熊谷 孝著作デジタルテキスト館  
 
     
熊谷 孝責任編集(A)/著(B)
『日本児童文学大系 第六巻』(A)解説から『文学教育』(B)第一章へ
 
本文対照Bの本文を基準とし、それとの対比でAの本文を配した。なお、§1〜§19は便宜的に設けた区分である。直接の対応関係がないか、またはそれが薄い部分には、水色の背景色を着けなかった(§2、§11、§19)。
『日本児童文学大系』(三一書房 1955年10月発行) 第六巻「解説」(全文↓) 『文学教育』(国土社 1956年11月発行) 
 第一章「問題史的展望」
(全文↓)
§1
一 資料採択の基準  


 一九三〇年代以降の文献のなかから、七〇篇あまりの論稿や記事を拾って、ここに掲載しました。年代を追って、文学教育の足どりをパノラマふうにのぞいてみる、というのではなくて、直接こんにちに問題を投げかけるような資料を掘り起こそう、というのです。収載原稿の上限を一九三〇年代にかぎったのも、一つにはむろんスペースの関係がありましたが、しかしそのこと以上に、こんにちの文学教育が直接 その成果を受けつぐべき過去の遺産は何かと考えたばあいに、三〇年代のプロレタリア教育のそれが大きな画期となっていることに気づかされたからです。
 が、上限をこの年代にかぎってみても、やはりスペースは足りませんでした。けっきょく、収載を予定して蒐集した資料の半分も、いやその三分の一もここに掲げることができませんでした。最終的に収載することを決定した資料についてだけでも、資料によっては、かなりの部分を削除しなくては到底盛りきれないのです。執筆者の方々には大へん申しわけないことなのですが、そうするよりほかいたし方がありませんでした。

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一  大正デモクラシーと文学教育  

1 童心主義の二面性
 年代を追って、文学教育の足どりをパノラマふうにのぞいてみよう、と云うのではない。直接こんにちに問題を投げかけるような、過去の理論的成果や実践的動向を、ここに掘り起こそうというのである。問題取材の上限をいちおう一九三〇年代にかぎったのも、一つにはわたし自身の不勉強のせいもあって、そこをさかのぼることは、資料の面ですでに自信がもてなかった、というようなこともある。
が、そのこと以上に、こんにちの文学教育が直接その成果を受けつぐべき過去の遺産は何かと考えた場合、三〇年代のプロレタリア教育のそれが大きな画期となっていることに気づかされたからである。
 が、線を三〇年代に引くとしても、プロレタリア教育そのものの歴史的な時点を明らかにするためにも、いちおうは二〇年前後(大正六・七年−昭和初年)の“芸術教育としての文芸教育”の意義にふれておかなくてはなるまい。

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§2
二 構   成

 ところで、わたくしたちは、この本を、解説なしに読めるような本にしたい、と考えました。そして、ある程度そのような本になりえているかと思います。
 “回顧と展望”とか“問題史的展望”というようなタイトルをつけた論文やエッセイの多くは、その時期その時期のモニュメンタルな資料であると同時に、過去のある時期の動向を見とおすものになっているはずです。ことに、戦後の部面については、この解説のあとに添えた“文学教育文献リスト”を右の“展望”と対照させることで、いっそう実態がハッキリしてくるかと思うのです。
 が、この回顧なり展望も、やはりあるきまった一つの視点からの問題の抽象・概括にほかなりません。当然、別の視点、別の立場からの異論なり反論なりがあり得るわけです。そういう反駁や異論も、こんにちの時点から見て対照の必要があると考えられるかぎりは、つとめてとりあげるようにしました。
 たとえば、さきほど申しましたプロレタリア教育についてですが、その項の“回顧と展望”(『資料に裏づけられぬ素描』)において国分一太郎の語っている、プロレタリア教育に対する幾分否定的な見解は、むしろプロ教育にこそこんにちの文学教育の一つのモデル(範型)を見いだそうとする福井研介(『教授法の遺産』――原題『文学教育の方法』)などの見解ともつきあわせて、(それをわたくしたち自身の問題として)考えてみる必要がありましょう。
  また、右の“回顧”は、生活綴り方運動の渦中にあった当事者の回顧であるという点に特ちょうがあるわけですが、しかしそのことの当然の結果として、当事者自身の意図の解明が先きにたって、運動の実績そのものについての歴史的・客観的な評価が裏側に廻されてしまっています。楽屋裏は見とおしだが、しかし……というところがあるのは、これはこうした文章の性質上やむをえないことです。一九三六−三七年(昭和十一、二年)において、自分たちが国語科の綴り方指導を技術の面にかぎることを提唱したのは、鈴木道太たちが、当時そういって非難したように、なにも当局の弾圧をおそれたのではない、むしろ、自分たちの“つもり”では、生活綴り方において意図したことを、さらに自治会や教科全般の指導にまでワクをおしひろげて、と考えてのことだった。それを鈴木たちが非難したのは当たらない、と国分は語っていますが、こんなふうに舞台裏をのぞかせてくれるところが、この種の資料のありがたさです。が、国分と鈴木のどちらがどうの、当事者の“つもり”では……といったこと以上に、わたくしたちがハッキリさせたいのは、運動の意義そのものの評価です。わたくしたちが自分の足もとを見きわめるうえに必要な“評価”です。
 ですから、この点を明らかにするためには、たとえば“良心の灯”の項の各論稿や、森山重雄の『一九五二年を中心に』(原題『国語教育の十年』)なども読んでみなくてはなりますまい。さらにいうと、“良心の灯”の項をよむまえに、ぜひ大久保正太郎の『国語教育の回顧と展望』を一読していただきたいと思うのです。
 ともかく、右に見てきたように、この本は、それぞれの部分が相互に他の部分を解説するしくみ になっています。ですから、この解説も、右のしくみ にしたがって資料を眺めわたしながら、そこに若干の補足をつけ加えることで終りたい、と考えます。

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(1 童心主義の二面性 続き)
 問題作『赤い蝋燭と人魚』が『東京朝日新聞』に掲げられたのは、一九二一年(大正一〇年)のことであった。それは、「子供等の代弁者となり、ために抗議し、主張し、またその世界のいっさいを語らなければならぬ」と考える小川未明氏によって書かれた。「世俗的な下卑た子供の読みものを排除して、子供の純正を保全開発するために」(『赤い鳥』の巻頭言)という、子どもを守る文学運動としての『赤い鳥』の運動が当然ゆきつくべき地点を、それは示している。
 生活苦ゆえの捨て子や、人身売買や、幼少年工問題等々の“現在”の問題にしぼってテーマをうちだしたこの作品には、そして更に、次にきたるべきものがハッキリと示されてもいた。“三〇年代”が、すでにそこに姿を見せているとも、それはいっていえないことはないのだ。
 きたるべき三〇年代への方向づけが、しかきそれが現実にその年代において結果したものよりは、よかれあしかれ遙かに広い幅をもってそこに示されている。『赤い蝋燭と人魚』の制作の時点において、この作者はすでに『赤い鳥』を、その童心主義をこえていたといえるであろう。
 童心主義とは、というより『赤い鳥』を主軸とする童心主義文学運動の実態は、けれど“子どものための”という以上に“おとな自身のための”童心文学運動であった、といわなくてはならない。この運動の推進力であった北原白秋のことば(『童謡私観』一九二三年)を借りれば、童心とは成人が「成人としてのあらゆる酸苦・雑行・雑念を振り落して、新に永遠の児童にまで超越」したときにもたらされる「恍惚たる忘念の一瞬」における「児童性の法悦境」にほかならなかった。それは、だから第一次大戦後の社会的シチュエーションのなかで、いわば“上”からと“下”からとの挟撃を意識しはじめた、小市民知識層の中間者的な現実逃避のおもいと奥底ふかく結びついた、童心へのあこがれであった。
 
 ――現に子供は、童話よりも立川文庫の英雄物か、忍術物を喜んで読む。……〔童心主義の文芸童話は〕実際、大人の読む物になっている。小学校の教員等が一番多く読むそうだ。

 そのころ(一九二一年)の『早稲田文学』に載った記事の一節だが、童心主義の児童文学という、その“童心”や“児童”は、こうし“おとな”のことであり、また“大人の夢”のことであった。
 が、このおとなの夢が、せめて子どもだけはしあわせに、という“おとなの夢”であったことも、また確かである。童心の法悦境を語った白秋も、後には、

 ――成人監視の下に建てられた児童の牢獄に於て、その成人の規定した頑固一点張りな教育法に依って絶えずその強圧と掣肘とソクバクとを受けねばならぬ精神的幼年囚の過去現在はまた、彼等自身既に、何等の悲哀も失望も憤激も反感も倦厭をも感じなかったのであろうか。また感じないのであろうか(『緑の触覚』一九二九年)

と、きっぱりとそういいきることで、“頑固一点張りな”臣民教育・奴れい教育への抵抗の姿勢を示しているのである。

2 芸術教育と生活綴り方
 文芸童話や童謡の支持者は小学校の教師たちだった、という右の指摘(『早稲田文学』)を裏書きするかのように、「新童謡の創作以外に児童自由詩の開拓は私の懸命の仕事であった。私も懸命であったが、之に賛同した全国の理解ある小学校教師たちも驚くべき熱誠を示した」と当時を回想して白秋は語っている。そして、「その為に視学や校長の機嫌を損ねて転任或いは退職の止むなきに至った」教師もすくなくなかった、という。それは、菅忠道氏の指摘しておられるように、一人の校長、一人の視学の保守的な考えによるものというより、「それを大きく動かしていたのは、やはり文教政策の元締めである文部省であった」(『日本の児童文学』)といわなくてはならない。
 一九二四年(大正一三年)、文部大臣訓令の形で学校劇にたいして大幅な制限を加えた“権力”は、「これも同じころ、文部次官通牒で、(童謡・童話を収めた)課外読物や、副読本の“濫用”をさけるようにと注意」し、また童謡は「文部省検定済でないという行政措置で、これを学校から放逐」(同上)したのである。

 ――文芸教育運動は、こうした教育の中央集権的な官僚統制と闘いながら、文芸精神による教育改造運動の自覚を深めるようになっていったが、大勢を動かすことはできなかった。やがて、公教育に自発性、創造性をとりいれる風潮がひらけ、学級文庫や学校の図書室に課外読物が整備されるようになりだしたときには、芸術自由教育の精神は骨ぬきになって、国家主義的な教育の浸透を助ける下僕としての技術だけが形骸を止めていた。(同上)

この時であった、白秋が怒りをこめて次のような批判をくりひろげたのは――。

 ――実に不思議なことがある。私達は曽て芸術教育を提唱した。その当時に之を非として盛に反駁した人達が、今日では私達以上の芸術教育家となっている事だ。……恐るべきは当初より無理解の当局或いは群盲の徒では無くして、こうした似而非芸術教育家の芸術観並にその宣伝行為である。(『新童謡と教育』一九二六年)

 こうして本来の芸術教育の精神からは遠ざかっていったいったところの、(白秋のいわゆる)“曲学阿世”の“似而非芸術教育家”の動きは、むしろ適当に“権力”とよしみを通じることで、一種の自由教育時代、芸術教育時代ともいうべき一時期をかたちづくるのである。生活綴り方への動きも、また、こうした後期芸術教育への疑惑と否定に出発したといっていえなくはないような一面をもっていた。いささか逆説めくが、生活綴り方のうみの親はだから芸術教育そのものであった、ということにもなろうか。そして、それがあながちに逆説に終るものでないことは、芸術主義へのその嫌悪がじつは肉親憎悪以上のものではありえなかったという点からも明かだろう。
 この運動があゆみを進めていくうえに、たえずそこに反省を繰り返さなくてはならなかったのは、骨身にしみとおったその芸術主義であった。このようにして、、生活綴り方が「芸術教育に対する一種の否定から出発しながらも、、結局はやはり芸術教育の範囲から抜け出さないでいる場合が非常に多い……結局綴り方の“芸術”としての進歩に止っている。ここに一つの重大な誤まりがある」という高倉テル氏の批判(『綴り方教育の本質』――教育・一九三八年六月)はあたっている。

3 片上伸の文学教育論
 『赤い鳥』をこえたものだけが『赤い鳥』のめざした地点へ進むことができる。『赤い蝋燭と人魚』は、そうした地点にむけての一歩前進をしめす作品であった。
 そうした一歩前進を、しかも大きな歩幅でやってみせたのが片上伸(天弦)であった。
 自然主義がその頂点をきわめた明治末年にあって、たとえば島村抱月などが、ややニヒルな調子で「我等が生の理想とすべきものは何であろうか。少しも分っていない。」(『近代文芸の研究』序)と呟やいていたとき、「無解決は断じて絶望でない」といい、「生の持続する限り、人生の疑惑を解決せんとする要求はやまぬ」(『未解決と人生の自然主義』一九〇八年)とそう語った片上伸は、そのときすでに自然主義をこえていたといえるが、今また彼は、所謂自由主義をこえた立場において真の自由教育をとなえ、“芸術教育としての文芸教育”とは別の次元において、あるべき文学教育のすがたをそこに探るのである。
 片上が「年少の子弟」の文学教育の教材と考えていたのは、もはや童心主義の童謡童話ではなかった。むしろ、「真の力ある文芸」であった。なによりも「人間生活の真実」をえがいた作品であった。しかも、それは、「暗黙のうちに人間生活の真実を了得せしめ感ぜしめる」ような形象化を伴なった作品でなければならない、というのである。
 そうした教材の選定の方向は、彼の次のような教育目標によって決定されている。
 彼の考える文学教育の目的・課題は、「年少の子弟」のあいだに、「人間の本性のすべてを生かして、そのうちに生きてめげない程の逞ましい豊富な生活感情」をつくりあげる、ということである。「人間生活の複雑な恐怖・悲哀・苦痛を」それとして「感ずる」こと、「真に美しいものに感応」し、またたんに感応するだけでなくて「それを愛し護ろうとする心の源泉を豊富にする」ことだ、というのである。さらにいえば、「断片的の表面的の実際生活の指針を露骨に与えるものではなくして、複雑な人間生活の殆んど予期しがたいさまざまの境遇事情に適応して、自己の道徳感情を正しく表現してゆくことの出来るために必要な、根本の力を豊富にする」ということなのである。
 それは、別のことばでいえば、個々人の生活の特殊を典型に変え、具体的形象においてものを見、かつ考えるということ、文学的思考をはぐくむ、ということにほかならない。こんにち、わたしたちがそこをめざして進もうとしている文学教育の方向が、(翻訳の手つづきさえいとわなければ、つかめる程度に)かなりハッキリと示されているのである。

 * 片上伸に関する引用は、すべて『文芸教育の提唱』(一九二〇年)による。

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§3
三 “プロレタリア教育”を中心に


 プロレタリア教育が教材研究を重視している点は特ちょう的です。それは、教授法万能の方法主義・技術主義から教材研究中心の立場に移行しつつあった、当時の国語教育界一般の動向のちょうど裏側の関係にあるわけです。
 たとえば、友納友次郎は、その教材論『取材観の源泉・読本の本質的発生的研究』(一九三一年、同文書院刊)において、大正期このかたの自由教育がゆきづまりを示したのは教材研究をゆるがせにしていたことの結果であるという“反省”を語り、そこに教材研究の必要を力説していますが、こうした一般の動向とのつながりにおいて、つまり「ブルジョア教育の力を注ぐ所、或いはその弱点に向って攻撃の主力を注ぐ」(『プロレタリア教育の教材』)という戦術的対応関係においてプロ教育にあっても教材研究が重視され、そのモデル教案『小さなねじ』が示しているような形で、教科書の原材料の利用・逆用・改作が行われ、さらにまた「プロレタリア貧農児童の要求に応じた教材の作成」や綴り方指導がおこなわれた、というふうに考えられます。
 が、天皇制政府が現実に“左翼教員”としてパージし検挙した人びとの児童教育の実際・実態がどのようなものであったかは『階級的文学教育の実際』について見ていただきたいと思います。「愛国の心とは戦争をやらないようにして、世界の各国を仲よくさして平和な世界とすることをいうのではないでしょうか。」という小学生の綴り方は、“その筋”の判断によれば、“赤い綴り方”であるというわけです。また、受持ちの児童に、「大塩平八郎は、飢饉で困っている多くの人々を救うために再三その筋に建言したがいれられなかったので憤慨して乱を起し、事破れて死んだ。このように困っている人を救うために尽した人は偉い人である。」と語った教師は“赤”だというのです(長野県の例――『プロレタリア教育の教材』による)。わたくしたちは、そこに、一面、“時代のへだたり”を感じると同時に、「今昔(こんじゃく)の感がある」なぞとやはり言いきれないものがあることに遺憾の意を表わさなくてはなりません。

 『文学的教材論』『古典教材および各種教材を論ず』とは、『国定教科書の左翼的批判』という標題で文部省の『プロレタリア教育の教材』(一九三四年刊)に掲載されている、原稿換算六百枚近い文章の一節です。同書によると、「神奈川県中郡平塚第三尋常小学校訓導脇田英彦〈全協日本一般使用人組合教育労働部神奈川支部関係者、昭和六年十一月十二日免状褫奪[ちだつ]、同年十二月二十三日起訴猶予〉の手記の中から、修身、国語、算術、国史、理科、地理等の重要学科の教科書に対する批判をその儘[まま]全部引用して参考に供したいと思う。……彼は最初修身科教科書に対する批判を試みた頃は純然たる左翼的立場から批判し始めたのであるが、検事局の取調べの進むにつれ(当時彼は検挙せられていた)次第に自己の信念に動揺をきたし、国語科、算術科、国史科、地理科と批判の筆を運ぶに従って、漸次[ぜんじ]自由主義的立場をとるに至った。」とあります。
 ですから、これは自分の意志で書いたというより、検察当局によって書かされた 一種の転向手記みたいなものです。大衆に向けての呼びかけではなくて、検察官への“報告”なのです。おそらくは「自己の信念に動揺をきたした」というより、縛られた舌のもつれ とたたかいながら、脇田はこの獄中手記を書き綴ったのでありましょう。「階級的意義は稀薄であり、理論は徹底していない点がある。そして、その中には幾多の矛盾がある。」と文部当局はこの文章を批評していますが、当局がいうのとは別の軸で、しかし肯けるところがあります。読んでいて“舌のもつれ”を感じるのです。「しかし、これによって、大体プロレタリア教育における国定教科書に対する批判の態度が察せられ」(『プロレタリア教育の教材』)ます。
 脇田のこの教科書批判をよんで誰しも気づくのは、教科書のあり方――教材の選定・配列が基本的には 戦前も戦後も変りがない、という点に関してでありましょう。

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二  プロレタリア教育生活綴り方運動  

1 歴史はくりかえす
 プロレタリア教育が教材研究を重視している点は特徴的である。それは、教授法万能の方法主義・技術主義から教材研究中心の立場に移行しつつあった、当時の国語教育界一般の動向のちょうど裏側の関係にあるわけだ。
 たとえば、友納友次郎は、その教材論『取材観の源泉・読本の本質的発生的研究』(一九三一年、同文書院刊)において、大正期このかたの自由教育がゆきづまりを示したのは、教材研究をゆるがせにしていたことの結果であるという“反省”を語り、そこに教材研究の必要を力説していますが、こうした一般の動向とのつながりにおいて、つまり「ブルジョア教育の力を注ぐ所、或いはその弱点に向って攻撃の主力を注ぐ」(文部省学生部編『プロレタリア教育の教材』――一九三四年三月刊)という戦術的対応関係において、プロ教育にあっても教材研究が重視され、そのモデル教案『小さなねじ』(新興教育・一九三一年一二月)が示しているようなかたちで、教科書の原材料の利用・逆用・改作がおこなわれ、さらにまた「プロレタリア貧農児童の要求に応じた教材の作成」(『小さなねじ』)や綴り方指導がおこなわれた、というふうに考えられる。
 が、天皇制政府が現実に“左翼教員”としてパージし検挙した人びとの児童教育の実際・実態がどのようなものであったかは、右の『プロレタリア教育の実態』に取材されている実例について見るのが早い。「愛国の心とは戦争をやらないようにして、世界の各国を仲よくさして平和な世界とすることをいうのではないでしょうか」という小学生の綴り方は、“その筋”の判断によれば、“赤い綴り方”であるというわけだ。また、受持の児童に、「大塩平八郎は、飢饉で困っている多くの人々を救うために再三その筋に建言したがいれられなかったので、憤慨して乱を起し、事破れて死んだ。このように困っている人を救うために尽した人は偉い人である。」と語った教師は“赤”だというのである(長野県の例)。
 わたくしたちは、そこに、一面、“時代のへだたり”を感じると同時に、“今昔(こんじゃく)の感がある”なぞとやはり言いきれないものがあることに遺憾の意を表わさなくてはならない。

2 階級的文学教育の実際
また、この文部省の『プロレタリア教育の教材』には、『国定教科書の左翼的批判』という標題の原稿換算六百枚近い文章が掲載されている。「神奈川県中郡平塚第三尋常小学校訓導脇田英彦〈全協日本一般使用人組合教育労働部神奈川支部関係者、昭和六年十一月十二日免状褫奪[ちだつ]、同年十二月二十三日起訴猶予〉の手記の中から、修身、国語、算術、国史、理科、地理等の重要学科の教科書に対する批判をその侭[まま]全部引用して参考に供したいと思う。……彼は最初修身科教科書に対する批判を試みた頃は純然たる左翼的立場から批判し始めたのであるが、検事局の取調べの進むにつれ(当時彼は検挙せられていた)次第に自己の信念に動揺をきたし、国語科、算術科、国史科、地理科と批判の筆を運ぶに従って、漸次[ぜんじ]自由主義的立場をとるに至った。」というのである。
 だから、脇田氏のこの手記は自分の意志で書いたというより、検察当局によって書かされた 一種の転向手記みたいなものだ。大衆に向けての呼びかけではなくて、検察官への“報告”である。
 おそらくは「自己の信念に動揺をきたした」というより、縛られた舌のもつれ とたたかいながら、脇田氏はこの獄中手記を書き綴ったのであろう。「階級的意義は稀薄であり、理論は徹底していない点がある。そして、その中には幾多の矛盾がある」と文部当局はこの文章を批評しているが、当局がいうのとは別の軸で、しかし肯けるところがある。読んでいて“舌のもつれ”が感じられるのだ。「しかし、これによって、大体プロレタリア教育における国定教科書に対する批判の態度が察せられる。」(『プロレタリア教育の教材』)
 脇田氏の教科書批判――その文学教材論や古典教材論をよんで誰しも気づくのは、教科書のあり方、教材の選定・配列が基本的には 戦前も戦後も変りがない、という点に関してであろう。
 ――〔教科書の文学的教材は〕全体を通じて季節的配列をしている。……傾向としては児童生活体験を静的に見ている。……ほとんど児童の心の外界の自然的風景とを結びつけようとしている。……青葉に光る露を叙さねば気がすまぬといった調子だ。この点こそ見逃すべからざる傾向である。すなわち文部省の文学観の現われなのだ。そして私はこの文部省の児童文学指導観が誤謬であることを指摘しなければならぬ。われわれ成人の生活自体を反省して見てもそれは極めて動的だと思う。況や児童の体験は純粋に躍動的である。生気溌剌たるものである。この動的に発展しようとする児童を、静的にして発展させようとすることは、動を制するに静ををもってするので合理的のようではあるがその実、角をためて牛を殺す類だ。……今後読本の改正に当っていわゆる文学的教材をより豊富に取り入るべきだと思うが、文部省が依然たる文学観をもってするならば、それは有益よりも害を及ぼすことが多いであろうことを断言するにはばからない。当局者よ反省されよ。
 ――得体の知れない教材、例えば巻七、長き行列、れんげそう、二百十日、電報、助力等、巻八、心と心、手の働(はたらき)、朝鮮人参、町の辻、看板、税、水の力、胃とからだ、分業等々を全部省いて、これに代うるに文学的教材をもってしたらどうか。……電報のことや看板のことや二百十日のことや、その他前述の諸課の意義を児童にくみ取らしめるために国文の力、読本の力をかりる必要は少しもないと思う。……国語力を培う為に、私は当局がすみやかに、読本を文学的方向に統一されんことを望むものである。理科的教材、地理的教材等の大部分が国語的生命を失っている。そして全体から見て分量が多すぎるのだ。逆にいえば理科的或いは地理的理解の為の国文なのだ。国文によって理科的に生きて地理的に生きていないのである。また当局はどちらに考えているかしらないが、挿画などもどういう立場から入れてあるのだろうか。前言の反復になるが、地理的教材など全く見方が浅薄だといわねばならぬ。横浜、大阪、大連、揚子江、アメリカ便りにしても概念的抽象的だ。一体大都市の性質など知らせて何になるか、国語的に何になるか、またアメリカの資本主義文明に驚異させて何になるか、私は全く当局の意図を怪しまずにはいられないのだ。
 ――古典教材の選択においては文部省のやり方は極めて不統一であると思う。つまり、修身的立場から一を選んだと思うと次は文字解釈(古典解釈)を中心にして選んだり、全体としてはやはり羅列に終っているのである。私は古典文学もやはり生活的立場から選択すべきだと思う。或いは思想的内容的立場といっていいかも知れぬ。即ち解釈主義に堕しない方針である。文が美しいからここの一節を抜粋するとか、現在の道徳教育に役立つから、彼処の一編をピック・アップするとかいうのでなく、第一に時代を見、次に著者の思想的立場全体を見、更に一著書の中心部分を見、その上に立って教材を選択すべきであると思う。しからずして古典の正しい理解はあり得ないのである。
 ――さて最初の文学的教材と、古典文学教材を全部除いてしまって、右のような教材のみにしたら読本はいかなる性質を持っているであろうか? 全く常識のよせあつめ に陥っているのではないか。修身あり、歴史あり、博物あり、法律あり、伝記あり、地理あり、工業あり、経済あり、商業あり、まったく八百屋式である。必要だからとて、ただ羅列しただけでは真の知識となることはできないと思う。

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§4
(三 “プロレタリア教育”を中心に 続き)
戦後の教科書の文化主義(=教養主義)・実用主義・拝外主義(排外主義)を、いま、わたくしたちは問題にしていますが、しかし戦前の教科書もやはりそのとおりであったわけです。むろん、戦前と戦後とでは教育の方式・体系がちがいます。言語主義から経験主義へ――。天皇制臣民教育から植民地的半奴れい教育へ――。が、愚民政策のための教育であるという点では、しょせん一つこと、一つものです。脇田の批判のことばのひとつひとつが、じかにこちらの胸に響いてくるのも、きっとそのせいでしょう。
 (ついでにいうと、右の『プロレタリア教育の教材』の表紙には、三号活字で“秘”と印刷されてあります。扉には、「本書は思想問題に関し、生徒児童の教育の任にある者その他教育関係者の注意を促し警戒の資に供する目的をもって編纂したるものなり」とあります。A5判・六九五ページの大冊の本です。)

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(2 階級的文学教育の実際 続き)
戦後の教科書の文化主義(=教養主義)・実用主義・拝外主義(そして排外主義)を、いま、わたしたちは問題にしているが、しかし戦前の教科書もやはりそのとおりであったわけだ。
 むろん、戦前と戦後とでは教育の方式・体系がちがう。言語主義から経験主義へ――。天皇制臣民教育から植民地的半奴れい教育へ――。が、愚民政策のための教育であるという点では、しょせん一つこと、一つものである。脇田氏の批判のことばのひとつひとつが、じかにこちらの胸に響いてくるのも、きっとそのせいだろう。
(ついでにいうと、右の『プロレタリア教育の教材』の表紙には、一号活字で“秘”と印刷されている。扉には、「本書は思想問題に関し、生徒児童の教育の任にある者その他教育関係者の注意を促し警戒の資に供する目的をもって編纂したるものなり」とあります。A5判・六九五ページの大冊の本である。)

3 生活綴り方への反省 
ところで、右のプロレタリア教育運動にたいしては、こんにちでも評価がまちまちである。
 たとえば、、福井研介氏などは、「わが国の民族の統一と団結をうちかためてゆくために、学びとらなければならない貴重な遺産のひとつは、いわゆる“プロレタリア教育”とよばれていた時代の先駆的な教授方法ではあるまいか」(『文学教育の方法』──岩波講座・文学の創造と鑑賞・第五巻、一九五五年三月)というふうな肯定的な見解を示しておられるが、国分一太郎氏の『“生活綴方”の運動と“生活学校”の運動』(教育・一九五二年三月)などを見てみると、かなり否定的な口吻である。『新興教育』(──当時それはプロ教育運動の推進力であった)などの、「ああいう公式主義的なものによっては東北の子どもは救われない」というような、一般農村生活綴り方教師の考え方に共感しつつ、「子供たちが事実のうらづけによって、ひとつの感情、ひとつの考えを出してくるところまで指導したい」と考える国分氏であったという。それは、いちおう農村生活綴り方教師としての過去の時点における発言ではある。が、また、たんに過去の時点における発言にとどまるものではないだろう。
「ああいう公式主義的なものによっては……」これがかならずしもプロ教育にたいする生活綴り方教師全体のかまえを示すものではなかった。が、そこを境としてこの運動が地に足のついたものにつき進んでいくモティーフがしめされている。「綴り方だけよくなっても生活がよくならなくては仕方がない」という、生活綴り方運動にたいする当時の内部批判にあわせて、
──生活綴り方をやった教師たちは……生活を言語化するという意味で言語技術の基本的なものへも到達してはいました。また、綴り方を学校集団で読みあうところから集団的思考にも到達していました。だから部分的には、かなり高いところまでいっていたわけです。しかし、大部分の人が、いろいろの要素を意識してそれを科学的に洗練するという方策をとらなかったために、かならずしも高度の発達をみたとはいえないように思います。……戦後になると、この実践が今井誉次郎氏とか国分一太郎氏などの適当な指導者によって意識化され、科学的・方法的にやるという技術もととのえられてきました。だから戦後の生活綴り方は戦前のくりかえしではない。アメリカふうのランゲイジ・アートの考え方がはいってきたために、かえって自分をはっきりと意識し、全部やりなおして一段と高くなった。……この生活綴り方的方法による国語教育は、今後の国語教育の基本的な流れとなるのではないかと思います。

という波多野完治氏の評価(『国語教育の課題』──講座日本語・第七巻)は、この運動の本質をよくつくしている。が、それが「今後の国語教育の基本的な流れ」となるためには、よりいっそうの方法的省察がそこに伴なわなくてはなるまい。生活綴り方的方法によってそこに実現させようとする、リアルで意欲的な考える力というのは、(心理的にではなく論理的にいって)じつは何によってもたらされたものであり、もたらされるものであるのか、という点への反省等々々。

* 生活綴り方に関しては、なお、第一章・一・2、七・1などの項を参照していただきたい。

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§5
四 西尾実の所論とその批判をめぐって


 階級的実践的立場にたつ脇田が「何故外国の教材しか用いられないか……近代日本の社会からその材料をとらない」のはなぜかと抗議し、修身的立場や文字解釈のための古典への取材をしりぞけて、「生活的立場からの文学的方向への教材の統一」を叫び、文学教育をプロ教育の前衛・主軸として重視しているのに対して、西尾実は、どちらかといえば文学教育軽視――いや軽視とはいえないでしょうが、それを副次的なものに考えています。文学は、日常生活におけることばを底辺とした三角形の頂点にすぎない。底辺や底辺(基底)の上のひろがりを忘れて、頂点だけにとらわれるのはまちがいだ、というのが西尾の国語教育論(『文芸的国語教育の欠陥』――原題『読方教育論』)でした。
 両者の考えは、一見まるで方向の違ったもののように見えますが、西尾の否定しているのは、じつは大正期このかたの観念的な(宙に浮いた)文芸主義の国語教育なのです。生活の基底に目を向けかえることで、地に足のついた国語教育を、と西尾もいっているわけですから、その点ではむしろ両者の視点は一致します。ひとしく“マルキシズムの洗礼を受けた時代”の子であったことが言われていいでしょう(たとえば、西尾の『国語国文の教育』一九二九年刊・二一一ページ以下を見よ)。が、マルキシズムをどう媒介しどう受けとめたかという点では――そうです、ここのところで両者は(部分的にふれあうところはありながらも)異なる別の方向にあゆみを進めることになったのでした。
 やはりマルキシズムに背を向けたディルタイのばあいがそうであったように、西尾のいう“生活の基底”とは、生哲学ふうの形而上学的・非歴史的な“生”にほかなりません。(ディルタイが歴史の項を骨抜きにし消去するために、歴史ということばをうるさいほど口にし、そしてついに歴史の項を現実のワクの外に括りだすことに成功(?)したところにもたらされた、あの“生”です。)鑑賞を深めるとか解釈するとかは、したがって西尾のばあい、“追体験”以外の操作を意味しているとは考えられません。生は生によってしか理解されえないし、その理解の方法は追体験以外にはありえぬ(ディルタイ)わけなのですから。
 西尾のこの生哲学的な生の立場はこんにちに至るまで一貫して変わりません。一九五四年に書かれた『文学教育の回顧と展望』において、「鑑賞活動に示される文学機能とは何であるか。もっとも一般的な機能は、読者その人の生活において蓄積されている『問題意識』を喚起することである。この『問題意識の喚起』は読者の生きかたに何等かの方向を与える。あるいはその“生”に慰めをもたらし、あるいはその“生”を鼓舞し、あるいはその生きかたに反省を促すというように。……文学が、鑑賞活動を通して読者に働きかける機能は、このようにして、だいたい、(一)“生”の方向づけと、(二)創作意欲の喚起と、(三)研究意欲の推進とに類別することができると思う。鑑賞活動を経験させる文学教育は、この三方向のいずれかへの発展を見通した指導でなくてはならない。」と西尾は語っています。
 さいきん、日本文学協会の内部でも西尾理論に対する批判がぼつぼつ出かかっているようですが、西尾理論のこのベースを突いたものが見当たらないのは、どうしてでしょうか。たとえば、「西尾氏は理論構成にあたって、立場と方法と内容を統一的につかもうとしたそのねらいを、むしろ観念的に方法の問題に限定されたような感じ」だ、と益田勝実はいっていますが、(『問題意識喚起の文学教育について』――原題『しあわせをつくり出す国語教育について』)、西尾がしゃにむに問題を方法の面に限定して発言しようとしたその“立場”こそ、変形された解釈学主義(=追験主義)のそれにほかなりません。また、たとえば、荒木繁は「西尾氏の所論は、作品とそれによって喚起された問題意識との必然的な関係をあきらかにせず、……これを創作意欲の喚起や研究意欲の喚起と並置されている点において賛成できない。」(『文学教育の方法』)と語っているのですが、創作・享受(鑑賞)・研究を根源的に同質のものと考えるところが生哲学の生哲学たるゆえんなのです。(それは、たとえば、こういうことなのです。生哲学にしたがえば、鑑賞とは追体験による生の理解にほかなりませんし、研究とはたんに鑑賞をそれとして深めていく操作をしか意味していないという点です。また、たとえば、鑑賞が一面創作過程の追体験であるという点で、それは創作と同質のものであるという方式の論理です。)“立場と方法と内容を統一”した西尾理論の批判が望まれます。
 こうしてその立場をハッキリさせたうえで見なおすと、まえには非常にもっともな意見のように受けとられた、三角形うんぬんの所論が、かなりに観念的なものであることに気づかされるでしょう。人間のさまざまないとなみ のなかから“言葉のいとなみ”だけを抽象して、文学のいとなみは(それが言葉の芸術であるから)“言葉のいとなみ”の一種であり、したがって文学の基底は日常生活における言葉だ、というのでは、これは論理の横すべりではないでしょうか。その意味では、むしろ、文学の基底・基盤は人間の具体的な社会生活そのものである、といわなくてはなりません。言葉は、文学にとって唯一の媒体であり通路ですが、しかし基底ではありません。文学は、言葉による いとなみには違いありませんが、たんに 言葉 いとなみではないのです。正しくは文学の言葉 の基底は日常生活の言葉 である、というふうに語られるべきではないでしょうか。
 が、言葉づかいの問題は一応どうでもよいのです。問題は、リベラリスト西尾実が、しかし国語教育を「伝統に根ざした、底力のある国防教育 たらしめ」ねばならぬと語り、そのためには「古典教育の実を挙げなくてはならない」とそう語るほかない地点にまで追い詰められたとき(一九四三年)に、れいの三角形うんぬんの所論が「言語教育と古典教育とが、いわば三角形の底面と頂点との関連として定位せられていることに、新教授要綱の本領が見出される」(以上、『国語教育の立場と方向』)というふうに、いともたやすくファッショ教育奉仕のことば (論理)に転化し得るもろさ をもっていた、というその点なのです。
 つまり、そのもろさ のよって来たるところが問題なわけです。ある種の生哲学者・実存哲学者たちが後にナチの御用学者に成り果てたのをここに思いあわせるのは筋違いですが、しかし生哲学ふうなものの考え方そのもののなかに、やはり何かそうした“もろさ”があるのではないでしょうか。事のついでに申しますと、いま、日本文学研究の分野でもプラグマティズム批判がさかんですが、しかしそれにあわせて、生哲学批判をやらないのはどうしてでしょう? プラグマティズムが帝国主義の哲学なら、生哲学はれっきとした戦犯の経歴をもっています。が、ディルタイのそれと、戦時中ファッショの手先きになったような俗流・亜流の生哲学とはやはり区別されなくてはならないと思うのですが、相手がプラグマティズムの場合にかぎって無差別爆撃を敢えてするのは、なぜでしょうか。この分野で二つのプラグマティズムを色分けしてものをいっているのは、わたくしの知るかぎりでは益田勝実だけです。

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三 形象理論と文学教育  

1 マルキシズム以後
階級的実践的立場に立つ脇田氏が「なぜ外国の教材しか用いられないか……近代日本の社会からその材料を取らない」のはなぜかと抗議し、修身的立場や文字解釈のための古典への取材をしりぞけて、「生活的立場からの文学的方向への教材の統一」を叫び、文学教育をプロ教育の前衛・主軸として重視している(前掲『国定教科書の左翼的批判』)のに対して、西尾実氏は、どちらかといえば文学教育軽視――軽視とはいえないかもしれないが、しかしそれを副次的なものとして考えておられる。
 文学は、日常生活におけることばを底辺とした三角形の頂点にすぎない。底辺(基底)やその底辺の上のひろがりを忘れて、頂点だけにとらわれるのはまちがいだ、とうのが、そのころの西尾氏の国語教育論(『読方教育論』――国語科学講座・一九三四年七月)であった。
 両者の考えは、一見まるで方向の違ったもののように見えるが、西尾の否定しておられるのは、じつは大正期このかたの観念的な例の“芸術教育”方式の文芸主義の国語教育なのである。生活の基底に目を向けかえることで、地に足のついた国語教育を、と西尾もいっておられるわけなのだから、その点ではむしろ、両者の視点は一致する。ひとしく“マルキシズムの洗礼を受けた時代”の子であったことがいわれていいだろう(たとえば、西尾氏の『国語国文の教育』一九二九年刊・二一一ページ以下を見よ)。
 が、マルキシズムをどう媒介しどう受けとめたかという点では――そう、ここのところで両者は(部分的にふれあうところはありながらも)異なる別の方向にあゆみを進めることになったのである。
 やはりマルキシズムに背を向けたディルタイの場合がそうであったように、氏のいう“生活の基底”とは、生哲学ふうの形而上学的・非歴史的な“生”にほかならない(ディルタイが歴史の項を骨抜きにし消去するために、歴史ということば をうるさいほど口にし、そしてついに歴史の項を現実のワクの外に括りだすことに成功〈?〉したところにもたらされた“生”である)。
 鑑賞を深めるとか解釈するとかは、したがって氏の場合、“追体験”以外の操作を意味しているとは考えられない。生は生によってしか理解されえないし、その理解の方法は、追体験以外にはありえぬ(ディルタイ)わけなのだから。追体験とは、そして、勝部謙造氏にしたがえば、「其人の心にまで追溯すること」であり、「其人の心を以て我が心とすること」にほかならない。

2 西尾実の所論とその批判のをめぐって
 西尾氏のこの生哲学的な生の立場、──垣内理論(故垣内松三氏の形象理論・解釈学理論)を受けついだ氏のこうした立場は、こんにちに至るまで一貫して変わらない。一九五四年に書かれた論文『文学教育の回顧と展望』(『文学』)においても、
 ──鑑賞活動に示される文学機能とは何であるか。最も一般的な機能は、読者その人の生活において蓄積されている“問題意識”を喚起することである。この“問題意識の喚起”は読者の生きかたに何らかの方向を与える。あるいはその“生”に慰めをもたらし、あるいはその“生”を鼓舞し、あるいはその生きかたに反省を促すというように。……文学が、鑑賞活動を通して読者に働きかける機能は、このようにして、だいたい、(一)“生”の方向づけと、(二)創作意欲の喚起と、(三)研究意欲の推進とに類別することができると思う。鑑賞活動を経験させる文学教育は、この三方向のいずれかへの発展を見通した指導でなくてはならない。

と語っておられる。
 さいきん、日本文学協会の内部でも、西尾理論に対する批判がぼつぼつ出かかっているようだが、西尾理論のこのベースを突いたものが見当たらないのは、どうしてだろう?
 たとえば、「西尾氏は理論構成にあたって、立場と方法と内容を統一的につかもうとしたそのねらいを、むしろ観念的に方法の問題に限定されたような感じ」だ、と益田勝実氏は語っておられるが(『しあわせをつくり出す国語教育について』──日本文学・一九五五年八月)、西尾氏がしゃにむに問題を方法の面に限定して発言しようとした、その“立場”こそ、変形された形象理論・解釈学主義・追験主義のそれにほかならない。
 また、たとえば、荒木繁氏は「西尾氏の所論は、作品とそれによって喚起された問題意識との必然的な関係をあきらかにせず、……これを創作意欲の喚起や研究意欲の喚起と並置されている点において賛成できない。」(『文学教育の方法』──岩波講座・文学の創造と鑑賞・第五巻、一九五五年三月)と語っておられるが、創作・享受(鑑賞)・研究を根源的に同質のものと考えるところが生哲学(=形象理論)の生哲学たるゆえんなのである。(それは、たとえば、こういうことなのである。生哲学にしたがえば、鑑賞とは追体験による生の理解にほかならない。研究とは、またたんに鑑賞をそれとして深めていく操作をしか意味していない。また、たとえば、鑑賞が一面創作過程の追体験であるという点で、それは創作と同質のものである、という方式の論理なのだ)。“立場と方法と内容を統一”した西尾理論の批判が望まれる。

3 ヴァリエーションABC
 こうしてその立場をハッキリさせたうえで見なおすと、前には非常にもっともな意見のように受けとれた、三角形うんぬんの所論が、かなり観念的なものであることに気づくだろう。
 人間のさまざまないとなみ のなかから“ことばのいとなみ”だけを抽象して、文学のいとなみは(それがことばの芸術であるから)“ことばのいとなみ”の一種であり、したがって文学の基底は日常生活におけることばだ、というのでは、これは論理の横すべりではないか。
 その意味では、むしろ、文学の基底・基盤は人間の具体的な社会生活そのものである、といわなくてはならない。ことばは、文学にとって唯一の媒体であり通路であるが、しかし基底ではない。文学は、“ことばによる いとなみ”には違いないが、たんに“ことば いとなみ”ではない。正しくは文学のことばの基底 は日常生活のことば である、というふうに語られるべきではなかったろうか。
 が、ことばづかいの問題はいちおうどうでもよい。問題は、きっすいのリベラリストである西尾実氏が、しかし国語教育を「伝統に根ざした、底力ある国防教育 たらしめ」ねばならぬと語り、そのためには「古典教育の実を挙げなくてはならない」とそう語るほかない地点にまで追い詰められたとき(一九四三年)に、例の三角形うんぬんの所論が「言語教育と古典教育とが、いわば三角形の底面と頂点との関連として定位せられていることに、新教授要綱の本領が見出される」(以上、『国語教育の立場と方向』──文学・一九四三年八月)というふうに、いともたやすくファッショ教育奉仕のことば (論理)に転化し得るもろさ をもっていた、というその点なのである。
 つまり、そのもろさ のよって来たるところが問題なわけだ。ある種の生哲学者・実存哲学者たちが後にナチの御用学者に成り果てたのをここに思いあわせるのは筋違いかもしれないが、しかし生哲学ふうなものの考え方そのもののなかに、やはり何かそうした“もろさ”があるのではないだろうか。
 ことのついでにいうと、いま日本文学研究の分野でもプラグマティズム批判がさかんだが、しかしそれにあわせて、その大もとの生哲学批判をやらないのはどうしてだろう? プラグマティズムが帝国主義の哲学なら、生哲学はれっきとした戦犯の経歴をもっている。が、ディルタイのそれと、戦時中ファッショの手さきになったような俗流・亜流の生哲学とはやはり区別されなくてはならないように思うが、相手がプラグマティズムの場合にかぎって無差別爆撃をあえてするのは、なぜだろう? 
 生哲学の亜流にすぎないこの形象理論は、こんにちこの時点において、ふたたび、いきおいを盛りかえそうとしている。その盛りかえし方は、一方では文化主義を媒介とするプラグマティズムとの結びつきのかたちにおいて、また他の一方では、プラグマティズム・コスモポリタニズムそのものに反撥する人びと(そのなかのある種の人びと)の哲学史的無知を逆用してである。

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§6
五 文学の教育性と教訓性


 国分一太郎は文学教育に“文学についての教育”と“文学による教育”との二つの側面のあることを考えてみているようです(『文学教育の問題点』一九五四年)。“文学による教育”というのは、国分のばあい、「文学がもっている独自の教育的機能を生かした教育」ということらしいのですが、国分のばあいにかぎらず、文学の教育性というこの言葉が戦後さかんに用いられています。たとえば、中村新太郎には『児童文学における教育性』(一九五四年)という題名の論文があるくらいです。が、言葉としてそれを用いながら、文学がどんな独自の教育的機能をもっているのかという点、また芸術性(文学性)や文学の表現・認識、さらに鑑賞とこの教育性がどうかかわりあうのか、といういうような点は一般にあまりハッキリしていないように思われます。
 ところで、この問題がすでに三六−七年代において、かなりぎりぎりのところまで追究され討議されていたことを、わたくしたちは、与田準一(『児童文学の教化性』)・松永健哉(『教育に於ける児童芸術の問題』)・槇本楠郎(『児童文学の教育性・倫理性』)などの相互批判の評論について知り得るのです。さらにまた、直接右の問題への応答をめざして書かれたものでないにもかかわらず、しかもきわめて明快な、深くえぐった解答を示しているのは、片岡良一の『芸術性と芸術の価値』『鑑賞に先行するもの』などの論稿でした。こうしたすぐれた遺産を、なぜ受けつがないのか。この戦争を境にして、そこになにか断絶があるようです。
 一九三七年の右の“教育性”論議は、作家側に見られる教育性と教訓性とのとりちがえやら、「教育性と芸術性とが本質的に両立し得ない」と作家たちが語ったというふうな松永の誤解やら、また作家の“創作の機微”を無視した、そのかぎりかなりムリのある松永の註文やらがそこに出されて、ちょっと整理のつかなぬかたちになっていますが、しかし基本的・原則的な問題がそこで論議されたことは注目にあたいするでしょう。なかでも、槇本が「日本の初等教育者の置かれている封建的な、悲しむべき不自由な立場」について語り、「口演童話や学校劇も、教育者に利用され、学校に入って行くに従って……第一義の真の 教育性・倫理性を失ってしまった」事実を指摘し、こんにちの児童文学はファッショ権力とのたたかいのうちに子どもを守るために「真の教育性」を回復しなくてはならぬ、と“もつれた舌”で語っているのは特筆にあたいします。

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四 文学の教育性・教育的機能
──三〇年代への回想(1)──
 

国分一太郎氏は、文学教育に“文学についての教育”と“文学による教育”との二つの側面のあることを考えておられるらしい(『文学教育の問題点』──国語教育・一九五四年七月)。“文学による教育”というのは、国分氏の場合、「文学がもっている独自の教育的機能を生かした教育」ということらしいが、国分氏の場合にかぎらず、文学の教育性ということばが戦後さかんに用いられている。たとえば、『文学の教育性』とか『児童文学における教育性』というような題名の論文さえある。
 が、ことばとしてそれを用いながら、文学がどんな独自の教育的機能をもっているのかという点、また芸術性(文学性)や文学の表現・認識、さらに鑑賞・享受とこの教育性とがどうかかわりあうのか、といういうような点は一般にあまりハッキリしていないように思われる
 ところで、この問題がすでに三六−七年代において、かなりぎりぎりのところまで追究され討議されていたことを、わたしたちは、与田準一氏(『児童文学の教化性』)・松永健哉氏(『教育に於ける児童芸術の問題』)・故槇本楠郎氏(『児童文学の教育性・倫理性』)などの相互批判の評論について知り得るわけだ。さらにまた、直接右の問題への応答をめざして書かれたものでないが、しかもきわめて明快な、ふかくえぐった解答をしめしているのは、片岡良一氏の『芸術性と芸術の価値』(『文学』)『鑑賞に先行するもの』(『国語教育誌』)などの論稿であった。
 こうしたすぐれた遺産を、こんにち、なぜ受けつがないのか。この戦争を境にして、そこになにか断絶があるように思われる。
 一九四七年の右の“教育性”論議は、作家側に見られる教育性と教訓性とのとりちがえやら、「教育性と芸術性とが本質的に両立し得ない」と作家たちが語ったというふうな松永氏の誤解やら、また作家の“創作の機微”を無視した、そのかぎりかなりムリのある松永氏の注文やらがそこに出されて、ちょっと整理のつかなぬかたちになっているが、しかし基本的・原則的な問題がそこで論議されたことは注目にあたいしよう。
 なかでも、槇本氏が「日本の初等教育者の置かれている封建的な、悲しむべき不自由な立場」について語り、「口演童話や学校劇も、教育者に利用され、学校に入って行くに従って……第一義の真の 教育性・倫理性を失ってしまった」事実を指摘し、こんにちの児童文学はファッショ権力とのたたかいのうちに、子どもを守るために「真の教育性」を回復しなくてはならぬ、と“もつれた舌”で語っているのは特筆にあたいする。
* 文学の教育性ないし教育的機能の問題についての、こんにちの時点におけるみごとな整理が西尾実氏によっておこなわれたのは、日文協・一九五四年度大会においてであった。(第一章・九・2『教育的機能と文学的機能と』参照。)

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§7
(五 文学の教育性と教訓性 続き) 



それとほぼ同じ時期に、国語教育の分野でも、天皇制臣民教育への抵抗が、この教育性と教訓性の問題をなかにはさんで、教材論のかたちで展開されました。たとえば、金田鬼一は局外批評のかたちで、国定教科書の童話教材批判(『国語教材としての童話』――原題『童話』)を書きましたが、それは文部省の修身道徳的立場からの民間伝承説話の改ざんが、民族のすぐれた遺産をだいなしにしてしまい、原作ほんらいの高い教育性を奪いとってしまっている事実を、実証的に、そして根底からバクロしたものでした。

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五 抵抗の国語教育
──三〇年代への回想(2)──


1 文学教材としての民話
 右に見てきたような教育性論議がおこなわれていたのとほぼ同じ時期に、国語教育の分野でも、天皇制臣民教育への抵抗が、この教育性と教訓性の問題をなかにはさんで、教材論のかたちで展開されたのだった。たとえば、金田鬼一氏は局外批評のかたちで、国定教科書の童話教材批判(『童話』――岩波講座・国語教育)を書かれたが、それは文部省の修身道徳的立場からの民間伝承説話の改ざんが、民族のすぐれた遺産を台なしにしてしまい、民話ほんらいの高い教育性を奪いとってしまっている事実を、実証的に、そして根底からバクロしたものであった。
 ──教材の実地について、先ず巻一の『舌切雀』を検討してみる。これは、完全な話にするか、さもなければ削除してしまいたい。……『舌切雀』は動物報恩説話型の立派な「昔ばなし」で、こんな風に途中だけを漫然と教材にしてはいけない。第一、昔ばなしというものは、「むかし、むかし」という言いだしで始って、「これでいちがさかえた」「めでたし、めでたし」と朗らかに結ぶことに定っている。この型を壊すことは昔話の伝統を無視することで、日本人が「昔々から」語り伝えていつとなしにうん[酉扁+温の旁]醸された温かいなつかしい雰囲気から、昭和以降の児童を追い出すことになる。……伝承童話は国民の魂の揺籃である。日本の「昔ばなし」もまさしくわれわれ日本人の魂の故郷である。
 ──教材の『舌切雀』には肝心の冒頭がない。恐らく、雀の舌を切るという残酷な行為は児童の無垢な心をそこなうとの理由ではぶいたのであろうが、前にも述べたとおり、童話の世界には、現実世界とちがって、因果関係の解らぬ断片的事実は現われない。たとえありとあらゆる罪悪が面白おかしく描きだされていようとも、結局は、必ず善が悪に勝って、末は「めでたし、めでたし」となり、恭倹・誠実・敬虔・忍耐・勤勉・慈悲・清浄無垢、その他あらゆる美徳が勝利を占める筋道が知らず知らずの間に明瞭に感じられる。しかしこれは首尾一貫した真の童話に親しんだ場合に全体としておのずから感じ得られるのであって、抽象的の道徳律を無上命令的に児童に注入して収められる効果ではない。要するに、児童は面白い話に親しんで、宇宙を支配する道徳の大法を感じればよいのである。

 こんにち、とくに小・中学校文学教育において、民話への取材(ないし民話的方法)の必要が痛感されているが、しかもそれを“痛感”しているはずの当事者たちのあいだで、戦前のこうしたすぐれた成果・遺産が全然かえりみられていないのは、どうしたことなのか。金田氏のいわゆる“日本人の魂の故郷”を、文学的思考の文脈でこんにちに生かすことこそ民話的方法の具現ということであろうに──。

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§8
(五 文学の教育性と教訓性 続き)
 倉野憲司もまた、『国語教材としての神話』(原題『神話』)において、教材のこの修身的“教訓性”を“教育性”の立場からこっぴどく批判しました。しかも、その批判は透徹した学問的立場においてなされ、天皇崇拝・国家主義強調のための神話への取材という文部当局の意図が、しかし事実上“不敬を犯す”結果をみちびいているという矛盾を指摘することで、抵抗の実を挙げています。相手の常套手段をもちいて相手の痛いところを突く、という戦法です。暗い谷間特有の抵抗戦法でした。
 が、こうしたかたちの抵抗がおこなわれえたのも、しかしほんの短いあいだのことでした。

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2 神話をこんにちどう生かすか
  倉野憲司氏もまた、いわゆる神話の教科書への取材について、その修身道徳的“教訓性”にたいして“教育性”の立場から手きびしい批判を加えた(『神話』──岩波講座・国語教育)。しかも、その批判は透徹した学問的立場においてなされ、天皇崇拝・国家主義強調のための神話への取材という文部当局の意図が、しかし事実上“不敬を犯す”結果をみちびいているという矛盾を指摘することで、抵抗の実を挙げている。
 ──現に国語読本に取られている神話は、……決して神話そのものではなく、或いは変改、或いは補綴、或いは現代化されたもののみであって、童話化された神話というべきものである。極端に言えば、神話としての生命を失った話である。併し編纂者の意図は、これを全く童話化することを欲せず、一面においては神話的意義を匂わせつつ兼ねて童話的興味をそそろうとする一石二鳥主義にあったことは、天照大神・邇々芸命・火遠理命・須佐之男命・大国主命等のわが神話史上における重要な神々の御名が示されていることによって知られる。而してこの主義は一見非常な成功の如くに見られるが、実は失敗と言わざるを得ない。というのは、如上の神々の現われ給う神話は、わが建国の精神及び国体の本源を表掲した神聖なる存在であって、これに毫末の変改改変も加えるべきではないのに、変容歪曲を敢えてするというのは、神聖なる神話の冒涜であるからである。つまり不都合の因由は神々の固有の御名を示したところに存するのである。

「神聖なる神話の冒涜である……」つまり、相手の常套手段を逆用して相手の痛いところを突く、という戦法である。暗い谷間特有の抵抗戦法であった。
 ところで、倉野氏は、さらにことばをつづけて、「試みに“天の岩屋”を次のように改変して見たら」という、取材についての具体案を示しておられる。

 ──日の神様はやさしい女の神様でした。弟の嵐の神様は大変乱暴な神様でした。或時、嵐の神様があまり乱暴をなさるので、日の神様は御部屋に籠って、戸をしめておしまいになりました。明るかった世界が、急に真暗になりました。すると今まで隠れていた魔物が沢山出て来て、あばれまわりました。大勢の神様がお集りになって、「どうしたら日の神様に出ていただけるだろうか」と御相談なさいまいた。
御相談の末、神様方のなさることがきまりました。或神様は立派な鏡をお作りになりました。或神様は綺麗な玉をお作りになりました。又或神様は山へ行って榊の木を根こぎにして持っていらっしゃいました。この榊の木に鏡と玉をつけてお部屋の前に立て、また沢山の鶏[原文は奚+隹]を集めてお鳴かせになりました。この時舞の大変上手な或女の神様が、お部屋の前に進んで、滑稽な手振りや身振りをして、面白くお舞いになりました。大勢の神様はどっとお笑いになりました。あまり面白そうなので、日の神様は少しばかり戸を開けておのぞきになりました。すると或神様が鏡と玉をつけた榊の木をずっと前へお出しになりました。日の神様はこれを御覧になって不思議にお思いになって、少し戸の外へ出ようとなさいました。戸のそばで待っていらっしゃった力の強い男の神様はこの時とばかり、さっと戸を開けて、日の神様のお手を取って外へお連れ出し申しました。世界中がもとのように明るくなり、あばれていた魔物はみんなどこかへ隠れてしまいました。大勢の神様は手をうってお喜びになりました。それから後は、嵐の神様も乱暴をなさらなくなりました。

 原話の主題を、それの歴史的意義と現代的意義とにおいて正確につかんだ、これはすばらしい翻訳である。さらにいえば、神話が文学古典としてこんにちの(?──三〇年代の)時代的範疇に生かされているのだ。こうした過去の実践的試案・成果を、どうしていまの民話教育論者は受けつごうともしないのであろう?

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§9
六 鑑賞主義論争をめぐって



 暗い谷間の一ページ。二・二六事件前後のこと。
 当事者たちの“つもり”からするとこうらしいのです。とにかく息苦しいし、憩いがほしいのです。公式主義的マルキシストの、まるで判で押したみたいに一律な文学談義には、もうとてもつきあいきれません。文学世界までがこうギスギスしたものになったのでは、やりきれたものではないのです。こうしてリベラリストの一群は、公式主義者への反撥をこえて、マルキシズムそのものの否定に突きぬけ、趣味的な文学ディレッタンティズムに身をゆだねるようになりました。それと同時に、文学を憩いの場とするために「美の聖地を回復せんとする十字軍」(岡崎義恵『日本文芸学』)として、「マルクス主義の亜流」を学会や教育界から追放しよう(岡崎『古典及び古典教育について』)という勇ましいことにもなってしまったらしいのです。時のはずみです。が、ファッショ政治の息苦しさから身を避けようとした人たちが、権力の側に廻って特高そこのけの役割を演じる結果になったのは歴史の皮肉でした。
 そうした歴史の皮肉を身をもって経験した人は、文壇では林房雄、日本文学研究の分野では藤田徳太郎、そして岡崎義恵などでした。岡崎の大著『日本文芸学』(一九三六年刊)は、右にのべたような意味での“美の十字軍”の戦闘的な旗じるしでした。そして、この旗じるしの掲げられたことが、鑑賞主義批判を誘うよび水となったのはたしかです。近藤忠義・熊谷孝・乾孝・吉田正吉・石山徹郎・甘粕石介・新島繁・本間唯一・片岡良一・吉田精一などが、直接この鑑賞主義論争に参加しました。近藤や熊谷たちの日本文芸学批判に対して、新島・本間たち唯研グループや片岡などの一種の内部批判やら、吉田精一の批判やら、またそれへの反批判などがあって揉みに揉みました。けれど、論争の結果はうやむやに近かった、といっていいでしょう。言葉に足をとられた相手への誤解、相手方の誤解が問題の方向をズラせたことも確かです。が、この論争をたち消えに終らせたのは、なんといっても、岡崎のファッショ的・特高的発言(『古典及び古典教育』)でした。

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六 鑑賞主義論争と文学教育
──三〇年代への回想(3)──


1 暗い谷間の文芸学
 暗い谷間の一ページ。二・二六事件前後のこと。
 当事者たちの“つもり”からすると、こうらしいのだ。とにかく息苦しいし、憩いがほしい。公式主義的マルキシストの、まるで判で押したみたいに一律な文学談義には、もうとてもつきあいきれない。こうしてリベラリストの一群は、公式主義者への反撥をこえて、マルキシズムそのものの否定に突きぬけ、趣味的な文学ディレッタンティズムに身をゆだねるようになった。
 それと同時に、文学を憩いの場とするために「美の聖地を回復せんとする十字軍」(岡崎義恵氏『日本文芸学』)として、「マルクス主義の亜流」を学会や教育界から追放しよう(岡崎氏『古典及び古典教育について』)というような勇ましいことにもなってしまったらしいのだ。時のはずみである。が、ファッショ政治の息苦しさから身を避けようとした人たちが、権力の側に廻って特高そこのけの役割を演ずる結果になったのは歴史の皮肉であった。
 そうした歴史の皮肉を身をもって経験した人は、文壇では林房雄氏、日本文学研究の分野では故藤田徳太郎氏、そして岡崎義恵氏などであった。
 岡崎氏の大著『日本文芸学』(一九三六年刊)は、右にのべたような意味での“美の十字軍”の戦闘的な旗じるしであった。そして、この旗じるしの掲げられたことが、鑑賞主義批判を誘うよび水となったのは確かである。近藤忠義・熊谷孝・乾孝・吉田正吉・石山徹郎・甘粕石介・新島繁・本間唯一・片岡良一・吉田精一などの諸氏が、この鑑賞主義論争に参加した。近藤氏や熊谷たちの日本文芸学批判に対して、新島氏や本間氏たち唯研グループや片岡氏などの一種の内部批判やら、吉田精一氏の批判やら、またそれへの反批判などがあって活溌な論争がつづけられた。けれど、その結果はうやむやに近かった、といってよかった。ことばに足をとられた相手への誤解、相手方の誤解が問題の方向をズラせたことも確かである。が、この論争をたち消えに終らせたのは、なんといっても、岡崎氏のファッショ的・特高的発言(『古典及び古典教育』)であった。
 ──然も、かかる見地〔芸術の永遠性を否定し、したがって追体験を否定する見地〕は今日いわゆる国文学界においては歴史的・社会的立場として認められている。歴史というものを持続的なものとして見ず、社会というものを階級的限界内のものとして見ようとする立場が此処にある。前に引用した論文の如きはなお微温的であり、従って穏健とも考えられるものであるが、中にはかなり極端な左翼的位置に立つ者も、此の一類に見出されるのである。思うにこれはマルクス主義の亜流である。左翼文士の活躍した頃の論文に見られた口調が、此処には著しく面影を留めて居る。今日では余程偽装しても居り、軟化しても居るが、なお蔽う事の出来ない赤化思想への傾きを見出さないわけにはゆかない。唯物論研究などという雑誌とも連絡があるようであり、ソヴィエット文芸学への追随の跡も認められる。此派を行く所まで行かせると、当然赤化行動に迄進むに相違ない。「文芸学における古典の評価は、その作品を問題とすることの現代的意義の評価にはじまり、それの歴史的意義の評価におわる、唯その一つの規準を規準としておこなわれるべきものなのである。」(『文学』五ノ四、熊谷孝氏『古典評価の規準の問題』)という如きことばを、唯これだけ見ると従来の保守的な実証主義的歴史学者などをも首肯せしめそうに思われるのであるが、此処にいう「現代的意義の評価」なるものは、階級闘争によるプロレタリアの進出を助ける如きものを価値ありとする事であり、「歴史的意義の評価」なるものは、かかるプロレタリアのイデオロギーに理論的基礎を与えるような、階級闘争の為に役立った文芸の実践力を明らかにする事ではなかろうかと私は考える。これについては此派の人々は強いて十分な説明を施さないようであるが、私の想定は誤って居るであろうか。もし誤っていないとすれば、かかる立場に立つ潜行的マルクス主義者が、国文学界に活躍し、教育界に巣食うという事は、いかように考えてよいものであろうか。
 ──古典教育を完全に実現する為に第一に要請されるものは、教育者である。古典教育に従事する者の資格として、古典の権威を認め、人格の奥所より古典の道に参ぜんとする熱意を持つ者でなければならない。かような資格をもち得ないものは自ら反省して寧ろ被教育者の位置に立つべく、暫く教壇より退く事を必要とする。更に古典の道を嘲笑する如き者が誤って古典教育者の中にまぎれ込んでいる事は、真率な人々にとって堪え得る事ではない。教育行政の機関はよろしくかかる不適当なる、或いはむしろ有害なる教育者を剪除すべきである。(『古典及び古典教育』)
 時のはずみである。繰り返しになるが、もっともリベラルな考えをもっていたはずの人が、権力の側に廻ってスパイの役割を演じる結果となったのである。リベラリズムのファッショ化――それは同時に、自由主義と自由主義の哲学(生哲学)、それの文学現象面および教育面への適用である形象理論の本質・実態をバクロするものであった、といわなくてはなるまい。

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§10
(六 鑑賞主義論争をめぐって 続き)
 戦後、ふたたび、この論争に参加した人たちやその周囲の人たちによって、自己批判(?)のかたちで、鑑賞の問題がとりあげられたのですが(たとえば、一九四八年刊の『文芸学の諸問題』など)、それがしかし、熊谷たちが鑑賞をまで否定し去ったのは誤まりだ、というふうなことになっているらしい(たとえば、『文芸学の諸問題』に掲載されている榊原美文の批判など)のは、当事者のわたくしとしては解(げ)せないことです。というのは、わたくしたちは、その当時において、「鑑賞をまって芸術作品がはじめて芸術たりうるのは、もとよりのことだ。」とハッキリといい、「自己の体験の抽象面を規定する坐標軸を自覚しない、理解者の主観的な全体感が本来の意味での鑑賞である。」ということをのべ、だからすくなくとも鑑賞そのものは方法(文芸学の方法)ではない、と語っているからです。
 こうして事実がゆがめられたまま無媒介に否定されてしまっている一方、片岡の鑑賞論(前出『芸術性と芸術の価値』)に示された見解と同様の考えや考え方が、これもやはり無媒介に戦後十年のこんにち通用しているのなぞも、やはりわたくしとしては解せないことの一つです。たとえば、「感動をよびおこす力は作品のなかにあるが、それを受けとめる地盤は生徒たちの生活と意識の中にある。」(『文学教育の方法』一九五五年)という荒木繁の問題整理・問題理解の仕方なんかが、それです。もっとも、荒木のいうのは片岡のとは違って、むしろ、読者の体験の多様さと、またそれゆえに起こる鑑賞の多様さにふれての発言なのですけれど、論理そのものとしては片岡の“受けつぎ”です。しかも、無媒介なそれです。
 断っておきますが、当時わたくしが文学作品の内容や「芸術性を、読者の受け取り方にのみ 依存するものと考え」ていたというのは(『芸術性と芸術の価値』)、片岡の誤解です。が、「感動をよびおこす力は作品の中にある」という式の、つまり、内容が作品のなかに封じ込められているという式の考え方を否定したのは事実です。この考えは今でも変っていません。
 作品そのものはあくまで媒体です。表現の媒体であり理解の媒体であるこの作品は、読者の理解(鑑賞)をまってはじめて内容をかちえる(感動をよびおこす)のです。むろんこの媒体は、読者の心に、ある一定の感動の仕方における理解をよびおこすように加工された媒体なのですから、作者がツボをはずさないかぎり、それは一定の読者に対してはある一定の感動をもたらすはずのものなのです。が、作者の心と読者の心がしっくり結ばれるという、こうした場合でも、それは、感動をよびおこす力が作品のなかに封じ込められているからのことではありません。作品そのものはあくまで媒体です。ズサンなたとえで恐縮ですが、雷をよびおこす力が一方的に陽電気の側にあるとか陰電気の側にあるというのでは筋が違うでしょう。どちらか一方に……ではなくて、この両者がぶつかる(引きあう)ところに雷という放電現象が発生するように、読者の感動も、このふれあい(つまり読者の作品鑑賞)において成り立つのです。それを一方的に、作品にひそんでいる力がと考えるのは当たらないと思います。
 ところで、右の鑑賞主義批判を国語教育の分野において展開させたのが、大久保正太郎の『解釈学主義への一つの批判』(一九三八年)でした。科学的な偽装をした鑑賞主義――解釈学主義が支配的な、官製国語教育界にたいする、それは民衆の立場からの抗議でした。この論稿が戦後の国語教育論ないし文学教育論とハッキリ区別される点は、認識論がしっかりしていることです。当時の段階にあって、しかもフリーチェ的なあの誤まりに横すべりすることなく、問題の急所をリアルに批判しているのです。それは、まっとうにフリーチェを批判し得る認識の高みにあったからこそ、解釈学主義――生哲学を根底から批判することもでき得たのだといえましょう。ようやくアメリカ製国語教育の支配からぬけだして、民主的民族主義への道を歩みはじめようとしている、こんにちの国語教育および文学教育が、その出発にさいして受けつぐべき、すぐれた遺産の一つがここにもあるわけです。

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2 注目すべき文学教育論
 戦後、ふたたび、この論争に参加した人たちやその周囲の人たちによって、自己批判(?)のかたちで、鑑賞の問題がとりあげられたが(たとえば一九四八年刊の『文芸学の諸問題』など)、それがしかし、熊谷たちが鑑賞をまで否定し去ったのは誤まりだ、というふうなことになっているらしい(たとえば、『文芸学の諸問題』に掲載されている榊原美文氏の批判など)。これは、しかし、当事者のわたくしとしては解(げ)せないことである。
 というのは、わたしたちは、その当時において、「鑑賞をまって芸術作品がはじめて芸術たりうるのは、もとよりのことだ」とハッキリといい、「自己の体験の抽象面を規定する坐標軸を自覚しない、理解者の主観的な全体感が本来の意味での鑑賞である」ということをのべ、だからすくなくとも鑑賞そのものは方法(文芸学の方法)ではない、と語っているからだ(引用は『文芸学への一つの反省・補遺』一九三七年八月)。
 こうして事実がゆがめられたまま無媒介に否定されてしまっている一方、片岡氏の鑑賞論(前出『芸術性と芸術の価値』)に示された見解と同様の考えや考え方が、これもやはり無媒介に戦後十年のこんにち通用しているのなども、やはりわたしとしては解せないことの一つだ。たとえば、「感動をよびおこす力は作品の中にあるが、それを受けとめる地盤は生徒たちの生活と意識の中にある。」(『文学教育の方法』)という荒木繁氏の問題整理・問題理解の仕方などが、それである。もっとも、荒木氏のいわれるのは片岡氏のとは違って、むしろ、読者の体験の多様さと、またそれゆえに起こる鑑賞の多様さにふれての発言なのだけれど、論理そのものとしては片岡氏の“受けつぎ”だ。しかも、無媒介なそれである。
 断っておくが、当時わたしが文学作品の内容や「芸術性を、読者の受け取り方にのみ 依存するものと考え」ていたというのは(『芸術性と芸術の価値』)、これは片岡氏の誤解である。が、「感動をよびおこす力は作品の中にある」という式の、つまり、内容が作品のなかに封じ込められているという式の考え方を否定したのは事実だ。この考えは今でも変っていない。
 作品そのものはあくまで媒体である。表現の媒体であり理解の媒体であるこの作品は、読者の理解(鑑賞)をまってはじめて内容をかちえる(感動をよびおこす)のである。むろんこの媒体は、読者の心に、ある一定の感動の仕方における理解をよびおこすように加工された媒体なのだから、作者がツボをはずさないかぎり、それは一定の読者に対しては、ある一定の感動をもたらすはずのものなのである。
 が、作者の心と読者の心がしっく結ばれるという、こうした場合でも、それは、感動をよびおこす力が作品のなかに封じ込められているからのことではない。作品そのものはあくまで媒体である。ズサンなたとえで恐縮だが、雷をよびおこす力が一方的に陽電気の側にあるとか陰電気の側にあるというのでは筋が違う。どちらか一方に……ではなくて、この両者がぶつかる(引きあう)ところに雷という放電現象が発生するように、読者の感動も、このふれあい(つまり読者の作品鑑賞)において成り立つのである。それを一方的に、作品にひそんでいる力がと考えるのは、あたらないように思う。
 ところで、右の鑑賞主義批判を国語教育の分野において展開させたのが、大久保正太郎氏の『解釈学主義への一つの批判』(教育国語教育・一九三八年四月、拙編『文学教育の理論と実践』に再録)であった。科学的な偽装をした鑑賞主義――解釈学主義(形象理論)が支配的な、官製国語教育界にたいする、それは民衆の立場からの抗議だった。
 この論稿が戦後の国語教育論ないし文学教育論とハッキリ区別されるのは、認識論がしっかりしている点である。当時の段階にあって、しかもフリーチェ的なあの誤まりに横すべりすることなく、問題の急所をリアルに批判している。それは、まっとうにフリーチェを批判し得る認識の高みにあったからこそ、解釈学主義――生哲学を根底から批判することもできえた、ということなのだろう。ようやくアメリカ製国語教育の支配からぬけだして、民主民族主義への道を歩みはじめようとしている、こんにちの国語教育および文学教育が、その出発にさいして受けつぐべき、すぐれた遺産の一つがここにもあるわけだ。

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§11
    七 戦前から戦後へ

1 良心のともしび
 満州事変から二・二六事件にしぼって考えられるこの谷間の一時期は、太宰治のいわゆる“更衣の季節”(『苦悩の年鑑』)であった。たとえカーキ色の国民服は身にまとわぬまでも、「袷をセルに着換えた」知識人たち(同上)は、沈黙のなかに、はかない抵抗の自己満足を見いだすのほかはなかった。
  こうして三六年、三七年、三八年……と、ファッショ街道の早がけ行進がはじまる。一年が一年といえなかった。一年が四分の一世紀にも半世紀にも相当する急テンポの転落の“一年”であった。
 そうした谷間のどん底における抵抗の国語教育が、言語教育──とくに文法教育重視の方向にあゆみを進めたのは、むしろ当然のことだった。
 ──ヨーロッパ諸国の小学校では、必ずその国の“文法”を教えている。ところが、世界の文明国でたった一つ自国語の“文法”を教えていない国がある。それが日本だ。……国語教育というものは、はっきり二つの部分に分けることが出来る。つまり、国語の理解力(読む力)と国語の表現力(話す力・書く力)の二つだ。文法は理解力と表現力と両方の最も大きな基礎となるものだが、殊に表現力は文法をを正確に把握させる事によって初めて養われる。……日本語の文法を教えていない日本の小学校では、児童に日本語の表現力を、正確に、一定のレベルまで与えてやる努力を全くしていないという事が分かる。(高倉テル氏『綴り方教育の本質』──教育・一九三八年六月)

 右に見るような高倉氏の批判は、ことばを神秘的なものと考える言霊思想――言語主義の国語教育、ファッショ教育へのほとんど最後の抵抗をさえ意味していた。
 また、波多野完治氏(『言語の道具説と形象論批判』――国語教育誌・一九三九年一一月)がそれとほぼ同じ時期において、「言語が道具性をもつ」ことをハッキリと語り、「従来の国語教育が言語の道具説をとり入れることをおこたっていた」点を指摘し、「言語の道具説はそのままでは真理ではない」が、「言語の道具性を無視するところに、すべてのいわゆる象徴主義の言語観の行きすぎが横たわっている」と批判しているのも、同様の意味で注目される。
 右の波多野氏の形象理論批判と同一歩調をとって、城戸幡太郎氏(『国語教育における形象の問題について』だ国語教育誌・一九四〇年一月)もまた次のように語られる。

 ──国語教育における形象理論なるものが最近問題になってきたようである。……世間の形象理論なるものに対する批判やそれに対する形象理論家の反駁を読んでみると、問題は“形象”ということばの意味が十分理解されていないことにあるように思われる。批判が的はずれであるという場合には、それが誤解されている場合が多いが、人が誤解する場合には、誤解する人の理解力も問題であるが、誤解さす人の表現力も問題である。自分で勝手に考えている場合には、どんな考え方をしてもよいが、それを人に伝えようとする場合には人に誤解させないような表現を工夫することが必要である。国語教育においてもやたらにむずかしい文章を解釈することに骨を折らさないで、理解し易いような表現に苦心することが肝心である。

 ファッショの御用哲学に成り下った生哲学(=形象理論)の国語教育界における横行・バッコ。こうした時点において右の文章に接するとき、「やたらにむずかしい文章を解釈することに骨を折らさないで……」と語る城戸氏の底意・真意を読み誤まることは、もはやほとんど不可能であろう。
 たとえば、右の波多野・城戸両氏の論文に見るような(ある意味からすれば)、こんにちの水準を遥かに上廻った、卓越した言語理論にささえられて、抵抗の国語教育としての言語教育がそこに強く主張され、またある程度に現場において実践されてもいたのである。が、当然それは、たんに言語教育の域にとどまるものではなく、文学教育への志向と分ちがたく結びついていた。というよりは、むしろ、文学教育への道をはばまれていたことによる言語教育への転身(?)であった。そのことは、高倉氏が問題を教科書のあり方の一点にしぼってではあるが、次のように語っておられることからも十分うかがい知ることができよう。

 ──日本の現在の教育には非常に多く芸術的要素がとり入れられる傾向を生んでいる。ところが、不思議にも、一つ例外として、国語教育には今でも実にその要素が少ない。それは日本の教科書をヨーロッパ諸国のものと比べて見ただけでもすぐに分る。フランスやドイツやイタリーやイギリスやロシアの教科書は、それぞれのの国の童話作家、国民詩人などの作品をもって満たされている。ところが、日本の教科書にはそうした要素がほとんど欠けている、一例として、あれほど国民に親しまれている『膝栗毛』が今度の新教科書で初めて取り入れられた。しかしそこでは、弥次郎兵衛は“弥次郎”となっている。いかにこれまで日本の教科書が日本の文学を軽蔑して来た事か? (前掲『綴り方教育の本質』)

 高倉氏のことばをかりれば、「こうした国語教育の欠点に、意識的に、或いは無意識の中に不満を感じた、まじめな教師諸君が、綴り方の部分でその欠陥を補おうと」したこと、しかしその生活綴り方運動が「在来の芸術教育から抜け出そうとするまじめな努力であったにもかかわらず、やはりこの〔ごく少数の優秀な児童だけをとり上げて一般の児童を無視した〕“天才教育”の範囲から一歩も出ることが出来ず、従って、結局“芸術教育”のただ形を変えたものに止らなければならなかった」ことがいわれていい。こうした生活綴り方(後期生活綴り方)の“芸術教育”への横すべりを食い止めるために、“理解力と表現力との双方の基礎”としての文法、文法教育、言語教育がそこに提唱されたという関係である。
 こうして暗い谷間の言語教育は、“目かくしされた環境”を生きる子どもや若者たちのあいだに、まともな現実感覚、まともな思考力をつくり出すための良心のいとなみであった。
 “目かくしするもの”へのそうした良心の抵抗を、またたとえば、いくつかの読書論のなかに見つけることができる。清水幾多郎氏の『児童と読書』(『児童文化』上巻、一九四一年二月)は、そうした読書論のなかでも傑出した労作であった。何が良書で何が悪書かをきめるぐらいむずかしいことはない、と語り、「多読によって多くの人の多くの言葉がその絶対的な重量を失って、それぞれ相互に相対的なものとなるということは一つの注目すべきメリットである」と語っている、その抵抗のイロニーは、もはやこんにちイロニーとしての通用性を失ってしまったであろうか。

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§12
九 若干の補足

 ここのところで、この解説に添えた文献リストをごらんになっていただくとハッキリしますが、戦後の文学教育運動は、まず、児童文学者協会を軸にし、『子供の広場』(四六年四月創刊)のささえとなったような、良心的な児童[文学]作家や文化人たちの児童文学運動に伴なって起こりました。大久保正太郎・栗栖良夫・菅忠道・関英雄その他を編集同人とする『子供の広場』は、「文学教室」の欄を設けて、山村房次の『ゴリキイ』や、片岡良一の『一ふさのぶどう』などの少年少女のためのすぐれた文学案内を試みました。また、大久保正太郎は「文学教室」シリーズを刊行して、右の計画をさらに発展させました。児文協の機関誌『日本児童文学』には、小田切秀雄の児童文学者への提言(『児童文学のために』四七年九月)や、川崎大治や国分一太郎による小学校国語教科書批判(四七年十月)、『現実と児童文学』(四七年九月)その他の菅忠道の文学教育への提唱などが掲載されました。
 双竜社刊の『現代児童文化講座』(五四年四月)に発表された関英雄の『現代の児童文学』は、戦後の児童文学の展開を問題史的に跡づけるとともに、児童文学者の文学教育への関心をうながす、力強い提言でした。いまなお、作家たちの片すみにくすぶっている、故意な文学教育への無関心と反撥を思いあわせる時、児童文学者自身によってこうした発言がなされたことの意義は大きく評価されていいでしょう。
 なお、この本の巻末に児文協の選択図書一覧を添えましたが、四七年七月にはじまる協会のこの図書選択事業が文学教育の実際面に果たした大きな役割は忘れられません。

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2 児童文学運動のなかから
 戦後の文学教育運動は、まず、児童文学者協会を軸にし、『子供の広場』(一九四六年四月創刊)のささえとなったような、良心的な児童文学作家や文化人たちの児童文学運動に伴なって起こった。大久保正太郎・栗栖良夫・菅忠道・関英雄その他の諸氏を編集同人とする『子供の広場』は、「文学教室」の欄を設けて、山村房次氏の『ゴリキイ』や、片岡良一氏の『一ふさのぶどう』などの、少年少女のためのすぐれた文学案内を試みた。
 ──『子供の広場』が出た。これは諸君の雑誌だ。全日本の少年少女の雑誌だ。ながい戦争中、日本の子供の雑誌には、諸君にほんとうのことを知らせる雑誌がなかった。日本がまちがった戦争をしていることを、だれも諸君に知らせなかった。知らせることができなかった。
 けれど『広場』が出たから、もう、だいじょうぶだ。『広場』は諸君に、なんでもほんとうのことを、おしえる。
 日本にはいま、わがまま勝手な人々をおさえて、まじめにはたらく人々がたのしくくらせる世の中をつくろうと一生けんめいつくしている人々が、たくさんある。『広場』は、そういう人たちの力をかりて、日本の子供たちが、これからなにをべんきょうしたらよいかを、おしえる雑誌だ。
 だから『広場』は、うそっぱちの読みものは、いっさいのせない。そのかわり、ほんとうに明かるく平和で、ゆたかな日本をつくる、美しい詩、たのしい創作、正しい科学的な読みものなどを、どしどしのせる。
 編集部は、『広場』を、みんなに愛される、りっぱな雑誌にしようと、はりきって活動をはじめた。そのために、諸君の方からも、こういうものをのせてほしい、こういうものが読みたい、という希望を、どしどし編集部へいってきてほしい。みんなの力で、ぐんぐんいい雑誌にそだててゆこう。

 右の引用は『子供の広場』の創刊号に掲載されたアピールであるが、この雑誌のもつ文学教育的意図をそこにハッキリと読みとることができるだろう(“良心的な児童雑誌”ということで、『赤トンボ』〈一九四六年四月創刊〉や『銀河』〈同年一〇月創刊〉・『少年少女』〈一九四八年二月創刊〉などとこの『子供の広場』を同一視する向きもあるが、これはまちがいだろう。“良心”の方向が一八〇度ちがっているのだ)。
 また、大久保正太郎氏は『文学教室』シリーズを刊行して、右の計画をさらに発展させた。

 ──文学については、いままで多くの誤解があった。たとえば、文学は、少年や青年の心をだらくさせるいがいには、なんのやくにもたたないものだという迷信がおこなわれていた。……もちろん、〔文学が〕そういうふうにきらわれる理由もあった。だが、それは、文学そのもののせいではなく、わかい人々に、すぐれた文学をあたえず、文学の正しい読み方をおしえなかったからである。教室で、国語の時間などに、文学作品のきれはしがおしえられることはあった。しかし、そのだいぶぶんは、少年や青年のわかわかしい心をとらえる、生きた文学ではなかった。……生活する人々の、なまなましいよろこびやかなしみを、そっちょくにうったえた、力づよい文学ではなった。かびくさい、老人じみた、上品にきどった、そうでなければ、国体のそんげん、日本のありがたさをあたまからおしつけるようなものばかりだった。ちょっぴりでも真実をえがいた、ほんものの文学は、ぜったいにもちこまれなかった。外国のりっぱな文学にたいしては、目かくしも同然だった。
 ──そのうえ、おしえかたもまた、文学のほんとうのよみかたとは、およそちがっていた。ことばの解釈だけにおわってしまったり、なかにもられている考えかたや感じかたを、うのみにさせられるだけで、その考えかたや感じかたそのものについて、じぶんたちの立場から考え、批評することなど、おもいもよらなかった。どんなにすぐれた文学だって、すぐれた点と同時に、ふじゅうぶんなところは、いくらでもある。ことに、その作品のつくられた時代が、いまとちがい、作者の生活がわたくしたちの生活とちがうばあいは、考えかたや感じかたのくいちがいは、いくらでもある。すぐれた点をすぐれているとし、くいちがいをくいちがいとして批判してこそ、その作品のほんとうのすがたも、あきらかになってくるのだし、文学をよむおもしろみもわいてくるはずなのに、いままでは、そういうやりかたではなかったのだから、ほんとうの文学を、ただしくよむ方法を、身につけることができなかった。……日本が、いっさいのやばんさをすてて、ほんとうの文化の国、人民の社会として、たちなおろうとしているとき、文学にたいする、こういうやばんな態度は、すこしでもはやくあらためられなくてはならない。(『文学教室』刊行のことば)

 文学教育から一歩しりぞいて、言語教育のいとなみのなかにその教育的良心を貫いた戦前の“抵抗の国語教育”の正しい受けつぎが、そこにある。言語教育から文学教育へ、いや言語教育をふまえて文学教育へ、である(このシリーズの執筆者は、片岡良一・熊谷孝・長谷川鉱平・阿部喜三男・高田瑞穂などの諸氏であった)。
 その他、この時期に児文協の季刊誌『日本児童文学』には、小田切秀雄氏の児童文学者への提言や、川崎大治氏や国分一太郎氏による小学校国語教科書批判、『現実と児童文学』など数編の菅忠道の文学教育への提唱などが掲載されたことを、いいそえておこう。


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§13
(九 若干の補足 続き)
 こうして児童文学者による文学教育運動がおし進められていたとき、学校教育の面での文学教育は、ほとんどブランクに近い状態でした。そのことは、後に添えた文献リストを見ていただくとよくわかるのですが、これはすでに明らかなように、上からの教育が言語技術主義をたてまえとし、下からの日教組の運動がまた、二・一ストをあいだにはさんで文化運動どころの話ではなかったという、当時の入りくんだ事情によるブランクなのでありましょう。(本文に収載した『山びこ学校の問題点』〈五一年十月〉などによっても、その当時の消息の一端が知られましょう。)日文協が文学教育への動きを示す以前、学校国語教育の側で文学教育の面に対する発言をおこなったのは、文献リストにそのことを記したように、『実践国語』を中心とした飛田多喜雄・輿水実などですが、それも一九五〇−五一年以後のことでした。一般的にいって、それは、学習指導要領の線に沿って文学教育の指針を示すといったふうなものが多かったにしろ、しかしそうした発言のあいだから、やはり“言語教育か文学教育か”というふうな問題が疑問のかたちで生まれてきていたことは見のがしえない点です。
 一九五一−五二年を境にして、児童文学者の側からの発言が下火になり、五二年の下半期以後日文協の活動が活溌になりはじめ、やがてイニシャをとるようになりますが、その理由を結論するのはまだその時期がきていないように思います。が、文献リストを五〇−五一−五二年と三つの欄を対照しながら辿ってみることで、しぜん何か腑に落ちるものがありはしないでしょうか。
 なお、“良心の灯”の項のことを書きもらしましたが、これは大久保正太郎の『国語教育の回顧と反省』(五五年六月)を参照しながらお読みになってください。高倉テル(『綴り方教育の本質』一九三八年)が言語教育、とくに文法教育を強調している理由や、「国語教育においてもやたらにむずかしい文章を解釈することに骨を折らさないで、理解し易いような表現に苦心することが肝心である。」(『国語教育における形象の問題について』四〇年)と城戸幡太郎が語っていることなどの底意・真意がそれによって明らかにされるでありましょうから。
 清水幾多郎が『児童と読書』(四一年)のなかで、何が良書で何が悪書かをきめるぐらいむずかしいことはない、と語っている、その抵抗のイロニーも、それをわたくしたちが谷間への回想のなかで読みとるかぎり、その真意を誤まることはないでありましょう。
 (紙数の関係で割愛した問題がいくつかありますが、それについては「講座・日本語」(大月書店)の第七巻『国語教育』所掲の拙稿をお読みいただきたい、と思います。)

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(2 児童文学運動のなかから 続き)
 こうして児童文学者による文学教育運動がおし進められていたとき、学校教育の面での文学教育は、ほとんどブランクに近い状態だった。そのことは、拙稿『文学教育の理論と実践』(三一書房刊)のあとにそえた『文学教育文献リスト』を見ていただくとよくわかるのだが、これはすでに明らかなように、上からの教育が言語技術主義をたてまえとし、下からの日教組の運動がまた、二・一ストをあいだにはさんで文化運動どころの話ではなかったという、当時の入りくんだ事情によるブランクなのであろう。
 日本文学協会が文学教育への動きを示す以前に、学校国語教育の側で文学教育の面に対する発言をおこなったのは、『実践国語』を中心とした飛田多喜雄氏・輿水実氏などであるが、それも一九五〇−五一年以後のことだった。大ざっぱにいって、それは、多く、『学習指導要領』の線にそって文学教育の指針を示すといったふうなものであったが、しかしそうした発言のあいだから、やはり“言語教育か文学教育か”というふうな問題が疑問のかたちで生まれてきていたことは見のがしえない。
 一九五一−五二年を境にして、児童文学者の側からの発言が下火になり、五二年の下半期以後日文協の活動が活溌になりはじめ、やがてイニシャをとるようになるが、その理由を結論するのはまだその時期がきていないように思う。が、年表を、五〇年(日共幹部追放、朝鮮戦争開始、警察予備隊発足、各種レッド・パージ)、五一年(戦犯追放解除、対日講和・安保条約調印)、五二年(日米行政協定調印、日本全土基地化、講和条約発効、血のメーデー、破防法公布、保安隊発足)とたどってみることで、しぜん何か胸に落ちてくるものがありはしないだろうか。

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§14
八 戦前から戦後へ

 もとへ戻って、読み方の基礎は話し方である、と西尾が語っている点ですが、(前出『読方教育論』)、発生論としてはそのとおりなのですけれど、実態論としてはむしろそれと逆の関係が成り立つ場合のあることも考慮されていいと思います。読み方の成長が話し方の成長を促すという面が、中学・高校と進むにつれて大きくなってきていることは見のがしえません。が、いま、問題はもっと別のところに見いだされます。基礎がだいじだし、話し方が基礎だからというので、一にも二にも話し方の一点ばりで、“話し方のための教材”に偏した教科書の編集をやりだすような傾向についてです。電話のかけ方だの、挨拶の仕方だのというあれですが、このかたよりが戦後においていっそう甚だしくなったことは占領教育政策と固く結びついているわけです。
 そのこと自体はむろん西尾とは無関係な事柄なわけですが、しかし戦後多くの国語教育理論家が、アメリカ方式の経験主義・実用主義の言語教育に抵抗感なしにあっさり結びつくことができたというのは、話し方と読み方との関係を具体的現実的に考えることをしないで、また何をというその具体的な内容を切り捨てた非現実的な思考におちこんでいたことと無関係ではないようです。

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3 言語教育か文学教育か
 ところで、戦前において、西尾実氏は、
 ──私はかつて、『国語国文の教育』において、読み方の基礎は綴り方であるのではないかということを問題にしたけれども、これは、さらに話し方──教科の一般的な用語にしたがえば──にあると訂正しなくてはならぬであろう。(前出『読方教育論』)

という見解を発表された。読み方の基礎は話し方であり日常的な生活言語である、というのである。こんにちに至るまで氏がこの意見で通してきておられることは、さきごろ『朝日新聞』学芸欄(一九五六年七月二六日)に書かれた『話しことばを改善しよう』を見てもわかる。
 発生論としてはそのとおりなのだけれど、実態論としてはむしろそれと逆の関係が成りたつ場合のあることも考慮されていいと思う。むしろ、読み方・綴り方の成長が話し方の成長を促すという面が、中学・高校と進むにつれて大きくなってきていることは見のがしえないだろう。が、いま、問題はもっと別のところに見いだされる。
 基礎がだいじだし、話し方が基礎であるからというので、一にも二にも話し方の一点ばりで、“話し方のための教材”に偏した教科書の編集をやりだすような傾向についてである。電話のかけ方だの、挨拶の仕方だのというあれなのだが、このかたよりが戦後においていっそう甚だしくなったことは占領教育政策と固く結びついているわけだ。
 そのこと自体はむろん西尾氏とは無関係なことがらなわけだが、しかし戦後多くの国語教育理論家が、アメリカ方式の経験主義・実用主義の言語教育に抵抗感なしにあっさり結びつくことができたというのは、話し方と読み方や綴り方との関係を具体的現実的に考えることをしないで、また何をという、その具体的な内容を切り捨てた非現実的な思考におちこんでいたことと無関係ではないように思われる。
 たとえば、右の『話しことばを改善しよう』というエッセイにおいても、西尾氏は、

 ──新教育に対する批判が加えられるようになって“学力低下”が問題にされ、国語に関しては、「字が書けなくなってきた。文が読めなくなってきた。おしゃべりにはなったが」というような非難があびせられるようになった。……一体、おしゃべりというようなかたよりが生じるのは、話しことば学習の結果ではなくて、話しことばの学習の欠乏によるものである。

というふうな問題の処理の仕方をしておられる。そして、「“おしゃべりにはなったが”というような無理解な批評にあっても……それにたじろいで」はならん、というふうに語っておられる。
 つまり、口の達者な、しかし口さきだけが、という“おしゃべり”が生まれる(生まれた)のは「話しことばの学習の欠乏 によるもの」だというのであって、話しことばの学習のありようそのものの欠陥 は、そこではすこしも問われていない。 わたしたちは、それを次のように考える。何が目的で何について話し合うかという具体的な内容をぬきにして、話しことばの学習を考えること自体がおかしいのじゃないか、というふうに──(第二章・五・1『経験学習と文学教育』、七『誰にでもできる文学教育を』、第五章・一『言語教育の側面か』など参照)。

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§15
八 戦前から戦後へ 続き)  
 また、国語科の綴り方指導は技術面の指導に限定した方がいい、という、前に紹介した国分の考えは、国語教科書に文学の教材は不要だというに近い主張として、そのまま戦後に持ち越されています(『わたくしの国語教育論』――原題『詩について』一九四七年)。それは、基礎学力を低下させるアメリカ方式の言語教育(言語技術主義)と、同じその片側の面である上からの文化主義(教養主義)の文学教育に対する抵抗の言葉なのでしょうが、しかし言語教育に屈折することで辛うじて抵抗をこころみた、谷間の世代の経験が身についた習性となってしまっている一面も見のがしえません。
 そういう意味では、戦時中、言語主義の神がかり教育への抵抗として、“その筋”の語る言葉 よりも、また教科書に書かれてある事柄〈言葉〉よりも、わたくしたちがこの目で見、自分の体験によってかちえた実感をこそ尊重すべきだとし、経験学習への道を選んだ人々のあいだから、戦後、アメリカ教育方式一辺倒の経験主義者を数多くうみだしているという関係は、国分のばあいとは軸が違うにしても、やはり、ならい性のこの習性による一面があるようにも思われます。
 右の国語科を言語教育一本に(?)という考え方は、石田宇三郎による国分批判(『国語教育の基本的方向』一九五三年七月)に端を発し、国分による反論(『国語教育の実践的課題』五四年三月)と、さらに片岡並男(『国語教育の階級的視点』五四年八月)・水野清(『言語教育と文学教育――国分・石田論争の発展のために』五五年六月)などの論争への参加によって問題のありかがハッキリさせられてかたちです。が、国分自身、五四年七月に発展した『文学教育の問題点』に至って、国語科以外に文学科を設けたほうがいいが、しかし「現状では、教師たち自身があらゆる創意を発揮して、文学教育を実践」するほかない、という考え方に変ってきているようです。そして、この論稿では、言語教育か文学教育かなどうるさく言わないで、「大きな必要に立って、あっさりと文学教育をおこなえばよい。」と語っているのですが、右のいきさつを知っている者にとっては、なにか割り切れない、戸まどいを感じさせられる言葉でもあるようです。西尾が、読み方の基礎を綴り方であるとする考え方を改めて、話し方にその基礎を見いだすに至ったとき、ハッキリとそのことをいい、また考え方の変った理由をみんなの前に発表していますが(前出『読方教育論』)、西尾のようなこうした折り目正しさにまなぶ必要が、国分のばあいにかぎらず一般にありはしないでしょうか。
 ところで、言語教育か文学教育か?……そこのところから日文協国語教育部会の文学教育への動きが、いわば占領国語教育への抵抗(経験主義としての言語技術主義の否定)として活溌になっていきます。その起点となったのが、益田勝実の大会報告(『言語教育か文学教育か』――原題『文学教育の問題点』一九五二年六月)でしたが、それは、「今までの国語教育は文学教育でありすぎた」(『言語教育と文学教育』五〇年)と考える西尾から、「ともすると、近年の『言語教育』を目のかたきにしているかのような傾き」として批判されることにもなったし(前出『文学教育の回顧と展望』)、また、時枝誠記の発言(『文学教育と国語教育』五二年二月)をアメリカ方式の言語技術主義批判のテーマのなかで相手どったことは、「時枝博士が日本の言語生活教育論者として典型的な学説の所有者であると考えて……相手にしているわけでは」ないという註がついてはいるものの、戦後のアメリカ一辺倒の傾向に対して批判的な立場を堅持した時枝の立場を知る者の目からは、やはり適切さを欠いているという批判もあるのではないか、と思います。

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(3 言語教育か文学教育か 続き)
 ところで、また、戦前、国語科の綴り方指導は技術面の指導に限定した方がいい、というふうな考え方をしておられた国分一太郎氏(前掲『“生活綴方”の運動と“生活学校”の運動』)は、国語教科書に文学の教材は不要だというに近い主張として、そうした考え方をそのまま戦後に持ち越しておられる(『詩について』──日本児童文学』・一九四七年一〇月)。それは、基礎学力を低下させるアメリカ方式の言語技術主義の教育と、同じその片側の面である上からの文化主義の文学教育に対する抵抗のことばなのであろうが、しかし言語教育に屈折することで辛うじて抵抗をこころみた、谷間の時代の経験が身についた習性となってしまっている一面も見のがしえない 。
 そういう意味では、戦時中、言語主義の神がかり教育への抵抗として、“その筋”の語ることば よりも、また教科書に書かれてあることがら〈ことば〉よりも、わたしたちがこの目で見、自分の体験によってえた実感をこそ尊重すべきだとし、経験学習への道をえらんだ人びとのあいだから、戦後、アメリカ教育方式一辺倒の経験主義者を数多くうみだしているという関係は、国分氏の場合とは軸がちがうにしても、やはり、“ならい性”のこの習性による一面があるようにも思われる。
 右の国語科を言語教育一本に(?)という考え方は、石田宇三郎氏による国分批判(『国語教育の基本的方向』一九五三年七月)に端を発し、国分氏による反論(『国語教育の実践的課題』五四年三月)と、さらに片岡並男氏(『国語教育の階級的視点』五四年八月)・水野清氏(『言語教育と文学教育――国分・石田論争の発展のために』五五年六月)などの論争への参加によって、問題のありかが幾分ともハッキリさせられたようなかたちである。
 が、国分氏自身、五四年七月に発表した『文学教育の問題点』に至って、国語科以外に文学科を設けたほうがいいが、しかし「現状では、教師たち自身があらゆる創意を発揮して、文学教育を実践」するほかない、という考え方に変ってきておられるようだ。そして、この論稿では、言語教育か文学教育かなどうるさくいわないで、「大きな必要に立って、あっさりと文学教育をおこなえばよい」と語っておられるのだが、右のいきさつを知る者にとっては、なにか割り切れない、とまどいを感じさせられることばである。
 西尾氏が、読み方の基礎を綴り方であるとする考え方を改めて、話し方にその基礎を見いだすに至ったとき、ハッキリとそのことをいい、また考え方の変った理由を人びとの前に発表しておられるが(前出『読方教育論』)、西尾氏のようなこうした折り目正しさにまなぶ必要が、国分氏の場合にかぎらず一般にありはしないだろうか。
 ところで、言語教育か文学教育か?……そこのところから日文協国語教育部会の文学教育への動きが、いわば占領国語教育への抵抗(経験主義としての言語技術主義の否定)として活溌になっていく。
 その起点となったのが益田勝実氏の大会報告(『文学教育の問題点』一九五二年六月)であったが、それは、「いままでの国語教育は文学教育でありすぎた」(『言語教育と文学教育』五〇年)と考える西尾氏から、「ともすると、近年の“言語教育”を目のかたきにしているかのような傾き」として批判されることにもなったし(前出『文学教育の回顧と展望』)、また、時枝誠記氏の発言(『文学教育と国語教育』五二年二月)をアメリカ方式の言語技術主義批判のテーマのなかで相手どったことは、「時枝博士が日本の言語生活教育論者として典型的な学説の所有者であると考えて……相手にしているわけでは」ないという註がついてはいるものの、戦後のアメリカ一辺倒の傾向に対して批判的な立場を堅持した時枝氏の立場を知る者の目からは、やはり適切さを欠いているという批判もあるか、と思われる。

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§16
七 古典と古典教育と


 いま、文学教育の分野で論議のマトになっている“問題意識喚起の文学教育”論の起点となった、荒木の『民族教育としての古典教育』ですが、それは現場の実践に裏づけられた画期的な古典教育論でした。祖国に対する愛情と民族的自覚をめざめさせる古典教育を、というその所論は、文学教育としての古典教育の、そしてこんごの文学教育の進むべき方向をわたくしたちにハッキリと示してくれました。この大会報告を「日本文学」誌上で読んだときの深い感動を、わたくしはいまに忘れません。
 が、その感動が大きかっただけに、わたくしとしてはこれっぽっちの疑義も未解決のままに残しておきたくないのです。それで、この機会に申しますが、疑義は指導の具体面に関してよりは理論面に関してなのです。つまり、前の項で指摘したような鑑賞論と、それにつながる古典の理解の仕方の一点に関してです。
 「古典の場合はいろいろの言語障害があって直接作品を鑑賞することを妨げていますので、その場合古語の意味とか文法を説明することが必要になりますが……窮極の目標は作品を鑑賞することにあることはいうまでもありません。」という言葉や、「生徒たちが古歌を鑑賞する場合、自分の生活と結びつけて味わおうとするように仕向け」たということや、「生徒たちが歌から逆に歴史へ関心をもつという主体的方向をとった」という指導の仕方などから察すると、言語障害がとりのぞかれ、主体的な歴史の理解がそこに成り立てば、現代作品に対すると同じ文脈の鑑賞が古典に関しても可能である、という考え方のように思われます。荒木の指導した生徒たちが「自分の中にあるものを万葉の中にみつけだしたのではなく、ないもの、失われたものを見出して感動」したというのも、その感動、その鑑賞の軸は右のような文脈における感動であり鑑賞であるように書かれています。が、それは違うんじゃないでしょうか。
 問題は、そうした指導の裏に前提され予定されているらしい、古典不滅・芸術永遠の思想です。『万葉』の古歌がわたくしをうち、また生徒の心をうった。だから、『万葉』は、げんに、こんにちに生きている。古典は、芸術は民族とともに不滅である、といったような何かを、雰囲気として感じるのです。或いは、また、民族の魂を失わぬ人であるかぎり、古典はつねにその人の心に生きつづけている、といったふうな何かをなのです。
 どうも“感じ”や推測でものをいっているみたいなことになって恐縮なのですが、もしわたくしのこの“推測”が当たっているとすれば、認識の仕方そのものとしては、あの古めかしいアルス・ロンガーの思想を無媒介に受けついで、それをいきなりこんにちの民主的民族主義に結びつけてしまっているのではないか、という感じです。話題の材料が、いま、東歌や防人歌だから矛盾があまり目立たなくてすむのですが、これが近世や近代の“あきらめ”の系列の文学作品などの場合ですと、古典の不滅をうんぬんするのは筋としてすこしおかしいんじゃないか、ということが幾分ともハッキリしてくるように思われます。
 「ソ連や中共で民族文化を尊重しているという点のみに注目して……民族文化は何でもほめ上げる傾向があるのはコッケイである。あきらめを中心とする文学を讃美しながら、一方で革命をあこがれるのはおかしい。」(『文学教育について』)という桑原武夫の持論に対しては、いやあきらめを讃美しているんじゃなくて、がんじがらめの封建体制のワクのなかで、ぎりぎりの抵抗をこころみながらも、しかもあきらめに崩折れるほかなかった民衆のなげきを、そこから読みとろうというのだ。民衆のなげきがじかに胸に響いてくるようでなくては、泡立つ革命への情熱など生まれてくるはずがないではないか、というふうな批判(すこし違っているかも知れません――)があったような気もしますが、さてどうなんでしょう?
 「革命にあこがれる」とそう語ったのは桑原のイロニーでしょうから、なにもこの言葉にこだわる必要はありません。そこにこだわらないで読むと、引用のかぎりでは、わたくしなんかも桑原に同調したくなってくるのです。が、それは、あきらめの文学から“なげき”を読みとらなくていい、そんな必要はない、というのではありません。むしろ、積極的にそれを読みとることで、あきらめに崩折れたこの保守的な(そのかぎり保守的な)民衆の文学を、わたくしたちのものとしてかちとる必要があるでしょう。保守を反動と見誤まって、それを向う側におしやるのはまちがいです。保守と反動とはハッキリと区別されなくてはなりません。保守と反動の区別をハッキリさせて、保守をこちら側に、ということは、けれど相手のあきらめの感情をそれとして認める、肯定する、ということではないはずです。それは、すくなくとも、相手のあきらめの感情に同調するということではないはずです。そうではなくて、そういうシチュエーションとそうした条件のもとでは、あきらめに屈折するほかなかった当時の民衆の心情を、相手の身になって感じとると同時に、そこまで相手を追いこんだ民衆の敵・民族の敵に対して怒りを燃やすことだ、と思います。
 が、古典鑑賞者としてのわたくしたちがそこに感じる怒りや共感は、ふれあう面はもちろんありますが、しかしその当時の民衆、その当時の読者のそれとは性質が違ったものです。相手はすでにあきらめてしまっています。あきらめを前提として、しかもあきらめきれずに一種の わるあがき(――悪質な意味にとらないでください)をやり、そして“どうせ”という気もちに落ち込んでしまっている相手なのです。あきらめから抜けだす、これっぽっちの可能性も、そこには見あたりません。ですから、その“あきらめ”は、やむをえないという以上に、むしろ“当然のあきらめ”でえさえあるわけです。それを、わたくしたちが、相手の身になって感じるとはいっても、相手に同調する以外、一身上の同じ立場はとれないわけですから、当時の読者の鑑賞とは鑑賞の軸がちがいます。
 たとえば、『菅原伝授手習鑑』ですが、わたくしたちがいま舞台で見たり読んで読んだりして鑑賞している『寺子屋』と、当時の民衆が鑑賞した『寺子屋』とでは、ですから別の作品も同然だ、といういことになるのです。鑑賞を軸にしていうかぎりでは、であります。繰り返しになりますが、近世民衆の、従ってまた古代民衆の鑑賞(――それがほんらいの意味における鑑賞です)を、それと同じ文脈においてわたくしたちのなかに再現することは不可能です。同じ文脈、同じ軸の鑑賞をこんにちに再現することが不可能である以上、――つまり以心伝心的な一定の仕方のよびかけが可能であるように加工された媒体(作品)が媒体としてのはたらき を本来的に失なってしまっている以上、これらの文学はすでに滅び去ったというほかないでしょう。

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八 問題意識喚起の国語教育

1 起  点
 ひところ論議の中心であった“問題意識喚起の国語教育”論──その起点となった荒木繁氏の『民族教育としての古典教育』(日文協一九五三年度大会報告──『続 日本文学の創造と伝統』一九五四年九月刊)は、現場の実践に裏づけられた画期的な古典教育論であった。祖国に対する愛情と民族的自覚にめざめさせる古典教育をというその所論は、文学教育としての古典教育の、そしてこんごの文学教育の進むべき方向を、わたしたちにハッキリと示してくれた。この大会報告を『日本文学』誌上で読んだときの深い感動を、わたしはいまに忘れない。
が、その感動が大きかっただけに、わたしとしてはこれっぽっちの疑義も未解決のままに残しておきたくない。それで、この機会にいうのだが、疑義は指導の具体面に関してよりは理論面に関してである。つまり、前に指摘したような鑑賞論とそれにつながる古典の理解の仕方の一点に関してである。
 「古典の場合はいろいろの言語障害があって直接作品を鑑賞する ことを妨げていますので、その場合古語の意味とか文法を説明することが必要になりますが……究極の目標は作品を鑑賞することにあることはいうまでもありません」ということばや、「生徒たちが古歌を鑑賞する場合、自分の生活と結びつけて味わおうとするように仕向け」たということや、「生徒たちが歌から逆に歴史へ関心をもつという主体的方向をとった」という指導の仕方などから察すると、言語障害がとりのぞかれ、主体的な歴史の理解がそこに成り立てば、現代作品に対すると同じ文脈の鑑賞が古典に関しても可能である、という考え方のように思われる。荒木氏の指導した生徒たちが「自分の中にあるものを万葉の中にみつけだしたのではなく、ないもの、失われたものを見出して感動」したというのも、その感動、その鑑賞の軸は右のような文脈における感動であり鑑賞であるように書かれている。が、はたしてそうであろうか。
 問題は、そうした指導の裏に前提され予定されているらしい、古典不滅・芸術永遠の思想である。『万葉』の古歌がわたしをうち、また生徒の心をうった。だから、『万葉』は、げんに、こんにちに生きている。古典は、芸術は民族とともに不滅である、といったような何かを、雰囲気として感じるのだ。あるいは、また、民族の魂を失わぬ人であるかぎり、古典はつねにその人の心に生きつづけている、といったふうな何かをである。
 どうも“感じ”や推測でものをいっているみたいなことになって恐縮だが、もしわたしのこの“推測”が当たっているとすれば、認識の仕方そのものとしては、あの古めかしいアルス・ロンガーの思想を無媒介に受けついで、それをいきなりこんにちの民主民族主義に結びつけてしまっているのではないか、という感じだ。話題の材料が、いま、東歌や防人歌だから矛盾があまり目立たなくてすむが、これが近世や近代の“あきらめ”の系列の文学作品などの場合だと、民俗文学の永遠をうんぬんするのは筋としてすこしおかしいんじゃないか、ということが幾分ともハッキリしてくるように思われる。

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§17
(七 古典と古典教育と 続き)
 そうです。芸術は永遠ではありません。そして、永遠でないところがそれのネウチなのです。芸術的表現の特ちょうだといわれるその具体的なナマナマしさは、日常的全体感に裏うちされたナマナマしさです。芸術的表現の日常性、そして芸術性……。むしろ、こうして永遠でないからこそ、過去のすぐれた芸術作品が古典として こんにちの範疇に再生産 される必要も起ってくるのではないでしょうか。古典とは、つまり、こんにちの民衆的・民族的必要において現代に再生産されることを要求されている過去の文学遺産(ひろくいって文化遺産)のことにちがいありません。過去の、あるいは異なる生活圏の文学作品を、こんにちの鑑賞にたえる作品として現代の範疇に再生産するしごと、それが文学の翻訳です。翻訳というのは、たんに言葉の壁をとり去るというだけのしごとではなくて、失われた体験・異なる生活体験、そして体験の要約としての思想・感情を、歴史的ならびに現代的意義の評価によって、こんにちの準体験として再生産することです。
 文学教育としての古典教育の指導過程も、体験の再生産としてのこの翻訳のしごとをとおして、学習者のあいだに古典を準体験させる操作だと思うのです。
 荒木の報告に示された指導の仕方は、明らかに翻訳による準体験への過程を、一歩々々生徒にあゆませています。自分に「ないもの、失われたものを見出して感動」した、という学習者の受けとめた感銘は、右にのべたような準体験がもののみごとに実現されたことをもの語っています。それは、けっしてアルス・ロンガー(いわゆる意味の古典の不滅)のゆえにもたらされた感銘ではありません。つまり、それはまた、ほんらいの意味の鑑賞がそこに再現したことを意味してはいないのです。鑑賞者の場合の規定によってもたらされる、二つの異なった鑑賞の軸を自覚することが文学の鑑賞と研究に、そしてこんごの文学教育のあゆみに新しい展望を提供することになるのだと思います。(附け加えていうと、それに近代主義というレッテルを貼るだけで、第二芸術論をほんとうには批判しえない秘密は、この鑑賞の軸への無自覚にあるといっても、そうたいしてズレはないように思います。)

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(1 起点 続き)
 が、古典論・鑑賞論の基本的な問題については、後の『古典教育と第二芸術論』(第二章・六)の項で多少くわしくふれることにして、ここではただ古典の享受をこんにちにおいて成りたたせるもの、古典教育を可能とするものが“追体験の可能”というような、生哲学(=追験主義・形象理論)ふうな理解における“生の自己同一”“アルス・ロンガー”のゆえでないことを指摘しておきたい。過去の文学作品が古典としてこんにちに再創造されるのは翻訳──社会範疇の翻訳によってである。古典教育のいとなみは、一面、過去の作品を翻訳によって、こんにちの学習者に準体験させることであるともいえるのである。
 荒木氏の報告に示された指導の仕方は、明らかに翻訳による準体験への過程を、一歩一歩生徒にあゆませている。自分に「ないもの、失われたものを見出して感動」した、という学習者の受けとめた感銘は、右にのべたような準体験がもののみごとに、そこに実現されたことをもの語っている。それは、けっしてアルス・ロンガー(いわゆる意味の古典の不滅)のゆえにもたらされた感銘ではない。つまり、それはまた、ほんらいの意味の鑑賞がそこに再現したことを意味してはいないのだ。
 鑑賞者の場の規定によってもたらされる、二つの異なった鑑賞の軸を自覚することが文学の鑑賞と研究に、そしてこんごの文学教育のあゆみに新しい展望を提供することになるのだと思う。つけ加えていうと、それに近代主義というレッテルを貼るだけで、第二芸術論をほんとうには批判しえないでいる秘密は、この鑑賞の軸への無自覚にあるといっても、そうたいしてズレはないように思われる。

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§18
八 戦前から戦後へ 続き2)
 もとへ戻って、読み方の基礎は話し方である、と西尾が語っている点ですが、(前出『読方教育論』)、発生論としてはそのとおりなのですけれど、実態論としてはむしろそれと逆の関係が成り立つ場合のあることも考慮されていいと思います。読み方の成長が話し方の成長を促すという面が、中学・高校と進むにつれて大きくなってきていることは見のがしえません。が、いま、問題はもっと別のところに見いだされます。基礎がだいじだし、話し方が基礎だからというので、一にも二にも話し方の一点ばりで、“話し方のための教材”に偏した教科書の編集をやりだすような傾向についてです。電話のかけ方だの、挨拶の仕方だのというあれですが、このかたよりが戦後においていっそう甚だしくなったことは占領教育政策と固く結びついているわけです。
 そのこと自体はむろん西尾とは無関係な事柄なわけですが、しかし戦後多くの国語教育理論家が、アメリカ方式の経験主義・実用主義の言語教育に抵抗感なしにあっさり結びつくことができたというのは、話し方と読み方との関係を具体的現実的に考えることをしないで、また何をというその具体的な内容を切り捨てた非現実的な思考におちこんでいたことと無関係ではないようです。
 また、国語科の綴り方指導は技術面の指導に限定した方がいい、という、前に紹介した国分の考えは、国語教科書に文学の教材は不要だというに近い主張として、そのまま戦後に持ち越されています(『わたくしの国語教育論』――原題『詩について』一九四七年)。それは、基礎学力を低下させるアメリカ方式の言語教育(言語技術主義)と、同じその片側の面である上からの文化主義(教養主義)の文学教育に対する抵抗の言葉なのでしょうが、しかし言語教育に屈折することで辛うじて抵抗をこころみた、谷間の世代の経験が身についた習性となってしまっている一面も見のがしえません。
 そういう意味では、戦時中、言語主義の神がかり教育への抵抗として、“その筋”の語る言葉 よりも、また教科書に書かれてある事柄〈言葉〉よりも、わたくしたちがこの目で見、自分の体験によってかちえた実感をこそ尊重すべきだとし、経験学習への道を選んだ人々のあいだから、戦後、アメリカ教育方式一辺倒の経験主義者を数多くうみだしているという関係は、国分のばあいとは軸が違うにしても、やはり、ならい性のこの習性による一面があるようにも思われます。
 右の国語科を言語教育一本に(?)という考え方は、石田宇三郎による国分批判(『国語教育の基本的方向』一九五三年七月)に端を発し、国分による反論(『国語教育の実践的課題』五四年三月)と、さらに片岡並男(『国語教育の階級的視点』五四年八月)・水野清(『言語教育と文学教育――国分・石田論争の発展のために』五五年六月)などの論争への参加によって問題のありかがハッキリさせられたかたちです。が、国分自身、五四年七月に発表した『文学教育の問題点』に至って、国語科以外に文学科を設けたほうがいいが、しかし「現状では、教師たち自身があらゆる創意を発揮して、文学教育を実践」するほかない、という考え方に変ってきているようです。そして、この論稿では、言語教育か文学教育かなどうるさく言わないで、「大きな必要に立って、あっさりと文学教育をおこなえばよい。」と語っているのですが、右のいきさつを知っている者にとっては、なにか割り切れない、戸まどいを感じさせられる言葉でもあるようです。西尾が、読み方の基礎を綴り方であるとする考え方を改めて、話し方にその基礎を見いだすに至ったとき、ハッキリとそのことをいい、また考え方の変った理由をみんなの前に発表していますが(前出『読方教育論』)、西尾のようなこうした折り目正しさにまなぶ必要が、国分のばあいにかぎらず一般にありはしないでしょうか。
 ところで、言語教育か文学教育か?……そこのところから日文協国語教育部会の文学教育への動きが、いわば占領国語教育への抵抗(経験主義としての言語技術主義の否定)として活溌になっていきます。その起点となったのが、益田勝実の大会報告(『言語教育か文学教育か』――原題『文学教育の問題点』一九五二年六月)でしたが、それは、「今までの国語教育は文学教育でありすぎた」(『言語教育と文学教育』五〇年)と考える西尾から、「ともすると、近年の『言語教育』を目のかたきにしているかのような傾き」として批判されることにもなったし(前出『文学教育の回顧と展望』)、また、時枝誠記の発言(『文学教育と国語教育』五二年二月)をアメリカ方式の言語技術主義批判のテーマのなかで相手どったことは、「時枝博士が日本の言語生活教育論者として典型的な学説の所有者であると考えて……相手にしているわけでは」ないという註がついてはいるものの、戦後のアメリカ一辺倒の傾向に対して批判的な立場を堅持した時枝の立場を知る者の目からは、やはり適切さを欠いているという批判もあるのではないか、と思います。
 右の益田の発言によって代表されるような文学教育への日文協の動きは、さらに前に紹介した荒木の『民族教育としての古典教育』に受けつがれ、西尾によってそれが“問題意識喚起の文学教育”として方法的に定位されるに至ったわけですが(『文学教育の問題点』五三年九月)、荒木たちが高校の国語教室でおこなったこの問題意識喚起の指導を小・中学校の現場に移して、というところから鴻巣良雄たちの現場の実践がはじめられたもののようです。今のところ、理論ないしテーマが先行していて、実践の具体例からテーマが提起されるというところまでは一般にまだ行き着いていませんし、一方、またその反対に、問題の理論的なとらえ方の弱さから、学校文学教育の極致を創作指導に見いだすというような、それ自身前提と矛盾するような結論が現場でなされたりもしています。が、たとえば、相川日出雄の『文学のちから』(原題『国語教育の仕事』)などを読むと、現場に腰をすえて、じっくりと子どもたちの指導をととりくんでいる教師こそ、すぐれた文学教育の実践者であることが知られます。

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2 展  開
 ──私の問題提起は次の如く要約できます。
 (1) 話す・聴く・読む・書くの言語教育を、考え、感じとり、新しい精神文化を創り出す、新しい人間形成の教育に延長し、それが新しい文学教育へつらなることを期待する。
 (2) そして、それら諸段階にあっても、文学作品は大いに素材として活用されねばならないが、同時にあまり文学的でありすぎてもいけない。われわれの目的は文学者をつくることではなく、新しい文学をその中から荷ない出す“民衆”をつくるのである。新しい人間と、その新しい人間の新しい社会建設の実践による深い感動をぬきにして、新しい国民文学の誕生はない。
 (3) 文学教育は、現実と対決させつつ新しい文学教育を行なう必要がある。古典作品のとりあげ方も同じ。単なる情操教育や教養教育としての文学教育は害を伴なうことが多い。新しい人間精神の形成をめざせば、文学教育の時間が食われるが、“急がば廻れ”といえようし、わが民族の精神文化の伝統をを継承し克服しようとする場としての学科が他にない以上、国語が他学科と連繋しつつも中心的にこの任務を荷なわねばならないのではあるまいか。
 (4) こうした手続きの上で国民文学の確立をめざす。従って、ここでは歴史科学の道を自然科学の道とならべたが、芸術創造の道も大きく評価して、教育していかねばならない(『文学教育の問題点』・日文協 一九五二年度大会報告──『日本文学の伝統と創造』一九五三年五月刊)。

 右の益田の発言によって代表されるような文学教育への日文協の動きは、荒木氏の『民族教育としての古典教育』に受けつがれ、西尾氏によってそれが“問題意識喚起の文学教育”として方法的に定位されるに至ったわけだが、荒木氏たちが高校の国語教室でおこなったこの問題意識喚起の指導を小・中学校の現場に移して、というところから鴻巣良雄氏たちの現場の実践がはじめられたもののようである。
 今のところ、理論ないしテーマが先行していて、実践の具体例からテーマが提起されるというところまでは一般にまだゆきついていないし、一方、またその反対に、問題の理論的なとらえ方の弱さから、学校文学教育の極致を創作指導に見いだすというような、それ自身前提と矛盾するような結論が現場でなされたりもしている。が、たとえば、相川日出雄氏の『国語教育の仕事』(教師の友・一九五五年六月)や藤井亨蔵氏の『文学のちから』(講座日本語・第七巻)、川越怜子氏の『たえざる成長のために』(同上)などを読むと、現場に腰をすえて、じっくりと子どもたちの指導をととりくんでいる教師こそ、すぐれた文学教育の実践者であることが知られるのだ。

* なお、問題意識喚起の文学教育とは?……という点については、第一章・一〇・1『理論的と実践的と』、第二章・五・3『生哲学と文化主義』などの項を参照していただきたい。

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§19
     九 文学教育の到達点
──
日文協・一九五四年度大会報告をめぐって
──


1 文学と文学教育、その独自性
 
「今日のこの大会で、文学の独自性の問題が十分に問題になりきらないで終ってしまうのは残念だ」という意味のことを、総合討論も終りに近い大会の幕ぎれのところで永積安明氏が語っておられたが、同感である。 それは、「国語教室でやる以上は社会科でやれないような仕方で、つまり文学教育としてやらなければ、何のために国語の教育をやるかという意味が出てこない……ところがその問題が十分発展されないままに終ってしまった」(永積氏)という点、「文学教育でなければやれないような文学の特殊性」(同上)について不十分なかたてできか討議がおこなわれなかった、という点である。
 大会を傍聴していて、また大会報告(1955年11月刊)を読みかえしてみて、わたしもそれを感ずるのだ。
 つまり、討議が噛み合っていなかったのだ。討論が噛み合わないまま、そしてそれのどこがどう噛み合わないのかと言うことが確かめられないまま、ズルズルと問題の方向がそらされてしまっている。このロスは大きい。そこを明らかにすることで、指導の実際面に関することがらも、もっと具体的なかたちで浮かびあがってきたに違いないからである。。「時間の都合上、さきほど“文学の特殊性”の問題を切って進行してしまったので、よけいにこの議場にそれが論じられなかったかも知れません」と西尾実氏(議長)も語っておられたが、まずはそのとおりである。
 が、討論が噛み合わなかったとはいうものの、だからまた、発言が一方的なものに終ってしまっている嫌いがあったとはいうものの、独自性の問題がそこに提起され、そこの追究されたということの意義は大きい。加えて、そうした問題の追究が、たとえば森山重雄氏によって、「文学以外では得られないもの、文学を手段とするのではなく、文学を通さずには得られない、そういう独自的なもの」の追究というかたちにまで整理されていったことは、すばらしかった。
 もっとも、右の「文学を手段とする」うんぬんの“文学”というのは、むろんたんに“文学というもの”あるいは“文学ということ”をさしての“文学”ではなくて“文学作品”のことであろうし、またそういうふうに理解することで趣旨が生きてくる。
 文学を手段とするというのが“文学的思考による”ということならいいのだが、たんに文学作品を素材として──というより、その作品の筋書きやら結論めいたことがらを手段に使って、文学以外のどこかへ読者をつれ去ろうとするような指導が文学教育(しかも進歩的 な文学教育)の名を冠しておこなわれている折柄、森山氏たちによる右の整理はそれとして大きな意義をもっていた。文学教育とは、けっきょく、文学的思考への、また文学的思考による教育にほかならないのだから。ゆたかな文学的思考にささえられた、すぐれた論理的思考力、そうした実践的な思考力をつくりだすいとなみが文学教育にほかならないのだから。

2 教育的機能と文学機能と
 当然、文学教育にあっては、文学作品は文学として扱われなくてはならぬのである。「文学の教育的機能というのは、形象を通じて……感ずる」ことであり、「そういうことから意識が変ってくる」ことだと荒木繁氏が語っているのも、そのことだろう。
 そこで、作品を読む、読ませるということが、文学として(つまり形象を通じて)読む・読ませるということであるのなら、たんに字づらにあらわれた“結論”ではなくて“結論”にいたる道筋・過程が、むしろ、おもく見られなくてはならない。過程にたいする理解──感動のありようや、その方向・度合、そうしたことで何が結論かという、結論の内容も違ってくるからだ。文学作品の主題は、いわゆる“結論”にあるのではなくて、むしろ“過程”に求められる。文学の認識(=表現)にとって、結論とは、むしろ過程のことである。永積氏が、
 ──“人形の家”を説明するときに、ノラが家出をする。その前に自殺までも決定したり、非常に悩み苦しんで、その結果ノラが家を出ていく。その過程を抜きにしては家出の問題は出てこないわけです。そういうことを抜きにして、いきなり家出を裁判所の問題にすることは、これは文学教育ではないと私は思う。

と語っておられるのも、その点にふれてであろう。また、磯貝英夫氏が「文学教育のやり方についての試案」として、「作品のなかから抽象された問題を、抽象し放しでなくて、もう一度われわれの現実の場に帰してくる操作の必要」を確認しなくてはなるまい、と語っておられらのは、右の関係にふれつつ、さらに問題を文学(=典型の認識)と文学教育の方法のもっとも基本的な地層にまでほりさげたものであった。
 と見てくると、文学と文学教育のこの独自性の問題も、討議の道程においては、ときどき、肩すかしを食ったみたいな恰好で軌道の外へハミだしながらも、方向だけは結構うちだしたということになるのだろう。
 さっき引用した荒木氏の発言のなかにもあった“文学の教育的機能”ということだが、この点についても「去年以来の問題意識の喚起と結びつけて」考えた場合、「それは文学の教育的機能と考えるよりも、むしろ文学機能と考えるべきではない」か、「教育的機能と考えられないこともないが、そう考えてしまうと、少し混乱するおそれ」があること、むしろ「文学機能に立脚した教育」として文学教育を定位すべきこと、大体それに近い整理が西尾氏によっておこなわれている。“問題意識の喚起”うんぬんの問題については別に考えるとして(第一章・三・2『西尾実氏の所論とその批判をめぐって』、第二章・五・3『生哲学と文化主義』など)、文学教育を、文学の教育的機能にそくした教育とする一般の考え方をこえて、「文学機能に立脚する教育」とする氏の規定の仕方には、わたしも賛成である。教育的機能というふうなことをいうのなら、それは何も文学にかぎったことではないからだ。そこで文学独自の教育的機能というのは、文学独自の性質や機能からみちびかれてくるところの、ナマナマしく相手の感動を呼び起すそのはたらきのことである、などというのは、これはナンセンスだ。
 西尾氏のことばを承けて、森山氏もまた、そこに「文学の文学的機能と教育的機能というのは結論的には一つだと思う」という整理をおこなっておられる。が、この発言のかぎりでは(つまり氏のことばを前後の文脈からポツンときりはなした形でみてみると)せっかくの西尾氏の提案をちょっと後へひき戻したという恰好だ。結論として同じなんだからどっちでもいい、という問題ではこれはないだろう。
 けれど、氏の発言がそうした形のものになっていったのも、問題意識喚起うんぬんの問題についての西尾氏独特の整理の仕方とからんでそれが提案されていたことによるのだろう。問題のかぎりでは、しかしだから、右の西尾氏の整理・発言がこの大会の結論だというふうに考えてよいのではあるまいか。
 
3 未解決に終った問題
 “問題意識の喚起”については、前年度におけるこの問題の提起者としての立場に立って、西尾氏自身、まずはじめに、

 ──小学校、中学校、高等学校を通じた文学教育の方法としては、その作品の理解、評価ということとは別に、生徒自身に喚起された問題意識をどう指導したらいいかということを、新聞の三面記事として扱うことだなどときめてしまわないで、、鑑賞指導の問題として考える問題であると思います。

という見解をハッキリとうちだしている。
 これに対して、森山氏は、「文学は……読む人にどこで結びつこうと、直接日常的な場で結びつかなくとも質的には結びついている」だから「質的な結びつきというのを問題意識と考えるなら現象的な結びつきだけを問題意識と言う必要はないではないか」というのだが、西尾氏はただ「わたしは作品によって喚起された生徒自身の問題そのものを取り上げるのが問題意識の指導だと考えます」という答を繰り返すだけである。
 次いで、言語教育と文学教育との統一の問題についても、

 ──言語教育を目のカタキにしたような文学教育はほんとうの文学教育じゃない。少くとも国語教育の歴史的な発展からいうと、方法であれ、言語技術であれ、そういう言語教育に対する愛情がなくて、ほんとうの文学教育ができるか。こう割り切ってつぎの問題に進みたいと思います。(西尾実氏)
 というようなことで終ってしまっている。もっとも、議長のこの整理の仕方に対しては、それを「承認できないわけではないのですが」という鈴木敬司氏の発言を手始めに、平田与一郎氏や益田勝実氏あたりの発言がみられたが、それもしかし、言語教育も文学教育も人間形成をめざしているという点では目的は一つだ、というふうなことで終っている。
 現場に直結した問題として注目されるのは、「作品に感動しなかった子どもの処置」をどうするか、という大島和雄氏の発言や、国語科のワクにばかりとじこもっていないで、社会科や外語科などの他教科との協力によって「文学教育の方法を打開」していこうという益田氏や鴻巣氏たちの提言などであった。
 益田氏たちのそれは、こんにちの教育の現場の実情にそくした問題提起になっていたし、また大島氏のそれは、ひろく現場教師の声を代弁したものになっている。それにあわせて、文学教育が「非常に特殊な先生でなければできない」ようなものであっては意味をなさぬ、という菅忠道氏の指摘は傾聴にあたいするものがあった。

 一〇 若 干 の 補 足
1 理論的と実践的と

 既に述べたように、文学教育のいわば内側の問題として“問題意識喚起の文学教育”のそれが未解決のまま、こんにちに持ち越されている。それは、西尾実氏にしたがえば、問題の位置づけとして「小学校、中学校、高等学校を通じた文学教育の方法」の問題であり、「鑑賞指導の問題」である。いいかえれば、「作品の理解、評価ということとは別に、生[徒]自身に喚起された問題意識をどう指導したらいいかということ」なのである。(第一章・九『文学教育の到達点』参照。)つまり、それは現場に直結した、指導当面の問題なのである。
 外側につながる問題としては、言語教育と文学教育との統一をどこに見つけるか、また、他教科や一般学校教育活動(たとえばホーム・ルーム、クラス経営、クラブ活動、図書館活動、PTA活動など)との関連のそれなどが、やはり手さぐりされている段階である。(同上、第一章・九 参照。)
 第一の点については、その後益田勝実氏によって、「問題意識を生むための作品と考えられる西尾氏の場合と、問題意識によって作品をよむと考えられる荒木氏の場合は、いってみれば正反対」という整理がおこなわれ、
 ──作品と生徒だけの関係をクローズ・アップしないで、クラスという、教師もいれば級友もいる集団の場で、集団が問題意識に貫かれて作品とぶつかっていく点こそたいせつではないでしょうか。……読む文学教育一本勝負というようにならないで、大きく構えてすすみたいものです(『しあわせを作り出す国語教育』――日本文学・一九五五年八月)

 という意見が結論的にうちだされた。幾分とも方向感覚だけはついてきた恰好だが、何を問題意識と考え、したがってその指導をどう内容づけるかという点での両者の考え方の相違(──それは究極において認識論的立場の相違にほかならないが)を、これではまだ統一したことにはならない。
 そこで、今となっては現場の実際面から実践的に解決していくほかないではないか、というような声も出てくるわけだが、そしてそれは確かにそのとおりなのだけれど、理論的につくすべきところをつくさないでおいて、今それを口にすることは、理論放棄の経験主義へ横すべりしていく危険がある。
 あえていうが、このていの問題を方向的に処理するぐらいの基本方式は、いわば公式として、すでに過去の理論的成果が用意してくれている(第一章『問題史的展望』一〜七章参照。)そうした理論的成果を十分にふまえ、それを実地に検証してみたうえでの不信から(自分なりの仮説をそこにたてて)、“実践的”にというのならわかる。が、今のはそうじゃない。受けつぎが不十分にしかなされていないのに、「既成の理論ではどうにもならんから実践でいこう」というのは、これは逆に非実践的である。理論はほんらい実践のためのものだ。理論にみちびかれない実践というようなものはどこにもない。
 手がかりもつけないでおいて、それで後はめいめいで処置しろといわれても、現場はどうしようもないのである。教育ジャーナリズムのうえではコテンコテンの『学習指導要領』や『学習指導法』が、しかし現場の実際面へ出ると大きな顔をしてのさばれるというのは、あながちにそれが権力を背景にしているからだけではない。一見具体的に見えるような、いちおうの指導理論を用意しているところが、それの強味なのである。
 理論的追究を放棄して実践、実践というのは、これは問題回避である。これではせいぜい、現場の個々の経験をアトランダムに(それもじつは一定の先入観にしたがって)並べ立てるのが落ちではないか、と思われるのだ。
 以上が一つ。

2 文学教育の基礎科学は何か
 第二に、言語教育と文学教育との統一の問題については、その後たとえば斎藤秋男氏などによって、新中国のカリキュラムにまなぶというようなかたちで、解決への一つの方向が示唆されてもいる(『国語教育のカリキュラム』──講座日本語・第七巻)。それは、たとえば、日本の教科編成における国語科にだいたい相応する中国の語文科が、現在、「それぞれの独自の任務」にしたがって言語科と文学科とに分離されようとしていること、しかもその分離は、「この二つの学科の一定の共同任務」「言語と文学との密接な連繋」の確認のうえに立ってのそれであることなどの指摘であった。
 つまり、言語教育と文学教育との機能や任務をバラバラな仕方でバラバラに理解していたのでは、教科の分離も独立もありはしない、ということだろう。
 ところで、語文科の内容は、かならずしも“国語科”のそれと同じではない。中国には社会科という教科がない。一年から四年までは、語文科が歴史・地理・自然の要素を担当するのである。そこで、むしろ「わが国の現状」からいっては、「社会科と国語科(社会科学の基礎としての言語学という観点から)の研究、その過程で文学教育の場の位置づけ」をおこなうべきだ、というのが、そこでの氏の結論的な意見であった。
 問題の現実的な解決の糸口は、だいたいこの方向をたどることでつかめる(というより、つかむほかない)ように、わたしもまた考える。が、疑問は、言語学の観点からしてその「研究」が尽せるか、という点である。ここにいう言語学が、旧来の既成の言語学を意味していないこともよくわかるつもりだ。が、それにしても、文学教育の場の位置づけというところに問題をしぼるのだとすれば、文学や文学教育の問題は言語学によってつくせるとは考えられない。
 右のわたしの疑問は、同時に中国における語文科分離の基礎にある考え方への疑問につながっている。言語科の基礎となる知識体系が言語学という科学であり、文学科のそれが文学という「一種の芸術」であるとする、その考え方への疑問である。おそらく、文学科の基礎を言語芸術としての文学と考えるところから、それを原理的・方法的にコントロールする科学として言語学をそこに考えるということになったのだろう。が、言語科をささえるものが言語現象そのものではなくて言語学であるように、文学科のささえも文学現象でなくて文芸学 である。
 いま文学教育の場の位置づけをおこなうにあたって必要とされるのは、だから言語学的観点であるよりは、文芸学的視点である、というふうに考えられるが、どうか。
 第三に、他教科や読書指導一般・一般学校教育活動などとの結びつきの面についてだが、これは別に、第三章・三『文学研究と文学教育』および第四〜第七章の各項において考えてみることにしたい。

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