリヤーの名前が、カバーの絵から取り除かれている。卑劣だな。何故こんなことを?」と、ユダヤ人で亡命していたトリヤーに対する仕打ちに憤りながら書いていた、一一月三〇日付けの、お母さんに出した手紙を見てもはっきりするというんです。
 また、一二月八日のお母さんへの手紙では、『飛ぶ教室』はいくつかの書店に置かれており、出版協会のクリッパーが二、三千部増刷しなきゃあと言ってると、ケストナーは誇らしげに書いているというんですね。けれども、その後、ヒトラー政権下のドイツ国内では出版協会からの出版はできず、それを知ったチューリヒ(スイス)のアトリウム社のマシュラーが版権を取り、国外で出版するという運びになったのではないかと思う。
 岩 ア そうだとすると、ケストナーの著作も焼かれた焚書事件と、この作品の中の、拉致された通学生が持っていたクラス全員の書き取りノートが実業学校生によって焼かれる、という場面が重なってくる。地下室で実業学校生が拉致生徒を殴る拷問場面も、ナチスによって行われていたことを思い浮かべさせます。ちびのウリーを籠に入れて教室の天井から吊り下げるといういじめに対して、「とめなかったものにも罪がある」といったドイツ語の先生、クロイツカム教授の言葉も、より広がりを持って響いてきますね。(…)

 佐 藤 そうしますと、従来云われてきたこととは違って、「飛ぶ教室」は一九三三年五月の焚書事件のあとの六月以降、一〇月頃までに執筆され、一一月末に出版されたということになりますね。そうだとすると、作品の読みの構え、読み手の視点の取り方が大分違ってきます。今日は、そうした創作時点、出版時点を踏まえたところで話し合ってみたいと思います。(…) p.40-42
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 佐 藤 [作品の] 最後がまたいいですよね。息子の帰らないクリスマス前夜、外は雪、互いにいたわり合うターラー夫妻。そこへ [息子の] マルチンが帰ってくる。そして家族三人の散歩。

  家の前で、おとうさんがドアをあけた時、マルチンは、もう一度空を見あげました。ちょうどその瞬間、一つの流れ星が夜のやみからはなれて、音もなく空をすべり、地平線のほうに落ちました。
 少年は考えました。「願いごとはいまだ!」と。そして流れ星の飛ぶのを目で追いながら、すばやく考えました。「それではぼくは、おかあさんと、おとうさんと、正義先生と、禁煙先生と、ヨーニート、マッツと、ウリーとに、そしてゼバスチアンにも、この世でほんとにたくさんの幸福がくるよう、お願いします! それからぼく自身にも!」

 現実が暗くなればなるほど、暗さを嘆くことは簡単です。が、ケストナーの作品は暗さが増すほど明るくなっていったようです。その精神の強靭さには驚きさえ感じますが、「飛ぶ教室」の、この場面は、その創作時点の状況にもかかわらず、にもかかわらず(、、、、、、、)  
[dennoch] 明るく未来を信じて生きようよというケストナーの呼びかけとして、僕には響いてくるんです。(…) p.59-60 
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 橋 本 ところで、「飛ぶ教室」が日本で訳された最初はいつなんですかね。吉野源三郎さんの『君たちはどう生きるか』(一九三七年)を読んだときに、僕は「飛ぶ教室」を思い出したんです。彼は影響を受けて書いているんでは、と思うのですが。
 夏 目 
[最初の邦訳は] 戦後で、一九四六年四月から雑誌『赤とんぼ』に連載された高橋健二訳ということになるんじゃないでしょうか。版権の問題があって途中中止となってしまいますが。
 井 筒 吉野さん、ケストナーを特に研究したわけではないでしょうが、ドイツ哲学、ドイツ文学に造詣の深かった人だから、あの時期、目配りすればケストナーに注目するはずですよね。それに、編集主任として日本少国民文庫『世界名作選(一)』 (一九三七年) に高橋訳の「点子ちゃんとアントン」を入れているわけだから、知らないわけはない。「飛ぶ教室」と「君たちはどう生きるか」。一つのテーマになりますね。(…)  p.60-61

 

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