作家コーナー ■太宰 治 (1909.6.19-1948.6.13)
   

太宰 治 語録  付/太宰治の文学的イデオロギーの底流
熊谷 孝

「文学と教育」No.132 (1985.5) 掲載

  
1 以後、ボクノ文章読マナイデ下サイ
 アナタノ小説、友人ヨリ雑誌借リテ読ミマシタガ、アレハ、ツマリ、一言モッテ覆エバ、ドンナコトニナルカ、ト詰問サレルコト再三、ソノタビゴトニ悲シク、アレハアレダケノモノデ、ホカニ言イヨウゴザイマセヌ、以後、ボクノ文章読マナイデ下サイ。(『走らぬ名馬』/工業大学蔵前新聞/一九三六・七・二五/27歳)

2 文学以前と文学と
 文学において、「難解」はあり得ない。「難解」は「自然」の中にだけあるのだ。文学というものは、その難解な自然を、おのおの自己流の角度から、すぱっと斬っ(たふりをし)て、その斬り口のあざやかさを誇ることに潜んでいるのではないのか。(『難解』/日本浪漫派/一九三五・一〇/26歳)

3 幽霊のくやしさ
 むかし、江戸番町にお皿の数を数えるお菊という幽霊があった。なんどかぞえてもかぞえても、お皿の数が一枚だけ、たりないのである。私には、その幽霊のくやしさが、身にしみてわかった。(『めくら草紙』/新潮/一九三六・一/26歳)

4 象徴と比喩 (一)
 君に聞くが、サンボルでなければものを語れない人間の、愛情の細やかさを、君、わかるかね。(『一日の労苦』/新潮/一九三八・三/28歳)

5 象徴と比喩 (二)
 ……象徴と、比喩と、ごちゃまぜにしている(が)……比喩というものは、こうこうだから似ているじゃねえか、そっくりじゃねえか、笑わせやがる、そして大笑い。それだけものなのである。しかし、象徴というものは……なんの意味もない。まったくなんの意味もないのだ。空が青い。なんの意味もない。雲が流れる。なんの意味もない。それだけなのである。それに意味づける教師たちは、比喩だけを知っていて象徴を知らない。そうして生徒たちが、その教師の教えを信奉し、比喩だけを知っていて、象徴を知らない。(『高尾ざんげ』解説/一九四七記/四八・六/38歳)

6 象徴と比喩 (三) 
 さあ、なんと言ったらいいか。わからないかねえ。あれだよ。わからないかねえ。なんといっていいのか、ちょっと僕にも、などと、ひとりで弱っている姿を見ると、聞き手のほうでも、いい加減じれったくなって来る。近衛公が議会で、日本主義というのは、なんですか? と問われて、さあ、一口でこうと説明は、どうも、その、と大いに弱っていたようであったが、むりもないことと思った。
 象徴で行け。象徴で。
 そうなったら面白い。
 「日本主義とはなんでありますか。」
 「柿です。」この柿には意味がない。
 「柿ですか。それは、おどろいた。せめて窓ぐらいにしてもらいたい。」
 まさか、こんなばかげた問答は起こるまいが、けれどもこの場合柿にしろ、窓にしろ、これこれだからこうだ、という、いわば二段論法的な、こじつけではないわけだ。皮肉や諷刺ではないわけだ。そんないやらしい隠れた意味など寸毫もないわけだ。柿は、こんな大きさで、こんな色をして、しかも秋にみのるものであるから、これこれの意味であろうなど、ああ死ぬるほどいやらしい。象徴と比喩と、どうちがうか。それにさえきょとんとしている人がたまにあるのだから、言うのに、ほんとに骨が折れる。(『多頭蛇哲学』/あらくれ/一九三八・五/28歳)

7 象徴と比喩(四)
   タマクシゲ箱根ノ水海ケケレアレヤ二クニカケテ中ニタユタフ
 ……将軍家(注/源実朝)のお歌は、どれも皆そうでございますが、隠れた意味だの、あてつけだの、そんな下品な御工夫などは一つも無く、すべてただそのお言葉のとおり、それだけの事で……この箱根ノミウミのお歌なども、人によっては、このお歌にこそ隠された意味がある、将軍家が京都か鎌倉か、朝廷か幕府かと思いまどっている事を箱根ノミウミに事寄せておよみになったようでもあり、あるいは例の下司無礼の推量から、御台所さまと、それから或る若い女人といずれにしようか、などとばからしい、いろいろの詮議をなさるお人もあったようでございましたが……二所詣での途次ふとふりかえってみたあの箱根の湖は、まことにお歌のままの姿で、生きて心のあるもののようにたゆとうて居りまして……ただ、その思いだけでございます、云々。(『右大臣実朝』/単行/一九四三・九/34歳)

8 いやなら、よしな、である
 私は、私の作品と共に生きている。私はいつでも、言いたいことは、作品の中で言っている。他に言いたいことはない。だから、その作品が拒絶せられたらそれっきりだ。一言もない。
 私がAという作品を創る。読者が読む。読者は、Aを面白くないという。いやな作品だという。それまでの話だ。……
 いやなら、よしな、である。(『自作を語る』/月刊文章/一九四〇・九/31歳)

9 兵法
 文章の中の、ここの箇所は切り捨てたらよいものか、それとも、このままのほうがよいものか、途方にくれた場合には、必ずその箇所を切り捨てなければいけない。いわんや、その箇所に何か書き加えるなど、もってのほかというべきであろう。(『兵法』/日本浪漫派/一九三五・一一/26歳)

10 言いたいことが言えない、なぜ……
 ……この作家は、もうきょうで三日も沈吟をつづけ、書いてしばらくして破り、また書いては暫くして破り、日本は今、紙類に不足している時ではあるし、こんなに破っては、もったいないと自分でも、はらはらしながらそれでも、つい破ってしまう。
 言えないのだ。言いたいことが言えないのだ。言っていい事と言ってはならぬ事との区別が、この作家に、よくわからないのである。(『作家の像』/都新聞/一九四〇・四/30歳)

11 このような小説があったなら
 たらいの水が庭のくろ土にこぼれ、流れる。音もなく這(は)い流れるのだ。水到りて渠(きょ)成る。このような小説があったなら、……人口の極致と私は呼ぶ。(前掲『めくら草紙』/26歳)

12 フィクション (一)
 何だか、僕の小説が、あなたの身の上に似ていたそうですが、僕は小説には絶対にモデルを使いません。全部フィクションです。(『恥』/婦人画報/一九四二・一/32歳)

13 フィクション (二)
 いったい、小説の中に、「私」と称する人物を登場させる時には、よほど慎重な心構えを必要とする。フィクションを、この国には……それを作者の醜聞として信じ込み、上品ぶって非難、憫笑(びんしょう)する悪癖がある。たしかに、これは悪癖である。……
 次に物語る一編も、これはフィクションである。私は、昨夜どろぼうに見舞われた。そうして、それは嘘であります。そう断らなければならぬ私のばかばかしさ、ひとりで、くすくす笑っちゃった。
 ……私が、どろぼうの話をするに当たって、これだけの、ことわり文句が必要であったのである。(中略)ひとつのフィクションを物語るにあたっても、これだけの用心が必要なのである。フィクションをフィクションとして愛し得る人は、幸いである。けれども、世の中には、そんな気のきいた人ばかりも、いないのである。(『春の盗賊』/文芸日本/一九四〇・一/30歳)

14 フィクション (三)
 一人の遊蕩の子を描写しているゆえをもって、その小説を、デカダン小説と呼ぶのは、当たるまいと思う。私は何時でも、いわば、理想小説を書いて来たつもりなのである。(『デカダン抗議』/文芸世紀/一九三九・一一/30歳)

15 フィクション (四)
 ……経験もせぬ生活感情を、あてずっぽうで、まことしやかに書くほど、それほど私は不遜な人間ではない。いや、いや、才能が無いのかも知れぬ。自身、手さぐって得たところのものでなければ、絶対に書けない。確信の在る小さい世界だけを、私は踏み固めて行くより仕方がない。私は、自身の「ぶん」を知っている。戦線のことは、戦線の人に全部を依頼するより他は無いのだ。(『鴎』/知性/一九四〇・一/30歳)

16 私にとって小説であるもの
 私は、小説というものを、思いちがいしているのかも知れない。よいしょ、と小さい声で言ってみて、路のまんなかの水たまりを飛び越す。水たまりには秋の青空が写って、白い雲がゆるやかに流れている。水たまり、きれいだなあと思う。ほっと重荷がおりて笑いたくなり、この水たまりの在るうちは、私の芸術も拠りどころがある。この水たまりを忘れずに置こう。(前掲『鴎』/30歳)

17 芸術とは何ですか (一)
 「芸術とは何ですか。」
 「すみれの花です。」
 「つまらない。」
 「つまらないものです。」
   (『かすかな声』/帝国大学新聞/一九四〇・一一・二五/31歳)

18 芸術とは何ですか (二) 
 ・走ラヌ名馬。
 ・千代紙貼リマゼ、キレイナ小箱、コレ、何スルノ? ナンニモシナイ、コレダケノモノ、キレイデショ?(前掲『走ラヌ名馬』/27歳)

19 満州のみなさま
 満州のみなさま。……日本には、戦争を主として描写する作家も居りますけれど、また、戦争は、さっぱり書けず、平和の人の姿だけを書きつづけている作家もあります。きのう永井荷風という日本の老大家の小説集を読んでいたら、その中に、「下々の手前達が兎や角と御政事向の事を取沙汰致すわけでは御座いませんが、先生、昔から唐土(もろこし)の世には天下太平の兆(きざし)には綺麗な鳳凰とかいう鳥が舞い下ると申します。然し当節のように何も彼も一概に綺麗なものや手数のかかったもの無益なものは相成らぬと申してしまった日には、鳳凰なんぞは卵を生む鶏じゃ御座いませんから、いくら出て来たくも出られなかろうじゃ御座いませんか。(下略)」という一文がありました。……日本には、戦争の時には、ちっとも役に立たなくても、平和になると、のびのびと驥足(きそく)をのばし、美しい平和の歌を歌い上げる作家も、いるのだということを、お忘れにならないようにして下さい。日本は、決して好戦の国ではありません。みんな、平和を待望して居ります。(『三月三十日』/満州生活必需品会社機関誌/一九四〇・六/30歳)

20 花一輪に託して
・身振りは、小さいほどよい。花一輪に託して、自己のいつわらぬ感激と祈りを述べるがよい。きっと在るのだ。全然新しいものが、そこに在るのだ。……「待つ」という言葉が、いきなり特筆大書で、額(ひたい)に光った。何を待つやら。私は知らぬ。けれども、これは尊い言葉だ。(前掲『鴎』/30歳)

・私たちは、全く、次の時代の作家である。それは信じなければいけない。そうあるべく努力してみなければいけない。(『創作余談』/日本学芸新聞/一九三七・一二/28歳)

21 素材は、小説ではない
 素材そのままの作品が、「小説」として大いに流行している様子でありますが、私は時たま、そんな作品を読み、いつも、ああ惜しい、と思うのであります。口はばったい言い方ではありますが、私に、こんな素材を与えたら、いい小説が書けるのに、と思うことがあります。素材は小説ではありません。素材は、空想を支えてくれるだけであります。(『女の決闘』/月刊文章/一九四〇・一〜六/30歳)

22 心づくし
 文学において、最も大事なものは、「心づくし」というものである。「心づくし」といっても君たちにはわからないかも知れぬ。しかし、「親切」といってしまえば、身もふたもない。心趣(こころばえ)。心意気。心づかい。そう言っても、まだぴったりしない。つまり、「心づくし」なのである。作者のその「心づくし」が読者に通じたとき、文学の永遠性とか、あるいは文学のありがたさとか、うれしさとか、そういったようなものが初めて成立するものであると思う。(『如是我聞』/新潮/一九四八・三〜七/38歳)

23 心づくしと文学的真実
 人々は、念々と動く心の像のすべてを真実と見做してはいけません。自分のものでもない或る卑しい想念を、自分の生まれつきの如く誤って思い込み、悶々としている気弱い人が、ずいぶん多いようすであります。卑しい願望が、ちらと胸に浮ぶことは、誰にだってあります。時々刻々、美醜さまざまの想念が、胸に浮んでは消え、浮んでは消えて、そうして人は生きています。その場合に、醜いものだけを正体として信じ、美しい願望も人間にはあるという事を忘れているのは、間違いであります。念々と動く心の像は、すべて「事実」として存在はしても、けれども、それを「真実」として指摘するのは間違いなのであります。真実は、常に一つではありませんか。他はすべて信じなくていいのです。忘れていいのです。(前掲『女の決闘』/30歳)

24 心づくしと虚構と
 ……私は、嘘ばかりついている。けれども、一度だって君を欺いたことがない。私の嘘は、いつでも君に易々と見破られたではないか。ほんものの凶悪な嘘つきは、かえって君の尊敬している人の中にあるのかも知れぬ。あの人は、いやだ。あんな人にはなりたくないと反発のあまり、私はとうとう、本当の事をさえ、嘘みたいに語るようになってしまった。ささ濁り。けれども君を欺かない。底まで澄んでいなくても、私はきょうも、嘘みたいな、まことの話を君に語ろう。
 暁雲は、あれは夕焼から生まれた子だと。夕陽なくして、暁雲は生まれない。夕焼は、いつも思う。「わたくしは、疲れてしまいました。わたくしを、そんなに見つめてはいけません。わたくしを愛しては、いけません。わたくしは、やがて死ぬるからです。けれども、明日の朝、東の空から生まれ出る太陽を、必ずあなたの友にしてやって下さい。あれは私の、手しおにかけた子供です。まるまる太ったいい子です。」
 夕陽は、それを諸君に訴えて、そうして悲しくほほえむのである。そのとき諸君は夕焼を、不健康、退廃、などと暴言で罵り嘲うことが、できるであろうか。できるとも、と言下に答えて腕まくり、一歩まえに進み出た壮士ふうの男は、この世の大馬鹿野郎である。君みたいな馬鹿がいるから、いよいよ世の中が住みにくくなるのだ。(『善蔵を思う』/文芸/一九四〇・四/30歳)

25 二十世紀旗手の言葉
・撰ばれてあることの
   恍惚と不安と
   二つわれにあり
        ヴェルレエヌ
   (『葉』/鷭・第一集/一九三四・四/25歳)

・自分にとって、仕事が全部です。……作品を発表するという事は、……神に告白する事であります。そうして、もっと重大なことは、その告白によって神からゆるされるのではなくて、神の罰を受ける事であります。自分には、いつも作品だけが問題です。(『風の便り』の一部『旅信』/新潮/一九四一・一二/32歳)

・所詮は、言葉だ。やっぱり、言葉だ。すべては、言葉だ。(『古典風』/知性/一九四〇・六/30歳)

26 曳かれものの小唄
 曳かれものの小唄という言葉がある。痩馬(やせんま)に乗せられ刑場へ曳かれて行く死刑囚がそれでも自分のおちぶれを見せまいと、いかにも気楽そうに馬上で低吟する小唄の謂(い)いであって、ばかばかしい負け惜しみを嘲う言葉のようであるが、文学なんかも、みんなそんなものじゃないか。
 ……心のなかで呟く。ぼくは新しい倫理を樹立するのだ。美と英知とを規準にした新しい倫理を創るのだ。……そうして立ちあがったところで、さて、私には何が出来た。……何ひとつできなかった。立ちあがって、尻餅ついた。……そろそろと私の狂乱がはじまる。なんでもよい。人のやるなと言うことを計算なく行なう。きりきり舞い狂って……そうして私の「小唄」もこの直後からはじまるようである。(『敗北の歌』/日本浪漫派/一九三五・八/26歳)

27 ここまで努めて、すらだにも
 金槐集をお読みのひとは知っておられるだろうが、実朝のうたの中に、「すらだにも」なる一句があった。前後はしかと覚えておらぬが、あはれ、けだものすらだにも、云々というような歌であった。
 二十代の心情としては、どうしても「すらだにも」といわなければならぬところである。ここまで努めて、すらだにも、と口に出したくなって来るではないか。実朝を知ること最も深かった真淵、国語をまもる意味にて、この句を、とらず。いまになっては、いずれも佳きことをしたと思うだけで、格別、真淵をうらまない。(『すらだにも』/作品/一九三六・一/27歳)
    〈注〉・ものいはぬ四方(よも)のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ(実朝)
       ・すらか、だにか、一つこそいへ(真淵評)


28 実朝をわすれず
 実朝をわすれず。

 伊豆の海の白く立ち立つ浪がしら。
 塩の花ちる。
 うごくすすき。

 蜜柑畑。
   (“HUMAN LOST”/一九三七・四/27歳)

29 くるしい時に
 くるしい時には、かならず実朝を思い出す様子であった。いのちあらば、あの実朝を書いてみたいと思った。(『鉄面皮』/文学界/一九四三・四/33歳)

30 何かどこか、おかしくはないか
 (文学)作品を、精神修養の教科書として取り扱われたのではたまったものじゃない。猥雑なことをかたっていても、その話し手がまじめな顔をしているから、それは、まじめな話である。笑いながら厳しゅくのことを語っていても、それは、笑いながら語っているから、ばかばかしい嘘言である。おかしい。私が夜おそく通りがかりの交番に呼びとめられ、いろいろうるさく聞かれるから、すこし高めの声で、自分は、自分は、何々であります、というあの軍隊式の言葉で答えたら、態度がいいとほめられた。(『一歩前進二歩退却』/文筆/一九三八・八/29歳)

31 芸術の効用
 私だって、薬を飲むときにはまずその薬品に添布されている効能書をたんねんに読んで、……薬品を服用し、たちどころに効めが現われたような錯覚に落とされて、そうして満足している状態……効能書は、なければ、いけないものなのでしょうね。
 けれども芸術は、薬であるか、どうか、ということになると、少し疑問も生じます。効能書のついたソーダ水を考えてみましょう。胃の為にいいという、交響楽を考えてみましょう。サクラの花を見に行くのは、蓄膿症をなおしに行くのでは、ないでしょう。私はこんなことを考えます。芸術に、意義や利益の効能書を、ほしがる人は、かえって、自分の生きていることに自信を持てない病弱者なのだ。たくましく生きている職工さんなどは、いまこそ芸術を、美しさを、気まま純粋に、たのしんでいるのではないか。……こういう人たちには、効能書の必要は、あまりないようですね。安心なものです。効能書を、必要とするのは、あなた方(おゆるし下さい)病弱者だけなのです。しっかりして下さい。(『正直ノオト』/帝国大学新聞/一九三九・五・一五/30歳)

32 作家御十歳の折の文章
 作家の、書簡、手帖の破片、それから、作家御十歳の折の文章、自由画。私には、すべてくだらない。……(個人の私生活)あかの他人のかれこれ容喙すべき事がらではない。……読者あるいは、諸作家の書簡集を読み、そこに作家の不用意きわまる素顔を発見したつもりで得々としているかも知れないが、彼らがそこでいみじくも、つかまされたものは、この作家もまた一日に三度三度のめしを食べた……等々の平俗な記録にすぎない。……それにもかかわらず、読者は、一度つかんだ鬼の首を離そうとせず、ゲエテは……プルウストだって……孤蝶と一葉とはどれくらいの仲だったのかしら。そうして、作家が命をこめた作品集は、文学の初歩的なものとしてこれを軽んじ、もっぱら日記や書簡集だけをあさり回るのである。(『書簡集』/日本浪漫派/一九三五・一一/26歳)

33 一ばん売れて二千五百部
・私の今までの十冊ちかい創作集のうちで、二千五百部の出版が最高である。(前掲『自作を語る』/31歳)
・『晩年』は初版が五百部くらいで、それからまた千部くらい刷ったはずである。『女生徒』は初版が二千で、それが二箇年経って、やっと売切れて、今年の初夏にはさらに千部増刷される事になった。(『晩年と女生徒』/文筆/一九四一・七/32歳)

34 民主主義踊りなどする気はない
・このごろはまた文壇は新型便乗、ニガニガしき事かぎりなく、この悪傾向ともまた大いに戦いたいと思っています。私は何でも、時を得顔のものに反対するのです。(尾崎一雄宛書簡/一九四六・一・一二)

・ジャーナリズムにおだてられて民主主義踊りなどする気はありません。(井伏鱒二宛書簡/一九四六・一・一五)

・このごろの日本、あほらしい感じ、馬の背中に狐の乗ってる姿……教養の無いところに幸福なし。教養とは、まず、ハニカミを知る事なり。(堤重久宛書簡/一九四六・一・二五/36歳)

35 十五年戦争? 二十年戦争?
 いったい私たちの年代の者は、過去二十年間、ひでえめにばかり遭って来た。それこそ怒濤の葉っぱだった。……はたちになるやならずの頃に、既に私たちのほとんど全部が、れいの階級闘争に参加し、或る者は学校を追われ、或る者は自殺した。……何が何やら、あの頃の銀座、新宿のまあ賑い、絶望の乱舞である。つづいて満州事変。五・一五だの、二・二六だの、何の面白くもないような事ばかり起こって、いよいよ支那事変になり、私たちの年頃の者は皆戦争に行かなければならなくなった。事変はいつまでもぐずぐずつづいて、……こんどは敵は米英という事になり、日本の老若男女すべてが死ぬ覚悟を極めた。
 実に悪い時代であった。その期間に、愛情の問題だの、信仰だの、芸術だのと言って、自分の旗を守りとおすのは、実に至難の業であった。この後だって楽じゃない。こんな具合じゃ仕様が無い。戦争時代がまだよかったなんて事になると、みじめなものだ。うっかりすると、そうなりますよ。(『十五年間』/文化展望/一九四六・四/36歳)

36 権力をえる? 権力のがわに立つ?
 芸術は、命令することが、できぬ。芸術は、権力を得ると同時に死滅する。(前掲『善蔵を思う』/30歳)

37 サロン思想
・いまではもう、社会主義さえ、サロン思想に堕落している。私はこの時流にもまたついて行けない。(前掲『十五年間』/一九四六・四/36歳)

・お上品なサロンは、人間の最も恐るべき堕落だ。しからば、どこの誰をまずまっさきに糾弾すべきか。自分である。私である。(前掲『十五年間』)

38 象徴と比喩(追補)
・人が死ぬほど恥ずかしがっているその現場に平気で乗り込んで来て、恥ずかしくありませんかと聞ける奴あ悪魔だ。(『春の枯葉』/人間/一九四六・九/37歳)

・私は東京において、三人の女房に逃げられました。最初の女房もひどい奴でしたが、二番目のは、なおたちが悪く、三番目のは、逃げるどころか、かえって私を追い出しました。(『男女同権』/改造/一九四六・一二/32歳)




 太宰治の文学的イデオロギーの底流
  
――解説に代えて

 ここにみる太宰の発言が、誰へ向けてのアピールであったのかを探る手がかりを求めて、各項ごとにその掲載誌(紙)名や署名を注記しておいた。併わせて、発表の年月を。取材の多くは随想や書簡などに拠っている。
 語録を編むというかたちのこの取材は、そのエッセイふうの比較的直截な叙述の個々に即して、その側面から、この作家の文学的イデオロギーの底流になっているものを読み取ろうとする試みである。そういう目的からいって、33の項の、〈創作集の発行部数〉の数字が示すものは、あまりたいした意味を持たないかもしれない。が、それも見ようによっては、日中戦争の末期近くまでの太宰文学が、階級的にも世代的にもかなり狭く限られた、少数の読者へ向けての《心づくし》の文学(222324)以外ではなかった、という点に関係する数字なのかもしれない。少なくとも、それは、ただ単に、その頃のこの作家の知名度の低さを語るだけのものではないだろう。

 限られた少数の読者へ向けての、と言ったが、むしろそれは、限られた特定の世代へ向けての《心づくし》の文学だ、というふうに言い換えられるべきなのだろう。(読者数というか愛読者数というのは、その世代の文学人口を中軸にして考えられる読者人口ということ以外ではない。)その特定の世代というのは、まずはこの作家が言うところの「怒濤の葉っぱ」の世代(35)のことである。「はたちになるやならずの頃に(中略)階級闘争に参加し、或る者は投獄され、或る者は学校を追われ、或る者は自殺した」その世代のことである。
 その後のカーキ色一色の、いわゆる〈暗い谷間〉の時代にあって、彼らの或る者たちは、時としてしばしば自棄的な絶望感や自虐に陥りながらも、しかもあくまで「自分の旗を守り通そう」(35)とした。太宰治は、そうした人びとの中の一人、その最も代表的な一人――二十世紀旗手(25)だった、といえよう。「撰ばれてあることの/恍惚と不安と/二つわれにあり」(『葉』)
 この二十世紀旗手の傷心と心づくしの歌声を、ほかの誰よりも必要としていたのは、やはりこの作家と同世代の人びとであったろうか。あるいはまた、(学生層に例を求めていえば)彼らが卒業するのと入れ替わるようにして大学の門をくぐった、後続の暗い谷間の世代の若者たちであったろうか。
 この暗い谷間の世代は、自分たちが学校を出るか出ない頃に二・二六事件によって大きな衝撃を受け、やがてその後中国戦線に兵士としてその多くが駆り立てられていった世代である。怒濤の葉っぱの世代と、谷間の世代。暗い谷間の時期におけるこの両者に共軛するメンタリティーは、何らかの抽象的な思想への情熱を内心に掻き立てながら、曲がりなりにも自分の旗を守り抜こうとしていた点でもあろうか。そこで、ともかく、自分自身の経験と実感に即した言いかたをゆるしてもらえるなら、これら二つの世代こそが太宰文学本来の読者基盤であったという判断になるわけだが、最終の判断はこの稿を読んでいてくださる方々に委ねたい。

 ところで、文学は曳かれものの小唄だ(26)、というのは、二・二六事件以前の太宰文学の基本的なというか特徴的な発想・想念の一つだが、底流においてその水脈につながりながらも、実朝の「すらだにも」の歌について語るあたりになると(27/一九三六・一)、実朝も真淵も「いずれも佳きことをしたと思う」といった、あるゆとりと視野の幅を示すようになる。それを、この作家の転機を示すものだといって線引きするのはオーヴァーにすぎるが、ただ、一九三六年の二・二六事件の一時期に彼の想念の上にある変化が見られることは確かなようだ。
 が、しかし、その後も「実朝をわすれず」(28/1937・四)と語り、「くるしい時には、かならず実朝を思い出す」(29)と語りつづける彼の胸の底に消えることなく存続していたのは、依然やはり、「ここまで努めて、すらだにも」(27)のあの狂おしい思いであったようである。であればこそ、かなり後になってからでも、「いやなら、よしな、である。」(/一九四〇・九)といった、吐き捨てるような怒りの言葉も彼の口をついて出て来るわけなのだ。そして、それが、戦後のサロン思想への批判(37)や、最晩年における志賀直哉批判(『如是我聞』)などに太い線でつながっていることを思うと、「ここまで努めて、すらだにも」の 根性は、彼の生涯の文学的イデオロギーの底流をつらぬく精神のエネルギーであったような気がする。

 ところで、「実朝をわすれず」とこの作家が語ったとき(28)、彼がそこに思ってみていた実朝の歌というのは、おそらくは「大海の」の歌であったろう。「大海の磯もとどろに よする波われてくだけて さけて散るかも」というあの歌である。美しくも荒々しく狂おしいこの歌は、そこでは(28)、「実朝をわすれず。」「伊豆の海の白く立ち立つ浪がしら。/塩の花ちる。/うごくすすき。」そして、「蜜柑畑。」という、情熱的でありながらも内心の激情は抑えた、そのような世界への移調、再構成においてつかまれている。先刻指摘したような、ゆとりと視野の幅以上のものがそこに見られる、と言っていいだろう。
 そのような視野の幅がさらにいっそうの広がりを見せ、その形象的思索の視点に確かさを増し加えたのは、ところで一九三九年から四〇年段階へかけてのことではなかったか、と私は思ってみている。広汎な民衆文学としての視点・視野の獲得である。これは、もう、一つのエポックだと言っていいかと思う。
 かつての『晩年』の世界などに散見するような、溜息まじりの呟くような表現は今は影をひそめて来ている。「ひそひそ聞こえる。なんだか聞こえる」(『鴎』/一九四〇・一)ものに耳を澄ましつつ、民衆の明日を信じ、「花一輪に託して」じっと耐えてその日を「待とう」(20/同右)というのである。「待つ という言葉が、いきなり特筆大書で、額に光った。何を待つやら。私は知らぬ。けれども、これは尊い言葉だ。」(同右)
 『鴎』と前後して発表された、『心の王者』(三田新聞/一九四〇・二)という短い随想などを読むと分かるが、この時期のこの作家の眼は、ひと回りもそれ以上もとししたの若い「今の学生」などにも向けられている。谷間の世代などとは決定的に違って、多分に厭戦的であったかもしれないが反戦的ではない、転向の苦悩などとは無縁の世代である。「学生は思索の散歩者」であるべきなのに、彼らは抽象的な思想への情熱を持とうとはしない。が、それは「学生みずからの罪ではない。」「誰かに、そう仕向けられている」のだ。そう思うと、「今の学生諸君の身の上が、なんだか不憫」だ、云々。
 このような、世代を越えての連帯の《心づくし》――おそらくは、そのことが、先刻指摘したような、民衆文学としての視点・視野の獲得ということにつながっているのだろう。
 「信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。……私は、なんだか、もっと恐ろしく大きなもののために走っているのだ。」(『走れメロス』/一九四〇・五)というメロスの言葉は、そこでこの時期のこの作家の抱く《心づくし》の想念の根底にある、文学的イデオロギーの骨骼を示すものになっている、と言えよう。
 もっと恐ろしく大きいもののために――あえていえば、ふつふつと煮えたぎる抽象的な思想への情熱である。その情熱を失ったとき、「社会主義さえ、サロン思想に堕落」し(37)、芸術は死滅する(36)ほかないような、そのような抽象的な思想に対する情熱である。太宰治の文学的イデオロギーの身上は、ほかでもない、彼の世代の「怒濤の葉っぱ」の体験を通して逆に彼自身しっかと身につけた、この抽象的な思想への情熱を絶えず燃やしつづけていた点に求められるだろう。



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