ケストナー『ファービアン』書誌年表

ケストナー『ファービアン――あるモラリストの物語』("FABIAN-Die Geschichite eines Moralisten")に関する書誌的な事項を年表風に整理した。
このうち右欄は同作品の日本における翻訳紹介の状況を示したものである。(左欄の下線部は、それが初出であることを示す。) (2009.1.20 T)
ドイツ 日 本
1930 ○「小説はますます遅れています。今第五章に取りかかっています。」(「母親への手紙」1930.11.11)(註1)  
1931 ○第一稿に対してクルト・ヴェラー編集長は難色を示す。(1931.7.10)(註2)
○第三、四章を根本的に書き替え。「かつての盲腸、大評判」を完全削除。(註3)
○二つの後書き「ファービアンと道学者先生」「ファービアンと芸術批評家」を削除。(註4)
○『ソドムとゴモラ』と題して完成原稿を出版社に送る。(1931.7.27)
○題名案『豚小屋』『ヘラクレスなき豚小屋』『真空の中の青春』『破滅(堕落)』等は却下。(註5)
『ファービアン――あるモラリストの物語』 をシュトゥットガルトのドイツ出版社(Deutsche Verlags-Anstart, Stuttgart)より刊行。(1931.10末)(註6)
「ファービアンと道学者先生」を「世界舞台」に掲載。(1931.10.27)(註7)
○刊行4週間内に3版、15000部販売。               
 ファビアンは…温順な殉教者である。気の狂つた舞台監督が、次から次へと、彼の顔へ変てこな仮面(マスク)を押しつけるのであるが、その度に主人公は息苦しくなつて、つひにその仮面をかなぐり棄ててしまふ。さうして本来の自分へ逃げて帰るのだが、その彼を待ち受けてゐるものは常に貧困である。主人公は…遊泳術を知らない。また、時代の流に乗ることを好まない。その癖、さうかと云つて、流に逆つて泳ぐことの出来る道具は一つも持つてゐないのである。めまぐるしい時代のテンポの中を彼方へ倒れ、此方へ倒れしながら、よろめいて行く、実行力のない一人の青年――要するに彼はわれわれの時代の一つのタイプなのである。(「作品」掲載「ファビアン 1」訳者前書きより) 
1932 ○第五版までに25000部に達する。(「母親への手紙」1932.3.21)(註8)
○削除部分(「かつての盲腸、大評判」)を「盲腸のない紳士」の題で、「現代ドイツ新進作家三十人集」に収録。(註9)
○削除部分(「かつての盲腸、大評判」)を「盲腸のない紳士」の題で、「8時 夕刊新聞」(1932.12.16)に掲載。 
小松太郎訳「ファビアン 1」(「作品」1932.8)
○小松太郎訳「ファビアン 2」(「作品」1932.9)
○小松太郎訳「ファビアン 3」(「作品」1932.10)
○小松太郎訳「ファビアン 4」(「作品」1932.11)
○小松太郎訳「ファビアン 5」(「作品」1932.12)
1933   ○小松太郎訳「ファビアン 6」(「作品」1933.1)
○小松太郎訳「ファビアン 7」(「作品」1933.2)
○小松太郎訳「ファビアン 8」(「作品」1933.4)
○小松太郎訳「ファビアン 9」(「作品」1933.6)
○小松太郎訳「ファビアン 第十章」(「作品」1933.10)
○小松太郎訳「ファビアン 第十一章」(「作品」1933.11)
板倉鞆音訳「盲腸のない紳士」(「カスタニエン」1933.12)
1934   ○小松太郎訳「ファビアン 十二」(「作品」1934.2)
○小松太郎訳「ファビアン 十三」(「作品」1934.4)
○小松太郎訳「ファビアン 第十四章」(「作品」1934.6)
○小松太郎訳「ファビアン 十五」(「作品」1934.7)
○小松太郎訳「ファビアン 第十六章」(「作品」1934.8)
○小松太郎訳「ファビアン 第十七章」(「作品」1934.10)
1935   ○小松太郎訳「ファビアン 第十八章」(「作品」1935.3)
○小松太郎訳「ファビアン 第十九章」(「作品」1935.5)
○小松太郎訳「ファビアン 第二十章」(「作品」1935.12)
1936   ○小松太郎訳「ファビアン 第二十一章」(「作品」1936.1)
(第二十一章以下掲載なし)
1937    
1938   小松太郎訳『ファビアン――或るモラリストの話』上巻
(改造出版社、改造文庫 1938.9)
小松太郎訳『ファビアン――或るモラリストの話』下巻
(改造出版社、改造文庫 1938.10)
1939    そもそもケストネルは抒情詩から出発した作家である。「ファビアン」を書くまでに詩集を三冊と子供のための小説を一冊出してゐる。その詩は都会の日常生活のあらゆる断面をうたつたもので、そのほろ苦く、辛辣で、真面目で、しかもどこか朗らかで滑稽な、一種の近代的な持味はケストネルの独壇場である。「ファビアン」はケストネルの詩の世界から、謂はばその素材を総動員したものである。(改造社版「訳者の言葉」より)  
1940  
1941  
1942  
1943  
1944   
1945  
1946    
1947    
1948   小松太郎訳『ファビアン――或るモラリストの話』(文芸春秋新社 1948.2)
1949    
1950 ○新たに「まえがき」を 執筆。(1950.5 初出?)(註10)
(高橋健二氏のいう「一九五〇年の新版の序文で」については未確認。)
 
1951    小松太郎訳『ファビアン――或るモラリストの話』
(新潮社、新潮文庫 1951.4)
1952    一九二八年から一九三二年と云へばドイツは前世界大戦前に於ける敗戦の傷痕が漸く癒え、クアフュルステンダムの繁華街が近代的なネオンサインに彩られて、カバレやダンスホールが一段と華やかになった頃であつた。共産党の氾濫と共にナチスが台頭して互に鎬を削り合つたのもこの頃である。人心は混沌として全く向ふべき方向を失つてゐた。風俗は乱れ、道義は敗頽して、在るものは唯分裂と、断片と、破壊のみといふ時代であつた。ケストネルの詩はかういふ時代のドイツの都会――それも主としてベルリンの――日常生活のあらゆる断面をうたつたもので、そのほろ苦く、辛辣で、真面目で、しかもどこか朗らかで滑稽な、一種の近代的な持ち味はケストネルの独壇場である。
 一九三二年にケストネルは彼の詩の世界から、その素材を総動員したかと思はれるやうな一つの小説を書いた。それが即ちこのファビアンである。(文芸春秋新社版「訳者の言葉」、新潮文庫版「あとがき」より) 
1953  
1954  
1955  
1956  
1957  
1958  
1959 本文を7巻著作集に収録。
「まえがき」を上掲著作集に収録。
「ファービアンと道学者先生」を上掲著作集に収録。
「盲腸のない紳士」を上掲著作集第2巻に収録。
1960  
1961  
1962    
1963    
1964    
1965    ケストナーは多面的な作家である。児童文学者として詩人として独自のすぐれた才能を世に示したばかりでなく、一九三一年には『ファービアン』という小説を発表した。これこそまさに彼の詩の中からその素材を総動員して書いたような小説であった。副題が示すように、これは一つの新しいモラルを求めて彷徨する男の物語である。時代は第一次世界大戦から十余年を経たヴァイマル共和国時代の末期、次第に深刻化する経済危機の中で失業者の数は増し、社会民主党と共産党とナチス党が三つ巴になってしのぎをけずりつつあった頃、…… (東邦出版社版「訳者のあとがき」、ちくま文庫版「訳者あとがき」より)
1966  
1967  
1968  
1969 本文を大人のための8巻著作集に収録。
「まえがき」を上掲著作集に収録。(註11)
1970  
1971  
1972  
1973   小松太郎訳『あるモラリストの物語 ファービアン』
(東邦出版社 1973.2)
小松太郎訳「まえがき」「ファービアンと道学先生」を上掲書に収録。
1974    
1975 「盲腸のない紳士」「ファービアンと道学者先生」
シルヴィア・リスト編『大きなケストナーの本』に収録。
 
1976    
1977   小松太郎訳「ファービアン――あるモラリストの物語」
(学習研究社、世界文学全集26 1977.2)
小松太郎訳「まえがき」「ファービアンと道学者先生たち」を上掲書に収録。
1978    たしかにこの小説には、不道徳なこと、否定的な要素、いかがわしいことが、「悪魔のパノラマ」のように展開する。売笑婦のたむろする酒場、レスビアンが雑居する頽廃的なアトリエ、ホスト・バー、素肌に毛皮を羽織って徘徊し、夫の諒解のもとに浮気をする有閑婦人、監督に身体を提供してスターの地位を得るインテリ女性、等々。約半世紀前の当時にすれば、これはショッキングな暴露であったと言ってよかろう。ケストナーはこの作品の発表後二年を経た一九三三年に、ナチスの焚書に遭うが、彼が焚書作家のリストにもっとも若年の作家として載せられたのも、この作品によると言ってもいい。
 しかし、考えてみると、ケストナーがこの作品の中に拾い上げた不道徳で否定的な要素は、たとえば五十年後の東京にはすべて残らず揃っている。ということは、作品が現実によって追いつかれ、追い越されたということである。(学習研究社、世界文学全集26 福田宏年「ケストナー解説」より)           
1979  
1980  
1981  
1982  
1983  
1984  
1985  
1986  
1987  
1988  
1989    
1990   小松太郎訳『ファービアン――あるモラリストの物語』
(筑摩書房、ちくま文庫 1990.8)
小松太郎訳「まえがき」「ファービアンと道学者先生たち」丘沢静也訳「盲腸のない紳士」を上掲書に収録。
1991    彼は、大人のためにも、たくさん書いた。ケストナーは、羊のような「子どもの友」ではなく、鷹のように目の鋭い作家だった。(ちくま文庫版、丘沢静也「解説」より)   
1992  
1993  
1994    
1995   ○『大きなケストナーの本』(マガジンハウス、1995.1)に丘沢静也訳「盲腸のない紳士」丘沢静也訳「ファービアンと道学者たち」を収録。
1996 本文をハンザー版9巻全集第3巻に収録。
「ファービアンと道学者先生」「ファービアンと芸術批評家」(後掲)「盲腸のない紳士」を上掲第3巻に収録。
「まえがき」を上掲第3巻「解説」中に収録。

 
【参考資料】
○カール・ハンザー版9巻全集第3巻(ERICH KÄSTNER WERKE  Romane I  Carl Hanser Verlag, München Wien, 1998)
○夏目武子「今、なぜ、ケストナーか――付・ケストナー作品の翻訳状況年表」(「文学と教育」188-9 2000.8)
○井筒満「ケストナー『ファービアン』をめぐって」(上・中・下)(「文学と教育」202 2005.8, 203 2005.11, 204 2006.7)
○「作品」(作品社刊)
○「カスタニエン」(京大独逸文学研究会刊)
○邦訳各テキスト

 ◆ 註 (ハンザー版全集第3巻「解説」より)

註1 ベルリンの日刊紙「月曜日の朝」に毎週掲載の詩に加えて、劇評・書評、及び「新ライプツィヒ新聞」「世界舞台」「ベルリン日報」その他への文芸読み物や、「エーミールと探偵たち」の映画シナリオの校正などの雑多な仕事と並行して、執筆は迅速に進められる。ケストナーはこの小説のある部分を、クアフュルステンダムにある行きつけのカフェ・レオンで書いた。

註2 ケストナーがこれまで小説の何章か仕上がるごとにいつもきちんと見せてきたその出版社が異議を唱えた。かつてケストナーの第一詩集を刊行した独立出版社のクルト・ヴェラーは、今はDVA(ドイツ出版社)の編集長になっていたが、彼の危惧は1931年7月10日の部内用の出版社所見* にはっきり述べられている。
 ヴェラーの批判は、ただ小説の標題だけではなく、「時として嫌悪感を抱かせ、ぞっとさせるような状況」に読者を立たせかねない、とくに初めの九つの章についても向けられている。
 モラリスト、ケストナーは、二つの後書きの中で、厳格な道徳監視員たちを向こうに回し、「彼(「作者」)は性的生活の異常な遊技種目について触れることすら躊躇しない」(「ファービアンと道学者先生」)と、個々の場面におけるエロチックな、既成道徳にとらわれない行為を弁護しているのだが、この「あとがき」に対してもヴェラーは、控え目にではあるが、しかし事柄としてはきっぱりとクレームをつけた。(次に掲げる「所見」および「手紙」を参照)
* ドイツ出版社クルト・ヴェラーの1931.7.10付出版社所見 (マールバハにあるエーリヒ・ケストナー文庫のタイプ刷り文書)……大意
 経験や観察を描くこと――それは分類概念の本来的な意味からして小説ではない(「芸術家への後書き」参照)。作家にとっては、時代時代の断面図を提供すること、そして、その時代の人間の典型――時代の担い手や受益者を、彼等の消極的な行動において一時的に、あるいは際立った状況において繰り返し、くっきりと強い光で照らし出すことが重大事なのである。その際、「人生の均衡を保つこと」(「道学者への後書き」参照)がとりわけ重要なことだった。それが彼の抒情詩のテーマである。
 二人の友だち(ヤーコブ・ファービアンとラブーデ)、彼等の内的な関係は、言葉で語られなくても読者の心を揺り動かすのだが、彼等は「この時代を生きること」を通じて軽くふれ合っている。舞台はベルリンとドレスデン。彼等の頭の中では時代の苦悩を意識し、心の中では憧れや希望と格闘している(これについては第十五章の見事な結末とラブーデの別れの手紙を参照のこと。)この友情を以てしても何ら積極的な成果をもたらすことはできなかった。二人は、いわば過失によって死ぬのである。
 ケストナーの誠実この上ない性格が、ときおり反感を感じさせ、ぞっとさせるような状況に読者を立たせてしまうのは、作者の責任ではなく時代の責任である。
 ケストナーは真実をさらけ出すことによって、人間を善くしようとする。彼のすべての創作とその必然性は、そのことに基づいている。作家の誠実さの中にこの本の誠実さがあり、その意図が根拠づけられているのである。意図は、純潔なヤーコプ・ファービアンが自らを示すため彼の善い心に自由を与える時、明らかになる。そこでこの本は最大級の文体の訴えとなり、一つの迫り来る危難の予兆となる。 
 この本は文芸作品であろうとしないで、真実であろうとする。この作者の想像に慰めを見出すことは誰もできないだろう。それは観察であり経験である。――ラブーデの自殺やその理由もまた経験される(しかしそれは十分に覆い隠されている)。
 構成であれ、ある程度の細部であれ、始めの九つの章は「読者の心を」和らげることができない。これについてはケストナーとなおよく折り合わなくてはならないのかもしれない。あるいは、ひょっとして次に続く者がそのように準備する必要があるのだろう。
 題名がもう一つの深刻な心配事だ。ケストナーは、もともとこの本を「豚小屋」と名づけた。しかし、この題名は、せいぜい始めの九つの章にふさわしいだけだ(ケストナーにはこの題名が出版営業的には許されないものだとわかっている)。題名についての別の案「ヘルクルスなき豚小屋」は、まだましだ。というのは、これなら、豚小屋をきれいにする能力と素質をまだ持ち得ていないということがこの本の構成要素の一つだ、ということを明示しているからである。しかしこの題名もまた内容全部をを包括してはいない(参照:母親とファービアン、発明家とファービアン、百貨店での子どもとファービアン、コルネリアと共にあるファービアン)。
 さらにまたケストナーの別案に「真空の中の青春」というのがある。これは明らかにふさわしい題名だ。が、しかし、ケストナーは聞こえも見た目もあまり良くないと思い込んでいる。
 最適の題名はシュテファン・ツヴァイクが先取りしてしまっていた。「感情の混乱」。ぴったりだろう。だが、これでもまだ、ヨーロッパがいま陥っている心の畜殺場、応急施設……、ということが反映されていない。
 全般的に見て、これは果てしない悲しみの本であり、激しい議論、賛否両論を呼び起こす本である。しかしながら、――それらすべてにかかわらず、あるいは時代が彼を必要としているゆえに――ケストナーがすでに見出している共感のもとに、それは一つの成功となるのである。
 ケステンとグレーザーもまた、彼らの今年の本のために同じような素材と取り組んでいる。それだから、ケストナーはこの小説でもって直ちに、つまり三人の中で最初に世に出ることを重要視するようになったのかもしれない。


* クルト・ヴェラーからケストナーへの手紙1931.7.10付 (タイプ文書、エーリヒ・ケストナー文庫)……大意

拝啓 ケストナー様
 原稿を拝見しました。あなたの、初めての叙事的な大きなお仕事に対し、心からのお祝いを申し上げます。出来事を記憶に留めていない人はショックを受けるに違いありません。そこから私のこの本に対する信頼が生まれてきます。
 まだ包括的なものではありませんが、私の印象を記した文書を同封してお送りします。あなたにはそこから、この本の最初の九つの章に対して私が若干の懸念を抱いているということをおわかりいただけるでしょう。白状しますが、第十章で人間性(少なくとも、それについて理解できるかもしれないということ)が見えてきたときには、ほんとうにほっと一息つきました。初めの九章でみるような、ただ経験したことの殺風景な描写は全く人を興ざめにさせる上で効果満点です。しかし、ひょっとしたら、それがあなたの意図かもしれませんね。もしそのことについて少し書いてくださるとありがたいと思います。
 後書きはとても適切だと思います。ですが、この形が最終的なものですか?
 題名の問題は実際、解決が容易ではありません。しかし、私はそのことにさらに取り組んでいくつもりです。残念なことに、最もふさわしい題名は、シュテファン・ツヴァイクが先取りしてしまっています。ちょうど今、あなたの小説に取りかかっているラング氏は、来週、休暇旅行に出掛けるものですから、「ゼロの上の心臓」という題名も付けていきました。「腰の上の心臓」という詩集が既にあるのに、なおあなたがその名前を採用する勇気をお持ちかどうか、私には分かりません。また、その名前がぴったり似合っているわけでもありません。しかし、ともに力を合わせることによって一つの題名に行き着くことになるだろうことを、私は疑っていません。
 朝、キルッパー博士に原稿を手渡そうと思います。採択は彼次第だということを、あなたはご存じですね。
 私はあなたのご本の成功は間違いないと思っています。そして、あなたの新しいお仕事のために、特別に力を尽くすことができることを嬉しく思います。むろん、激しい攻撃を受けることはあるでしょう。しかし、それに対しては、抒情詩を通じてよく知られるようになった(そして、シュトゥットガルトでの講演を通じて、あなたご自身ご理解なさった)あなたの熱烈な誠実さがあります。
 あなたの本が、私に対してと同様、すべての人々に多くのものを与えることになれば、それであなたの目的は達せられたことになりますね。ケストナーという人がこれからもっと多くの人々と知り合いになっていくことを思うと、私は嬉しくなってきます。
 あなたのすてきなお母様によろしくとお伝え下さい。お母様はこの本についてどのようにおっしゃるでしょうか。
 それはそうとして、あなたの最近の住所をすぐに知らせてください。
 さようなら。感謝をこめて。   クルト・ヴェラーより。
註3 ケストナーは出版社の強制により第三、四章を根本的に書き替える。彼は一つのエピソード「かつての盲腸、大評判」を完全に削除する。 このエピソードの中で、ファービアンの上役ブライトコプフ支配人――彼の中には人間蔑視の冷笑主義と政治的な無関心が混在しているのだが――彼のものすごい偏狭ぶりがシニカルに暴露されている。

註4 出版社の攻撃によってすっかり心身を消耗したケストナーは、罪ありとされた「ファービアン」の二つの後書き「ファービアンと道学者先生」「ファービアンと芸術批評家」を印刷にまわすことを断念する。それらは作者の思想や意図、また彼の作品の叙事的な方法を解き明かしているこの小説の核心である。さらに彼は自らの風刺的自画像により、根本的な変革を試みて、信念に凝り固まった同時代の文芸批評家たちと論争するのである。

註5 ケストナーの提案した標題――豚小屋、ヘラクレスなき豚小屋、真空の中の青春、破滅(堕落)――は「出版営業的観点から考慮の余地なし」として拒絶される。

註6 ヘルマン・ケステン(1900-1996)とエルンスト・グレーザー(1902-1963)がすでに類似の題材で仕事を進めていたので、自らの時評的小説の出版を急いだケストナーは、最終的に出版社が無理に押しつけた標題「ファービアン――あるモラリストの物語」を受けいれることになる。

註7 「ファービアンと道学者先生」は「世界舞台」(1931.10.27)に発表された。これは後に、1959年版の全集にも収められた。第二の後書き「ファービアンと芸術批評家」は、これまで行方が分からないとされていたが、エーリヒ・ケストナー文庫で見つかった。この全集で初めて世に出ることになる。(後掲「ファービアンと芸術批評家」参照)

註8 時代批評としても政治的にも危険な個所を取り除いたこの小説の初版は1931年10月の終わりに刊行された。『ファービアン』は予想を越えた大当たりとなった。四週間の内に三版(15,000部)が販売された。そして、1932年3月の第五版で25,000部に達した(「母親への手紙」1932.3.21)。翻訳権による利益も相当な額にのぼった。一年半の間にこの本は、イギリス、フランス、イタリア、オランダ、アメリカ、ソ連、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアといった国々で公刊されていた。
 著者の悲観的・ニヒリスティックな世界観を非難した右寄りの新聞雑誌の論争的攻撃を別にすれば、同時代の批評は圧倒的に肯定的な反応を示した。

註9 このイデオロギー的な検閲事件に対して、ケストナーは後で、小説からもぎ取った手足のようなこの断章を公にすることで報いた。すなわち、一年後その削除部分は独立した作品「盲腸のない紳士」として、ヴィーラント・ヘルツフェルデ(1896-1988)が出版したドイツ作家の代表作選集(「現代ドイツ新進作家三十人集」ベルリン、1932)に収められ、初めて発表された。

註10 二つのケストナー版(著作集7巻、ベルリン、ケルン、1959と大人のための著作集8巻、ミュンヘン、1969)には、1950年5月執筆の「まえがき」が収められている。この前書きでケストナーは『ファービアン』の受容史に関して真剣に取り組んでいる。(高橋健二『ケストナーの生涯』には「執筆後二十年以上たった一九五〇年の新版の序文で」云々とある。しかし、1950年新版の存否については未詳。)

註11 (この8巻著作集に「盲腸のない紳士」「ファービアンと道学者先生」が収録されたか否かについては未確認。)

  「ファービアンと芸術批評家」 (ハンザー版全集第3巻所収)
 ファービアンと芸術批評家 (『ファービアン』後書き その二  1996年初出)……大意

 道学者先生たちは作者を論評し、(それに対して)芸術批評家たちは書物を論評する。
 ところで、この本は筋というものを持たない。(この本では、ファービアンの)月に270マルクを稼ぎ出す勤め口一つを例外として、何かがなくなるということはない。財布も、真珠の首飾りも、記憶も、何ひとつなくならないし、あるいはそのほか、物語の始まりで失われたものが最後の章で再び見つかって、みんなが満足する、というようなことは何もありはしない。再び見出されるものなどないのである。作者は小説を形のあやふやな芸術ジャンルだとは決して思っていない。が、それにもかかわらず、今回ここでは(小説をがっしり)組み立てるのに石を使うようなことをしなかった。
 意図が問題だ、と、ひょっとして思われるかもしれない。
 意図は重要人物として現われ、時間の中で消えていく。(あるいはまた、)それはさもない人物として登場してきて、まるで似つかわしくないある種の激しさでもって、繰り返し事態をめちゃめちゃにひっかきまわす。一人の青年がピストル自殺をし、別の若い男が溺死する。この二つの死亡の例は軽薄なものであり、たいして正当化できるものではない。二人の男はともに人生の(ちょっとした)間違いからこのような結果になるのだ。そこで人は問うかもしれない、それでは避けられない原因などどこにもないじゃないか? 作者はどうして彼らの死に必然性を与えることをしなかったのか?、と。
 意図が問題だ、と、ひょっとして思われるかもしれない。
 帽子を被っていない人間の頭上に降って来ないとも限らない屋根瓦の数が、日に日に増大している。(しかし)、その人間の無知は、何が起ころうと、出来事の早まりつつあるテンポのせいで、活発で壮大な規模(の出来事)を(そのまま)受けいれてしまうのだ。偶然が作用して、その結果、ゆるんでいる角材がみんなギシギシと音を立てる。人生は(まことに)興味深い。それは、スープの中のただ一本の良い髪の毛であり〔ein Haar in der Suppe finden スープの中に一本の髪の毛を見つけだす=アラを探しだす〕、そのスープをすくって平らげることはわれわれにとっての光栄である。
 情勢は、今やますます偶然によって左右されている。それについて作者は自問した、状況の描写をいつまでも続けていてよいのか? と。一日一日、どの一日も、誤った目的地をめざす間違った列車での旅を身をもって体験している人のためにある。多くの可能性があり、そのうちの一つだけが事実となりうるのであってみれば、(およそ)考えられないようなことも起こってくる。(そうした中では)理性はどこかへ追いやられ、(あとには)混乱した状況と途方に暮れた人間とだけが残される。その(状況と人間との)双方にわたって、(作者は)どれだけ最適なかたちで読者に伝えることができたか。もし伝え得たとしても、そもそも読者が本に飛びついて、机をたたき、この状況は変わらなければならない! と大声で叫ぶよう(になるところまで)、読者(の気持)をつき動かすことにどれだけ成功しただろうか。
 この本には、何らの筋も、緻密な構成も、趣旨にふさわしく配置されたアクセントも、そして満足な結末も、無い。
 人が、それを適切だと思おうが思うまいが、だからそれこそが意図だったのだ! という推測をするとすれば、それは当たっている。

 付.1 『ファービアン』に対する批評とケストナーの反応 (ハンザー版全集第3巻「解説」より)……大意

○著者の悲観的・ニヒリスティックな世界観を非難した右寄りの新聞雑誌の論争的攻撃を別にすれば、同時代の批評は圧倒的に肯定的な反応を示した。
モンティー・ヤーコプス(「フォシッシェ新聞」1931.10.20)はケストナーが時代の精神的・道徳的雰囲気を的確にとらえていることを証明した。「それは一匹狼の気分ではなく、一つの世代全体の行進する巨大な隊列の気分なのである。彼の小説が文書としての価値を持つようになるということは[…]ケストナーの受ける報酬である。」

ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)は論争的な誌上討論(「本の虫」2,1932.2)の場で、題名主人公ファービアンの心、分別、そして人間性を賞賛した。「今のご時世ではこの小説の中ほど、自由に時代の制約を受けずに話すことはできない。そこで聞こえてくるのは地獄か精神病院からの声である。が、しかし、それは音楽のように鳴り響き、芸術のフィルターを通ってすっかり上品に仕上がっている。」

○抒情詩人ケストナーが感じ取ったことをそこに託している物語風の形式について、先のヘッセと同様にクルト・ピントゥスも述べている。「すべての人がベルリン風に話すわけではなく、また、個人的に話すわけではない。だれもがファービアンのように話し、ファービアンは詩人ケストナーのように話すのである。ケストナーは引き裂かれた[…]心臓の血の吹き出す傷口を冷ややかな風刺のバンソウコウでふさぐのである。」(「8時、夕刊新聞」ベルリン、1931.12.22)

○それから、ハインリヒ・マン(1871-1950)はこの小説がいかに強く彼を感動させたかということを書き送っている。(1931.11.22付未公開書簡、ケストナー文庫のコピー)

ヘルマン・ケステンは明快な批評を書いている。(「モラルとの決着」日記 47,1931.11.21)彼「ケストナー]は作品の主人公の葛藤を浮き彫りにしてみせるだけではなく、(「極度の厭世主義にもかかわらず、この弱い主人公は強いモラリストである。」)時代と世代全体の、個々の運命の悲劇を感覚的に知覚できるようにして見せる。ケステンにとってケストナーの卓越した文学的業績は、その点にこそあるのである。

○描写の精確さと深さに対して大変な敬意をはらいながらも、判定の分かれるのはルードルフ・アルンハイム(「世界舞台」47,1931.11.24)、アルフレート・カントロヴィッツ(「概観」1931.12)、および、ハンス・ナトーネック(「新ライプニッツ新聞」1931.11.15)である。

○彼等の主要な非難は、各場面の叙事的・歴史的問題性の欠如、並びに主人公の断片的な観察報告に向けられる。

○寓話は小説の強みではないであろう(ナトーネック)。主人公は正しい肉体ということではなく、人間を使って歴史(話)の部分部分を結びあわせるということ、そのためにだけ役立つのであろう(アルンハイム)。個々の章には、ただよくできたドラマシーンの構想の質の良さがあるだけではないか(カントロヴィッツ)。

○三人のどの批評家においても、ファービアンの懐疑的な倫理性に対する根本的な不快感が行間に明らかである。その根源は虚無主義、性格的な弱さ、そして感傷的な諦めと言い換えることができる。

ナトーネックが代表して下す判定の内容は、「一人のモラリスト、彼はペシミズムをモラルと取り違えた」というものである。

ケストナーは、「新ライプニッツ新聞」学芸部長[ナトーネック]の批評によって必ずしも発奮させられることはない。「ナトーネックは、なかばバカにしたように『ファービアン』の批評を書いた。いつもはほめておいて、しかし、またブレーキをかけるのだ。いずれにせよ、彼の生まれついての性分は変えられないね。」(母親への手紙 1931.11.15)

 付.2 『ファービアン』の映画化(1980) (ハンザー版全集第3巻「解説」より)……大意

○出版からおよそ三十年後(引注:正しくは「およそ五十年後」)、『ファービアン』はヴォルフ・グレム監督の下で映画化される。脚本はハンス・ボルゲルトヴォルフ・グレムである。主な出演俳優はハンス・ペーター・ハルヴァクス(ファービアン)、ヘルマン・ラウゼ(ラブーデ)、シルヴィア・ヤーニシュ(コルネリア)とミャーノウ・ファン・バールツェル(イレーネ・モル)であった。

○映画化されたものは、芸術的にはかなり荒削りのものであった。それはけっしてこの小説の文体・テンポ・精神を正当に評価したものではなかった。ケストナーのほうは、長い道のりにおいて、モンタージュやクローズアップとロングショットとの転換、早回しなどのような映像美学的な叙述技法を創作に駆使してきたのに、である。

○ベルリンの小説はいまや、まるで、あっと驚かせるような政治的な衝撃性によってスクリーン上にもたらされるかのようである。

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