資料:文学教育研究者集団/熊谷孝への言及
鈴木愛理 
  芸術の媒材としての言葉の教育の成立可能性
――熊谷孝氏の論を手がかりに――

             (『広島大学大学院教育学研究科紀要』第二部 第60号 2011.12)



1. 問題の所在


 ある言葉をある人が読み、美しいと感じる絶対的な条件はあるのだろうか。例えば、その言葉の辞書的な意味を知っていることは、その条件の一つであるかもしれないが、それだけではない。なぜなら私たちは、知らない言葉に対しても好悪の印象をもつことがありうるからである。
 言葉を読む姿勢も、条件の一つとして数えることはできるだろう。しかしなんら身構えずに読み始めても、没頭したり陶酔したりすることがある。つまり、読む姿勢によって、ある言葉が美しくなる場合はあるが、そうならない場合もあることを否定はできない以上、必要不可欠条件であるということはできない。
 このように、ある言葉に美しさを感じる要因すべてを説明することは不可能である。それは、読むという行為自体が現実的で個人的な行為である以上、偶然性を排除することができないからである。
 だが人がある言葉に美しさを感じる現象を検証し、その要因を探ることは可能である。そこから実際的に調えられるものを抽出し見きわめることは、文学教育を芸術の言葉として成立させることに寄与すると考えられる。
 文学とは言葉を媒材とする芸術であり、国語教育は端的に言って言葉の教育であるならば、文学の教育もそこに含まれてしかるべきではないだろうか。そこで、芸術とは何かを問うこと、またその問いに答えさせるのではなく問い続けること、すなわち解けない問いを引き受けていく耐性の育成を、言葉の教育においても省みていく必要について訴えたい。それは国語教育という場で、何が、いかに読まれるべきであるかの追究にも繋がるだろう。
 熊谷孝氏は文学が芸術であることを前提とし、文学を芸術のものとして教育するために必要な論理を展開したが、実践的手立ての提案に至ったとき、彼自身が立てた理論と齟齬が生じてしまった。それは、文学を芸術のものとして教育すべきであるという理論は成立するが、それに立脚した具体的方法を提案することの困難さを物語っている。しかし彼の理論自体には現在にも活きるところが多い。よって、本稿では彼の初期の著作において展開された氏の理論を手がかりに、芸術の言葉としての文学教育成立の可能性について検討することを目的とする。
 文学に限らず、芸術の教育の多くは遅効性であり、その教育の成果がみえにくいことは否めない。それも考慮の上、ならば何をいかに与えることは可能なのかについても、氏の理論を踏まえて考察したい。例えば、彼の「文学認識論」という理論や「文体づくりの国語教育」という方法論の検討は、これまでに荒川有史氏や浜本純逸氏らにより言及されてきた1)。山元隆春氏も「テクストと読者との相互作用」という視点から取上げている2)。だが、「芸術の媒材としての言葉の教育」という角度からの考察や指摘は、管見の限り見当たらない。よって本稿は、氏の理論に芸術の媒材としての言葉の教育の成立可能性をみる点においての、新しい考察でもある。

※「 」内語は、引用や熊谷氏の用語であり、参照・引用した文献・箇所は、【注】に「【主要参考引用文献】での番号、頁」という形で示した。


2. 熊谷孝氏の考える言葉と芸術

2.1. 立 場
 
熊谷氏は、「認識と表現、内容と形式、そのいずれが芸術にとって決定的なものであるのか」3)について認識を重視する立場をとっている4)。それは、彼が現実的に、国語教育という非常に個別的な場を想定したうえで、極力、偶然性に頼ることなく、芸術を存在させる実際的な手段を求められる理論を打ち建てようとしたからであろう5)。媒材は変化しないがそれを読む者は可変的であるなら、実際的手段に繋がる理論を求めるために認識を重視する立場が妥当と考えたのである6)

2.2. 言 葉
 彼の言葉観を集約するならば、①人間は、言葉なしには生活できないが、②言葉は存在を意識しなくても生活は言葉によって成立し、③感性は理性(言葉)に先行する、という三点になる7)。また彼いわく、言葉とは規定性と融通性という二つの性格をつねに含むものであり、そのどちらかに重心が置かれた操作を受けて使われはするが、いずれか一方のみによった読みや両方に同等の重心を保つ読みはあり得ない8)
 彼のいう言葉の融通性とは、ある言葉を別の言葉で規定した場合に規定しきれない部分であって、言葉の使い手が自らの感性により補填しうる部分である。
 そうした部分が多い場合、言葉はその規定性よりも融通性に重心が置かれ、その言葉は芸術の媒材になると彼は言う9)。つまり感情を軸として認識される限り、あらゆる言葉はその人にとっての芸術の媒材になると彼は考えた。

2.2.1. 文学の言葉と科学の言葉
 ある言葉が芸術となる場合とならない場合との差異について、彼は文学と科学を比較することによって説明した10)。言葉は、操作する者がどのような方向性でその言葉を認識するかによって、科学的にも文学的にもなる。
 方向性として、科学は普遍的・一般的であるように努めるため、「規定性の極に達した用語を選ぶ」。一方、文学はある一立場の認識の代行を務める言葉の選択が迫られるのであり、結果、「きわめて融通性に富んだ」言葉の選択が可能である。
つまり科学は“何を”に、文学は“どのように”に認識の重点がある。そうした言葉の認識方法の違いが科学と文学の差異である。「日常的体験(生活の実感)」という現実の現象を、一般化して認識する(抽象的・理論的に捉える)ことを目指すのが科学であるならば、典型化によって認識する(具体的なものに移っていく)のが文学の方法であると彼は述べている11)
 だが科学も文学も主体の実感が現実の認識を求めることに終始するのであり、その手段として言葉という媒材を用いる点では共通しており、両者は対立するのではなく、絡み合う関係にある。
 人間とは、「現実的で具体的なもの」であるために、「自身の思考と行動とを歪みのないまっとうにするため」、現実を何らかの手段で認識し、また思想を得ることを必要とする。
 それは、行動する「主体」である、私の「実感」、言葉以前の「科学的な認識理論」から出発する。
 人はまず、それを言葉として「科学的な認識理論」に結びつける。だがそれではまだ、「自身の思考と行動とを歪みのないまっとうなものにするため」の認識に至らない。さらに「知性の実感(科学的世界観)」へと高め、「感性の実感」として深めて、それらが溶け合い、「行動の体系としての世界観にまで主体化」できれば、「自身の思考と行動とを歪みのないまっとうなものにするため」に寄与するものとなる。なぜならそれは、その者の思想を支え、「現実的で具体的なもの」である「主体」の思考と行動が歪まぬ助けとなるからである。
 そうした思想を得るために必要な媒材が、言葉であり、その使用にあたっては、科学的認識も文学的認識もなくてはならないのである(以下図示)。
[図省略]

2.2.2. 文芸術の媒材として言葉を読むとは
 彼の論に従えば、あらゆる言葉は芸術の媒材であるが、「主体」がある「実感」を「科学的世界像」として捉えようとし、「科学的世界観」・「知性の実感」としてまず捉え、それが「感性の実感」とも重なって捉えられ、さらに「生活の実感」としての「思想」に結実することなくして、言葉を文学として読むことはできない。ならば、そうした経路はどのように育めるのか。
 言葉を理解しようとするときに「一般的知識」以外のものが駆動される読み、すなわち前に図示した経路を何度も通り抜けることによって「思想」は「表現を理解する感受性」になり得る。またそれを読むときに「一般的知識」以外のものを駆動させる言葉がその読者にとっての文学なのである。
 そうした読みを呼び寄せるには、読者と言葉の間に「体験の日常的共軛性」が必要であると彼は指摘する。なぜなら、私たちは自身の体験を自身の体験であるという実感のみを根拠に、信用しているからである12)
 そこで「実感」を「実感」であると自覚させる言葉に出会う経験が必要となる13)。「実感」とは、「人間の生活のいとなみを規制する行動の体系」である。「実感」に一種のまとまりをみとることにより、それは体系化され、行動を導く動機の概念に迫ることも可能になる。
 だが、「事物の克服を必要とする主体のがわの主体的な要求」なしにその概念を打ち立てることはできない。「既成の理論的成果」を会得し、「新しい成果を自分の思想のうちに活かすことで、実感は深まりもし高まりもする」のである(以下図示)。[図省略]
 「実感」にとって「公式」はそれを深め高める言葉の応答であり、「公式」にとっての「実感」は現実的事物の克服を要求する主体である。互いが互いを求めあうことで両者は発展し、結果、「思想」は「表現を理解する感受性」に高められ、「感覚的なもの」は「その人の生活を方向づける思想にまで高められる14)

2.2.3. 思想=言葉
 彼は、「思想」とは、言葉以前のものを体系化し、「人間の行動そのものを方向づけるはたらきを持っている」言葉であると定義する15)。言葉以前のもは自覚の有無にかかわらず、言葉によって整理され、「必要な体験とムダな体験とが見分けられ、自分によってたいせつだと思われる体験が知識として保存され」「生活の生きた仕組み(体系)のなかに織り込まれていく」16)。(だが、「単なる知識」に終わる、「生活の生きた仕組みのなかに織り込まれていく」ことのない言葉もある)。
 換言すれば、ある言葉は「なまなましい自分の生活体験」に裏付けられなければ「思想」として、つまり「生きた知識の体系」として機能しないが、「思想」としての言葉は、「体験の仕方そのものを一つの方向に固定し、縛りつけ」もし、「ものごとに対するその人の感じ方や、受け取り方や、判断や、さらにまたそのとりさばきかた(行動)までもを、そうした一つの方向に導いていく」17)
 だが「思想」は言葉であり、現実そのものではなく、また現実も一面的ではない以上、互いの誤差を零にすることは不可能である。「思想」は、自身の現実に応じて可変的なものである18)
 芸術の媒材としての言葉の教育として行われる文学の教育とは、「生活の生きた仕組み(体系)のなかに織り込まれていく」言葉の教育である。

2.3. 享受 ―文学の読者との共軛点―
 ある言葉を読み、「なまなましい自分の生活体験」で裏付け、「思想」とするためには、どのような読みが営まれる必要があるだろうか。
 例えば、ある言葉を読み、「周囲の現実の人間から受けとる以上の感動や影響」をおぼえたり、「現実の体験以上にナマナマしく現実を体験」したり、そこに、「現実以上の現実を感ずる」ことがある19)。つまり、言葉が「現実の体験以上にナマナマしく現実を体験させてくれる媒材として、機能し作用する」のである20)
 こうしたことが起こるのは、読者がその言葉と自身との間に共軛する点をみつけるからだと、彼は述べている21)。共軛する関係とは、互いに特殊の関係を有し、転換しても、性質の論究上、変化のない関係である。
[図省略……図の概略:座標平面上において、x軸に対し互いに対称の関係にある二点a+bi、a-biをとり、両点を結ぶ線とx軸との交点をaとする。
 上図は稿者独自によるものであるが、これを用いて彼のいう言葉と読者の共軛性について説明したい。
 読者を a+biとすると、読まれる言葉は点a-biに位置する。その場合の共軛点はaである。同座標平面に点a+bi、点a-bi、点aはあるが、共軛点のaがみつけられない限り、それらは孤立した関係にある。
 点a+biは言葉以前のものを抱えた読者(人間)であり、点a-biはそうした誰かに書かれた言葉である。a+biからすると点a-biは、日常的煩瑣が削ぎ落とされた(自身の現実に直接的には行使されない)表現である。そして二点間には距離がある。
 その距離を縮めるのではなく、その距離を測定し、二点の関係性を摑めたときが、共軛点aの発見であり、文学(言葉の芸術)の発見でもある。
 共軛点aをもつ位置にあることが認知された点a-biの言葉は、a+biの人のなかに生き、点a+biの人は、点a-biの言葉に生かされる22)
 こうした行為について、彼は、読者自身の「実感のワクを越える」経験であると述べている。ある言葉が、実感に裏打ちされることは、自身の行動(言葉以前のものの現れ)を言葉によって体系化した『思想」をも越えうる言葉の経験であるとする。
 例えば、読むと同時に、自分ならば…という自己の反応様式が想起されるときに、それは成立している。言葉の字義を理解できる(「〈わかりうる〉ところから」「〈わかる〉〈わかった〉ところへ」、字義的な理解だけではなく、何か感じることがあるところに至ることである。そのとき想起されるものは、「自分のそれとはまた別個の新しい反応様式」である。それはあくまで想起であり、行動ではない。そかしそれは「その作品形象が媒介している感情にこちらの感情がつながっていく」行為であり、「自分自身の実際の行動なり、実践に対する構えが準備されてくる」想起である23)
 そうした想起から導かれる認識を「文学的認識」と彼は名付けている。その認識手段とは、現実の断片を、多義の一片に過ぎないと認識するのではなく、多義の現実が存在可能性を示唆させるものとして認識する、というものである。
 それは、先に示した座標平面を俯瞰することだとも言える。座標平面上に幾多もの点がばらまかれているような現実を、上から眺めることにより、ある二点とその共軛点をみつけることができる。
 「思想」とは、「あるきまった座標軸、あるきまった視点による現実の把握ないしそうして把握された「現実」」である。「その座標の取り方が、現実(ものの実際、ことの実際)に即している」、「当人が自分自身の認識の座標軸を自覚している」のならば、「その思想に伸び行く可能性を約束」される。自身を含め、現実は動的なものであり、それに見合う「思想」は、現実を生きる自身とともに、進歩発展する必要がある24)
 そうした「進歩的な思想」は、思想と現実との間に矛盾が生じた場合に、「現実のほうに思想を近づけることによって解決する」「実感そのものを絶えず新しいものにしていく」営みによるものであり、「文学的認識」手段はそれを可能にする手段の一つである、と彼は言う。それを育むのが芸術の享受による「準体験」である25)

2.4. 「準体験」
 読者がある言葉に共軛点をみつけて、自身の実感のワクを越えていくところに言葉の芸術が成立しうる。彼はそうした読みの行為を、追体験や同化ではなく、「準体験」と呼んでいる26)
 追体験は、感情同化による独断的な理解に陥りかねないものだが、「準体験」は、感情の異化による理解、相手の体験をくぐる体験である。他者との完全な同化は不可能だと知りつつ、それでも理解可能/不可能という感情が訪れるのを認め、時にはそれを表明する。それを通し、自分と相手の考え方や感じ方の一致点・不一致点が意識化され、相手も自分も理解していくのである。それを「準体験」と称するのは、「自己の直接体験を越えた体験を自己に媒介する体験である」27)からである。相手の体験をくぐることで、自身の自覚的な感覚と無自覚な感覚、相手ではなく、自分の感じ方や感じ方が理解されるのである(自分の感じ方や考え方の更新や変更を強要されるわけではない)。
 「相手の体験をくぐる」という「自己の直接体験を超えた体験を自己に媒介する体験」を通して、表現やその送り手(相手)を理解したと感じるのと同時に、自分の感じ方や考え方が確認され、自分に対する理解が深まっていくことが「準体験」であり、そのような「準体験のなかに読者を誘い込むことが出来る」言葉、またその読みが、文学という行為である28)
 いわゆる体験だけでなく、「準体験」をする必要性はそこにある。一個人の人生は複製がきかない独自的なものであり、個々の人生は個々にとって特別なものに違いないが、それを他者と較べることには益体
[ママ]がない。相手の感覚をも思いやれる感覚や心構えのあることのほうがずっと、有用かつ有要である。
 「なまみの現実体験」では不可能な経験も「準体験」において行うことができる。そこには、拒絶や逃避が可能であるという安心感もある。
 しかし「準体験」は「現実以上のものとして体験的なはたらきをし、人びとの生活の実感そのものを鍛えなおし、行動のもとになる人間の思想そのものをはげしく揺さぶる」。だからこそ、「文学にしたしむことで、その人の思想や感覚が幅と厚みを持ったものになって」、「その人の体験の仕方そのものが変わってくる」のである29)。「ひとりの人間が体験できる範囲というのは高が知れています。それで、狭い体験のワクを越えるための読書を」30)、つまり「準体験」をと彼は訴えたのである31)


3. 熊谷孝氏の理想とする読みとその限界

3.1. 「内容」に関して
 ある言葉の「内容」は、読者がそこに読んだものであって、その言葉や作者にあるわけではない。つまり、「内容」とは私的でしかありえない32)。世間一般では、ある作品の内容は一つのはずだが、実際には、作者の意図した内容、表現に示される内容、そして読者が理解した内容の三つがあり、最も妥当だと多くの者に思われるものがその作品の「内容」であると考えられているが、それは誤りであると彼は指摘した。
 だが、国語科教育において「内容」が拡散的に放置されることや「ある一致した共通の理解」に収束することにも、彼は否定的な姿勢を示す33)
 芸術は表現や認識という行為をもとにするその性格上、理解の個人差は否めない。「内容」においての確かなことは、どれも個人的な表現理解だということのみである。多数の者が支持する内容が正答とも、すべての内容が同等に確かだとも言えない。
 しかし彼は「方向的にズレた表現理解」や「刺激と見合うようなかたちの反応・反射」があるとも述べている34)。そうした発言からは、彼が「内容」は唯一でないが、ある程度の幅をもって存在するものと考えていたように見受けられる。
 彼は文学教育の目標を、子どもたちが「いわば日課みたいにして、文学作品を読む習慣が自分のものになるようになる」こと、「文学作品を何かほかの実用的な関心からではなく読む気になり」、「それを読んで芸術的なある反応を起こすことが出来るようになる」ように育てることとした35)。そのためにはまず「刺激と見合うようなかたちの反応・反射」ができるようにせねばならないので、教育が必要だと言うのである。ただその時点で、彼なりの教材になりうる言葉(いつ何を読むことが好ましいか)は定まっていた36)
 例えばあ、彼は、「内容」が読者により無数に存在しうるものだとし、ある言葉が文学の媒材となりうるか否かは読者によるとしながら、文学、通俗小説、良書、良心的書物、といった線引きもしたのだ37)
 確かに、小説なら何でもよいとしない姿勢には私も頷く。しかし、美しさや心地よさを感じる媒材としての可能性が、詩や小説の言葉にのみ宿るわけではないのも事実である。人によって、またその都度、「良書」というものは異なってくるのが当然であって、それはだれにも否定されるものではないはずだが、彼は、彼にとっての良書を「良書」として掲げ、通俗小説を否定する。それがなぜなのか、彼自身は語っていない。
 言葉を読むとき、そこに矛盾が潜んでいないか否かに敏感であれ(されど逃避すべからず)ということや、そうした姿勢を促し育む必要性や重要性については、普遍性が認められ、納得のいく理論ではある。だが、具体的な媒材について「良書」であるか否かの判断を(彼なりの、という言及なしに)提示していることには疑問や抵抗を覚える。なぜなら、彼の理論に従うなら「良書」などという判断が一般的に下せる、という考え方には至らないはずだからである。
 読みとは、無数の「主観」のバリエーションである。そのことを概念的に理解するのは極めて簡単である。だがそれだけでは、自分の『思想」にはならない。
 また「わかるけれども、どうしてわかるのかがわからない」という実感なしに「準体験」を自覚することは不可能である。しかし、それは意図的に引き起こすことは難しい。偶然性に頼る部分を完全に消すことはできないが、手をこまねいていることもできない――そういった文学教育の実情に対し、わずかでも救いになればと手を差し伸べるべく彼は「良書」を提示したのだろうが、彼の論に則ればそれが他人の「良書」である保障はない。よって、一言の断りもなしに「良書」を提示してしまうことによって、逆に彼の論理(ある「言葉」の内容は、それを読んだものが、そこに読んだものであり、その言葉や作者に内在するものではなく、「内容」とは、読んだ者に内在する、私的でしかありえないものである、という主張)は破綻してしまう。
 彼が理想とする文学の教育は、彼が「良書」を提示することで具体化したようにみえる。だがそこには、私的な「内容」を読んでいく行為によって起ちあがる読み、すなわち言葉の芸術を営んでいくとはどういうことなのか、そうした読みの教育は成立可能なのかは問うても答えてもいない。文学とは言葉を媒材とした芸術であり、その教育の必要性の主張と理論の確立に留まってしまっている。

3.2. 「主観」と「客観」に関して
 「内容」は多様であり、その多様な「内容」は平等に認められるわけではない。世間では、より「客観的」なものがよいとされるが、「客観」も結局は「主観」であると彼は指摘する38)
 「主観」とは、ある人が、自身に理解可能であると自負できる立場であって、「客観」とは、それ以外の立場である。つまり、一読者にとって、主観は唯一であり、客観は多種多様である。
 多様な立場には、他の立場から理解されやすいものとそうでないものがある。「客観」するということは、自分の立場を「主観」として自覚し、保持しつつも、他の立場からの見えも認めるということでしかない。つまり、自分はそこに立たないが、そこからの見えもわかる、と多くの人に認められる一主観が、「客観」として認められているにすぎない。
 だが世間一般では、「どういう立場、どういう前提にも立たない」で物事を見ることが「客観」であると誤解されている39)。また、「どういう立場、どういう前提にも立たない」でものごとを見られるという立場がある、という誤解は、「自分がどういう立場でものごとを判断しているのかという、自分の立場に対して無自覚」にしてしまう。
 その背景としては、言葉を読む場面において言葉の規定性に重点をおいて理解することを要求されることが多いという問題がある。言葉の規定性に重点をおく理解を要求されるということは、直接的な感情をくぐらせないよう意識して読むように勧められる、ということである。また、その勧めに従った読み方はわかりやすく、言葉の正確な読みと受け取られやすいため、そちらが優先される。そういう問題が、受験のための勉強を含めての国語教育(読みの教育)という場には隠れている。しかしそれに抗うための読みの(教育がなされる)保障はない。
 例えば、教師は作者の意図や作品の主題を問うが、もし「作者がそこに意図した《送り内容》として「A」というものがあったとしても、「A」と書かれていないなら、「A」と示さないことによって伝わるものを含みこんでの「A」というものが作者の意図した主題であろう。それを「主題=A」と断定してしまうのは、何かおかしい気がしつつ、白紙の答案を提出し無言の抵抗を示すほど大人にも、率直に異議を申し立てできるほど子どもにもなれない学習者は、おとなしくしているほかない。
 しかし、学校にいるうちに、そういうことにも慣れてしまう。それは「どういう立場、どういう前提にも立たない」で物事を見る立場で読むことに慣れることであり、「自分がどういう立場でものごとを判断しているのかという、自分の立場に対して無自覚」になる、つまり「主観」を喪失することに繋がる。
 「主観」の喪失とは、何を読んでもおもしろくないということである。読むということ自体がつまらない、億劫な営みになってしまうのである。そうなると読者はどこにも立ち位置を見つけられない――そうして「客観」をも喪失していくのである。
 主題を断定的に述べてはいけない、ということではない。本質的に断定できないことを問うているのだ、という前提を学習者に知らせないまま問うことが問題なのである。
 そこで彼は「典型」という「普遍性を持った現実像」、すなわちこの作品が問うことを問題にする必要があると言う40)。「内容」は読者個々の「主観」により摑みとられる、多種多様なものであるが、「典型」であれば、ある程度のまとまりをみつけることができると言うのである。先述の、「ヘンに規格化しようとしたり、紋切り型の表現理解に導こうとする」という方法は、特殊的なものを捨て、共通のものを残し、一般的解答を得ようとする「一般化」による理解であり、主観的認識を重視する場合には不適当である。ゆえに言葉の芸術の教育では、「典型化」という方法を援用すべきであると彼は訴えるのである。
 仮に言葉の規定性にのみに
[ママ]則って読むことが可能で、そこから主題を導きえたとしても、それは読者の心底から込みあげるものでない以上、主題とはよべないだろう。
 言葉の規定性による読みで、事実を知る(いつ、どこで、誰が、何を、どうしたのかを、把握する)ことはできる。だがその事実から想起される感情なしに、主題に辿り着くことはできない。「主観」や「客観」を喪失することは、言葉を芸術の媒体として読む営みを阻害する。
 実際には言葉の規定性にのみ重心をおいて読むことは、不可能である。だからといって、多くの人が採用しそうな立場を窺い、そこにおいて想起されると思われることを客観的主題として答えることに順応させることが、文学の教育だろうか。それが答えられすれば
[ママ]読めたと思ってしまうことや、そうした読み方に終始するすることに疑問を感じないこと、反対に、そのように読むことが不得意であることへの劣等感や倦怠感が、放置されてよいのだろうか。
 一般にいう客観とは、多くの人にとって、身を置きやすいと思われる立場である。しかし、それが一立場にすぎないということ、多くの人が立っている立場が正しいわけではないということ、さらには、あらゆる立場は正しい/正しくない、という対立にさらされるべきではなく、それは、すべてが正しいということを意味するのでもないということも、言葉の教育の中で伝えなくてはいけない。


4. 芸術の言葉としての文学教育成立の可能性

 本稿では熊谷氏の論を手がかりに芸術の言葉としての文学教育成立の可能性を探った。氏の論にあっては、まず文学は芸術であり、それは読み手の認識によって判断されるということが強調されていた。以下、氏の論をもとに稿者が考えた、芸術の言葉としての文学の教育成立可能性を示す。
 まず文学は芸術であり、それは読み手の認識により判断されるのだということを押さえておきたい。
 ある言葉がその融通性に重心を置かれ操作をされることによって、それは芸術の媒材にもなりえ、「思想」が成る読みにもなる。ならば芸術の媒材としての言葉の教育とは、ある言葉とそれを読む自身の体験との、「共軛点」をみつけられる読み手を養うことであろう。
 現実に即する言葉以前の感情が、言葉にされることなく過ぎていくことは少なくない。それは、それらを私たちが言葉以前のものとしてわかっており、生活の進行に問題が生じないからである。
 しかしそれが感応する言葉に出会った場合、それは事後的に理解される。文学(言葉を媒材とした芸術)とは、ある読者が、芸術の媒材としてその言葉を享受したとき発生するのであって、読みがそういう行為に至るときに、読者はその言葉を文学とみなすのである(それは自分の感情を容れるのに適当な言葉をみつけたということに限らず、ある言葉に疑問を抱く、抵抗を感じる、という場合をも含んでの読みである)。
 そのような読みによって、「思想』が更新されてもいく。だからこそ、芸術の媒材としての言葉の教育は必要であり、それが成立する可能性がそこにある、と考える。
 芸術の媒材としての言葉を知ることに始まり、言葉が芸術の媒材となるとはどういうことかと考えられるところへ導き、それが解けないことの尊さに至る、という過程を経ることが、文学の教育、すなわち芸術の媒材としての言葉の教育になる。
 では、言葉が芸術の媒材になりうるものであることを知らせるにはどうすればよいか。一度でも、芸術の媒材としての言葉に出会えばそれは可能だろう。だが誰にも芸術の媒材だと認められる言葉などないため、それを意図的にもたらすこと、つまり教育することは容易ではない。
 加えて言葉は変化していくものでもある。新しい言葉が生まれる一方、滅びていく言葉がある。淘汰という現象は言葉限ったことではないが、どの言葉も誰かが何らかの必要に迫られて生み出してきたことは確かである。だが生活場面で、そのように言葉を生み出す必要に迫られる感覚を味わうことは少ない。それゆえ、そうした感覚の欠落に気づかせることを意図的に行うことは可能である。
 音楽が耳を、絵画が目を楽しませるためだけにあるのではないように、文学も余暇のためだけにあるものではなく生をも支えうるものである。その媒材である言葉を記号としてのみ捉えることも可能ではあるが、そのことの危惧を学習者に示すことはできる。
 鑑賞という行為は、必ずしも、対象の美の追究結果ではない。音や色、言葉といった具体的事物を通し、生活において望む必要すらなかったものに触れるそのとき、欲することのなかったものを欲すると同時に享受している自分に気づくとき、つまり、ある事物が「それを望む努力をも捧げてくれる」とき、その事物を私達は芸術とみなす(ある事物が媒材となる)のであり、鑑賞行為が成立する41)
 言葉もそうした事物の一種であるという認識が国語教育という言葉の教育の場で取りあげられることにより、言葉という事物を淘汰し享受しうる存在としての自覚は芽生える。また、言葉を芸術の媒材として知る教育の可能性もそこに拓ける。
 その具体的方策については、今後の課題としたい。現時点では、読みは個別的であっても読まれた言葉は同じであることに注目するように促すことにより可能となるのではないかと考えている。また、言葉が芸術の媒材として教育される意義や、その具体的なあり方について考え続けていきたい。それは、すべての人の生活に芸術としての言葉が存在することを望むという意味ではない。ある事物を心から求めることを助け、またその欲求を満たしてくれる事物があって、それは生を助けうること、言葉も、人をそうした行為に至らしめる媒材の一つであることを教えたい、という意味である。


【注】

※注における1~4の番号は【主要参考引用文献】
[後掲]の番号に対応している。

1) 荒川有史『文学教育論』 三省堂、1976、浜本純逸『戦後文学教育方法論史』 明治図書、1978

2)『文学教育基礎論の構築』渓水社、2005
3) 3. p.146
4)「芸術もまた実践であるという意味でいうのだが、芸術の表現は自己目的的、自己完結的なものではなく、芸術作品の形象としての完結を実現するのは、受け手の鑑賞(=作品理解・表現理解)においてである、ということが現実の事実としてそこにあるからだ。」(4. pp.4~5)
5)   4. pp.17~18、2. p.127参照。芸術認識論選択の理由は明確に述べられてはいないが、彼が芸術認識論における欠かせない論理的・必然的前提の解明を試みていたことから、そのように推測することは許されるだろう。
6) 2. p.3、 pp.11~12、  pp.22.~23、p.127、 1. p.3を参照。書店や図書館で文学に配架されるものが文学なのではなく、それを文学に仕分けるのは読者自身に他ならないと彼は考えた。彼は暮らしの中に文学がある人を理想とし、自分を育んでいくという読書の目的は、それが生活の一部となることが果たされると考えていたことも追記しておく。
7) 3. pp.171~172  
8) 3. pp.211~212
9)  「その媒材である「ことば」の概念的抽象性をこえたところで、意味を作り出すと同時にまるごとに意味をつかむ、つかみとらせる、という《象徴体験としての芸術体験》を実現することができるのです。芸術へのそういう道筋を、ところで文学は、「ことば」という媒材をそれの融通性の面において操作されることによって、それは文学の媒体(直接の認識手段・表現手段)になる、という関係です。」(3. p.16)
10)   1. pp.81~83
11) 1. pp.71~72
12) 1. pp.77~78
13) 1. pp.88~89
14) 2. pp.164~165
15) 1. pp.92~93
16) 1. pp.92~93
17) 1. pp.93~94
18)「思想は、もともと知性だけを手がかりとした現実の認識ではない。知性による認識が日常的な生活感情のすみずみ迄しみとおり、そのことによって感情そのものが高められ、また、そのようにして高められた感情においてもう一度現実をかえりみ、現実に触れたときに生まれて来るのが「思想」というものなのである。だから、思想は、むしろ、感情(実感)による現実の認識であるという事すらできるだろう。」 1. pp.99~100
19) 3. p.63
20) 3. p.225
21) 1. p.61、 pp.68~70
22) 1. pp.68~70、  2. pp.141~142
23) 4. pp.65~66、  1. p.79
24) 1. p.101
25) 1. pp.101~102
26)   3. pp.264~265
27) 4. p.30
28) 1. p.63
29) 2. p.156
30) 2. p.162
31) 2. pp.143~144
32) 3. p.228
33) 3. p.231
34) 3. p.178
35) 3. p.178
36) 2. pp.23~24、 p.128、 p.156
37) 2. pp.139~140、p.153
38) 3. p.233
39) 4. pp.40~41
40) 3. p.238
41)「静物画を見るとき、生物の高邁な象形がもたらす美を追求することなく鑑賞するとき、我々はみだりに欲しがる必要のなかったものを凝視し、欲する必要のなかったものを慈しみます。静物画は、他人の欲望によって生まれた自分の欲望に応える美を示しているように、計画せずとも欲望に合っている、それを望む努力をも捧げてくれるように、芸術の神髄という時を越えた確実性を具現化するのです。音のない世界では命も動きもなく意図のない時間、すなわち時間とくびれた欲望を剥ぎ取った完璧さが具現される――欲望のない快楽、時間のない存在、意志のない美。/芸術とは、欲望のない快楽だから。」ミュリエル・バルベリ(河村真紀子・訳)『優雅なハリネズミ』早川書房、2008、pp.223~224

  【主要参考引用文献】

  1. 熊谷孝『文学序章』磯部書房、1951
  2. 熊谷孝編『十代の読書』河出書房、1955
  3. 熊谷孝『芸術とことば』牧書店、1963
  4. 熊谷孝『芸術の論理』三省堂、1973
                                 
(主任指導教員 山元隆春)

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