「読者論」の吟味  
読者論ノート――W.イーザー著『行為としての読書』の批判的検討 (9)
井筒 満

1995.6 文教研機関誌 「文学と教育」169)
   

  10 ストラテジー論(2) (続き)

 前回は、イーザーのストラテジー論では、作中人物は作者の単なる操り人形になってしまうのではないかという点を指摘した。また、イーザーと対置して、熊谷孝氏の創作過程論を紹介した。熊谷氏は、さらに、井伏鱒二の『多甚古村』に即して次のように指摘している。(以下の部分は、「V 読者の現象学」におけるイーザーの見解を検討する場合にも参考になるので少し長いが引用しておく。)
 「『多甚古村』の主人公はこの村の駐在所の甲田巡査だと書いている解説や解題をよく見受けるが、彼は主人公ではないし、また作者の行動の代行者でも意見の代弁者でもない。主人公がほかにいる、というんじゃなくて、駐在さんはナレーターであり狂言回しなわけでしょう。作中人物としての彼は、まさに狂言回しそのものなわけですね。」(「銃後意識から不沈空母意識へ」/「文学と教育」一三一号、以下同じ)
 『多甚古村』(十二月二五日の項)からの引用。「戦死した婚約者の後を追い、若い女が薬品自殺を遂げた……。(中略)幼な顔の残っているまだ二十にならない女である。『この場合、自殺の可否など問題ではありません。彼女が未来の夫の傍にいけると信じ、それを楽しみに死んだ気持ちに美を感じます……』と私が言うと、有賀さんは、「でも、若い身でよく思いつめたものですね。何かほかに、別の縁談ばなしでもあったのと違いますか』と言った。」
 「贅肉をすっかり削ぎ取った、それだからこそ行間に多様で多義的なものを感じさせる井伏調の文章ですが、これは甲田巡査の日記の一節だという設定なのですから、叙述全体が彼のナレーションだと言えるわけでしょう。それはそうなんだけれども、とりわけ『戦死した婚約者の』に始まって、『まだ二十にならない女である。』に至る地の文は、ナレーターとしての甲田巡査による語りの部分だというふうに言えるでしょう。それに対して、『この場合、自殺の可否など問題ではありません。』と語り始める甲田巡査の言動そのものは、いってみれば狂言回しとしての役割を担った、作中人物としての彼の姿を示すものなんでしょうね。ロマンチスト甲田雅一郎の、ここでのこうした発言が、苦労人の『有賀さん』の判断なり意見を引き出すことになるのですから。」
 「『何かほかに、別の縁談ばなしでもあったのと違いますか』というこの苦労人らしい、その限り幅のある見解に接 して受けに回った“若い”甲田雅一郎が、そのあとどういう反応を示したかはその日の日記の叙述(つまりナレーション)が『有賀さん』の発言をもってピリオドというわけですから、分からないといえば分かりません。が、読者は考えるでしょう。自分のイマジネーションを掻き立てて考えるでしょう。ナレーションが有賀発言で終わっている、ということの意味についてなのですが。ピリオドの先の、空白の書かれていない部分について、書かれてはいないが描かれている若い雅一郎の想いについて、きっと考えてみるだろうということなのですが。井伏文学というか鱒二の小説の本来の読者は、二人の判断のどちらかに軍配を上げるような真似は決してしないだろうと思います。自分が一緒に考え、また話し合うナカマとしてそこに参加する、という姿勢をとるだろうと思います。むろん、表現場面の条件を押さえた上での参加です。井伏文学は――この小説の場合も例外ではなく、読者へ向けてそういう姿勢を求めている文学だし、またそういう文体になっている作品だと僕は思うんです。」
 「ところで、作中のこの二人は、この娘さんの死そのものが戦争の現実そのものだ、というところまでは考えていないようです。あるいは、そういうふうには考えていない、ということです。死を選んだ娘さんにしても、であります。……戦争――戦争の現実というものが事件の“背景”として、あえていえば“遠景”として考えているようなきらいがある。けれども、それが読者の視座においては(といっても、読者によりけりですけれども)、この二人の作中人物の判断とつながるところはあるものの、彼らの自意識を超えて、つまりトータリティーにおいて、こうした現実こそが戦争の一つの姿にほかならない、という意識のありかた、批判につながっていくものを自己の実感として受けとめる、という関係ではないのですかしら。」
 イーザーは、「テクストの〈内部構造〉」は、「語り手、登場人物、筋、そして読者の想像にゆだねられる部分」という四種類の異なった遠近法の組織体であり、これらの各部分が、「相互に働きかけ合」う関係にあることを指摘していた。だが、遠近法の組織者である作者を、万事お見通しの存存のように位置づけ、作品の創作過程が、作者と作中人物、作者と読者との対話過程において進行しているという点にイーザーは目を向けていない。
 それに対し、熊谷氏は、作者をあくまで「媒介者」として位置づけている。作者によって性格を与えられた作中人物たちは、「やがて自分自身の性格にしたがって行動をはじめるように」なるのだが、この作中人物たちの「抵抗」は、実は、構造的には、作者の内なる読者(=本来の読者)による「抵抗」なのである。このような「抵抗」による「揺さぶり」を契機として、作者は、本来の読者の生活実感やその体験を自己に媒介し、また、「読者相互を媒介しつつ、そこに相互の体験の交換・交流のための伝え合いの場を用意」していくわけである。 『多甚古村』の表現構造に関する熊谷氏の分析は、以上のような創作過程論を前提としている。論点をなぞっておこう。
 @.井伏は、甲田巡査を、作者の行動の代行者や意見の代弁者としてではなく、(狂言回し兼ナレーター)として描いている。(『井伏鱒二』における次の指摘も参考になるだろう。「駐在さんの場合は、これも都会的インテリでも異邦人でもない。学歴的にいえば、おそらく旧制中卒というところですか。根っからの村の人間というんじゃなくて、その意味では外来の駐在所勤務の若い警官です。が、好事家の場合と違って、一種の村の定住者ですし、村人である他の作中人物の中にすっかり融け込んでいます。/そのことを象徴しているのは、村役場の今ふうに言えば用務員である“温帯さん”との交遊関係でしょう。イデオロギーというより、プシコ・イデオロギーですが、この駐在さんの倫理感覚は、同じ警官でも特高的なものを受け付けません。で、そういう人物がナレーターであり狂言回しであることによって、読者を作中人物のメンタリティーにぐっと接近させずにはおきません。」)
 A.全体が彼のナレーションではあるが、「とりわけ、地の文は、ナレーターとしての甲田巡査による語りの部分」であるのに対し、「甲田巡査の言動そのものは」他の作中人物の「判断なり意見を引き出す」という「狂言回しとしての役割を担っ」ている。
 B.「空白の書かれていない部分について、書かれてはいないが描かれている若い雅一郎の想いに」ついて、読者は、「自分のイマジネーションを掻きたてて考える」こと になる。そのような思索を自ずと促すような表現になっている。
 C.「表現場面の条件を押さえた上での参加」であるこ とが前提だが、井伏文学は、読者へ向けて、「自分が一緒に考え、また話し合うナカマとしてそこに参加する」という姿勢を求めている文学である。
 D.そのような姿勢において作品に参加することによって、「読者の視座」において、「この二人の作中人物の判断とつながるところはあるものの、彼らの自意識を超えて、つまりトータリティーにおいて、こうした現実こそが戦争の一つの姿にほかならない、という意識のありかた、批判につながっていくものを自己の実感として受けとめる」と いうことになる。

 「四つの遠近法」と「超越的視点」というイーザーの見解と熊谷氏の見解とを対比してみよう。
 「……選択された社会規範ないし文学上の引喩は、人物、筋、語り手などの構成要素に振り分けられ、一定の価値判断が加えられる。……原理的には二種類の〈選別〉がある。すなわち、選択された規範は、主人公か脇役のいずれかによって代表される。主人公が規範を代表する場合は、脇役が規範に沿わなかったり離反したりする。脇役が規範を代表する場合、主人公はおおむね準拠枠に対して批判的な見地をとる。」(『行為としての読書』 P 一七五〜六)
 前回も引用した部分である。イーザーのように考えた場合、読者へ向けて、作中人物とともに、「一緒に考え、また話し合うナカマとしてそこに参加する」(C)ことを求めている、『多甚古村』のような文学作品の表現構造・文体を明らかにすることができるだろうか。イーザーは、現実の特定の面しかとらえていない規範の代表者として、作中人物や語り手を取り扱っている場合が多い。単純化して言えば、その限界を読者が見抜くべき対象として――読者が高みにたって見渡し吟味する対象として――作中人物を位置づけているわけだ。
 だが、@Aの熊谷氏の指摘で明らかなように、『多甚古村』の「甲田巡査」はそのような観点では把握できない。狂言回し兼ナレーターとして設定された「甲田巡査」の人間主体を通してこそ初めて見えてくる現実があるわけだ。あるいは、「甲田巡査」との関わりをとおしてこそ引き出される他の作中人物の内面がある。また、それとの対比において、「甲田巡査」の生き方を規定しているものがいっそう良く見えてくるわけだ。もちろん、Dで指摘されているように、「甲田巡査」の「自意識」と「読者の視座」に おいて見えてくるものとは同じではない。だが、「読者の視座」は、この作品の場合、すべての立場を「等価」にすることによって形成されるのではなく、「甲田巡査」――狂言回し兼ナレーターという媒介者である――との対話を中軸とした読みの過程において形成されるのである。
 「甲田巡査」との真の対話を媒介にしてこそ、「甲田巡査」 の「自意識」を超えて、「トータリティー」において戦争の現実を把握しえる「読者の視座」が形成されるのである。
 この「戦争の現実」とは、井伏世代にとっての「戦争の現実」ということであり、また、井伏という文学主体によって発見・創造された「文学的現実」としての「戦争の現実」ということである。したがってまた、「トー夕リティー」 一般などはなく、それはあくまで井伏世代にとっての「トータクリティー」であり、そのような 「トータリティー」を把握しうる「読者の視座」は、イーザーの言うような「あらゆる立場を吟味する超越的な視点」ではない。

 イーザーのストラテジー論を、彼が想定していると思われる創作過程論との関連でいままで見てきた。一応これで切り上げて、「V 読書の現象学」に進むことにしよう。


  11 読書過程と事物の観察

 「テクストが読者の意識に転移され翻訳される過程の相互主観的な構造を記述するのが本論の目標だが、ここで第一に問題となるのは、テクスト全体は決して一時にとらえることができないという事実である。この点、テクストは物とは違う。物は一般に全体を眺めることができるか、少なくとも全体を想定してみることができる。ところが、テクストという〈対象〉は、読書の連続したさまざまな相を通してしか想像することができない。われわれは事物に対しては、その外におり、テクストに対しては、いつもその中にいる。従って、テクストと読者との関係は、事物と観察者との関係とは全く異なる。主体-客体関係とは違って、読者は自分がとらえようとするものの内部で、遠近法の視点をとりながら移動して行く。視点の移動によって対象をとらえねばならないところが、虚構テクストの特徴といえる。」(『行為としての読書』 P 一八七)
 テクストという対象は、「読書の連続したさまざまな相を通してしか想像することはできない」という点に、イーザーは、「テクストと読者との関係」の特徴を見て、「事物と観察者との関係とは全く異なる」と指摘している。
 イーザーはここで、言葉の非同時性・継時性を問題にしているわけだ。この問題をぬきにして言表と読みの基本的な特徴を把握することはできない。だが、「事物と観察者との関係」とのこのような対置は果して正しいだろうか。
 戸坂潤は次のように指摘している。
 「健全な常識は、或る一定の物に就いての吾々の認識が、時と共に変り又豊富になって行くという事実を知っている。一遍々々の認識内容が、そのまま物そのものの終局の姿を反映しているなどと信じている者は、「素朴」な常識の所有者ではなくて、哲学概論家によって造り上げられた教室用のモデルとしての仮想敵か案山子だろう。吾々の意識は客観的存在そのものを、時の経つに従って部分々々に漸次に認識して行く。物は一遍に現象するのではなくて、次第に順を追うて反映されるのである。」(『科学論』青木書店)
 対象が、「次第に順を追うて反映される」という点においては、作品を読む過程も事物を観察する過程も共通しているのである。イーザーの対置の仕方は機械的である。しかし実は、作品を読む過程は事物を観察する過程・体験に支えられて進行しているのであり、後者も、前者を媒介されてより豊かなものへと発展するのである。
 日常性と文学性との相互関係に関するイーザーの見解とこのような機械的対置は照応しているように思える。私は「読者論ノート(5)」で次のように書いた。「文学作品がコミュニケーションの媒体となりうるためには、作者と読者とが共通する客観世界の中に生き、行動主体としての自分の課題意識によって対象化した客観世界(=現実)を、広い意味で共有していることが必要だ。この点に関しては、日常的なコミュニケーションと文学的なコミュニケーションの間に違いはないはずだ。そして、こういう連続面をふまえてこそ、逆に、文学的コミュニケーションの独自性も明らかに出来るはずだ。」
 「われわれは事物に対しては、その外におり、テクストに対しては、いつもその中にいる」とイーザーは言うが、事物の観察も作品の読みも、「客観世界の中」で、客観世界の一部である私たちによって行われているわけである。 読者の行為の特徴を把握するためにもこの前提を忘れてはならない。
 「事物と観察者との関係」についてもう少しふれておこ う。「心理学」(乾孝・中川作一・亀谷純雄共著/博文堂/一九八九年)では次のように指摘している。
 「われわれの視知覚は、鏡がモノを映すような受け身の働きではない。あるモノが見えるのは、眼球の微細な運動によって、“視線”がそのモノの輪郭を〈さわって〉いくからである。この眼球運動が、知覚野の中に、モノの形を分節化する(現わす)のである。」(P 二二七〜八)
 「人間らしい『注意』とは、対象世界の特性を見通す働きである。いわゆる『能動的注意」は、言語系からの自家刺激によって、目を引くものから、自分の視線を引き離す能動性を持たなければならない。……知覚法則へ依存された、対象世界の特殊性を自己の体験(言語系)をくぐって、再構成する。さらに目だたしさの中に秘んでいる目立たしくない筋道を発見する、これが、人間だけにできる『観察』 ということである。」(同 P 一六〇)
 「ここにおいて、主体は、もはや受身ではなく、確かめるべき差異、共通性を前提に、新たな課題のもとに対象への行為の筋道を発見することになる。」(同 P 一七二)
 モノの形は、視線がモノの輪郭を「さわっていく」という運動の過程を通して認識されるわけである。また、「自己の体験(言語系)をくぐって、再構成する」ことによって、「見る」という過程は、「観察」という過程に発展していくのだ。しかも「観察」は、「新たな課題のもとに対象への行為の筋道を発見する」という実践的な意味を持っている。
 イーザーは、「事物と観察者との関係」を「反映関係」(「主体-客体関係」)としてとらえ、それと対置するかたちで「読書過程」が、「テクストと読者との動的な相互作用」であることを強調している。だが、以前も検討し今回も確認したように、彼の反映荒川概念は機械的であり、だからこそ「事物と観察者との関係」 の動的過程がつかめないのである。だが、それを把握してこそ、文学作品の鑑賞過程の独自性も明確になるのである。


  12 読書過程の弁証法

 
@「ところで、テクストは、読書の移動する視点に対して、特異な超越性を示す。すなわち、読者は視点を、とらえようとするものの中におかざるをえないが、同時に目の届かぬところがでてくる。読者はたえずテクストの中で視点をずらして行くわけで、その限りでは読者はテクストを局面でしかとらえることができない。局面にはテクストの対象性(美的対象)があることはあるが、どれもその総体を示すわけではない。つまり、テクストの対象性は、読書の時間の流れの中に現われてくるもののどれとも同一ではなく、総体をとらえるには結合を行うほかはない。ひいては、これが読者の意識へのテクストの転移ということになる。ところで、綜合は一定量を読んでは行い、また次に進むといったものではなく、読書過程のどの瞬間でも続けられている。」(『行為としての読書』 P 一八八〜九)
 A「……個々の文が示す意味方向は、つねに次に来るものへの期待を含んでいる。フッサールはそうした期待を予覚(未来志向)と呼ぶ。この構造は虚構テクストのあらゆる文の相関体に固有のもので、相関体の連合効果は、個々の相関体がそのたびごとに生み出す期待を充足するよりは、むしろ絶え間なく変化させることになる。」「この過程で、視点移動の基本構造が重要な役割をもっている。読者がテクストの中にとる位置が、予覚と保有(過去志向)との頂点となる。一つひとつの文の相関体は、それぞれ特定な地平の展開を予示するが、それは直ちに次の相関体の背景に転じ、必然的に修正を加えられることになる。個々の文の相関体が次に来るものを志向しているといっても、それには限度があり、そこで呼び起こされる期待は、どれほど具体的であつても、どこかが欠落している。この欠落部分こそ、その補足が予測されるために、期待を生み出す働きをする。従って、新たに出現する相関体は、どれも(肯定的であれ否定的であれ)期待の充足であって、しかも同時に新たな期待を生み出す。」(同 P 一九一)
 B「そこで、文のつながりについて見ると、二つの基本的に相違した展開の可能性がある。新たな相関体が、先行する相関体によって生み出された期待を充足し始めると、それに対応して、可能と思われた意味地平の範囲は狭まる。これは、報道とか実用書といった特定の対象を明確にするところに力点がおかれている。/しかし、大部分の虚構テクストでは、文のつながりが大きくなるにつれて、相関体はあらかじめ生み出しておいた期待に修正を加えたり、裏切ったりする働きを見せる。この場合、相関体はすでに読んだ部分にも遡及効果を及ぼし、それを読んだときは別の面を浮き立たせる。さらに、すでに読んだ部分は、記憶の中に後退し、短縮して遠近法の背景となるが、つねに新たなコンテクストの中に移しかえられ、新たな相関体によって修正が加えられていく。その結果、すでに行った結合の再構成がうながされる。」(同 P 一九一〜二)
 「テクストにおいては、どの文の相関体もなんらかの欠落部分(空所)をもっているために、次の相関体の予測を生み出し、また他方、先行する文が生み出した期待を充足する遡及的部分をもつことにより、前の文の背景となる地平を作り出す。従って、読書はどの瞬間をとっても、予覚と保有の弁証法ということができる。その過程では、まだ空白ではあるが充足をまつ未来地平が、充足はされたものの次第に影が薄くなっていく過去地平へと順次移行していく。つまり、読者の視点の移動は、つねにテクストの二種類の内部地平を開きながら両者を融合していく。この過程は、先にも述べたように、テクスト全体が一挙にとらえられないために、必然的に成立する。……こうした構成行為は、伝達がもはや既存のコードによる規制をうけない場合に、必ず呼び起こされ、また自らまとまりを作り出す行為であるために、生産的な理解となる。」(同 P 一九三)

 イーザーは、@〜Bで、読みの過程的構造を説明している。「読書の移動する視点」は、テクストの「総体」をとえるためにどのような「綜合」を行うのか、ということがここでの中心問題である。そして、「読書はどの瞬間をとつても、予覚と保有の弁証法」であるというのがその答えである。
 「テクストの対象性は、読書の時間の流れの中に現れているもののどれとも同一ではなく、総体をとらえるには綜合を行うはかはない。……綜合は……読書過程のどの瞬間でも続けられている。」と@でイーザーは指摘している。イーザーは、「総体」や「綜合」を部分の総和(寄せ厚め)とは考えず、部分相互の動的な相互関係においてとらえようとしている。これは、イーザーの見解のすぐれた点である。
 だが、イーザーは、いままでもそうだったように、日常的な体験と切り離して、読書過程の特徴を問題にしているのである。「通常の知覚行為と比較すると、不利としか思えなかったことが、じつは読書過程でテクストの内部地平を絶えず細分化しては融合し、美的対象をうみだす一種の理解行為の特徴であることが明らかとなる」(P 一九三)という指摘からもそれがわかる。
 だが、理解行為における「部分」と「全体」との関係を考えるための素材は、私たちの日常の中にたくさんあるのだ。熊谷孝氏は次のように指摘している。
 「顔はからだの部分なのだけれども、またその人のマスクや表情から相手の性質や心境・心情、こころの奥底まで見とおすことはとてもできないわけなのだけれども、だけどわたしたちは、初対面の相手の人柄をまず顔つきで判断したり、その場の身ごなしから推測したりする……つまり、部分から全体を推すわけです。つまり、また、部分というのは、たんに部分ではなくて、全体像をふくみこんだ部分なのですね。ただの部分、いわゆる部分というのは、全体に対する部分ではなくて、それは小さな全体にすぎません。」(『言語観・文学観と国語教育』 P 一四九)
 部分とは「全体像をふくみこんだ部分」であり、だからこそ、部分から全体を推測するという理解行為も可能になるわけだ。熊谷氏は、「言表における部分と全体」の関係 についてさらに次のように指摘している。
 「ものを書く場合に、書こうとすることについて先の予測が立たないと(つまり何らか全体像がイメージにならないと)ペンが進まなくなる、というようなことは誰しもの経験にあることだろう。それは、ほかでもない、言表に関して部分というのは、その部分においてイメージされ、観念に反映される言表の全体像のことだからである。/読むという営為においても、原則的には同じことである。読者は常に、部分の中に全体を感じとりながら、その全体像への予測に おいて所与の文章を読み続けるのである。(したがって、最初に解き口を間違えると――というのは言表の発想をつかみそこねると、その誤解が後まで尾を引くことになる。……(「基本用語解説」/「文学と教育」七〇号)
 「そこで、このようにして読みを進めていく中で、そこに展開する言表の部分と部分との相剋において、イメージの深まりや、イメージ・チェンジが行われ、徐々に(時としては急激に)観念とイメージの定着化がはじまり、概念の形成と形象の造型が実現する、という関係である」同右)
 「部分が全体像を規定するという格好で鑑賞が成り立ち、焦点となる部分の変化・移行につれて、つまり原点のとり方でタテ・ヨコの座標が変わってくるみたいな関係で、全体像そのものが変化するというかたちで鑑賞過程が展開していく、ということなんだと思います。その場合、受け手がどういう解きくちでどこに原点を設定するか、つまり受け手の自我がスーッと表現のどの部分へ結びついてゆく か、ということは、受け手の自我の内部の感情のありよう、先行体験のありように根本の要因があるわけでしょう。」(『言語観・文学観と国語教育』)
 イーザーの「予覚と保有の弁証法」と熊谷氏の見解との共通点と相違点を論じていこう。
 イーザーは読書過程を次のように考えている。
 1.文の相関体は次に来るものを志向しているが、必ず欠落部分がある。
 2.欠落部分はその補足が予測されるため、期待を生み出す働きをする。
 3.後続する文の相関体は、あらかじめ生み出しておいた期待に修正を加えたり、裏切ったりする働きを見せる。
 4.すでに読んだ部分は、記憶の中に後退し、後続する文の相関体の遠近法の背景となる。
 5.同時に、後続する文の相関体は、すでに読んだ部分に修正を加え、いままでは見えなかった別の面を浮き立たせる。
 6.その結果、すでに行った総合の再構成がうながされる。読者の視点の移動は、つねにテクストの二種類の内部地平(空白ではあるが充足をまつ内部地平と充足はされたものの次第に影が薄くなっていく過去地平)を開きながら両者を融合していく。(この項続く)

(カリタス女子短期大学講師)

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