井伏文学略年譜

文学教育研究者集団著・熊谷孝編 『井伏文学手帖』(みずち書房 1984.7刊)所収)の「井伏文学略年譜」に基づいて作製した。
   (一) 世代形成期
1898年
(明治31)
 0歳 二月一五日、広島県深安郡加茂村粟根に旧家(中流地主)の次男として生。戸籍名、満寿二(ますじ)。


・1892 芥川龍之介生。
・1904 日露戦争。
・1909 太宰治生。
・1910 大逆事件。
・1914 第一次世界大戦。  
1917年
(大正6)
19歳 三月、福山中学校卒業。九月、早稲田大学予科一年に編入。  
 1918年
(大正7)
20歳   ・1918 シベリア出兵 
1919年
(大正8)
 21歳 四月、早稲田大学文学部仏文学専攻科一年に進学。同級の青木南八と親交を結ぶ。翌年、学制変更、新制度大学部別格科仏文一年生となる。   
 1920年
(大正9)
 22歳    
 1921年
(大正10)
23歳    
1922年
(大正11)
 24歳 早稲田大学中退。   
   (二) 作家生活 (無名作家から新進作家へ/中流下層階級者的貧困の中での創作活動の時期)
1923年
(大正12)
 25歳 『幽閉』(世紀、7/『山椒魚』の原型)
・「反響を期待して出したわけではなかつたが、ある評論家が一行半費して〝古くさい〟といふ意味の批評を読売新聞の文芸欄に書いた。反響どころの話ではないのであつた。私は恥づかしかつた。自分は作家にならうとしても駄目らしいと思つた。」(『半生記』)/「『山椒魚』はチェーホフの『賭』を読んでから書いたんだ。『賭』は賭に負けて閉じ込められた一人の男が、絶望から悟りにはいる筋なんだが、『山椒魚』は悟りにはいろうとして、はいれなかつたところを書きたかつたのに、尻切れとんぼになっちまったね。」(井伏全集9=月報3)/「残念ながら四十年も前の事なので、私はそれらの原稿の内容をすっかり忘れてしまったが、唯一つ『山椒魚』と云う短編だけは今でも覚えている。」(同10=月報6)/「私は十四のとしから、井伏さんの作品を愛読してゐたのである。……井伏さんは或るささやかな同人雑誌に、はじめてその作品を発表なさって、当時、北の端の青森の中学一年生だつた私は、それを読んで、坐つてをられなかつたくらゐに興奮した。」(太宰治全集〈筑摩10〉)
・「文芸春秋」創刊1/「白樺」廃刊9
・関東大震災9
・芥川龍之介『侏儒の言葉』(文芸春秋1~25.9)  
 1924年
(大正13)
 26歳    
1925年
(大正14)
27歳 『夜更と梅の花』(「鉄鎚」に発表と推定)
  【後注:『夜更と梅の花』は前年「人類」1924.5に発表と判明*
   (*東郷克美「大正十三年前後の井伏鱒二資料」日本近代文学館年誌6 2010.10  参照)
・芥川龍之介『大導寺信輔の半生』(中央公論、1)
・治安維持法3/普選法3
1926年
(大正15)
(昭和1)
28歳
・「元の『世紀』の同人に誘はれて、他から来た人たちも加へて同人雑誌『陣痛時代』を出した。ところが他から来た或る一人の同人の呼びかけで、私を除く他の同人がみんな左傾して雑誌の題名も変へた。私だけが取残された。」(『半生記』
1927年
(昭和2)
 29歳 十月、秋元節代と結婚。「『いさぎよく貧乏しよう』といふのが私たちの標語であつた」(『雞肋集』)。 
・「あの頃(新興芸術派の会……)、左翼でないと馬鹿にされた。それで僕もマルクスを買って読んでみようと思つたが、よく分らない。小林(秀雄)が読んでゐたから、面白いところをアンダーラインしておいてくれと云つたら、小林が怒つた。」(全集9=月報3)
・芥川龍之介『河童』(改造3)
・芥川龍之介、自殺7(35歳) 
・第一次山東出兵5、実質的な意味における日中戦争の開始
1928年
(昭和3)
30歳 『鯉』(再発表/三田文学、2)
『夜更と梅の花』(再発表/文芸都市、3) 
・〈同人参加の系譜〉世紀―陣痛時代―鷲の巣―文芸都市―作品―文学界(『半生記』)/「私が左翼的な作品を書かなかつたのは、時流に対して不貞腐れてゐたためではない。無器用なくせに気無精だから、イデオロギーのある作品は書かうにも書けるはずがなかつたのだ。生活上の斬新なイズムを創作上のイズムに取入れるには大きく人間的にも脱皮しなくてはならぬ。勇猛精進なくしては出来得ない。」(『半生記』)
・三・一五事件、共産党員全国的大検挙3
・第二次山東出兵4/済南事件5
・小林多喜二『一九二八年三月一五日』 
     〈教養的中流下層階級者の視点〉の端緒的成立と井伏文体の成立    
 1929年
(昭和4)
 31歳 『朽助のゐる谷間』(創作月刊、3)
基本型『山椒魚』(文芸都市、5)
『炭鉱地帯病院』(文芸都市、8)
『屋根の上のサワン』(文学、11)
・「……昭和四年という年は、……文学者井伏鱒二にとってのエポック・メーキングな年だった……日本の近代文学は井伏鱒二の出現によって対話精神 を樹立させることができた」(熊谷孝『井伏鱒二』)〈文学史一九二九年〉

・『朽助のゐる谷間』――「私はその日すぐに三十枚あまりの原稿を永井龍男に送り届けた。……しかしこの原稿は一日で書きあげたのではない。その年の正月元日から四日まで寝正月をするかはりに書いたのである。」(『雞肋集』)/朽助は中学時代に使っていたペンネームが朽木三助だったので、これを思い出してつけた名前。朽木三助では何も書かなかったが、鷗外に出した手紙の時に使用しただけ。」(全集3=月報3)

・『屋根の上のサワン』――『早稲田の予科時代からの同級生に椎名由己君というのがいてね、千葉の印旛沼のほとりの大森という町の医者の息子なんだ。子供の頃、沼に降りてきた雁をつかまえて、飼っていたら、或る時、といっても、秋だね。逃げられてしまったんだそうだ。……〈私〉が出て来ても、私小説じゃないね。〈私〉は狂言回し」(同9=月報3) 
 
1930年
(昭和5)
 32歳 五月、太宰治が訪問(太宰、二〇歳)。
四月、短編集『夜ふけと梅の花』刊(新潮社)。
七月、短編集『なつかしき現実』刊(改造社/『逃げていく記録』収録)。

『十二年間』(新潮、5)
『休憩時間』(新青年、7)
『晩春』(文芸春秋別冊、7)
『悪い仲間』(文学時代、9)
後の『さざなみ軍記』の一部を三回にわたり同人誌「文学」(3)、「作品」(6,7)に発表/①冒頭~7月28日(原題/逃げて行く記録)、③8月19日夜~8月20日(原題/逃亡記)、④8月20日夜~8月21日前半(原題/逃亡記
〈注〉上記、①③④……という数字は、一九三八年刊『さざなみ軍記』の順序を示す。(以下、同じ)
・「能登原には、〝能登守教経の弓掛松〟といふ松の老木がある。伝承によると源平合戦のころ平家の軍勢が暫くここに陣を構へ、一時はここに新都を開かうとしてゐたといふ。それが嘘かどうかわからないが、私は自作の『さざなみ軍記』といふ架空話の小説のなかでこの伝承を意識に入れながら、二つ三つの場面を書いた。」(『半生記』)/「最後に少年が、生野の棚田に逃げ、都会の戦争から離れて隠遁生活をする所で、終りにしようと思ったが、長過ぎるので途中で切ってしまった。……下士官出身みたいな宮地小太郎をつい戦死させてしまったのはまずかった。あれは生き残しておきたかった。」(全集3=月報4)/「さざなみ軍記はいいですねえ。アレには色気がある。」(同6=月報8)
 
     〈教養的中流下層階級者の視点〉の明確化と発想・文体の成熟    
1931年
(昭和6)
 33歳 『丹下氏邸』(改造、2)
『おらんだ伝法金水』(この年発表と推定される)
  【後注:『実説オランダ伝法「金水」』(オール読物、1933.5) 筆者名は鶴屋幽蔵】
後の『さざなみ軍記』の続編を二回にわたり、「作品」(8,10)に発表/⑤8月21日後半~8月22日(原題/逃亡記)、②8月16日~8月19日前半(原題/逃亡記
後の『川』の一部を、「文芸春秋」(9、原題/川沿ひの実写風景)、「中央公論」(12、原題/その川沿ひの実写風景)に発表
・『丹下氏邸』――「人物も事件もみなフィクション。……小説の丹下老人の性格は、知っているある老人がモデル。下男も同様」(全集3=月報4)/「佐藤(春夫)氏は、僕は井伏の『丹下氏邸』がいいと思うがねえ、と言われた。」(同)/「軽妙なその作風にみんなが驚かされたことはいうまでもない。」(全集6=月報8)/「基本型『山椒魚』や『屋根の上のサワン』などにおいてやはり感じられるインテリ臭さが、この『丹下氏邸』に至って払拭されるようになり、それに代わって庶民大衆的感覚を含み込んだ成人知識人的な感覚が息づき始めます。井伏文学にとっての第二のエポックです。」(熊谷孝『井伏鱒二』)

・『川』――「小さな流れから、次第に川下で大きくなっていくその川幅を出そうと試みたのに、だんだん細くなってしまい、鳥を反対に飛ばしてみたが、川は、どうにも広くならなかった。」(全集3=月報4)
・満州事変おこる9 
1932年
(昭和7)
 34歳 一〇月、単行本『川』刊(江川書房)。

『川』の一部を、「新潮」(1、原題/洪水前後)、同(5、原題/その地帯のロケエシヨン)に発表 
 
1933年
(昭和8)
 35歳   ・太宰治『列車』(サンデー東奥、2)『魚服記』(海豹、3) 
1934年
(昭和9)
 36歳 四月、短編集『逃亡記』刊(改造社/後の『さざなみ軍記』②③④⑤収録)。

『青ヶ島大概記』(中央公論、3)
・『青ヶ島大概記』――『折口信夫さんが、伊馬君を通じて、近藤富蔵が島流しになった時の資料があると写本を貸して下さった。……〝ジョン万次郎〟と同じような記録文学」(全集6=月報8)/「私はそれを一字一字清書しながら、天才を実感して戦慄した。私のこれまでの生涯に於いて、日本の作家に天才を実感させられたのは、あとにも先にも、たつたこの一度だけであつた。」(太宰治「井伏鱒二選集第二巻/後記」)
・太宰治『葉』(鷭、4) 
1935年
(昭和10)
 37歳 『集金旅行第一日』(文芸春秋、5)、『続集金旅行』(同、7)、『尾道』(文芸、8)  以上は『集金旅行』の各一部  
1936年
(昭和11)
 38歳 一一月、単行本『雞肋集』刊(竹村書房/『川』も収録。

『雞肋集』(早稲田文学、5~12)
『福山から加茂村まで』(新潮、9/『集金旅行』の一部) 
・二・二六事件(太宰治『苦悩の年鑑』参照) 
1937年
(昭和12)
 39歳 四月、単行本『集金旅行』刊(版画荘)。
五月、詩集『厄除け詩集』刊(野田書房)。 

『西海日記』(文芸、6/後の『さざなみ軍記』続編)
『素性吟味』(オール読物、9)
・本格的日中戦争へ7 
 1938年
(昭和13)
 40歳 一月、短編集『火木土』刊(版画荘)
四月、単行本『さざなみ軍記』刊(河出書房)。

『さざなみ軍記』の最終部分『早春日記』(文学界、1~4) 
『琵琶塚』(新女苑、2)
・太宰治『満願』(文章、9)、『姨捨』(新潮、9)――太宰、二九歳 
     〈教養的中流下層階級者の視点〉の定着と文体の確立    
 1939年
(昭和14)
 41歳 七月、単行本『多甚古村』刊(河出書房)。

『山を見て老人の語る』(改造文芸、1に発表と推定)  【後注:(文芸、1)】
『多甚古村(一)』(文体、2)、『多甚古村駐在記』(改造、2)、『多甚古村(二)』(文体、3)、『多甚古村の人々』(文学界、4)、『多甚古駐在記』(文学界、7)
『お濠に関する話』(オール読物、11)
・「……〝丹下氏邸的なもの〟がさらに熟したかたちで実を結ぶのは、昭和十四年の『多甚古村』シリーズあたりでしょうか。第三のエポックですね。」(熊谷孝『井伏鱒二』)
・太宰治『富嶽百景』(文体、2,3)、『畜犬談』(文学者、8) 
1940年
(昭和15) 
 42歳 五月、単行本『鸚鵡』刊(河出書房/『多甚古村』として『多甚古村補遺』に当る部分を収録)。

『川井騒動』(この年発表と推定。全集解題・『井伏鱒二文学書誌』によれば、「サンデー毎日」 、1とあるが掲載されていない) 【後注:(サンデー毎日、1月1日)に掲載】
『へんろう宿』(オール読物、4)
『掛け持ち』(文芸春秋、4)
『おこまさん』(少女の友、1~6)
後の『多甚古村補遺』に当る、『人命救助の件』(モダン日本、1)、『寄附金持逃げの件』(公論、3)を発表
・『へんろう宿』――「田中貢太郎さんが病に倒れ、お見舞に四国に出かけた時、室戸岬に行くバスの中から、二階建の小さな宿屋に、へんろう宿と書いてあるのを見て、空想で書いてみたもの……」(全集3=月報4)
・太宰治『鷗』(知性、1)、『春の盗賊』(文芸日本、1)、『駆け込み訴へ』(中央公論、2)、『善蔵を思ふ』(文芸、4)、『女の決闘』(月刊文章、1~6)
・紀元二六〇〇年式典11 
 1941年
(昭和16)
 43歳 一二月、翻訳単行本『ドリトル先生アフリカ行』刊(フタバ書院)。
一一月、陸軍徴用員として入隊。 

『増富の谿谷』
、(オール読物、1)
・太平洋戦争開始12.8 
 1942年
(昭和17)
 44歳 一一月、徴用解除。  ・太宰治『新郎』(新潮、1) 、『十二月八日』(婦人公論、2)、『正義と微笑』(錦城出版刊6)
 1943年
(昭和18)
 45歳   ・太宰治『黄村先生言行録』(文学界、1)、『禁酒の心』(現代文学、1)、『右大臣実朝』(錦城出版刊9) 
 1944年
(昭和19)
 46歳 山梨県甲運村へ疎開。  ・太宰治『津軽』(小山書店刊11) 
 1945年
(昭和20)
 47歳 七月、郷里広島県加茂村へ再疎開。  ・太宰治『惜別』(朝日新聞社刊9)、『お伽草紙』(筑摩書房刊10)
・敗戦8.15/広島、長崎被爆8 
   (三) 戦後の作家生活 (戦争責任の告発と庶民の哀歓を基調に)   
 1946年
(昭和21)
 48歳 一二月、単行本『侘助』刊(鎌倉文庫)。

『経筒』(新生、2)
『追剥の話』(素直、9)
『橋本屋』(世界、11)
『当村大字霞ヶ森』(中央公論、11)
『侘助』となる、『波高島』(改造、5)、『侘助』(人間、6)を発表 
・太宰治『苦悩の年鑑』(新文芸、3)、『十五年間』(文芸展望、4)、『男女同権』(改造、12)
・新憲法発布11 
 1947年
(昭和22)
 49歳 七月、上京、杉並の自宅に戻る。  ・太宰治『トカトントン』(群像、1)、『ヴィヨンの妻』(展望、3)、『斜陽』(新潮、7~10)
・二・一ゼネスト中止指令1.31 
 1948年
(昭和23)
 50歳 『山峡風物誌』(改造、3)
『復員者の噂』(社会、6)
 
・太宰治『如是我聞』(新潮、3,5,6,7)、『人間失格』 (展望、6~8)
・太宰治、自殺6(三九歳)
1949年
(昭和24)
51歳    
 1950年
(昭和25)
52歳 『遥拝隊長』(展望、2) 
・『遥拝隊長』――「松崎さんが大原の別荘にいた頃、戦争帰りの頭のおかしい曹長がいて、発作を起すと、棒片れを持って、九十九里浜に行っては、突撃進めとやって、まだ戦争中と思っているらしいという話を聞いて、これを材料にしたもの。……隊長は、徴用の時の輸送指揮官を思い出して性格習性を採った。」(全集5=月報7)
・朝鮮戦争勃発6.25 
 1951年
(昭和26)
 53歳 『かきつばた』(中央公論、6)
『犠牲』(世界、8)
・『かきつばた』――「広島が空襲された日にでかけた福山で見かけたことを冒頭に書いた。安原薬局、平井歯科、小林旅館は皆実名そのままである。あの頃のざわざわして、落着かない情景を書いた色気の無い風俗小説になってしまったが、ざわざわして、半ばやけになった気分はどうも出せなかった。」(全集11=月報9)
・『犠牲』――「南方へ徴用で行って、いろいろと意外なことを見せられたが、そうひどいことを書くわけにもいかなかった。インド人が腕を組んで挨拶すると生意気だといったり、回教徒が黒い帽子を冠ったまま就職の依頼にきたら、ふざけた奴だと股を蹴り上げた軍属もいた。……何もかも、なんか〝間に合わせの戦争〟という気がした。」(同)
 
1952年
(昭和27)
 54歳 『「奥の細道」の一週間』(別冊文芸春秋、10/後に『七つの街道』所収、解題『奥の細道の杖の跡』)   
 1953年
(昭和28)
 55歳 『かるさん屋敷』(毎日新聞、7.4~11.16)
『安土セミナリオ』(別冊文芸春秋、12) 
 
 1954年
(昭和29)
 56歳 『漂民宇三郎』(群像、4~55.12)
後の『安土セミナリオ』の一部、『宗湛と次郎作』(別冊文芸春秋、2)、『弥助の奮戦』(同、4)、『落武者』(同、7)、『難民その他』(同、8)を発表 
 
 1955年
(昭和30)
 57歳 『開墾村与作の陳述』(別冊文芸春秋、6/後に解題『開墾村の与作』)
『下足番』(新潮、10) 
 
 1956年
(昭和31)
 58歳 四月、単行本『漂民宇三郎』刊(講談社)。

後の『七つの街道』の一部、『篠山街道』(別冊文芸春秋、6)、『久慈街道』(同、8)、『備前街道』(同、10)、『甲斐わかひこ路』(同、12)を発表 
 
 1957年
(昭和32)
 59歳 一一月、単行本『七つの街道』刊(文芸春秋社)。

『七つの街道』の一部、『天城山麓をめぐる道』(別冊文芸春秋、2)、『近江路』(同、4)発表
 
 1958年
(昭和33)
 60歳 一一月、『かるさん屋敷』『安土セミナリオ』収録の『新選現代日本文学全集・井伏鱒二集』刊(筑摩書房)。   
1959年
(昭和34) 
 61歳    
 1960年
(昭和35)
 62歳   ・新日米安全保障条約阻止統一行動、全国的に高まる。 
 1961年
(昭和36)
 63歳 『武州鉢形城』(新潮、8~62.7)   
 1962年
(昭和37)
 64歳    
 1963年
(昭和38)
 65歳 単行本『武州鉢形城』刊(新潮社)。   
 1964年
(昭和39)
 66歳    
 1965年
(昭和40)
 67歳 後の『黒い雨』となる『姪の結婚』(新潮、1~7)、『黒い雨』(同、8~66.9)を発表
・『黒い雨』――「終戦直後、疎開中に神石郡の小畠に昔の代官所の跡が残っていて、蔵に慶長年間から幕末までの書類がいっぱいあるので、見たければ、紹介してあげようという織物屋さんがいたので、見に行って、重松さんと知り合いになった。その後、東京へ戻って、また郷里に帰った時に、釣宿で重松さんと出会ったら、原爆をうけた姪の話が出て、その病床日記が二冊あるので、それを送るから是非書いてくれと云われた。……気持の上では編集記者と合作だね。途中から改題したのは『新潮』編集長からの提案によるもので、編集長が名づけ親になった。丁度ベトナム戦争が盛んな頃で、戦争反対の気持ちも含めて、極力事実を尊重してルポルタージュとして書いたけど、戦争推進者に対しては、全然無力だったね。」(全集13=月報13)
 
 1966年
(昭和41)
 68歳 一〇月、単行本『黒い雨』刊(新潮社)。   
1967年
(昭和42)
 69歳    
 1968年
(昭和43)
 70歳    
1969年
(昭和44)
 71歳    
 1970年
(昭和45)
 72歳 『私の履歴書』(日本経済新聞、11.1~12.2/改題『半生記』)   
 1971年
(昭和46)
 73歳 九月、単行本『早稲田の森』刊(新潮社、『半生記』収録)。   
 1972年
(昭和47)
 74歳    
 1973年
(昭和48)
 75歳    
 1974年
(昭和49)
 76歳    
 1975年
(昭和50)
 77歳    
 1976年
(昭和51)
 78歳    
 1977年
(昭和52)
 79歳    
 1978年
(昭和53)
 80歳    
 1979年
(昭和54)
 81歳    
 1980年
(昭和55)
 82歳    
 1981年
(昭和56)
 83歳 後の『荻窪風土記』の一部、『荻窪八丁通り』(新潮、2)、『関東大震災直後』(同、3)、『震災避難民』(同、4)、『平野屋酒店』(同、5)、『文学青年窶れ』(同、6)、『天沼の弁天通り』(同、7)、『阿佐ヶ谷将棋会』(同、8)、『続・阿佐ヶ谷将棋会』(同、9)、『二・二六事件の頃』(同、10)、『善福寺川』(同、11)、『外村繁のこと』(同、12)を発表   
 1982年
(昭和57)
 84歳 一月二〇日、「核戦争の危機を訴える文学者の声明」(前年一二月の「署名についてのお願い]呼びかけ人三六名中の一人となる)。
一一月、単行本『荻窪風土記』刊(新潮社)

『荻窪風土記』の一部、『阿佐ヶ谷の釣具屋』(新潮、1)、『町内の植木屋』(同、2)、『病気入院』(同、3)、『小山清の孤独』(同、4)、『荻窪(三毛猫のこと)』(同、5)、『荻窪(七賢人の会)』(同、6)を発表 
 
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