資料:文学教育研究者集団/熊谷孝への言及 |
浜本純逸『戦後文学教育方法論史』(明治図書 1978.9) 序章 戦後文学教育史研究の課題 〔17頁〕 熊谷孝氏は、一九五五(昭三〇)年一〇月発行『日本児童文学大系(6)』(三一書房)に、一九三〇年代以降の文学教育関係の資料を整理し、歴史的な展望を与えた。熊谷氏は「直接こんにちに問題を投げかけるような資料」を掘り起こしているわけであるが、プロレタリア教育関係のものなど、主として抵抗の教育としての文学教育という観点から資料が選ばれている。 その「解説」において、氏は、荒木氏の実践報告とそれを契機にして生まれた「問題意識喚起の文学教育」について、 この大会報告を「日本文学」誌上で読んだときの深い感動を、わたくしはいまに忘れません。と述べて、理論的な考察をすすめている。 この「解説」を基盤にして、氏が戦前戦後の文学教育について通史を試みたのが、一九五六(昭三一)年一一月発行の『文学教育』(国土社)の第一章問題史的展望である。その展望では、大正デモクラシーから問題意識喚起の文学教育までが扱われている。戦後については、 七 戦前から戦後へと①児童文学者の文学教育運動、②「言語教育か文学教育か」論争、③問題意識喚起の文学教育の三つを戦後一〇年間の文学教育史のトピックとしてとりあげている。この「展望」において、氏は西尾実氏の追体験論をきびしく批判している。熊谷氏は、「作品そのものはあくまで媒体である。表現の媒体であり理解の媒体であるこの作品は、読者の理解(鑑賞)をまってはじめて内容をかちえる(感動をよびおこす)のである」という準体験論に立って、そのような文学体験を実現させたのが「民族教育の古典教育」であったとして、荒木氏の実践を高く評価したのである。この実践によって、①「文学的思考への、また文学的思考による教育」という文学教育の独自性が明らかになり、②文学機能そのものが教育性を持っていることが明らかになったとしている。 その後の課題として、①経験(実践)主義への横すべりをすることなく、あくまで理論的につくすべきところはつくしていくべきこと、②文学教育の基礎科学は文芸学であること、③他教科や読書指導一般、一般学校教育活動などとの結びつきについて考察すること、の三点をあげている。 つづいて、氏は、『戦後の文学教育――その展開』(文学教育の会編『講座文学教育』2 一九五九・八 牧書店)において、戦後一〇余年の文学教育史を民間教育運動の視点から見て、つぎの三つの時期に分けている。 1 児童文学者を中心とした、文学教育の提唱と実践の時期(一九四六-五一年)熊谷氏は、準体験理論を拠りどころにしつつ、抵抗の文学教育史、民間教育運動としての文学教育史という観点に立って、一貫した文学教育史の記述をしてきたのである。 第Ⅳ章 問題意識喚起の文学教育 〔125-126頁〕 「問題意識喚起の文学教育」以後、文学教育はひろく社会的な関心となり、文学教育確立への努力は一つの運動のようにしてなされた。たとえば、菅忠道他編の『日本児童文学大系6 文学教育の理論と実践』(一九五五・八)には、熊谷孝氏によって戦前戦後の文学教育の歴史に関する基本的な資料が整理して公表された。一九五六(昭三一)年一一月には、熊谷孝氏によって『文学教育』が出版された。その出版祝賀会のテーブル・スピーチがきっかけになり、菅忠道氏の呼びかけによって「文学教育の会」が生まれたのである。 第Ⅴ章 文学的認識力の育成 〔130-132頁〕 熊谷孝の『文学教育』 熊谷孝氏は、荒木氏の実践報告に深い感動をおぼえたとつぎのように語っている。 いま、文学教育の分野で論議のマトになっている〝問題意識喚起の文学教育〟論の起点となった、荒木の『民族教育としての古典教育』ですが、それは現場の実践に裏付けられた画期的な古典教育論でした。祖国に対する愛情と民族的自覚をめざめさせる古典教育を、というその所論は、文学教育としての古典教育の、そしてこんごの文学教育の進むべき方向をわたくしにハッキリと示してくれました。この大会報告を「日本文学」誌上で読んだときの深い感動を、わたくしはいまだに忘れません。(熊谷孝「解説」『日本児童文学大系 第六巻 文学教育の理論と実践』 一九五五・一〇 三一書房 三三ページ)そのあと、熊谷氏は、「感動が大きかっただけに、わたくしとしてはこれっぽっちの疑義も未解決のままに残しておきたくない」として、荒木氏の実践に対して批判している。 このような共感と感動に触発されつつ、それまでの熊谷孝氏の文学教育に関する論考を集大成して、一九五六(昭三一)年一月に刊行されたのが『文学教育』(国土社)であった。 その内容は、つぎのようになっており、文学教育史をふまえて、氏独自の理論と方法とを提示している。文学教育について総合的かつ体系的に論述した書物であった。 第一章 問題史的展望荒木氏の実践報告以来、文学教育への関心が高まりかけていたこともあったが、何よりも本書の理論的な水準の高さが教育界の注目を浴びたのであった。時代との幸運な出会いは別にして、本書が文学教育を一歩進めた実質は何であったのであろうか。それは、(1)鑑賞活動における読者の存在を明確化させようとしたこと、(2)準体験理論を提起したこと、(3)その上にたって追体験理論を批判したこと、(4)文学教育の目的として「文学的思考」の育成を提唱し、ある程度の実践を生み出していったこと、などにある 〔132-134頁〕 読者の鑑賞によって文学は成立する 一九五一(昭二六)年五月に著わした『文学序章』(磯部書房)において、熊谷孝氏は、岩倉政治の『空気がなくなる日』の場合の例をあげて、小学校二年生と六年生、その男子と女子、女学生と大人などの読み手によって、作品の享受のしかたが異なっているということを詳しく説明している。「だれもがこの作品をおもしろいと思って読んでいるわけなのだが、おもしろいということの内容はめいめいに違っている」と指摘し、それは「読者めいめいの体験のへだたりがもとになっての違いだ、ということになろう」(同前書三八~三九ページ)と結論づけている。 こう見てくると、体験のちがいというのは、つまり体験の仕方そのものの違いということだし、また、生活の実感――思想の違いということにもなろう。作品(作者による表現)は一つだが、その内容は、相手によっていろいろさまざまに理解されてしまうわけだ。作品の内容が一つだと考えるのは、事の実際に反している。 作者の表現と読者のちがいを「事実」として認識していくことから論をすすめているのである。この違いの事実を認めることによって、「読者」の作者に対する相対的な独自性が浮かびあがる。鑑賞活動における読者の存在を明確にさせうるのである。読者が主体をかけて「読みぬく」ことの意義づけも可能になる。 熊谷氏は、『文学序章』では、「読者によるおぎないなしに、文学の表現は成り立たない。そして、また、読者がどんなおぎない方をするか、ということは、読者その人の体験できまる」(同前書 五六ページ)と読者の作品に対する働きかけ、つまり、「おぎない」によって文学が成立するということを指摘している。 この読者論的な発想は、一九五五(昭三〇)年の『文学教育の理論と実践』の「解説」(この「解説」は、部分的な補正がなされて、『文学教育』に第一章問題史的展望として位置づけられている)において、つぎのように、作品は読者の理解をまってはじめて内容をかちえる、という読者の位置づけを明確にした論へと深められている。 作品そのものはあくまで媒体です。表現の媒体であり理解の媒体であるこの作品は、読者の理解(鑑賞)をまってはじめて内容をかちえる(感動をよびおこす)のです。むろんこの媒体は、読者の心に、ある一定の感動における理解をよびおこすように加工された媒体なのですから、作者がツボをはずさないかぎり、それは一定の読者に対してはある一定の感動をもたらすはずのものなのです。が、作者の心と読者の心がしっくり結ばれるという、こうした場合でも、それは、感動をよびおこす力が作品のなかに封じ込められているからのことではありません。作品そのものはあくまで媒体です。ズサンなたとえで恐縮ですが、雷をよびおこす力が一方的に陽電気の側にあるとか陰電気の側にあるというのでは筋が違うでしょう。どちらか一方に……ではなくて、この両者がぶつかる(引きあう)ところに雷という放電現象が発生するように、読者の感動も、このふれあい(つまり読者の作品鑑賞)において成り立つのです。それを一方的に、作品にひそんでいる力がと考えるのは当たらないと思います。(『日本児童文学大系 6』三三七ページ)読者の体験(思想)によって理解(鑑賞)が異なることを認めることによって、熊谷氏は、雷の放電現象にも似た読者と作品との触れあいにおいて作品(文学)が作品(文学)として成立するという力動的な鑑賞活動の実態をとらえることができたのである。 鑑賞活動における読者の独自性の確認は、のちに文学の授業の実際を大きく変えていくことになるはずである。また、熊谷氏自身は、このように鑑賞活動を把握することによって、氏の独創的な準体験理論を導きえたのである。読者の存在を明確化したことの意義は大きい。 〔134-136頁〕 準体験 熊谷氏は、『文学序章』において、ある一つの共通の体験を持たなくても読者が「わかる」のはなぜか、という問いを出し、「それと同じような雰囲気を味わったことのある人なら」(同前書 六一ページ)説明のしようでわかるのであり、それは体験の共軛性があるからであると答えている。 文学の表現が成り立つのも、いわばこうした意味での体験の日常的共軛性――必ずしも共通性ではない、共軛性である――においてである。文学に描かれた人物の体験そのものに読者の体験と触れあえる何かがある、その〝何か〟が共軛性なのである。「わかる」のは体験の共軛性があるからである、という認識を土台にして、氏は、文学体験の実相として「準体験」を見いだしていく。 人々は、文学作品の享受において、新しい人生を経験する。それは或いは、事がらそのものとしては自分の過去の体験につながるもの――経験ずみのことであるかも知れない。だが、当面した問題にたいして選んだ解決のコースは、かならずしも作中の人物のそれと同一ではない。この二つのコースは、或る点で触れあい、また或る点で交錯していながら、それでいて、けっして一つのものではない。そこには別の人生がある。けれど、いま、自分は、この人物と連れ立って歩くことで、ナマの現実の体験とは別の体験を体験してみることが出来るのである。それで、歩いてみて、もしこの人生コースが楽しいもの(生き甲斐のある人生)だということになったら、この新しい生き方を、自分自身の現実の生活のなかに持ち込むことも出来るのである。日常的体験の共軛性において、作品に表現された人生を体験することが「準体験」なのである。ここで熊谷氏のいう準体験には二面性があるといえよう。それは作中人物の体験とは異なった日常体験をしている読者が作中人物の体験を体験しうるという点である。 さらに、氏は『十代の読書』(一九五五年)において、 体験してみる、とはいっても、これは言葉の通路とした体験(――言葉による行動の代行)であって、体験そのものではありません。なまみの体験とはべつのものです。一種の体験(――体験の仕方)であるとはいえましょうが、なまみの現実体験とはやはり違います。体験に準ずる〝体験〟――〝準体験〟とでも名づけたらよいでしょうか。文学を読むというのは、そこで、つまり、準体験することです。(同前書 一四三ページ)と言語と準体験との関係について述べている。ことばは体験の共軛される部分をとらえたものであると考えるのである。文学における体験は言葉を通路とする体験であり、言葉による体験は日常の生活体験とは異なることを指摘し、「体験に準ずる〝体験〟」と定義することによって準体験の実相をより精確にしえたのである。ここにはすでに、物・事象と言語による信号とを分けることにその言語理論の核心を見いだした第二信号系理論への接近を見いだすことができる。(1) 〔136-137頁〕 追体験論批判 作者とは異なる生活をしている読者がことばをとおしてふれあえることを、このように「準体験」として把握することによって、熊谷氏は文学享受の実相の一面を究明しえたのであり、またそのことによって追体験理論を批判しうる立場へも進み出たのである。 熊谷孝氏は、戦中・戦後を通じて指導性を発揮し影響も広かった西尾実氏の「読み」の理論が〝生哲学〟に依拠した追体験論であるとして批判していく。 西尾実氏が「日常生活としての具体的な国語活動を対象とする新領域への拡張が急務であってこれを基底とし、文芸をその頂点とする三角形に図形化して考えることが出来よう。/従来の国語教育、わけても読み方教育は、この三角形の頂点にのみ囚われて、基底と基底の上のひろがりに注意しなかったものといってもよい」(「読方教育論」『国語科学講座』明治書院 一九三四・七 〈『文学教育の理論と実践』三三~三四ページによる〉)と提唱されたことに対して、熊谷氏は、生活の基底に目を向けかえようとする点を肯定的に評価しつつも、その「生活の基底」が「生哲学ふうの形而上的・非歴史的な〝生〟にほかなりません」(「解説」『文学教育の理論と実践』三三一ページ)と批判しておられる。西尾氏の生活重視への志向は認めるが、生活の歴史性無視は観念的な教養主義であるとするのである。 そして、さらに西尾氏の提案における生活と言葉との関係の認識が観念的であることをつぎのように指摘している。 人間のさまざまないとなみのなかから〝言葉のいとなみ〟だけを抽象して、文学のいとなみは(それが言葉の芸術であるから)〝言葉のいとなみ〟の一種であり、したがって文学の基底は日常生活における言葉だ、というのでは、これは論理の横すべりではないでしょうか。その意味では、むしろ文学の基底・基盤は人間の具体的な社会生活そのものである、といわなくてはなりません。文学は、言葉によるいとなみではないのです。正しくは文学の言葉の基底は日常生活の言葉である、というふうに語られるべきではないでしょうか。(「解説」『文学教育の理論と実践』三三二ページ)この指摘は鋭い。西尾氏の考える生活が非歴史的であること、文学の基底は具体的な社会生活そのものであること、文学のことばの基底は日常生活の言葉であることの指摘のあと、熊谷氏は、 鑑賞をふかめるとか解釈するとかは、したがって(西尾)氏の場合、〝追体験〟以外の操作を意味しているとは考えられない。生は生によってしか理解されえないし、その理解の方法は、追体験以外にはありえぬ(ディルタイ)わけなのだから。(『文学教育』二三ページ)と西尾氏の論が追体験論であると言っている。また、「生活による生の追体験のための作品享受という追験主義(=生哲学)の文学観や鑑賞論」(「文学教育をめぐって」『講座日本語Ⅶ 国語教育』一九五六・一、大月書店 一一二ページ)であるとも言っている。西尾実氏の論は追体験であるから誤っていると言うのである。 もっとも、後に「準体験という、このまことにインスタントな概念は、じつはディルタイふうの生哲学方式の《追体験》概念への批判として提起した概念にほかならないことを、僕としてはこの機会にハッキリさせておきたい、と思います。」(『芸術とことば』一九六三・四 牧書店 二〇一ページ)と述べているように、準体験論の提出そのものが追体験論の批判になっているということは言える。「準体験論」は、作者からの読者の相対的独自性を位置づけたことによって、「追体験論」を論理的に批判していけるはずであるが、その仕事は興味深い課題として残されている。 ただし、熊谷孝氏は追体験論の代表者として西尾実氏をとりあげたのであるが、文学教育史研究が不十分な時代であったとはいえ、追体験論の批判を西尾実批判のみによっておこなわおうとしたことは、対象を狭く限定しすぎたきらいがないでもない。(2) 〔138-142頁〕 文学的思考 文学体験のメカニズムを解明した上で、熊谷孝氏は文学教育の課題と方法について考察を進めている。 目標については、 文学教育のめざすところは、文学的思考において生活できるような人間をつくり上げることであるはずだ。(「文学と文学教育」『教育』一九五四・一二 国土社 一八ページ)と明解に定義している。つづいて、 たんなる特殊を典型に変え、具体的な形象においてものを見、かつ考えるという、この生き方こそ、文学教育のもたらすところのものである。それは、他面、すぐれた文学の読者をつくり上げるということである。(同前)と文学的思考について説明している。「すぐれた文学の読者」に触れている点は、荒木繁氏の実践の背景をなしていたものと同じ「国民文学」論議の時代を反映していると見ていいだろう。 氏は、また、「準体験的な文学的思考」という言い方で、つぎのようにも目標を説明している。 文学教育は、民族教育としての人間教育の一環であり部分です。……中略……文学的思考とは、生活のうちそとを形象化し典型化してとらえる認識の方法である。その文学的思考力を育てることに、熊谷氏は文学教育の目標を見いだしたのである。学習者が生活に働きかけ、生活をとらえなおす力を育てようとする点において、それまでの「意識の変革」をめざした文学教育論を一歩つきぬけたものであった。 熊谷氏は、氏のめざす文学教育の一つの成果として、つぎの『教育三法をめぐって』と題した、某私立女子高二年・熊谷英子さんのアピール(生徒会誌掲載)をあげている。これによって熊谷氏のいう「文学的思考」の具体例を見ることができよう。 やっぱり私たちで決めなきゃ……ここには、形象化と典型化による準体験的認識の表現と訴えかけがなされている。任命制教育委員を任命制クラス委員に類比させて架空の任命制クラス委員の生徒会を設定し、その状態を形象化して描いている。教育委員会を自分たちの生活に身近な生徒会のことに置きかえて描く描き方に想像力が豊かに働いている。「教育三法」の本質をとらえて、自分たちの生徒会のあり方の場合に典型化して描いている。形象化と典型化による認識は文学的認識そのものであるから文学的認識による表現(作文)と言ってもいいであろう。 のちに、文学作品を読んで得られる感性的認識は理性的認識(抽象的認識)にまで高められなければならない、そのためには感想をことばで書く(抽象化する)ことは有効であるという波多野完治氏の論(「文学教育はなぜ必要か」)に対して、熊谷氏は、つぎのように反論した。 抽象し放しでなく、それをもう一度日常化する(生活の場にかえしてくる)という操作が、その作品の表現を文学にするのです。いいかえれば、典型の認識をそこに実現させるのです。指導の手がその点にまで及ばなければ、それは文学教育の名にあたいする文学教育ということはできません。(「わたしの文学教育論――小著『文学教育』への批判をめぐって――」)この反論は、熊谷氏の文学教育論の一つの成果が『教育三法をめぐって』であることの意味を詳しく説明している。つまり、文学作品を読み、その鑑賞の定着(感想文)だけにとどめないで、さらに日常の社会生活へかえし、「文学的思考」で生活を見る力を育てているのである。感動を高めるだけでなく、その感動にいたった文学の方法を獲得させ、生活を見ぬく目を育てていこうとしているのである。 文学教育についての熊谷氏の追求は、このような目的観の確立によって一つの到達点へ辿りついたのである。 〔158-159頁〕 現実生活の認識 熊谷氏の「準体験」概念の提出、大河原忠蔵氏の「状況」概念の提出は、ともに文学を切りひらいていくものとして独創的であった。それを基軸にして、二人はそれぞれにその時代・社会の教育に取り組む中で理論を展開させていったのである。 両者の文学教育論がともに荒木氏の実践報告「民族教育としての古典教育」に触発され、あるいは媒介にして生まれたことはすでに述べた。 熊谷氏の「文学的思考」、大河原氏の「状況認識」の特質は、それぞれがとりあげている作文(『教育三法をめぐって』と準看護婦の作文・「食い逃げ」)に増幅された形であらわれている。 熊谷氏は「文学的思考」として、より文学的・普遍的なものを追求している。作文には任命制クラス委員が決められたあとの教室風景が想像力によって形象的に描かれている。「……先生がこうおっしゃったとします」という風に仮定のことを描いている。虚構の方法を意識しているのである。「文学的思考」は方法的に巧みに生かされ、読み手の想像力へ訴えている。しかし、どれだけ本人の心の底からの表現になっているかと考えると、「教育三法」と本人の内的な緊張関係はあまり把握されていない。 それに対して、大河原氏の上げる作文では、書き手の欲望や衝動との緊張関係において描かれている。自己の体験したことを再現していく、そのしかたを「状況認識の方法」で行うので素材となるものはあくまでも生徒の体験である。自己の生活を状況認識の方法でとらえかえすというところに重点がおかれている。 とはいえ、二人はそれぞれに個性的な理論家であり実践家であるにもかかわらず、二人の理論と実践を歴史的にあとづけてみると、案外に共通性のあることに気づかされる。文学教育の目的観において、ともに、一九五〇年代の「意識の変革」を越えようとして、「文学的な認識力」の育成をめざしている。それぞれは「文学的思考」と言い、「状況認識」と言ってともにその内実は自立しているが、「文学的な認識力」の育成をはかるという本質的なところでは一致している。 したがって、その指導内容の、 (1) 文学作品を読むことによって、作品から文学的な認識方法を学ぶということなどにおいても共通しているのである。二人は、それぞれの進み方によって、ともに、「意識の変革」から「文学的認識」へと文学教育を一歩進めたのである。さらに、六〇年代の後半から七〇年代にかけて、熊谷氏は「文体づくりの文学教育」を、大河原氏は「映像的認識の文学教育」へと理論を展開している。 注 第Ⅵ章 読者の定位への試み 〔179-132頁〕 読者の発見 読者の享受によってはじめて文学作品は文学として成立するという考え方が、一九六〇年代から一九七〇年代にかけて理論化され、実践されていった。(1) 問題意識喚起の文学教育論は、生活問題意識と関係づけつつ作品を読ませるという意味において、「読者」の定位への試みであった。 読みの活動を、作者の(文学)体験とは異なる準体験として把握することによって、作者からの読者の相対的自立として説明しようとしたのが熊谷孝氏の準体験理論であった。 勤評制度の実施(一九五七年)に見られるような教育への国家統制が進み、教育課程の改訂・道徳教育の強制(一九五八年)などによって、教育内容への統制が強くなろうとしていたとき、「読み」において、書かれていることをそのとおりに受け入れるのではなく、批判的に読みとる主体性のある読者を育てようとする試みが、「批判読み」の実践化と理論化として東京都教組荒川教研国語部会によってなされていた。 一方、外山滋比古氏は、「外国語の読書」をしている間に、読者の位置について気づき、その理論化を試みていったのである。大衆社会化状況と、週刊誌・テレビの全国的な普及という情報社会化時代を背景として、一九七〇年代になると、氏の論は多くの教師たちの共感を得ていった。 注 第Ⅶ章 読解指導と読み方指導の中の文学教育 〔210-211頁〕 読解指導の時代 「読解」中心の「読むこと」において、文学は読解教材の一つとして位置づけられた。 六〇年代には、読解指導・読み方指導のなかに文学教育を含めて考える、倉沢栄吉氏・教育科学研究会国語部会・輿水実氏の考え方が国語教育界をリードしていった。当時の中心にはなりえなかったが、読解指導から切りはなして文学教育独自の内容と方法とを探求していったグループに日本文学教育連盟、西郷竹彦氏を中心とした文芸教育研究会、熊谷孝氏を中心とする文学教育研究者集団、日本文学協会などがある。文学を読解指導としてではなく文学教育として扱おうとする考え方は、七〇年代になって多くの人々に受け入れられるようになり、実践されていくことになる。 第Ⅷ章 文学教育運動の展開(一) 〔280頁〕 文学教材の自主編成 一九六〇年代をおおった読解指導万能の風潮に対して、児童言語研究会と日本文学連盟とは、文学教育の可能性を追求しその現実化を教育運動として展開した。 児言研の「一読総合法」は、それまで固定的に考えられがちであった「読み」の指導過程を相対化し、新しい指導過程の可能性を提示することによって文学の授業過程を豊かにするものとなった。 文教連の「教材選定と配列」への一連の仕事は、「自主編成」という言葉が教師のあいだになじみにくいような状況において、それを克服し、教師自身による文学教材編成の試案を提示し、教師たちに自信を与えるものとなった。 文教連の一員として活躍していた熊谷孝氏と西郷竹彦氏は、一二九六〇年代に、それぞれの文学教育理論を深化充実させて体系化し、それぞれに、文学教育研究者集団と文芸理論研究会という新しい集団に拠って文学教育運動を展開していった。 第Ⅹ章 文学教育運動の展開(二) 三 熊谷孝の「国語教育としての文学教育」 〔311-313頁〕 国語教育構想 第二信号系理論の摂取をとおして、文学教育論を深めようとしていた熊谷孝氏は、一九五八(昭三三)年八月六・七・八の三日間にわたって行われた第七回・全国青年教師連絡協議会(愛知県知多郡河和町)の国語分科会で第一日に「国語教育としての文学教育」という基本的な提案を行った。そこで、つぎのように、国語教育の中の構造的な関連なしには文学教育はなしえないという着想を述べている。 文学教育というものが、その儘のかたちで国語教育である、文学教育はそれとして文学教育である。……中略……熊谷孝氏によれば、この河和での提案が契機となって、文学教育研究者集団(略称、文教研)が、一九五八(昭三三)年一〇月に結成された。(5) 熊谷孝氏は、一九六五(昭四〇)年八月にこの着想を「国語自体の教育としての文学教育」として説明し、「芸術教育としての文学科」独立論を批判している。 文学教育ですが、それをある時期(ある段階)以後において、文学科というひとつの独立教科として分離させることを、わたしたちも考えているわけです。が、しかし、それが本格的に国語教育とは目的を異にした教育活動だから、「分離した方がすじが通る」というような発想に対しては真っ向から反対です。くり返し述べてきたように、文学教育は国語教育以外のものではないからです。熊谷孝氏は、文学科を分離する時期を中三・高一あたりとしている。 翌年の八月に、氏は、この考え方を構造化してつぎのように示している。 1 国語教育の基礎構造熊谷氏の構造論は、「国語の教育として」文学教育を見ているところに特色がある。〝ことば〟の教育の側面を切り落すならば、文学教育は成立しないと主張しているのである。一九七〇年代に展開される、文体教育としての文学教育の着想が、すでにこの時点で提出されている。〝ことば〟の信号操作を概念的操作と形象的操作の側面に分けてとらえ、それらの操作の全体として文学を把握している。 文学は「ことばの芸術」である。ことばの本質や機能に対する十全な考察なくしては文学教育は成り立たない。熊谷氏の国語教育構想は、〝ことば〟の本質を生かし、しかも教室の実際に即したものとして注目すべきである。 注 〔313-315頁〕 第一信号系と第二信号系のあいだ 熊谷氏の国語教育構想の基底には、第二信号系理論の摂取による氏独自の〝言語観〟がある。氏は、〝ことば〟が感性的な認識を媒介することを強調する。 (1)感性的な体験(第一信号系における体験)というものも、成人の場合、第一信号のほうだけで出来あがっているのではない、ということ。第二信号系の基礎になるものは、つねに第一信号系であるが、「ことば体験」をする人間は、感性的な体験のしかたを第二信号系によってもコントロールされるのである。豊かな「ことば体験」をすることが、豊かな感性的認識力を育むことにつながる。そこで、熊谷氏は、感性的な体験(第一信号系)と結びついた「ことば体験」の必要を説くのであり、たえず感性的な体験やイメージ体験を結びつけた「感情まるごと」のことば体験をさせるのが文学教育であると説くのである。 そして、文学教育の目的は、「読者の自我を感情まるごとに変革していく準体験」とともに、他者の体験や作品に表現されている体験を「理解できるような感情の素地」を育てることにあると述べている。 作品に表現されているある体験やある感情――それを理解できるような感情の素地を学習者の自我の内部にさぐり求め、それを一まとまりの感情体験にはぐくんでいく、という姿勢が教師その人に必要とされるのではないか、ということなのだ。(熊谷孝「文学教育の現状と問題点」『文学』 一九六三・一〇 岩波書店 七六ページ)さらに、氏は、第二信号系としての「ことば」は具体的には民族語・母国語のことであり、時間的なつながりと空間的な広がりにおいて民族の体験が要約されており、歴史のおもみを感じさせるものであると述べたあと、そのような民族の体験を「私」自身の体験として成り立たせていくところにも文学教育の課題があると言っている。 ……中略…… ことばを媒介にして民族の体験を自己の体験として成り立たせうるように発達させていくのが文学教育であると言っている。ことばに凝縮された民族の体験は、現代のわたしたちの身のまわりの自然や人間についての感覚のしかた・認識のしかたをコントロールし、より豊かにし、日本人の「ものの見方」を育てていくというのである。 このような、「ことばと人間」に対する考え方が熊谷氏の文学教育構造の基底にある。当然のことながら、ここから氏の教材論も導かれている。 〔315-316頁〕 教材化の理論と教材体系 熊谷氏によれば、文学体験の素地を誘発するような、作品の選択、作品の教材化を教師はひとりひとりの責任において行うべきなのである。 ……中略…… この考えかたに基づいた教材体系のユニットを、中学後期に例をとって、文学教育研究者集団の高沢健三氏は、つぎのように示している。 ……中略…… 教材の選択には文学史的観点が働いており、外国の作品、わが国作品ともに近代の古典的作品が選ばれている.「労働」ならば「労働」ということを、どのような発想でとらえ、どういう志向で、どのように「ことば」に切りとっているかについて学ばせ、それらの見方、切りとり方(いわば文体)を身につけさせようとする立場からの教材体系化である。ある対象についての知識を学ばせる知識教育やあることに対する行動のしかたを学ばせる道徳教育とは違った、ことばによる人間理解のしかた(文体)を身につけさせようとする体系化になっている。 ……中略…… このような歴史との関わりにおいて、文学を状況の典型として読もうとするところに、熊谷氏たちの教材解釈の特徴がある。 〔318頁〕 文体づくりと総合読み 理論の硬直化を排する熊谷氏は、一九七〇年代にはいって、文体づくり(個性的なものの見方のできる人間)を文学教育の目標としてめざし、総合読み(受け手の印象をたいせつにし、その印象を点検する読み)を文学教育の方法として提唱している。「国語教育としての文学教育」論の方法面での実りある展開が期待される。 四 西郷竹彦の「関係・認識変革の文学教育」論 〔326頁〕 発想の原点 熊谷氏は、「かささぎ」ということばを手がかりに鳥の受けとめ方が定まってくることを語っていた。西郷氏は、「花」ということばに凝縮してきた日本人の美意識がわれわれの「花」観を方向づけることを語っている。熊谷氏と西郷氏は、別個に理論化を進めていったのであるが、「ことば」に民族の体験が凝縮されていると認識し、ことばを媒介にしてその民族の体験を現代においてあらたに受けとめていく主体を育てていくところに文学教育の目標の一つを見いだしているいる点は共通している。コメニウス以来、民族意識が高まっていく時には母国語意識が高まり、母国語にこめられてきた民族の思想がかえりみられていくのであるが、一九六〇年代の半ばにおいて、この両者が期せずして文学教育観の一面を共有していたことは注目しておきたい。 むすび――戦後文学教育の達成 〔384頁〕 文学機能論 一九六〇年代の第二次安保条約自然成立以後わが国は所得倍増政策によって急速に「モノ」の豊かな高度工業社会へと移行していった。消費が美徳であると宣伝される大衆社会的状況において、人間の画一化と分子化が進んだ。人間の行動において、無意識なところで主体的なものが疎外されていくような状況になっていった。相対的に安定した社会状況の中で個人としての人間は存在感が希薄になっていったのである。このような状況に文学教育の面から抵抗するためには、文学の読み手(読者、つまり学校では子ども)を受け身の状態においておくだけでは不十分ではないか、という反省と批判が生まれてきた。そして、子どもたちを文学の受け手にとどまらせないで、社会や子どもたちの現実に「文学的に」働きかける力を育てることへと注目していった。 たとえば、大河原忠蔵氏は、「微視的状況(身のまわりの欲望充足の対象)と巨視的状況(現代の動向)とが、重層的に、子どもの主体を包囲し、翻弄している。それらの状況を、日常的な眼でなく、日常的な眼とたたかう文学的な眼でとらえなおし、文学のことばで把握し、自己の小宇宙を、現実のなかに主体的に再構成させ、それを積極的な生き方の根拠にしていくこと、文学教育は、そこにさいごのねらいをおかなければならない。」(「状況認識と主題」)と述べ、熊谷孝氏は「文学の眼で自己内外の現実をみつめ、自他変革の姿勢で思考し行動を選びとれるような人間」(『文学の教授過程』を育てることの必要を説き、西郷竹彦氏は「関係・認識変革の文学教育」を説いた。 〔390頁〕 文学鑑賞論 「読者を読む」読み方がクローズアップされてきたのには三つの大きな理由が考えられる。 一つは、戦前の上意下達的なタテ型社会における「書かれているとおりに受けとる」非主体的な読み方への反省と批判である。不合理なことを信じこませる軍国主義化の国語教育への批判に出発していたのである。ただ受けとるだけでなく、書かれていることに対して意味づけることをとおして読者を主体的にしようとしてのである。熊谷孝氏の準体験論創出過程には、この批判意識が強く働いている。 二つは、「読み」に対する認識の深化である。印刷術の発達によって書き手と読み手は分離していった。その過程で活字になっていることはすべて正しいと思いこむ活字信仰も生まれてきたが、読むことを自覚的に行い、書き手から自立して意味を見いだしていく近代読者が育っている。そのような読者は、逆に図書選択などをとおして書き手を方向づけることもする。外山滋比古氏は、このような書き手と読者の関係の認識に立って読者論を展開した。 三つは、社会構造の変化にともなってことばの意味が多様になっていったことである。多様な価値観が同時に存在している社会になってことばの意味も多様に受け取られるようになると、読者の多様な意味づけを積極的に肯定しようという考え方へ変っていった。そのための意味論研究が盛んになった。読者の生活問題意識を大事にし、それを手がかりにして読みを深めようとする方法が荒木繁氏によって提唱されたのが、「読者を読む」読み方の方法論的な自覚のもっとも早いものである。 ……中略…… 熊谷孝氏や西郷竹彦氏による「読みの体験」の機構を解明する試みは、「読者を読む」読み方、つまり、作者・作品(ことば)からの読者の相対的自立を促すためになされてきている。 熊谷孝氏の準体験論は、戦前のディルタイ流の追体験論を核とする解釈学を批判的に乗り越えようとして生み出されたのであった。読むということは、作品を媒介にして作者の体験と同じ体験を読者が追体験的にくり返し共鳴していくのではなく、ことばの共軛性を手がかりに、作者の体験と共軛できる部分でのみ読者は体験していくのであり、己れを空しくして作者と一体化するのではない、と熊谷氏は説き、そのような読者の体験を作者の体験に準ずる体験すなわち「準体験」と名づけ、読者の相対的自立へ道を開いたのであった。 |