荒川有史著作一覧 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
*文学教育研究者集団草創期からのメンバーであり、また永年にわたり同会の事務局長として会の運営・研究活動を牽引した、荒川有史氏の著作一覧である。 *著作については、著者自身の書き残したメモを中心としながら、そこに洩れたものをも可能な範囲で収集してここに収めた。 *表中の「共」はその著書が「共著」であることを示す。 【Ⅰ 単行書 】
【Ⅱ 雑誌・紀要掲載論文等】 |
西暦 | 論 文・記 事 | 掲 載 誌(発表年月) | |
1956 | 古典論 | 法政大学卒業論文(1956.1) | |
1957 | 共 | 典型と主観 | 『広場』16(1957.10) |
共 | 詩について――典型と主観 | 『広場』17(1957.11) | |
共 | 詩と散文について――典型と主観(3) | 『広場』18(1957.12) | |
祇王御前と平清盛――日本古典の女性像 | 『広場』18(1957.12) | ||
1958 | 共 | 読書の一角から | 『広場』20(1958.3) |
共 | 改訂・学習指導要領(国語科)の問題点 | 『文学と教育』 創刊号(1958.10) | |
国語教育の機能的本質と役割 | 『文学と教育』2(1958.11) | ||
1959 | 人間の善意というもの――『好色五人女』の一側面 | 『広場』25(1959.1) | |
仲間の体験をくぐるということ――科学と文学との二つの軸から | 『文学と教育』4(1959.2) | ||
仲間の体験をくぐるということ――科学と文学・その対象と方法 | 『文学と教育』5(1959.3) | ||
共 | 西鶴研究の問題点 | 『西鶴』 創刊号( 1959.4) | |
戦争体験への反省 | 『広場』26(1959.4) | ||
集団的思考を支えるもの | 『文学と教育』11(1959.10) | ||
古典教育の課題 | 『文学と教育』13(1959.12) | ||
1960 | 改定指導要領の文学観 | 『文学と教育』15(1960.4) | |
共 | 作家の内部 | 『文学と教育』16(1960.6) | |
共 | 全面発達への志向と国語教育 | 『文学と教育』17(1960.8) | |
ことばと認識――文学教育の観点から | 『文学と教育』18(1960.12) | ||
1961 | 第十次全国教研 国語分科会の問題点 | 『文学と教育』19(1961.4) | |
国語教育こんごの方向 | 『生活教育』(1961.4) | ||
コトバと認識――第二信号系理論にふれて | 『文学と教育』20(1961.5) | ||
国木田独歩「馬上の友」の教材研究 | 『国語教育』32(1961.8) | ||
第二信号系理論をふまえた国語教育 | 『生活教育』(1961.8) | ||
国語教科書批判の視点 | 『日本文学』(1961.9) | ||
文学教育論への反省 | 『文学と教育』22(1961.11) | ||
1962 | 波多完治著『第二信号系理論と国語教育』の課題 | 『国語教育』37(1962.1) | |
国語教育今日の課題 | 『生活教育』(1962.2) | ||
波多野理論の新しい展開と芸術教育 | 『文学と教育』23(1962.2) | ||
文学教育の展開 | 『作文と教育』(1962.3) | ||
文学にあらわれた現代ソヴェトの子ども像 | 『生活教育』(1962.7) | ||
第二信号系理論と文学教育 | 『生活教育』(1962.8) | ||
共 | 〈シンポジウム〉文学教育の可能性 | 『文学と教育』25(1962.8) | |
国語教育への反省と授業改造 | 『生活教育』(1962.10) | ||
読書における新しさの発見 | 『学校図書館』(1962.10) | ||
1963 | ワロン著『認識過程の心理学』の問題点 | 『生活教育』(1963.3) | |
国語教育は何をどう教えるか | 『日本文学』(1963.4) | ||
第二信号系理論と国語教育の実践 | 『生活教育』(1963.5) | ||
熊谷孝著『芸術とことば』の位置 | 『生活教育』(1963.6) | ||
第二信号系理論の課題 | 『ソビエト教育科学』(1963.10) | ||
ポーシャの理論とシャイロックの理論 | 『国語教育』(1963.10) | ||
教材の構造と集団思考の発達過程 | 『授業研究』(1963.12) | ||
もとになる体験の形成 | 『国語教育』(1963.12) | ||
1964 | 学習指導体系 井原西鶴「大晦日はあはぬ算用」 | 『文学と教育』32(1964.3) | |
教科研 読み方教育の理論的検討 | 『国語教育』(1964.8) | ||
1965 | 文学のコトバ | 『児言研国語』4(1965.5) | |
媒介の視点――井伏「丹下氏邸」を中心に | 『三省堂・国語教育』(1965.5) | ||
国語の授業における発見 | 『現代教育科学』(1965.7) | ||
継承すべき民族精神 | 『文学と教育』34(1965.8) | ||
発達と文学教育 | 『文学と教育』35(1965.10) | ||
文学の眼をそだてるもの | 『文学と教育』36(1965.12) | ||
悪意と善意――奥田靖雄氏の「批判」をめぐって | 『文学と教育』36(1965.12) | ||
1966 | 独断と批判のあいだ | 『文学と教育』38(1966.5) | |
太宰治『女生徒』の授業をどうくむか | 『文学と教育』39(1966.7) | ||
国語の授業と道徳の授業 | 『国語教育』(1966.11) | ||
1967 | 〈私の文学〉の成立――「トロッコ」との対話をとおして | 『文学と教育』42(1967.1) | |
『山椒大夫』の魅力をさぐる | 『文学と教育』45(1967.7) | ||
文教研第15回館山集会総括 | 『文学と教育』46(1967.9) | ||
1968 | 文教研理論の形成 | 『文学と教育』48(1968.1) | |
文教研一年間のあゆみ | 『文学と教育』48(1968.1) | ||
文教研理論への模索 | 『文学と教育』49臨時増刊(1968.1) | ||
共 | 〈シンポジウム〉国防意識に結びつく改訂学習指導要領の問題点 | 『文学と教育』49臨時増刊(1968.1) | |
日教組全国教研 国語分科会の潮流 | 『文学と教育』50(1968.3) | ||
わたしたちはなぜ文体を問題にするか | 『文学と教育』53(1968.8) | ||
共 | 〈シンポジウム〉文体づくりの国語教育と総合読み | 『文学と教育』54(1968.10) | |
文体づくりの国語教育 | 『国語教育』121(1968.11) | ||
『牛づれ兵隊』――児童文学独自の位置 | 『文学と教育』55(1968.12) | ||
1969 | 形象――文教研基本用語解説 | 『文学と教育』56(1969.2) | |
国語教育で何をするか――印象の追跡としての総合読み | 『文学と教育』59(1969.8) | ||
印象の追跡としての総合読み | 『文学と教育』60(1969.10) | ||
言語観・文学観の変革と国語教育 | 『国語教育』133(1969.11) | ||
立体的印象への変換――鷗外「最後の一句」 | 『文学と教育』61(1969.12) | ||
1970 | 芥川「六の宮の姫君」と私 | 『文学と教育』63(1970.4) | |
共 | 〈シンポジウム〉文学教材をこう考える | 『国語教育』 (1970.5) | |
『文体づくりの国語教育』への文教研的追跡 | 『文学と教育』64(1970.6) | ||
「最後の一句」をめぐる覚え書的文教研史 | 『文学と教育』65(1970.8) | ||
文体づくりの国語教育――第19回全国集会 | 『国語教育』145(1970.11) | ||
1971 | 『文体づくりの国語教育』をめぐって | 『文学と教育』67(1971.1) | |
〈シンポジウム〉全国教研で何が問題になったのか | 『文学と教育』68(1971.3) | ||
現代文学としての井伏文学 | 『文学と教育』69(1971.5) | ||
共 | 〈シンポジウム〉戦後文学教育運動の渦の中で | 『文学と教育』70(1971.8) | |
近代主義と文学・文学教育 | 『文学と教育』71(1971.11) | ||
文体づくりの国語教育をめざして――第20回全国集会 | 『国語教育』158(1971.12) | ||
1972 | 日教組第20次教研だ国語分科会の基本的潮流 | 『文学と教育』72(1972.1) | |
国語教育の原点とは何か | 『文学と教育』74(1972.4) | ||
芥川「奉教人の死」の総合読み | 『文学と教育』75(1972.6) | ||
基本過程とは何か/読みの構造 | 『文学と教育』76(1972.8) | ||
芥川文学をどう教材化するか――第21回全国集会 | 『国語教育』170(1972.11) | ||
「万の文反古」(井原西鶴)の問題点 | 『国立音楽大学研究紀要』7(1972.12) | ||
1973 | 芥川の言語観・文学観ノート | 『文学と教育』79(1973.3) | |
共 | 〈シンポジウム〉芥川「偸盗」をめぐって | 『文学と教育』79(1973.3) | |
幻の名著『芸術の論理』の誕生 | 『文学と教育』80(1973.5) | ||
母国語の原点ををさぐる | 『文学と教育』81(1973.6) | ||
歴史小説とは何か | 『文学と教育』82(1973.8) | ||
共 | 〈対談〉森鷗外「最後の一句」 | 『中学の言語教育』(1973.9) | |
私の読書 | 『文学と教育』83(1973.11) | ||
文学教育の原点をさぐる――第22回全国集会 | 『国語教育』185(1973.12) | ||
1974 | 共 | 〈座談会〉国語教育はこれでいいのか | 『文学と教育』84(1974.1) |
太宰治「葉」の総合読み | 『文学と教育』85(1974.3) | ||
歴史小説の再検討 | 明星学園高校国語科編『紀要国語』1(1974.4) | ||
太宰文学の研究案内 | 『文学と教育』87(1974.8) | ||
総合読みとしての文学史の方法 | 『文学と教育』88(1974.9) | ||
芥川龍之介から太宰治へ――第23回全国集会 | 『国語教育』197(1974.11) | ||
1975 | 共 | 〈てい談〉言語観と母国語意識の変革を | 『文学と教育』90(1975.1) |
共 | 〈座談会〉「右大臣実朝」と取組んで | 『文学と教育』91(1975.5) | |
太宰文学の成立を触発したもの | 『文学と教育』93(1975.8) | ||
文学史の中の太宰治――第24回全国集会 | 『国語教育』211(1975.11) | ||
1976 | 文学史の方法 | 『国立音楽大学研究紀要』10(1976.1) | |
共 | 〈座談会〉文教研理論形成史(一) | 『文学と教育』95(1976.2) | |
共 | 〈座談会〉文教研理論形成史(二) | 『文学と教育』96(1976.5) | |
「さざなみ軍記」と「孫氏」のことなど | 『文学と教育』96(1976.5) | ||
「さざなみ軍記」論ノート | 『文学と教育』97(1976.8) | ||
共 | 〈座談会〉文教研理論形成史(三) | 『文学と教育』97(1976.8) | |
井伏文体の成立 | 『文学と教育』98(1976.11) | ||
井伏文学の成立――第25回全国集会 | 『国語教育』225(1976.11) | ||
1977 | 共 | 〈座談会〉文教研理論形成史(四) | 『文学と教育』99(1977.1) |
熊谷孝先生著『岐路に立つ国語教育――国語教育評論集』出版によせて | 『文学と教育』100(1977.6) | ||
「富嶽百景」の読みの前提 | 『文学と教育』101(1977.8) | ||
文学教育論の課題 | 『日本文学』(1977.9) | ||
「富嶽百景」の総合読み | 『文学と教育』102(1977.11) | ||
文学史を教師の手に――井伏鱒二と太宰治――第26回全国集会 | 『国語教育』240(1977.11) | ||
1978 | 太宰治の随想 | 『文学と教育』103(1978.2) | |
「さざなみ軍記」論ノート――古典平家との対話を基底に | 『国立音楽大学研究紀要』12(1978.3) | ||
「かるさん屋敷」「安土セミナリオ」の総合読み | 『文学と教育』104(1978.5) | ||
「かるさん屋敷」改稿・その他 | 『文学と教育』105(1978.8) | ||
長編小説にどうアプローチするか | 『文学と教育』106(1978.11) | ||
文学史の中の井伏鱒二と太宰治――第27回全国集会 | 『国語教育』254(1978.11) | ||
芥川文学における“迷信”との対決 | 『明星の国語教育』4(1978.12) | ||
1979 | 私の教室・一つの証言 | 『文学と教育』107(1789.5) | |
「かるさん屋敷」論ノート――長編小説における対話の構造 | 『国立音楽大学研究紀要』13(1979.3) | ||
「護持院原の敵討」の総合読み | 『文学と教育』108(1979.5) | ||
母国語教育としての文学教育を | 『国語の授業』32(1979.6) | ||
文学教育理論史の素描 | 『文学と教育』109(1979.8) | ||
文学教育の原点を問う | 『日本文学』(1979.9) | ||
私の太宰治論――鷗外につながる一つの文学系譜 | 『文学と教育』110(1979.11) | ||
森鷗外の歴史小説――第28回全国集会 | 『国語教育』268(1979.11) | ||
1980 | 文教研の初心 | 『文学と教育』112(1980.5) | |
ジャンル論と授業の視点 | 『文学と教育』113(1980.8) | ||
ジャンル論と授業の視点――教材化の面から | 『文学と教育』114(1980.11) | ||
文学史を教師の手に――第29回全国集会 | 『国語教育』281(1980.11) | ||
1981 | 共 | 〈座談会〉西鶴の発見 | 『文学と教育』115(1981.2) |
西鶴と近松との間 | 『国立音楽大学研究紀要』15(1981.3) | ||
西鶴文学の課題 | 『文学と教育』116(1981.5) | ||
文学史の中の近世と近代 | 『文学と教育』117(1981.8) | ||
1982 | 文学史一九二九年――中野重治の文学を射程において(その一) | 『文学と教育』119(1982.2) | |
西鶴文学研究史 〈戦後その一〉~〈戦後その九〉 | 『国立音楽大学研究紀要』 16(1981.3) ~同 24(1990.3) |
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文学史一九二九年(その二) | 『文学と教育』120(1982.5) | ||
文芸研方式――二元論的扱いの危険性 | 『文芸教育』36(1982.8) | ||
「コシャマイン記」(鶴田知也)と「若い学者」(島木健作)が志向するもの | 『文学と教育』122(1982.11) | ||
1983 | 文教研24年の軌跡 | 『文学と教育』123(1983.2) | |
島木健作「再建」の世界(その一) | 『文学と教育』124(1983.5) | ||
島木健作「再建」の世界(その二) | 『文学と教育』125(1983.8) | ||
文学的事象としての大逆事件――徳冨蘆花「謀叛論」を中心に | 『文学と教育』126(1983.11) | ||
1984 | 文学的事象としての大逆事件(その二) | 『文学と教育』127(1984.2) | |
『生活の探求』論争史を中心に | 『文学と教育』128(1984.5) | ||
井伏文学の周辺 一九三八 | 『文学と教育』129(1984.8) | ||
共 | 〈シンポジウム〉「黒い雨」の再評価 | 『文学と教育』129(1984.8) | |
文学教師の方向感覚――その資質と条件を問い直す | 『文学と教育』130(1984.11) | ||
1985 | 共 | 〈ゼミナール〉「多甚古村」の印象の追跡 | 『文学と教育』131(1985.2) |
母国語ノート | 『文学と教育』132(1985.5) | ||
共 | 〈シンポジウム〉文芸認識論の諸問題 | 『文学と教育』132(1985.5) | |
対話の条件 | 『文学と教育』133(1985.7) | ||
戦争の現実と太宰治 | 『文学と教育』134(1985.11) | ||
1986 | 戦争の現実と太宰治――第34回全国集会 | 『実践国語教育情報』4-1(1986.1) | |
なぜ、いま、太宰治か(その一) | 『文学と教育』135(1986.2) | ||
なぜ、いま、太宰治か(その二) | 『文学と教育』136(1986.5) | ||
歴史の曲り角の証言――母国語ノート 2 | 『文学と教育』137(1986.7) | ||
共 | 〈ゼミナール〉太宰治「右大臣実朝」 | 『文学と教育』138(1986.11) | |
1987 | 日本人としての存在証明――母国語ノート 3 | 『文学と教育』139(1987.2) | |
日本語の壁――母国語ノート 4 | 『文学と教育』140(1987.5) | ||
志賀の日本語・芥川の日本語――母国語ノート 5 | 『文学と教育』141(1987.7) | ||
通説〈言文一致〉の再検討 | 『文学と教育』142(1987.11) | ||
共 | 「右大臣実朝」再説 | 『文学と教育』142(1987.11) | |
1988 | 太宰の文体的発想と作品形象 | 『文学と教育』143(1988.2) | |
連想・読書雑感――母国語ノート・その六 | 『文学と教育』144(1988.5) | ||
共 | 〈ゼミナール〉上田秋成「菊花の約」を読む | 『文学と教育』144(1988.5) | |
共 | 印象の追跡 井原西鶴の「人には棒振虫同然に思はれ」を読む | 『文学と教育』145(1988.7) | |
1989 | 関口安義著『芥川龍之介 実像と虚像』を読む | 『文学と教育』147(1989.3) | |
西鶴文学研究史――戦後〈その八〉 | 『国立音楽大学研究紀要』23(1988.3) | ||
〈私の教室〉 清新の柔軟体操――講義のための準備あれこれ | 『文学と教育』148-149(1989.7) | ||
西鶴文学の展開にみる、鑑賞体験の変革と文学的イデオロギーの深化 | 『文学と教育』150(1989.11) | ||
1990 | 〈インターナショナル〉への旅 | 『文学と教育』151(1990.3) | |
西鶴文学研究史だ戦後〈その九〉 | 『国立音楽大学研究紀要』24(1990.3) | ||
〈私の教室〉 若い魂の文体反応――芥川文学を通路として | 『文学と教育』152(1990.6) | ||
共 | 〈変形シンポジウム〉「葉」の虚構性 | 『文学と教育』152(1990.6) | |
私の教室 なぜ、いま、母国語か | 『文学と教育』153(1990.7) | ||
共 | 「丹下氏邸」の虚構のあり方 | 『文学と教育』153(1990.7) | |
表現と表現理解と――日常性・科学性・芸術性 | 『文学と教育』154(1990.11) | ||
1991 | 「好色一代男」にみる表現の特性 | 『国立音楽大学研究紀要』25(1991.3) | |
〈私の教室〉 若い魂にみる文体反応の軌跡――ふたたび芥川龍之介「地獄変」をめぐって | 『文学と教育』155(1991.5) | ||
〈私の教室〉 日米学生気質をめぐって | 『文学と教育』156(1991.7) | ||
現代史としての文学史 | 『文学と教育』157(1991.11) | ||
1992 | 「女殺油地獄」〈その一〉――舞台形象への道筋をさぐる | 『文学と教育』158(1992.3) | |
「好色一代男」の世界 | 『国立音楽大学研究紀要』26(1992.3) | ||
「女殺油地獄」〈その二〉――舞台形象への道筋をさぐる | 『文学と教育』159(1992.7) | ||
追悼・熊谷孝先生/切り離せないハウスとの関係 | 『セミナー・ハウス ’92秋』1281992.10) | ||
熊谷孝の世界・西鶴世代の発見 | 『文学と教育』160(1992.12) | ||
熊谷孝・略年譜と著作一覧 | 『文学と教育』160(1992.12) | ||
1993 | 「西鶴諸国ばなし」にみる説話と小説の間 | 『国立音楽大学研究紀要』27(1993.3) | |
〈私の教室〉 クマさんの教室風景 | 『文学と教育』161(1993.4) | ||
〈私の教室〉 クマさんの教室風景 その二 | 『文学と教育』162(1993.7) | ||
〈私の教室〉 芥川龍之介「芭蕉雑記」の教材化(一) | 『文学と教育』163(1993.11) | ||
1994 | 〈私の教室〉 芥川龍之介「芭蕉雑記」の教材化(二) | 『文学と教育』164(1994.3) | |
近世小説としての「好色五人女」 | 『国立音楽大学研究紀要』28(1994.3) | ||
〈私の教室〉 芥川龍之介「芭蕉雑記」の教材化(三) | 『文学と教育』165(1994.6) | ||
〈私の教室〉 芥川龍之介「芭蕉雑記」の教材化(四) | 『文学と教育』166(1994.8) | ||
〈私の教室〉 芥川龍之介「芭蕉雑記」の教材化(五) | 『文学と教育』167(1994.11) | ||
1995 | 〈私の教室〉 芥川龍之介「芭蕉雑記」の教材化(六) | 『文学と教育』168(1995.3) | |
〈私の教室〉 芥川龍之介「芭蕉雑記」の教材化(七) | 『文学と教育』169(1995.6) | ||
西鶴――人間喜劇の文学 | 『文学と教育』170(1995.8) | ||
西鶴――人間喜劇の文学(二) | 『文学と教育』171(1995.11) | ||
1996 | 西鶴――人間喜劇の文学(三) | 『文学と教育』172(1996.3) | |
西鶴――人間喜劇の文学(四) | 『文学と教育』173(1996.6) | ||
児童文学と成人文学と | 『文学と教育』174(1996.8) | ||
文教研運動の原点をさぐる | 『文学と教育』175(1996.11) | ||
1997 | 児童文学と成人文学 | 『文学と教育』176(1997.3) | |
芭蕉俳論を読む〈その一〉 | 『文学と教育』177(1997.6) | ||
子ども・共同体・説話 | 『文学と教育』178(1997.8) | ||
芭蕉俳論を読む〈その二〉 | 『文学と教育』179(1997.11) | ||
1998 | 芭蕉俳論を読む〈その三〉 | 『文学と教育』180(1998.3) | |
芭蕉俳論を読む〈その四〉 | 『文学と教育』181(1998.6) | ||
さようなら 岡宏子先生 | 『文学と教育』181(1998.6) | ||
芭蕉俳論を読む〈その五〉 | 『文学と教育』182(1998.8) | ||
芭蕉俳論を読む〈その六〉 | 『文学と教育』183(1998.12) | ||
1999 | 芭蕉俳論を読む〈その七〉 | 『文学と教育』184(1999.3) | |
芭蕉俳論を読む〈その八〉 | 『文学と教育』185-186(1999.8) | ||
芭蕉俳論を読む〈その九〉 | 『文学と教育』187(1999.11) | ||
【芭蕉俳諧思いつくまま 〈その一~その四〉】 | 【『くさくき』(1999.9~1999.12)】 | ||
2000 | 芭蕉俳論を読む〈その十〉 | 『文学と教育』188-189(2000.8) | |
近世偽書の条件――芭蕉俳論に即して〈その一〉 | 『文学と教育』190(2000.11) | ||
【芭蕉俳諧思いつくまま 〈その五~その一六〉】 | 【『くさくき』(2000.1~2000.12)】 | ||
2001 | 近世偽書の条件――芭蕉俳論に即して〈その二〉 | 『文学と教育』191(2001.4) | |
近世偽書の条件――芭蕉俳論に即して〈その三〉 | 『文学と教育』192(2001.8) | ||
近世偽書の条件――芭蕉俳論に即して〈その四〉 | 『文学と教育』193(2001.11) | ||
【芭蕉俳諧思いつくまま 〈その一七~その二八〉】 | 【『くさくき』(2001.1~2001.12)】 | ||
2002 | 近世偽書の条件――芭蕉俳論に即して〈その五〉 | 『文学と教育』194(2002.4) | |
近世偽書の条件――芭蕉俳論に即して〈その六〉 | 『文学と教育』195(2002.7) | ||
近世偽書の条件――芭蕉俳論に即して〈その七〉 | 『文学と教育』1962002.11) | ||
【芭蕉俳諧思いつくまま 〈その二九~その四〇〉】 | 【『くさくき』(2002.1~2002.12)】 | ||
2003 | 近世偽書の条件――芭蕉俳論に即して〈その八〉 | 『文学と教育』197(2003.7) | |
〈ブック・レビュー〉『CとTの物語・文学の授業をよむ「ちいちゃんのかげおくり」小学3』 あらかわ・ゆうし | 『文学と教育』197(2003.7) | ||
近世偽書の条件――芭蕉俳論に即して〈その九〉 | 『文学と教育』198(2003.11) | ||
【芭蕉俳諧思いつくまま 〈その四一~その五二四〉】 | 【『くさくき』(2003.1~2003.12)】 | ||
2004 | 近世偽書の条件――芭蕉俳論に即して〈その十〉 | 『文学と教育』199(2004.5) | |
共 | 〈特別インタビュー〉 “文体づくり”をめざし続けて 福田隆義・荒川有史氏に聴く | 『文学と教育』200(2004.8) | |
【芭蕉俳諧思いつくまま 〈その五三~その六四〉】 | 【『くさくき』(2004.1~2004.12)】 | ||
2005 | 西鶴と芭蕉――ふたりの俳諧師 | 『文学と教育』201(2005.5) | |
西鶴と芭蕉――ふたりの俳諧師〈その二〉 | 『文学と教育』202(2005.8) | ||
西鶴と芭蕉――ふたりの俳諧師〈その三〉 | 『文学と教育』203(2005.11) | ||
【芭蕉俳諧思いつくまま 〈その六五~その七六〉】 | 【『くさくき』(2005.1~2005.12)】 | ||
2006 | 西鶴と芭蕉――ふたりの俳諧師〈その四〉 | 『文学と教育』204(2006.7) | |
〈特別報告〉 “歴史社会学派”の西鶴論――熊谷孝論文に即して(付・質疑) | 『文学と教育』204(2006.7) | ||
〈特別報告〉俳諧師西鶴の笑い | 『文学と教育』205(2006.11) | ||
【芭蕉俳諧思いつくまま 〈その七七~その八八〉】 | 【『くさくき』(2006.1~2006.12)】 | ||
2007 | 西鶴と芭蕉――ふたりの俳諧師〈その五〉 | 『文学と教育』206(2007.8) | |
松尾芭蕉 芥川文学の基底に見る風狂精神 | 「国文学 解釈と鑑賞』(2007.9) | ||
西鶴と芭蕉――ふたりの俳諧師〈その六〉 | 『文学と教育』207(2007.11) | ||
【芭蕉俳諧思いつくまま 〈その八九~その一〇〇〉】 | 【『くさくき』(2007.1~2007.12)】 | ||
2008 | 西鶴と芭蕉――ふたりの俳諧師〈その七〉 | 『文学と教育』208(2008.7) | |
西鶴俳諧おもいつくまま●その一●寅さんから矢数俳諧を視る | 『WEP俳句通信』45(2008.8) | ||
西鶴俳諧おもいつくまま●その二●自注にみる貞室と西鶴の間 | 『WEP俳句通信』46(2008.10) | ||
西鶴と芭蕉――ふたりの俳諧師〈その八〉 | 『文学と教育』209(2008.11) | ||
西鶴俳諧おもいつくまま●その三●俳諧師三態――貞徳・貞室・西鶴 | 『WEP俳句通信』47(2008.12) | ||
【芭蕉俳諧思いつくまま 〈その一〇一~その一一二〉】 | 【『くさくき』(2008.1~2008.12)】 | ||
2009 | 西鶴俳諧おもいつくまま●その四●西鶴の達成点をさぐる | 『WEP俳句通信』48(2009.2) | |
西鶴俳諧おもいつくまま●その五●近世詩の総決算 | 『WEP俳句通信』49(2009.4) | ||
西鶴俳諧おもいつくまま●その六●「俳諧」の「俳諧」をさぐる | 『WEP俳句通信』50(2009.6) | ||
西鶴俳諧おもいつくまま●その七●恋愛模様百花繚乱 | 『WEP俳句通信』51(2009.8) | ||
西鶴俳諧おもいつくまま●その八●読者の視座から変化の妙をみる | 『WEP俳句通信』52(2009.10) | ||
【芭蕉俳諧思いつくまま 〈その一一三~その一二三〉】 | 【『くさくき』(2009.1~2009.11)】 | ||
2010 | 西鶴と芭蕉――ふたりの俳諧師〈その九〉 | 『文学と教育』210(2009.11) | |
〈「福田さんを偲ぶ会」より〉 福田さんの笑顔と瞳 | 『文学と教育』210(2009.11) | ||
西鶴俳諧おもいつくまま●その九●変化志向を支える活力 | 『WEP俳句通信』54(2010.2) | ||
西鶴俳諧おもいつくまま●その十●創造の𠮷備の追跡をめぐって | 『WEP俳句通信』55(2010.4) | ||
西鶴俳諧おもいつくまま●その十一 最終回●矢数俳諧の秘密を解く題材一覧 | 『WEP俳句通信』56(2010.6) | ||
西鶴と芭蕉――ふたりの俳諧師〈その十〉 | 『文学と教育』212(2010.8) | ||
【芭蕉俳諧思いつくまま 〈その一二四~その一三三〉】 | 【『くさくき』(2010.1~2010.8,10,12)】 | ||
2011 | 長谷川櫂著『震災歌集』が問いかけてくるもの | 『文学と教育』214(2011.8) | |
〈元副委員長佐伯昭定氏を偲ぶ〉 佐伯昭定との不思議な出会い | 『文学と教育』215(2011.11) | ||
【芭蕉俳諧思いつくまま 〈その一三四~その一三九〉】 | 【『くさくき』(2011.2,4,6,8,10,12)】 | ||
2012 | 短歌と俳句の間――長谷川櫂『震災句集』を読んで | 『文学と教育』216(2012.8) | |
【芭蕉俳諧思いつくまま 〈その一四〇~その一四五〉】 | 【『くさくき』(2012.2,4,6,8,10,12)】 | ||
2013 | 【芭蕉俳諧思いつくまま 〈その一四六~その一四七〉】 | 【『くさくき』(2013.2,4)】 | |
(2021年10月9日逝去 享年91) | |||
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