「解釈学主義」批判 −国語教育・文学教育理論の根柢を問い直す−                      
 
 
  日本イデオロギー論    戸坂 潤   

【1935.7 白揚社刊/1966.2 勁草書房刊 全集第二巻】


 (『日本イデオロギー論』/「第二編 自由主義の批判とその原則/一一 偽装した近代的観念論――‘解釈の哲学’を批判するための原理に就いて」 より。なお、文中〔 〕内は全集における伏字復元部分。)


 …略…

 解釈 …略…、夫(それ)は無論事実 の解釈のことである。事実がない処に、どんな意味の解釈もあろう筈はない。と共に、解釈を伴わず解釈を俟(ま)つことのない如何なる事実も無い、ということも亦(また)本当だ。過去の歴史上の事実ならば、解釈の如何によって事実であるとも事実でないとも決定されようが、例えば実験上の事実に就いて、解釈の余地がどこにあるか、と云うかも知れない。自分自身が直(じ)き直きにぶつかった事実のどこが解釈に依っているかと云うだろう。けれどもそう云うならば、純粋な事実としての事実というものは実はどこにもないことになるので、あるものは恐らく単なる孤立した印象か何かでしかないことになる。事実ということは、そういう意味では、事実と解釈された もののことに他ならない。解釈のないところに事実も亦あり得ない。
 だから、問題が哲学などになれば況(ま)してそうであって、どんな哲学でも、解釈に依らず又解釈を通らずに、事物を取り扱うことが出来る筈(はず)はない。そういう意味では一切の哲学が解釈の哲学だと云っても云い過ぎではないのだ。元来事実の解釈ということは、事実が持っている意味の解釈のことであり、そして、事実はいつでも一定の意味を有(も)つことによって初めて事実という資格を得るものだから(そうではない事実は無意味な事実だ)、事物間の表面からは一寸(ちょっと)見えない連関を暴き、隠された統一を掴み出すべき哲学が、事実の有つだろう意味の在りかをつきとめるために、特にその解釈の力に於て勝れていなければならぬのは、寧(むし)ろ当然だろう。
 だが実は、この解釈自身に、事実の持っている意味のこの解釈自身の内に、問題が横たわっているのである。実は云わば、自分自身を活かし発展させて行くためにこそ意味を有つわけであって、従って事実のもつ意味とは、専ら事実自身の活路と発展のコースとを指すものに他ならない。で、この場合大事なことには、夫々(それぞれ)の事実の持っている夫々の意味は、あくまで夫々に事実自身に対して責(せめ)を負うているのであって、従って事実は自分の有つ意味を一旦通って自分自身に帰着することによって、初めて事実として安定を得ることが出来るわけだ。意味は事実そのものに戻って来るべく、元の事実に向って責を果すべくあるのだ。だから事実の解釈はいつも、事実を実際的に処理し之を現実的に変革するために、又そうした目標の下に、下される他はない筈なのである。現実の事物の実際的処理は、いつも事物の有つ意味の最も卓越した解釈を想定している。
 処が他ならぬ「解釈の哲学」は、この解釈の機能そのものに於て躓(つまづ)くものなのである。ここでは解釈はこの本来の役割から脱線し、事実の実際的処理という解釈元来の必要と動機とを忘れて、専ら解釈としての解釈 として展開する。と云うのは、事実の有っている意味が、もはや事実の意味であることを止めて、単なる意味だけとなり、かくて意味が事実に代行し、現実の事実は却(かえ)って意味によって創造された事実とさえなる。こうした「意味」は意味の元来の母胎であった現実の事実自身の、活路や発展コースであることからは独立に、専ら意味自身の相互の連絡だけに手頼(たよ)って、意味の世界 を築き上げることが出来るようになる、ということを注意しなくてはならぬ。或る「意味」と他の「意味」とが連絡するのは、夫々の母胎である夫々の事実間の連絡を手頼りにしてであるべき筈だったのに、ここでは意味と意味とが、極めて、奔放に、天才的(?)に、短絡して了(しま)う。こうやって現実の代りに「意味の世界」が出現する。現実界はわずかに、この「意味の世界」にあて嵌(はま)る限りに於て、意味の御都合に従って、取り上げられ解釈されるだけである。――之が解釈哲学に於ける所謂(いわゆる)「解釈」のメカニズムなのだ。ここで天才的(?)想像力や警抜や着想や洞察と見えるものは、実は狂奔観念や安直な観念連合や、又安易で皮相な推論でしかなかったのである。
 こうした繊細な弱点も、ごく卑俗の形のものは誰でも容易に気がつくことだ。近年日本に於ても自殺者は非常に殖(ふ)えて来たようであるが、そのどれもが、新聞記事によると甚(はなは)だ穿(うが)った解釈を与えられている。哲学に凝ったというのは古いからまだしもとして、最も斬新なのには、父親が〔共産党〕に加わっていたために娘が自殺した、というような種類の解釈もある。蓋(けだ)し新聞にとっては事実そのものはどうでもいいので、記事が記事として独立な意味 を有(もっ)てさえしたらいいのだ。――(しか)し、この弱点も哲学という甲兜(かぶと)の内に隠れると、取りも直さず解釈の哲学になるので、そうなるとこの弱点も容易にボロを出そうとはしなくなる。一方そこには荘重な名辞と厳めしい語調がある。而(しか)も、時々断片的に、読者や聴衆が持ち合わせた出来合いの知恵に接触するものがあって、それが彼らを感動させ、甘やかし、なだめすかす。分解や論証や質疑の代りに、単に次から次へとタッチがありタップがある。これが解釈哲学の極めて意味のある風味の特色の一つであるが、併し之によって、現実の事物に対する実際的処置は、恍惚裏に時としては又涙の裏に、斥けられて了うのである。世界を「解釈」するということは、拱手して世界を征服するということは、確かに楽しい仕事に相違はない。たといそのために涙と共に糧を食い、眠れぬ床に臥しても、この仕事は専ら楽しい仕事だ。
 「生の哲学」と呼ばれるものの多くがこの解釈哲学であることは、今更、注意するまでもないだろう。解釈とは、生の哲学によると、生の自己解釈に外ならないが、生(その科学的な意義が抑々(そもそも)問題なのだ!)が自らを解釈するという自己感応のおかげで、意味が、事実から独立した純然たる意味の世界として、描き出される。この生の哲学が更に、特に所謂「歴史哲学」や「解釈学的現象学」と不離の関係にあることも、茲(ここ)に喋々する必要はあるまい。この二つのものが、如何に解釈学 の方法に準じた哲学であるか、又更にこの二つが如何に文献学(解釈学は夫の方法なのだ)的特色と臭味とさえを持っているかが、それを充分に物語ってる。――大事な点はここでも依然として、解釈哲学の本質が意識的無意識的に事物の現実的な処置を回避しようとすることにある、という点である。
 解釈の哲学は、哲学の名の下に、実際問題を回避する処のものである。時事的茶飯事には何の哲学的意味もない、入用なのは実際問題とは独立な原則の問題の他ではない、というのである。実際問題は、この原則問題を時に臨んで応用すればよく、この応用を予(あらかじ)め用意してかかることなどは無用の配慮だ、と考える。例えば社会は、私と汝との倫理的意味関係に基(もとづ)いて発展され得る意味のものであって、その社会が〔共産〕主義のものになろうとファシズムへ向おうと、夫は政治上の実際問題ではあっても、少しも哲学上の問題ではない、というわけだ。――解釈の哲学が抽象的なのは、夫が事物を一般的なスケールに於て論じるからではなく、まして夫がムズかしい言葉を使うからなどではなくて、実は、意味を事実から、原則を実際問題から、抽象するからであり、現実 の事実と実際 関係とを視界から捨象して了うからである。

 …略…


 文学的範疇に立って物を云うことは、事実一見して非常に綺麗なことである。だが夫は結局生活の一つの美人画に過ぎないのだ。文学的範疇によって世界を解釈することは、その解釈を一等安易にし滑かなものにする。解釈哲学として、だから文学主義哲学程、目的に適った形態はないのである。単なる神学的範疇であっては、到底この種の、云わば「人間学的」な魅力を持つことが出来なかっただろう。だからここに解釈哲学は特に神から人間に眼を転じて文学主義にまで前進し、自らを有利に展開しようとするわけである。これによって、現実の(この現実という言葉が又不幸にして最もよく文学主義者に気に入るのだが)、哲学的範疇による本当の現実の、実際問題を、原理にまで回避し、例えば実際世界の見透しや計画や必然性や自由は、人間学的「情念」にまで、そして現実界の矛盾は人間的「不安」にまで還元され、之と取り換えられるのだ。――恐らくこれ程蠱惑(こわく)的な形而上学は、之まで無かったとさえ云っていいだろう。だが又之ほどシニカルでモラル(実はモーラリティー)の欠乏した形而上学も珍しいだろう(文学者が「モラル」というのは実際界のモーラリティーとは異って元来が文学主義的概念に過ぎないのだ)。モラルの本家としては、最近アンドレ・ジードの呼び声を聞くことが多いが、このモラリストのジードは、一方夙(はや)くから仏領南阿の奴隷制に於ける資本主義的機構に、その「文学的良心」を痛く衝かれたということだ。彼が所謂転向を伝えられるのは、彼のモラリズムが、すでに完全な文学主義的形而上学として踏み止まることが出来ずに、実際的なモーラリティーに呼びかけねばならなくなったことを、告げているのかも知れない。

 …略…



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