高森邦明『近代国語教育史』(鳩の森書房 1979.10)
第9章 戦後国語教育の発展
〔428-430頁〕
〔熊谷孝・文学教育研究者集団〕
熊谷孝氏の場合、昭和三三年一〇月に結成された文学教育研究者集団(「文教研」)によって「国語自体の教育としての文学教育」(同集団著『文学の教授過程』昭40・明治図書三一ペ)の考え方を明らかにした。すなわち「感情と感情の素地をはぐくむ教育活動」をして文学教育とし、これは文学の機能を生かしていとなまれるもので、「国語教育の重要な体系的一環であり、文学教育を欠いては国語教育は成り立たない」と述べる(同書二二ぺ)。さらに、文学の指導は、「もっとも洗練されたかたちのことば操作の体験」であるからして、これを除外しては国語自体の教育はありえないとする。ことば体験を「民族的体験の総決算」と考える理論的根拠は、第二信号系理論に依っている。この間接的理性的な「ことば体験」では、思考活動も民族的な発想において進められる。その構造は次のように示されている。
- 国語教育の基礎構造
(1)記号化操作の国語教育活動
① 文法教育・音韻教育
② 文体教育
(〝ことば〟信号の記号化において、文体意識をつちかう教活動)
(2)信号操作の国語教育活動
① 〝ことば〟の概念的操作の教育
② 〝ことば〟の形象的操作の教育
- 国語科の教科構造
(1)論理教育(事物の概念的な伝え合いに関する「ことば」操作の指導)
(2)文法教育(文法、音韻・文体などの記号化操作の指導)
(3)文学教育(形象的な伝え合いに関する「ことば」操作の指導)
(熊谷孝著『言語観・文学観と国語教育』昭42 二二-三ぺ)
熊谷は、昭和三一年『文学教育』(国土社)を著し、「文学による教育」が「文学教育」の実践になるとし、「文学作品のなかに問題をさぐる(文学的思考においてさぐる)というこの操作(準体験的認識のはたらき)は、けれどゆきつく究極の地点においては、描かれた人間像のなかに読者が自己を発見し、その主人公なり女主人公の置かれている典型的シチュエーションのなかで、じつはかえって自己凝視をさせられる、ということにほかならない。とすれば、〝文学への〟この文学教育も、けっきょく読者である生徒や教師自身の、〝人間〟や〝生活指導〟あるいは〝現実〟が最後には問題になってこないわけにはいかない。」(九〇ペ)と述べている。当時の「生活読み」、あるいは「主体的読み」の枠の中に位置づけられる考え方である。これから、文学教育の探求を始めるわけであるが、第二信号系理論を経ることによって、〝ことば操作〟の意義を重視する立場をとり、さらに発展して、「文体づくりと総合読み」ということを主張することになる。
『文学教育の構造化――文体づくりと総合読み――』(昭45)で、熊谷は、〝文体づくりの国語教育〟ということに取り組むようになって四年になるとして、その意味について、次のように述べている。
国語教育は、国語で事物の意味をつかむ、そのつかみかたをつかませる作業であると同時に、国語をつかみとらせる教育活動である。いわば国語そのものを――である。国語そのものがつかめていなくては、国語で事物の意味をつかませることはできない。ところで、国語そのものとは何かといえば、……それは、知覚や思考や想像という形で人間のつかみとった言葉のありかた、すなわち〝文体〟という視点でとらえられた言葉のありかたのこと以外ではない。国語そのものの教育活動の体系として〝文体づくり〟の意識において構想される必要がある、とわたしたちが主張する理由である。(五ペ)
かれによれば、文学は、事物や事物の意味のつかみかたが、文体として示されているものであり、それを学ぶことによって個性的なものの見方が育つというのである。その方法として、「文章に示された事物や現象やそのつかみかた、感じかたなどを、主体的につかみなおしていく過程」――「印象の追跡」である「総合読み」を提唱している。(九ペ)独自の「国語教育としての文学教育』説の展開として注目される。
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