資料:文学教育研究者集団/熊谷孝への言及 |
高森邦明『近代国語教育史』(鳩の森書房 1979.10)
第9章 戦後国語教育の発展
熊谷は、昭和三一年『文学教育』(国土社)を著し、「文学による教育」が「文学教育」の実践になるとし、「文学作品のなかに問題をさぐる(文学的思考においてさぐる)というこの操作(準体験的認識のはたらき)は、けれどゆきつく究極の地点においては、描かれた人間像のなかに読者が自己を発見し、その主人公なり女主人公の置かれている典型的シチュエーションのなかで、じつはかえって自己凝視をさせられる、ということにほかならない。とすれば、〝文学への〟この文学教育も、けっきょく読者である生徒や教師自身の、〝人間〟や〝生活指導〟あるいは〝現実〟が最後には問題になってこないわけにはいかない。」(九〇ペ)と述べている。当時の「生活読み」、あるいは「主体的読み」の枠の中に位置づけられる考え方である。これから、文学教育の探求を始めるわけであるが、第二信号系理論を経ることによって、〝ことば操作〟の意義を重視する立場をとり、さらに発展して、「文体づくりと総合読み」ということを主張することになる。 国語教育は、国語で事物の意味をつかむ、そのつかみかたをつかませる作業であると同時に、国語をつかみとらせる教育活動である。いわば国語そのものを――である。国語そのものがつかめていなくては、国語で事物の意味をつかませることはできない。ところで、国語そのものとは何かといえば、……それは、知覚や思考や想像という形で人間のつかみとった言葉のありかた、すなわち〝文体〟という視点でとらえられた言葉のありかたのこと以外ではない。国語そのものの教育活動の体系として〝文体づくり〟の意識において構想される必要がある、とわたしたちが主張する理由である。(五ペ) かれによれば、文学は、事物や事物の意味のつかみかたが、文体として示されているものであり、それを学ぶことによって個性的なものの見方が育つというのである。その方法として、「文章に示された事物や現象やそのつかみかた、感じかたなどを、主体的につかみなおしていく過程」――「印象の追跡」である「総合読み」を提唱している。(九ペ)独自の「国語教育としての文学教育』説の展開として注目される。 |