「読者論」の吟味  
読者論ノート――W.イーザー著『行為としての読書』の批判的検討 (4)
井筒 満

1992.7 文教研機関誌 「文学と教育」159)
   

  T章の論点 (1)の続き

 前号の最後の部分に書いたことを、補足をまじえつつ、要約しておこう。
 @イーザーは、テクストの意味とは、作品の中に封じこまれている「論証的な意味」ではなく、テクストと読者との相互作用において形成される「イメージとしての意味」であることを指摘し、テクストを「論証的な意味に縮約してしまう」解釈を否定している。
 A一方、熊谷氏は、「一定の作品には客観的な一定の内容が概念として盛りこまれている、と考える文学観」をその根底にある「言語実体説(汎言語主義)」と関連づけながらきびしく批判している。イーザーの「解釈」批判と熊谷氏の「概念中心主義的文学観」の批判は、共通点がある。
 Bだが、イーザーは、イメージと概念・観念との相互関係という問題をどう考えているのか。
 熊谷氏は、概念と形象とを機械的に切り離してしまう考え方を批判し、「概念的認知が概念だけの自己操作によって成り立ちえないように、形象的認知も形象だけの自己操作によってひとりポツンとそこに成り立つわけのものではない」(『言語観・文学観と国語教育』一九六七年刊)と指摘している。さらに、イメージと観念の相互規定の関係について、次のように指摘している。「明確なイメージを欠いては観念は、事物を離れて言葉は独り歩きすをする格好のひからびた観念として実践的機能を喪失したものになってしまう……また、明確な観念の裏打ちを欠いたイメージは、虚像としてのイメージヘの、あるいはイメージの虚像化への危険に常にさらされることになる」(「基本用語解説」「文学と教育」七〇号)
 イーザーの批判する「論証的な意味」は、この角度から言うなら、イメージと切り離され、実践的機能を失った、「ひからびた観念」を意味している。そんなものが、文学作品の内容でないことはもちろんだ。だが、同時に、虚像ではない明確なイメージの創造において、観念・概念の支えが不可欠であるという点を見失ってはならない。それを見失うと、創造と鑑賞(=創造完結)の全過程――文学的認識の全過程――を、人間の認識過程全体との関連の中で位置づけられなくなる。それでは、文学の独自性もはっきりしなくなるのである。だが、イーザーは、このようなイメージと観念・概念の相互規定――相補性を明確に分析していない。イメージ概念や文学作品の内容規定におけるイーザーの特徴をさぐっていく場合、この点は記憶に留めておく必要があるだろう。


  T章の論点 (2)

 イーザーは、「論証的意味」を文学作品の内容と考える『解釈規範』への批判を続けながら、次のように書く。
 「芸術作品に隠された意味を探る解釈規範が、今日でも生き長らえている事実は、芸術作品を依然として真理を完全な姿で表す機関(オルガノン)と考えている証拠である」。そして、「現代芸術」が「部分的正確をもち始めるにつれて、芸術解釈の権利とされる説明は、ますます普遍を目指すようになった。」
 それでは、「現代芸術の部分的性格」とは何を意味するのか。「この部分的性格は、現代の芸術形式にすべて固有であり、およそ芸術にとどまる限り、つねに特殊な現実の顕在化しかできない。ところが特殊な現実は、部分芸術をもってしては、もはや直接的な表現を与えられるものではない。現実を形象化するためには、模写であろうと反映であろうと、現実に全体を代表する性格をとらえ返さねばならないのに、部分芸術はすでにそのカを失っている。従って、現代芸術が、たとえその一部であっても、現実を媒介する機能を果たすためには、依然として、かつての形式がそなえていた共示作用、すなわち、秩序、均衡、融和、部分の全体への統合といった機能をもっていなければならない。しかし同時に、こうした形式の共示作用の否定も、芸術は行わなければならない。」
 「このような構造をとらえてみると、芸術は全体真理を代表するという考え方はすでに過去のものだという意識が鮮明になる。それだけにまた、古典的な芸術理想に基づいて形成され、また芸術が部分的になったにもかかわらず、なぜか今なお普遍性を標榜する解釈規範が生き長らえているのは驚嘆に値する。」  「こうした解釈規範は、部分芸術の中に全体性の現れを無理に見ようとするために、当然のことながら現代芸術にデカダンの刻印を押すことになる。」
 引用が長くなったが、ここで論点を整理しておこう。
 @ 現代芸術は「部分芸術」であり、全体真理や現実の全体性を代表するという性格をもっていない。  A @であるにもかかわらず、あるいは、@であるがゆえに、「解釈規範」はますます普遍性にしがみつき、その基準から、現代芸術を裁断しようとする。
 まず、@についてみると、イーザーにおける「現代芸術」とは何かが、また、「部分と全体」の関係把握が問題になる。それは、イーザー風に言えば、文学の「代表性」と文学の「機能」との関係でもある。イーザーは、この二つを対立させて論じているが、それでいいのかという問題でもある。この問題は、もう少しイーザーの叙述をおったうえで、改めて論じることにする。
 また、Aについては、@との関連において、イーザーの見解は、このような「解釈規範」を本当に克服しているのかが問題になってくるはずだ。
 イーザーは書いている。
 隠れた意味を探究する解釈は、その時代に支配的であった説明システムに準拠して規範を定めていたが、システムの有効性は芸術作品によって端的に表現されるものと思われる。
 そのため文学テクストも、ときには時代精神の証言とか社会状態の反映、あるいは作家の神経症の現れ等々と理解された。文学は記録と同列に扱われ、文学と記録とを隔てる次元が切りつめられた。つまり、文学作品によって初めて時代精神、社会状態、作家の気分といったものをわれわれ自身の体験にしうる、という考えである。テクストの多くは、〈メッセージ〉が遥か以前に過去のものとなり、〈意味〉の価値もすでに低下している場合でも、依然としてわれわれに〈語りかけ〉てくることがある。だが、文学テクストの伝達能力は、芸術作品をその時代の支配的思想ないし社会システムの代表者と見るようなバラダイムからは導きだせない。このバラダイムのために、テクストの実践的側面は歪められたままになっていた。そのため文学テクストの機能も作用も、考察の対象としては顧慮されることがなかった。現代の部分芸術が、われわれに指摘してきたところによると、芸術はもはやそのような全体を代表する写像としてとらえられるものではなく、むしろ芸術の主要な機能の一つは、支配的価値によって生みだされたマイナス面を露呈し、もしかするとその埋め合せをするところにある。従って、芸術は時代のさまざまな価値を代表するものではありえない。そこで、今日では、一九世紀に発展した解釈様式は、作品を時代の価値観の反映に貶める働きしかもたないように見える。こうした印象は、解釈規範が作品を、きわめてへーゲル的な意味で、「理念の感覚的な現れ」としてとらえようとしたところから生じる当然の帰結である。このように考えれば、今日の芸術は、少なくとも解釈に対して、これまでとは別個の条件を作り出している。イデアと現象との照応をみるプラトン的思考に代わって、作品と外界の社会的歴史規範ならびに潜在的な――歴史的、社会的に異なった状況にある――読者の規範との相互作用が、われわれにとっての重要な考察領域となる。  
 @で保留しておいた問題が、ここまで読んでくるとかなりはっきりしてくる。再度論点を整理しつつ、少し詳しく見ていこう。
 イーザーが、文学の特性を規定するものは、読者との相互作用という機能であって、代表性(反映性) ではないというとき、彼は代表とか反映という言葉で何を考えているのか、まず確認しておこう。
 a 文学を「反映」と理解すると、「文学は記録と同列に扱われ」てしまうという言葉からもわかるように、イーザーは、「反映」を外側にすでに存在しているものの受動的な引き写しという意味でつかっている。
 b だが、過去の時代の生みだされた文学が、現代のわれわれに語りかけるという事実は、a のような考え方では解明できない。
 c 文学の持つb のような能動性は、「支配的な価値によって生みだされたマイナス面」の「露呈」や「補足」という機能を把握することで、初めて解明することができる。
 d  c の機能によって、1「作品と外界の社会的歴史的規範」との相互作用や、2「作品と歴史的、社会的に異なった状況にある読者の規範」との相互作用が可能になるのだ。
 イーザーはここでも「歴史社会性」に言及している。だが、彼の論理の展開はそれを否定するものになっている。c の指摘をまず取り上げてみよう。文学は、その時代の支配的思想のマイナス面を「露呈」するというが、支配的思想のマイナス面を発見しうるよな主体(文学の創造主体)は、どのようにして形成されるのか。マイナス面は、その思想を支配的思想たらしめている社会的諸条件の内部における矛盾と、その中をある生き方で生きている人間主体との相互作用、実人生を生きるその人間主体の課題意識とその矛盾との関わりを通して、発見されるのではないか。つまり、マイナス面はそのような意識において発見(=反映)されるのである。
 でまた、このような相互作用の過程、課題意識の発見過程は、この「読者論ノート」で再さん指摘してきたように「私の中の私たち」との対話過程でありまた、「私の中の私たち」の組み替え過程であるわけだ。文学者の場合でいえぱ、それは、「内なる読者」との対話過程である。したがって、文学を反映の独自な形態と認めることは、文学の能動性を否定することにはならない。むしろ、反映であるからこそ、独特の相互作用が実現するのである。反映と機能とを機械的に対置するから、論理の展開がおかしくなるのだ。
 また、文学の創造が「内なる読者」「本来の読者」との対話において実現するということは、文学作品の表現が、「普遍性」をもっているということである。イーザーの言い方を使えば、ある全体を代表しているのである。だが、その場合の「全体」とは、イーザーが批判しているような「全体真理」とか「社会システム」とかいうものではない。イーザーの論理は、文学の部分的性格を主張することで、文学の「典型性」を否定することにつながっている。したがって、ここで、文学において「典型」とは何かについて論じる必要がでてくる。
 イーザーという「支配的な価値によって生みだされたマイナス面の露呈」は、支配的思想との「対決」とはかなり意味が違う。だから、イーザーは、「埋め合わせ」とか、「補完」という言葉を平気で使うのである。また、U章を扱うときにとりあげるつもりだが、イーザーは「社会システム論」などに依拠しながら、文学作品と「外界の社会的歴史的規範」との関係を、均衡関係に比重をおいてとらえている。結論を先に言えば、それも、イーザーが「典型」とは何かを明確に把握していないからなのだ。では「典型」 はどのように把握されなければならないのだろうか?


  T章の論点 (3)

 イーザーと対比するために、熊谷氏の「典型」論を、氏の一連の著作から写し取っておこう。
 先ほど引用した「基本用語解説」の中では次のように説明されている。
 「イメージ(像)  一般の用例では、@記憶による過去の体験の像としての再生という形のものや、A記憶に加えて創造のはたらきによって、知覚的につかめない、事物の見えない他の側面や、それに関連する現象をそこに同時に像として見る、という形のものや、また、B既往現在の体験には与えられていない、未知・未来に属する事物・現象を、想像の働きによって具象的な像として予知・予測する、という形のものなど、さまざまな性質のものを含む。が、@やAのイメージの喚起も、Bの未知・未来に属するもののさきどりということに関係してくるような場合においてだけ、生産的・実践的な意味を持ってくる。」
 「形象(ビルト)  表現により顕在化され認識の対象として造形されたイメージ、イメジャリな世界。」
 「典型(フォアビルト)  ビルト(形象)の最も高次の存在形態がフォアビルト(典型)である。虚構においてその未知が探られ、その未来がさきどりされた、実践の対象としての現実のビルト。」
 「虚構(フィクション)  形象の造型、とりわけ典型造型のはたらき。その方法基本過程。/…それは、体験に与えられた知覚的現実を『ありのまま』に描くことなどではない。書くことで可変性と可能性における現実の姿を探る営為である。何のためにと言えば、その人間主体にとって『可能にして必要』な、実践の方向を具象的なイメージとして見きわめるためにである。/このようにして、虚構がそこに求めるものは、『実践へ向けての自己の行動の選択に必要な、未来をさきどりした現実のイメージ』である。可能的現実は時間構造的に未来に属しているからである。」
 次に『芸術の論理』(一九七三年刊)から引用する。
 「典型――それこそ、最も鮮明で具象的なイメージ、形象である。S.K.ランガーが“ダイナミック・イメージ”と呼んだものの実質的な内容も、ここに言う典型のことであろう。」
 「現実変革の契機において未来を豊かに――というのは、ダイナミツクに――イメージすること…そういうイマジネーションがそこに働かなければ、具体的な形象において現在をつかむ、つかみ直すというようなことは期待できない。」
 「部分(個・特殊)を微視的に見つめることが、同時に巨視的に全体(普遍)をとらえる操作につながる、という、虚構による典型(典型像)造型の営みも、主体的な認識としてそのような未来(未来像)のさき取りということを前提としている。あえて算数的次元での比喩を用いて説明すれば、地上にあっては視界にはいってこない同一平面上のさまざまな風景も、“未来”という名の高層ビルの屋上からは巨視的に視野の中に含まれると同時に、自分のたっている(たっていた)地点との関係も明らかになる、という関係とそれは似ている。」
 ここで、以上の叙述における論点を一応なぞっておこう。
 @ 典型とは、イーザーが考えているような「全体の写像」などではない。虚構においてその未知が探られ、その未来がさきどりされた、実践の対象としての現実のビルトである。「実践の対象としての」とは、「実技へ向けての自己の行動の選択に関して、その行動の選択に必要な」という意味である。文学における現実の真の反映であってこそ、読者と作品との間にダイナミツクな相互作用も生まれるのである。イーザーは、反映概念を機能論的、客観主義的に理解しているにすぎず、そのことが、「テクストの実践的側面」に関する彼の分析を大きく制約している。
  A 典型とは、客観化されたダイナミツク・イメージである。
  B 典型とは、@Aのような実践的・主体的な認識によって創造的に発見された「普遍に通じる個のイメージ」である。イーザーは、現代芸術の「部分的性格」をさかんに強調する。だが、ここに指摘されているような意味での典型を志向していない芸術が、はたして現代芸術の名に値するのだろうか? 熊谷氏は、『芸術の論理』の中で次のように書いている。「部分的に、かつそれを微視的にわたしたちは現代を知っている。が、わたしたちの知っている部分が全体との関連を見失ってしまっていて、部分や側面としての意味を欠いている場合がほとんどである。まさに、木を見て森を見ない、いや見えにくい、見ることが不可能に近 いのである。少なくとも、日常性の次元にとどまる限りは――ということである。/で、その不可能と思われることを、虚構の精神と方法によって可能にしよう、という夢をいだくことこそが芸術精神というものだろう。ひとり芸術家だけの問題ではない。ひとしく、芸術に心の支えを求める人々に共通の問題である。」  Bについては、さらに次のような指摘をふまえる必要がある。
 芸術現象は社会現象であるが、「受け手・鑑賞者の感動においてだけアピアしアピアラントなものになる」のであり、芸術はその意味で「アピアランス(現象)としての社会現象である。「そこにアピアするものが非物理的な実在であり、それは物理的なものではないからといって『実在 しないのではない』イメージ――ダイナミック・イメージだ」(『芸術の論理』)
 「言語形象による文学の表現、文学のコミュニケーションというものは、一般を対象とした訴え、呼びかけといったものではありません。文学は一般性(ジェネラリティー)に属してはおりません。ジェネラル(一般的)ではなくて、かつまた単にスペシャル(特殊性)のものでもなく、プシコ・イデオロギーというか生活感覚というか、実人生をど う生きるかという発想の面で通じ合えるものを持つ相手に対して何らか訴えるものがあるという、そういうユニヴァーサル(普遍的)なもの、つまり普遍性(ユニヴァーサリティー)を持つのが文学というものだ、と思うのです。」(『井伏鱒二』一九七八刊)
 「……自分の意識や自我の意識、自分の主観性というものが他者の主観性との関係を離れては存在しえない、という意味での相互主観性との関係を離れては存在しえない、という意味での相互主観性ということ」……これは実は、「客観と主観との関係・関連」なのであって、「主観というのは客観の反映だ、というような説明も、間違ってはいない」が「釘が一本抜けている感じ」がする。それは「同じ反映だとしても、主観相互の媒介的反映だ」ととらえる必要がある。「同一世代に属する人びとの主観相互の間にある共軛性が見られるのが普通であると同時に、どこまでも対話を続けてみても埋め尽くすことのできない何かが相手との間に残る……つまり私は私であって相手とは違う、という問題は、普遍と個の間に対象をみつけようとする文学にとっては抜き差しならない問題になるわけです。」(同右)
 「人それぞれの生活感覚や生活の態度・姿勢、あるいは生活のムード、それらは各人のメンタリティーのありかたにかかわっているわけです。ところで、そのメンタリティーのありかたを根源的に方向づけているもの、あるいはそれに制約を与えているものがプシコ・イデオロギーなわナです。直接的にイデオロギーが制約を与えているのではなくて、プシコ・イデオロギーが直接に……ということなのであります。」そこには、「イデオロギー⇔プシコ・イデオロギー」という関係があり、「プシコ・イデオロギー⇔メンタリティー」という関係がある。(同右)
  「(文学的イデオロギーとは)プシコ・イデオロギーの言語形象的に客観的に客観化されたもの」である。そのように、文学的イデオロギーの機能的性質を考えるのは、文学が「言語形象を通路とする(あるいは言語形象を通路に選ぶことを必要とする)側面において、自分が自分自身になるための(自分の人間を回復するための)主体的な、形象的認知・認識(=鑑賞による感動の喚起)の営みだから」である。(同右)。  「それが各人のメンタリティーにかかわり、持続性におけるメンタリティーとしてのプシコ・イデオロギーに属している、という意味において、文学的イデオロギーは個性的なものである。イデオロギーとしての文学――文学形象、作品形象が一般性に属するのではなく、普遍の中の個(典型)として個性に属しているということの根源は、おそらくその辺のところに在るのではないか。」(『太宰治増補版』一九八七刊)
 Bでとりあげた問題が、この一連の文章の中で、さらに詳しく分析されていることがわかる。Bに続けて箇条書き風に整理してみると次のようになるだろう。
 C 文学現象は社会現象であるが、鑑賞による感動の喚起をとおしてのみ顕現する、アパリションとしての社会現象である。さらに言えば、そのような感動を喚起しうる人(たち)にのみ、その文学現象はアピアする。この点で、 経済現象などの社会現象とは性質がことなる。
 D Cであることは、文学の訴え・呼びかけが一般を対象としたものではなく、普遍を対象としたものだということだ。文学作品が描きだす個は、そのような普遍につながる個であり、また、「普遍を内包した個」なのである。読者もまた、そのような個を媒介として、自分がどのような普遍につながる個であるのか、あろうとするのかを形象的に思索するのである。
 E 文学が「プシコ・イデオロギーの言語形象的な客観化としての文学的イデオロギー」であるからこそ、文学形象は、普遍の中の個(典型)として個性にぞくしているのである。
 さて、@からEまでの熊谷氏の見解をだとって、イーザーの見解と対比してみた場合、反映や文学の機能に関するイーザーの概念の粗雑さがはっきりしてくるのではないだろうか。典型における反映という問題を解明することなしに、文学の「作用」や「機能」は解明できないのである。
 だが、次のような反論があるかもしれない。一般性と普遍性とを比較すれば、後者は前者の部分ではないか。とすれば、文学が普遍性に属するというのも、文学の部分的性格を示していることにならないか? しかし、このような考え方は、一般性と普遍性との質的な違いを量的な大小の関係と混同しているのである。あるいは、普遍性を不完全な一般性と考えているのである。普遍性における思索とは普遍性という側面における現実の全体像――まるごとの人間像(=社会像)の追究なのである。言い換えれば、「実践 へ向けての自己の行動の選択に必要」であるという方向性において、現実の全体像を追究するということである。熊谷氏がここで「実践へむけての」と明確に規定していることに注意する必要がある。単なる行動一般ではないし、また、実用主義的な関心に基づく必要などということでは全くないのだ。まさに、実践の名に値する行動が模索されているわけであり、そのような姿勢との対応関係において現実の全体像が明らかになっていくのである。したがってこの全体像は、当然、動的な性格をもつわけだ。
 このような全体――全体像の追究は、現代芸術(文学)の課題であるはずである。現代芸術=部分芸術とするイーザーの見解の根底にあるのは、近代主義文学観ではないか。熊谷氏の次の指摘は、この点を考えるうえでも、多くの示唆を与えてくれるだろう。
 「近代主義の……教養主義的逸脱を、およそありとあらゆる形で示したのが透谷以後の日本近代文学の文壇主流の姿であった。それは、部分的真実を全体的真実への関心を放棄するかであった。それは、部分の中に全体像――全体の反映を見る、探るというのとは全然別個のものであった。性なら性、精神なら精神はそれ自体自己完結的な小さな全体として、人間の具有する他の側面、他の部分から切断されてしばしば文学の主題とされた。」(『現代文学にみる日本人の自画像』一九七一年刊)
 「他の部分から切り離されたその部分は、全体に対してすでに部分としての意味を失っている。人間の部分を自己完結的なものとして描くことは、だから、人間に背を向けることである。人間を見失うことである。しかも、精神や精神の源泉である社会との関連を捨象して性を描き、官能の世界を描くという姿勢は、上記の教養主義の観念と行動に関する二元論と照応するものである。」(同右)
 「言葉を重ねるが、部分は全体の中に位置づけて描かれてこそ初めて意味を持つのである。文学的意味を持ちうるのである。」(同右)
 熊谷氏は、日本近代文学史に即して語っているわけだが、近代主義の特徴である部分主義への批判は、イーザーの文学観にもあてはまるのではないか。イーザーは「古典的解釈規範」を批判し、「読書においてこそ、われわれは、もはや存在せず、また未だにないもの」を経験できるのだと、文学作品の「出来事性」を強調している。だが、彼の場合そのような「出来事性」や「新しさ」が、典型であるがゆえの「新しさ」であるという点には目が向かない。したがって、その「新しさ」の生みだされてくる過程をトータルに把握することができないことになる。そうなっている根底には、熊谷氏が指摘するような、近代主義に特徴的な部分主義があるのだ。
 こうした近代主義は、文学作品の具体的な内容分析にも様々な形で姿を表す。例えば、イーザーによる作中人物の取り扱い方がそれだ。「イメージとしての意味」をイーザーはせっかく強調しているのに、彼の手にかかると作中人物 たちは、「規範の人的表現」とでも言うべきものに変わってしまう。「論証的意味」を否定しているにもかかわらず、作中人物の把握の仕方が概念主義的なのだ。「普遍の中の個」という観点が欠けているからこそこうなるのだろう。が、この点については、またあとで、イーザーの叙述に即 しながら、もっと詳しく論じることにする。
 さて、イーザーは、前に引用した部分のなかで、文学の「代表性」を否定する根拠として、過去の時代に生産された文学が、現在のわれわれに語りかけてくるという事実を指摘していた。だが、この事実は、イーザーの見解を正当化することになるのかどうか。次回はこの問題を論ずると ころから始めることにする。  
 (この項続く)

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