熊谷 孝著作デジタルテキスト館  
  責任編集
猪野省三 菅 忠道 熊谷 孝 関 英雄 巌谷栄二
 
日本児童文学大系 第六巻

 ――文学教育の理論と実践――

三一書房 1955年10月30日発行


  
※『日本児童文学大系 第六巻』(文学教育の理論と実践)の編集担当は熊谷孝。原本は、縦書き、1ページ20行、1行49文字(一段組)、および、24行、26文字(二段組)。全370ページ。この中から熊谷孝執筆の「解説」(一段組、23ページ)全文を掲載した。
※原文にある印は、その文献が『日本児童文学大系 第六巻』に収録されていることを示す。
※圏点部分はイタリック体太字にした。
※明らかなミスプリントは訂正した。
※末尾に、本体系の「刊行のことば」および本巻の「目次」を載せた。

刊行のことば
第六巻目次


解 説(一九三〇−五五年)    熊谷 孝


  一 資料採択の基準  

 一九三〇年代以降の文献のなかから、七〇篇あまりの論稿や記事を拾って、ここに掲載しました。年代を追って、文学教育の足どりをパノラマふうにのぞいてみる、というのではなくて、直接こんにちに問題を投げかけるような資料を掘り起こそう、というのです。収載原稿の上限を一九三〇年代にかぎったのも、一つにはむろんスペースの関係がありましたが、しかしそのこと以上に、こんにちの文学教育が直接 その成果を受けつぐべき過去の遺産は何かと考えたばあいに、三〇年代のプロレタリア教育のそれが大きな画期となっていることに気づかされたからです。
 が、上限をこの年代にかぎってみても、やはりスペースは足りませんでした。けっきょく、収載を予定して蒐集した資料の半分も、いやその三分の一もここに掲げることができませんでした。最終的に収載することを決定した資料についてだけでも、資料によっては、かなりの部分を削除しなくては到底盛りきれないのです。執筆者の方々には大へん申しわけないことなのですが、そうするよりほかいたし方がありませんでした。

  二 構   成

 ところで、わたくしたちは、この本を、解説なしに読めるような本にしたい、と考えました。そして、ある程度そのような本になりえているかと思います。
 “回顧と展望”とか“問題史的展望”というようなタイトルをつけた論文やエッセイの多くは、その時期その時期のモニュメンタルな資料であると同時に、過去のある時期の動向を見とおすものになっているはずです。ことに、戦後の部面については、この解説のあとに添えた“文学教育文献リスト”を右の“展望”と対照させることで、いっそう実態がハッキリしてくるかと思うのです。
 が、この回顧なり展望も、やはりあるきまった一つの視点からの問題の抽象・概括にほかなりません。当然、別の視点、別の立場からの異論なり反論なりがあり得るわけです。そういう反駁や異論も、こんにちの時点から見て対照の必要があると考えられるかぎりは、つとめてとりあげるようにしました。
 たとえば、さきほど申しましたプロレタリア教育についてですが、その項の“回顧と展望”(『資料に裏づけられぬ素描』)において国分一太郎の語っている、プロレタリア教育に対する幾分否定的な見解は、むしろプロ教育にこそこんにちの文学教育の一つのモデル(範型)を見いだそうとする福井研介(『教授法の遺産』――原題『文学教育の方法』)などの見解ともつきあわせて、(それをわたくしたち自身の問題として)考えてみる必要がありましょう。
  また、右の“回顧”は、生活綴り方運動の渦中にあった当事者の回顧であるという点に特ちょうがあるわけですが、しかしそのことの当然の結果として、当事者自身の意図の解明が先きにたって、運動の実績そのものについての歴史的・客観的な評価が裏側に廻されてしまっています。楽屋裏は見とおしだが、しかし……というところがあるのは、これはこうした文章の性質上やむをえないことです。一九三六−三七年(昭和十一、二年)において、自分たちが国語科の綴り方指導を技術の面にかぎることを提唱したのは、鈴木道太たちが、当時そういって非難したように、なにも当局の弾圧をおそれたのではない、むしろ、自分たちの“つもり”では、生活綴り方において意図したことを、さらに自治会や教科全般の指導にまでワクをおしひろげて、と考えてのことだった。それを鈴木たちが非難したのは当たらない、と国分は語っていますが、こんなふうに舞台裏をのぞかせてくれるところが、この種の資料のありがたさです。が、国分と鈴木のどちらがどうの、当事者の“つもり”では……といったこと以上に、わたくしたちがハッキリさせたいのは、運動の意義そのものの評価です。わたくしたちが自分の足もとを見きわめるうえに必要な“評価”です。
 ですから、この点を明らかにするためには、たとえば“良心の灯”の項の各論稿や、森山重雄の『一九五二年を中心に』(原題『国語教育の十年』)なども読んでみなくてはなりますまい。さらにいうと、“良心の灯”の項をよむまえに、ぜひ大久保正太郎の『国語教育の回顧と展望』を一読していただきたいと思うのです。
 ともかく、右に見てきたように、この本は、それぞれの部分が相互に他の部分を解説するしくみ になっています。ですから、この解説も、右のしくみ にしたがって資料を眺めわたしながら、そこに若干の補足をつけ加えることで終りたい、と考えます。

  三 “プロレタリア教育”を中心に

 プロレタリア教育が教材研究を重視している点は特ちょう的です。それは、教授法万能の方法主義・技術主義から教材研究中心の立場に移行しつつあった、当時の国語教育界一般の動向のちょうど裏側の関係にあるわけです。
 たとえば、友納友次郎は、その教材論『取材観の源泉・読本の本質的発生的研究』(一九三一年、同文書院刊)において、大正期このかたの自由教育がゆきづまりを示したのは教材研究をゆるがせにしていたことの結果であるという“反省”を語り、そこに教材研究の必要を力説していますが、こうした一般の動向とのつながりにおいて、つまり「ブルジョア教育の力を注ぐ所、或いはその弱点に向って攻撃の主力を注ぐ」(『プロレタリア教育の教材』)という戦術的対応関係においてプロ教育にあっても教材研究が重視され、そのモデル教案『小さなねじ』が示しているような形で、教科書の原材料の利用・逆用・改作が行われ、さらにまた「プロレタリア貧農児童の要求に応じた教材の作成」や綴り方指導がおこなわれた、というふうに考えられます。
 が、天皇制政府が現実に“左翼教員”としてパージし検挙した人びとの児童教育の実際・実態がどのようなものであったかは『階級的文学教育の実際』について見ていただきたいと思います。「愛国の心とは戦争をやらないようにして、世界の各国を仲よくさして平和な世界とすることをいうのではないでしょうか。」という小学生の綴り方は、“その筋”の判断によれば、“赤い綴り方”であるというわけです。また、受持ちの児童に、「大塩平八郎は、飢饉で困っている多くの人々を救うために再三その筋に建言したがいれられなかったので憤慨して乱を起し、事破れて死んだ。このように困っている人を救うために尽した人は偉い人である。」と語った教師は“赤”だというのです(長野県の例――『プロレタリア教育の教材』による)。わたくしたちは、そこに、一面、“時代のへだたり”を感じると同時に、「今昔(こんじゃく)の感がある」なぞとやはり言いきれないものがあることに遺憾の意を表わさなくてはなりません。

 『文学的教材論』『古典教材および各種教材を論ず』とは、『国定教科書の左翼的批判』という標題で文部省の『プロレタリア教育の教材』(一九三四年刊)に掲載されている、原稿換算六百枚近い文章の一節です。同書によると、「神奈川県中郡平塚第三尋常小学校訓導脇田英彦〈全協日本一般使用人組合教育労働部神奈川支部関係者、昭和六年十一月十二日免状褫奪[ちだつ]、同年十二月二十三日起訴猶予〉の手記の中から、修身、国語、算術、国史、理科、地理等の重要学科の教科書に対する批判をその儘[まま]全部引用して参考に供したいと思う。……彼は最初修身科教科書に対する批判を試みた頃は純然たる左翼的立場から批判し始めたのであるが、検事局の取調べの進むにつれ(当時彼は検挙せられていた)次第に自己の信念に動揺をきたし、国語科、算術科、国史科、地理科と批判の筆を運ぶに従って、漸次[ぜんじ]自由主義的立場をとるに至った。」とあります。
 ですから、これは自分の意志で書いたというより、検察当局によって書かされた 一種の転向手記みたいなものです。大衆に向けての呼びかけではなくて、検察官への“報告”なのです。おそらくは「自己の信念に動揺をきたした」というより、縛られた舌のもつれ とたたかいながら、脇田はこの獄中手記を書き綴ったのでありましょう。「階級的意義は稀薄であり、理論は徹底していない点がある。そして、その中には幾多の矛盾がある。」と文部当局はこの文章を批評していますが、当局がいうのとは別の軸で、しかし肯けるところがあります。読んでいて“舌のもつれ”を感じるのです。「しかし、これによって、大体プロレタリア教育における国定教科書に対する批判の態度が察せられ」(『プロレタリア教育の教材』)ます。
 脇田のこの教科書批判をよんで誰しも気づくのは、教科書のあり方――教材の選定・配列が基本的には 戦前も戦後も変りがない、という点に関してでありましょう。戦後の教科書の文化主義(=教養主義)・実用主義・拝外主義(排外主義)を、いま、わたくしたちは問題にしていますが、しかし戦前の教科書もやはりそのとおりであったわけです。むろん、戦前と戦後とでは教育の方式・体系がちがいます。言語主義から経験主義へ――。天皇制臣民教育から植民地的半奴れい教育へ――。が、愚民政策のための教育であるという点では、しょせん一つこと、一つものです。脇田の批判のことばのひとつひとつが、じかにこちらの胸に響いてくるのも、きっとそのせいでしょう。
 (ついでにいうと、右の『プロレタリア教育の教材』の表紙には、三号活字で“秘”と印刷されてあります。扉には、「本書は思想問題に関し、生徒児童の教育の任にある者その他教育関係者の注意を促し警戒の資に供する目的をもって編纂したるものなり」とあります。A5判・六九五ページの大冊の本です。)

  四 西尾実の所論とその批判をめぐって

 階級的実践的立場にたつ脇田が「何故外国の教材しか用いられないか……近代日本の社会からその材料をとらない」のはなぜかと抗議し、修身的立場や文字解釈のための古典への取材をしりぞけて、「生活的立場からの文学的方向への教材の統一」を叫び、文学教育をプロ教育の前衛・主軸として重視しているのに対して、西尾実は、どちらかといえば文学教育軽視――いや軽視とはいえないでしょうが、それを副次的なものに考えています。文学は、日常生活におけることばを底辺とした三角形の頂点にすぎない。底辺や底辺(基底)の上のひろがりを忘れて、頂点だけにとらわれるのはまちがいだ、というのが西尾の国語教育論(『文芸的国語教育の欠陥』――原題『読方教育論』)でした。
 両者の考えは、一見まるで方向の違ったもののように見えますが、西尾の否定しているのは、じつは大正期このかたの観念的な(宙に浮いた)文芸主義の国語教育なのです。生活の基底に目を向けかえることで、地に足のついた国語教育を、と西尾もいっているわけですから、その点ではむしろ両者の視点は一致します。ひとしく“マルキシズムの洗礼を受けた時代”の子であったことが言われていいでしょう(たとえば、西尾の『国語国文の教育』一九二九年刊・二一一ページ以下を見よ)。が、マルキシズムをどう媒介しどう受けとめたかという点では――そうです、ここのところで両者は(部分的にふれあうところはありながらも)異なる別の方向にあゆみを進めることになったのでした。
 やはりマルキシズムに背を向けたディルタイのばあいがそうであったように、西尾のいう“生活の基底”とは、生哲学ふうの形而上学的・非歴史的な“生”にほかなりません。(ディルタイが歴史の項を骨抜きにし消去するために、歴史ということばをうるさいほど口にし、そしてついに歴史の項を現実のワクの外に括りだすことに成功(?)したところにもたらされた、あの“生”です。)鑑賞を深めるとか解釈するとかは、したがって西尾のばあい、“追体験”以外の操作を意味しているとは考えられません。生は生によってしか理解されえないし、その理解の方法は追体験以外にはありえぬ(ディルタイ)わけなのですから。
 西尾のこの生哲学的な生の立場はこんにちに至るまで一貫して変わりません。一九五四年に書かれた『文学教育の回顧と展望』において、「鑑賞活動に示される文学機能とは何であるか。もっとも一般的な機能は、読者その人の生活において蓄積されている『問題意識』を喚起することである。この『問題意識の喚起』は読者の生きかたに何等かの方向を与える。あるいはその“生”に慰めをもたらし、あるいはその“生”を鼓舞し、あるいはその生きかたに反省を促すというように。……文学が、鑑賞活動を通して読者に働きかける機能は、このようにして、だいたい、(一)“生”の方向づけと、(二)創作意欲の喚起と、(三)研究意欲の推進とに類別することができると思う。鑑賞活動を経験させる文学教育は、この三方向のいずれかへの発展を見通した指導でなくてはならない。」と西尾は語っています。
 さいきん、日本文学協会の内部でも西尾理論に対する批判がぼつぼつ出かかっているようですが、西尾理論のこのベースを突いたものが見当たらないのは、どうしてでしょうか。たとえば、「西尾氏は理論構成にあたって、立場と方法と内容を統一的につかもうとしたそのねらいを、むしろ観念的に方法の問題に限定されたような感じ」だ、と益田勝実はいっていますが、(『問題意識喚起の文学教育について』――原題『しあわせをつくり出す国語教育について』)、西尾がしゃにむに問題を方法の面に限定して発言しようとしたその“立場”こそ、変形された解釈学主義(=追験主義)のそれにほかなりません。また、たとえば、荒木繁は「西尾氏の所論は、作品とそれによって喚起された問題意識との必然的な関係をあきらかにせず、……これを創作意欲の喚起や研究意欲の喚起と並置されている点において賛成できない。」(『文学教育の方法』)と語っているのですが、創作・享受(鑑賞)・研究を根源的に同質のものと考えるところが生哲学の生哲学たるゆえんなのです。(それは、たとえば、こういうことなのです。生哲学にしたがえば、鑑賞とは追体験による生の理解にほかなりませんし、研究とはたんに鑑賞をそれとして深めていく操作をしか意味していないという点です。また、たとえば、鑑賞が一面創作過程の追体験であるという点で、それは創作と同質のものであるという方式の論理です。)“立場と方法と内容を統一”した西尾理論の批判が望まれます。
 こうしてその立場をハッキリさせたうえで見なおすと、まえには非常にもっともな意見のように受けとられた、三角形うんぬんの所論が、かなりに観念的なものであることに気づかされるでしょう。人間のさまざまないとなみ のなかから“言葉のいとなみ”だけを抽象して、文学のいとなみは(それが言葉の芸術であるから)“言葉のいとなみ”の一種であり、したがって文学の基底は日常生活における言葉だ、というのでは、これは論理の横すべりではないでしょうか。その意味では、むしろ、文学の基底・基盤は人間の具体的な社会生活そのものである、といわなくてはなりません。言葉は、文学にとって唯一の媒体であり通路ですが、しかし基底ではありません。文学は、言葉による いとなみには違いありませんが、たんに 言葉 いとなみではないのです。正しくは文学の言葉 の基底は日常生活の言葉 である、というふうに語られるべきではないでしょうか。
 が、言葉づかいの問題は一応どうでもよいのです。問題は、リベラリスト西尾実が、しかし国語教育を「伝統に根ざした、底力のある国防教育 たらしめ」ねばならぬと語り、そのためには「古典教育の実を挙げなくてはならない」とそう語るほかない地点にまで追い詰められたとき(一九四三年)に、例の三角形うんぬんの所論が「言語教育と古典教育とが、いわば三角形の底面と頂点との関連として定位せられていることに、新教授要綱の本領が見出される」(以上、『国語教育の立場と方向』)というふうに、いともたやすくファッショ教育奉仕のことば (論理)に転化し得るもろさ をもっていた、というその点なのです。
 つまり、そのもろさ のよって来たるところが問題なわけです。ある種の生哲学者・実存哲学者たちが後にナチの御用学者に成り果てたのをここに思いあわせるのは筋違いですが、しかし生哲学ふうなものの考え方そのもののなかに、やはり何かそうした“もろさ”があるのではないでしょうか。事のついでに申しますと、いま、日本文学研究の分野でもプラグマティズム批判がさかんですが、しかしそれにあわせて、生哲学批判をやらないのはどうしてでしょう? プラグマティズムが帝国主義の哲学なら、生哲学はれっきとした戦犯の経歴をもっています。が、ディルタイのそれと、戦時中ファッショの手先きになったような俗流・亜流の生哲学とはやはり区別されなくてはならないと思うのですが、相手がプラグマティズムの場合にかぎって無差別爆撃を敢えてするのは、なぜでしょうか。この分野で二つのプラグマティズムを色分けしてものをいっているのは、わたくしの知るかぎりでは益田勝実だけです。

  五 文学の教育性と教訓性

 国分一太郎は文学教育に“文学についての教育”と“文学による教育”との二つの側面のあることを考えてみているようです(『文学教育の問題点』一九五四年)。“文学による教育”というのは、国分のばあい、「文学がもっている独自の教育的機能を生かした教育」ということらしいのですが、国分のばあいにかぎらず、文学の教育性というこの言葉が戦後さかんに用いられています。たとえば、中村新太郎には『児童文学における教育性』(一九五四年)という題名の論文があるくらいです。が、言葉としてそれを用いながら、文学がどんな独自の教育的機能をもっているのかという点、また芸術性(文学性)や文学の表現・認識、さらに鑑賞とこの教育性がどうかかわりあうのか、といういうような点は一般にあまりハッキリしていないように思われます。
 ところで、この問題がすでに三六−七年代において、かなりぎりぎりのところまで追究され討議されていたことを、わたくしたちは、与田準一(『児童文学の教化性』)・松永健哉(『教育に於ける児童芸術の問題』)・槇本楠郎(『児童文学の教育性・倫理性』)などの相互批判の評論について知り得るのです。さらにまた、直接右の問題への応答をめざして書かれたものでないにもかかわらず、しかもきわめて明快な、深くえぐった解答を示しているのは、片岡良一の『芸術性と芸術の価値』『鑑賞に先行するもの』などの論稿でした。こうしたすぐれた遺産を、なぜ受けつがないのか。この戦争を境にして、そこになにか断絶があるようです。
 一九三七年の右の“教育性”論議は、作家側に見られる教育性と教訓性とのとりちがえやら、「教育性と芸術性とが本質的に両立し得ない」と作家たちが語ったというふうな松永の誤解やら、また作家の“創作の機微”を無視した、そのかぎりかなりムリのある松永の註文やらがそこに出されて、ちょっと整理のつかなぬかたちになっていますが、しかし基本的・原則的な問題がそこで論議されたことは注目にあたいするでしょう。なかでも、槇本が「日本の初等教育者の置かれている封建的な、悲しむべき不自由な立場」について語り、「口演童話や学校劇も、教育者に利用され、学校に入って行くに従って……第一義の真の 教育性・倫理性を失ってしまった」事実を指摘し、こんにちの児童文学はファッショ権力とのたたかいのうちに子どもを守るために「真の教育性」を回復しなくてはならぬ、と“もつれた舌”で語っているのは特筆にあたいします。
 それとほぼ同じ時期に、国語教育の分野でも、天皇制臣民教育への抵抗が、この教育性と教訓性の問題をなかにはさんで、教材論のかたちで展開されました。たとえば、金田鬼一は局外批評のかたちで、国定教科書の童話教材批判(『国語教材としての童話』――原題『童話』)を書きましたが、それは文部省の修身道徳的立場からの民間伝承説話の改ざんが、民族のすぐれた遺産をだいなしにしてしまい、原作ほんらいの高い教育性を奪いとってしまっている事実を、実証的に、そして根底からバクロしたものでした。
 倉野憲司もまた、『国語教材としての神話』(原題『神話』)において、教材のこの修身的“教訓性”を“教育性”の立場からこっぴどく批判しました。しかも、その批判は透徹した学問的立場においてなされ、天皇崇拝・国家主義強調のための神話への取材という文部当局の意図が、しかし事実上“不敬を犯す”結果をみちびいているという矛盾を指摘することで、抵抗の実を挙げています。相手の常套手段をもちいて相手の痛いところを突く、という戦法です。暗い谷間特有の抵抗戦法でした。
 が、こうしたかたちの抵抗がおこなわれえたのも、しかしほんの短いあいだのことでした。
 
  六 鑑賞主義論争をめぐって

 暗い谷間の一ページ。二・二六事件前後のこと。
 当事者たちの“つもり”からするとこうらしいのです。とにかく息苦しいし、憩いがほしいのです。公式主義的マルキシストの、まるで判で押したみたいに一律な文学談義には、もうとてもつきあいきれません。文学世界までがこうギスギスしたものになったのでは、やりきれたものではないのです。こうしてリベラリストの一群は、公式主義者への反撥をこえて、マルキシズムそのものの否定に突きぬけ、趣味的な文学ディレッタンティズムに身をゆだねるようになりました。それと同時に、文学を憩いの場とするために「美の聖地を回復せんとする十字軍」(岡崎義恵『日本文芸学』)として、「マルクス主義の亜流」を学会や教育界から追放しよう(岡崎『古典及び古典教育』)という勇ましいことにもなってしまったらしいのです。時のはずみです。が、ファッショ政治の息苦しさから身を避けようとした人たちが、権力の側に廻って特高そこのけの役割を演じる結果になったのは歴史の皮肉でした。
 そうした歴史の皮肉を身をもって経験した人は、文壇では林房雄、日本文学研究の分野では藤田徳太郎、そして岡崎義恵などでした。岡崎の大著『日本文芸学』(一九三六年刊)は、右にのべたような意味での“美の十字軍”の戦闘的な旗じるしでした。そして、この旗じるしの掲げられたことが、鑑賞主義批判を誘うよび水となったのはたしかです。近藤忠義・熊谷孝・乾孝・吉田正吉・石山徹郎・甘粕石介・新島繁・本間唯一・片岡良一・吉田精一などが、直接この鑑賞主義論争に参加しました。近藤や熊谷たちの日本文芸学批判に対して、新島・本間たち唯研グループや片岡などの一種の内部批判やら、吉田精一の批判やら、またそれへの反批判などがあって揉みに揉みました。けれど、論争の結果はうやむやに近かった、といっていいでしょう。言葉に足をとられた相手への誤解、相手方の誤解が問題の方向をズラせたことも確かです。が、この論争をたち消えに終らせたのは、なんといっても、岡崎のファッショ的・特高的発言(『古典及び古典教育』)でした。
 戦後、ふたたび、この論争に参加した人たちやその周囲の人たちによって、自己批判(?)のかたちで、鑑賞の問題がとりあげられたのですが(たとえば、一九四八年刊の『文芸学の諸問題』など)、それがしかし、熊谷たちが鑑賞をまで否定し去ったのは誤まりだ、というふうなことになっているらしい(たとえば、『文芸学の諸問題』に掲載されている榊原美文の批判など)のは、当事者のわたくしとしては解(げ)せないことです。というのは、わたくしたちは、その当時において、「鑑賞をまって芸術作品がはじめて芸術たりうるのは、もとよりのことだ。」とハッキリといい、「自己の体験の抽象面を規定する坐標軸を自覚しない、理解者の主観的な全体感が本来の意味での鑑賞である。」ということをのべ、だからすくなくとも鑑賞そのものは方法(文芸学の方法)ではない、と語っているからです。
 こうして事実がゆがめられたまま無媒介に否定されてしまっている一方、片岡の鑑賞論(前出『芸術性と芸術の価値』)に示された見解と同様の考えや考え方が、これもやはり無媒介に戦後十年のこんにち通用しているのなぞも、やはりわたくしとしては解せないことの一つです。たとえば、「感動をよびおこす力は作品のなかにあるが、それを受けとめる地盤は生徒たちの生活と意識の中にある。」(『文学教育の方法』一九五五年)という荒木繁の問題整理・問題理解の仕方なんかが、それです。もっとも、荒木のいうのは片岡のとは違って、むしろ、読者の体験の多様さと、またそれゆえに起こる鑑賞の多様さにふれての発言なのですけれど、論理そのものとしては片岡の“受けつぎ”です。しかも、無媒介なそれです。
 断っておきますが、当時わたくしが文学作品の内容や「芸術性を、読者の受け取り方にのみ 依存するものと考え」ていたというのは(『芸術性と芸術の価値』)、片岡の誤解です。が、「感動をよびおこす力は作品の中にある」という式の、つまり、内容が作品のなかに封じ込められているという式の考え方を否定したのは事実です。この考えは今でも変っていません。
 作品そのものはあくまで媒体です。表現の媒体であり理解の媒体であるこの作品は、読者の理解(鑑賞)をまってはじめて内容をかちえる(感動をよびおこす)のです。むろんこの媒体は、読者の心に、ある一定の感動の仕方における理解をよびおこすように加工された媒体なのですから、作者がツボをはずさないかぎり、それは一定の読者に対してはある一定の感動をもたらすはずのものなのです。が、作者の心と読者の心がしっくり結ばれるという、こうした場合でも、それは、感動をよびおこす力が作品のなかに封じ込められているからのことではありません。作品そのものはあくまで媒体です。ズサンなたとえで恐縮ですが、雷をよびおこす力が一方的に陽電気の側にあるとか陰電気の側にあるというのでは筋が違うでしょう。どちらか一方に……ではなくて、この両者がぶつかる(引きあう)ところに雷という放電現象が発生するように、読者の感動も、このふれあい(つまり読者の作品鑑賞)において成り立つのです。それを一方的に、作品にひそんでいる力がと考えるのは当たらないと思います。
 ところで、右の鑑賞主義批判を国語教育の分野において展開させたのが、大久保正太郎の『解釈学主義への一つの批判』(一九三八年)でした。科学的な偽装をした鑑賞主義――解釈学主義が支配的な、官製国語教育界にたいする、それは民衆の立場からの抗議でした。この論稿が戦後の国語教育論ないし文学教育論とハッキリ区別される点は、認識論がしっかりしていることです。当時の段階にあって、しかもフリーチェ的なあの誤まりに横すべりすることなく、問題の急所をリアルに批判しているのです。それは、まっとうにフリーチェを批判し得る認識の高みにあったからこそ、解釈学主義――生哲学を根底から批判することもでき得たのだといえましょう。ようやくアメリカ製国語教育の支配からぬけだして、民主的民族主義への道を歩みはじめようとしている、こんにちの国語教育および文学教育が、その出発にさいして受けつぐべき、すぐれた遺産の一つがここにもあるわけです。

  七 古典と古典教育と

 いま、文学教育の分野で論議のマトになっている“問題意識喚起の文学教育”論の起点となった、荒木の『民族教育としての文学教育』ですが、それは現場の実践に裏づけられた画期的な古典教育論でした。祖国に対する愛情と民族的自覚をめざめさせる古典教育を、というその所論は、文学教育としての古典教育の、そしてこんごの文学教育の進むべき方向をわたくしたちにハッキリと示してくれました。この大会報告を「日本文学」誌上で読んだときの深い感動を、わたくしはいまに忘れません。
 が、その感動が大きかっただけに、わたくしとしてはこれっぽっちの疑義も未解決のままに残しておきたくないのです。それで、この機会に申しますが、疑義は指導の具体面に関してよりは理論面に関してなのです。つまり、前の項で指摘したような鑑賞論と、それにつながる古典の理解の仕方の一点に関してです。
 「古典の場合はいろいろの言語障害があって直接作品を鑑賞することを妨げていますので、その場合古語の意味とか文法を説明することが必要になりますが……窮極の目標は作品を鑑賞することにあることはいうまでもありません。」という言葉や、「生徒たちが古歌を鑑賞する場合、自分の生活と結びつけて味わおうとするように仕向け」たということや、「生徒たちが歌から逆に歴史へ関心をもつという主体的方向をとった」という指導の仕方などから察すると、言語障害がとりのぞかれ、主体的な歴史の理解がそこに成り立てば、現代作品に対すると同じ文脈の鑑賞が古典に関しても可能である、という考え方のように思われます。荒木の指導した生徒たちが「自分の中にあるものを万葉の中にみつけだしたのではなく、ないもの、失われたものを見出して感動」したというのも、その感動、その鑑賞の軸は右のような文脈における感動であり鑑賞であるように書かれています。が、それは違うんじゃないでしょうか。
 問題は、そうした指導の裏に前提され予定されているらしい、古典不滅・芸術永遠の思想です。『万葉』の古歌がわたくしをうち、また生徒の心をうった。だから、『万葉』は、げんに、こんにちに生きている。古典は、芸術は民族とともに不滅である、といったような何かを、雰囲気として感じるのです。或いは、また、民族の魂を失わぬ人であるかぎり、古典はつねにその人の心に生きつづけている、といったふうな何かをなのです。
 どうも“感じ”や推測でものをいっているみたいなことになって恐縮なのですが、もしわたくしのこの“推測”が当たっているとすれば、認識の仕方そのものとしては、あの古めかしいアルス・ロンガーの思想を無媒介に受けついで、それをいきなりこんにちの民主的民族主義に結びつけてしまっているのではないか、という感じです。話題の材料が、いま、東歌や防人歌だから矛盾があまり目立たなくてすむのですが、これが近世や近代の“あきらめ”の系列の文学作品などの場合ですと、古典の不滅をうんぬんするのは筋としてすこしおかしいんじゃないか、ということが幾分ともハッキリしてくるように思われます。
 「ソ連や中共で民族文化を尊重しているという点のみに注目して……民族文化は何でもほめ上げる傾向があるのはコッケイである。あきらめを中心とする文学を讃美しながら、一方で革命をあこがれるのはおかしい。」(『文学教育について』)という桑原武夫の持論に対しては、いやあきらめを讃美しているんじゃなくて、がんじがらめの封建体制のワクのなかで、ぎりぎりの抵抗をこころみながらも、しかもあきらめに崩折れるほかなかった民衆のなげきを、そこから読みとろうというのだ。民衆のなげきがじかに胸に響いてくるようでなくては、泡立つ革命への情熱など生まれてくるはずがないではないか、というふうな批判(すこし違っているかも知れません――)があったような気もしますが、さてどうなんでしょう?
 「革命にあこがれる」とそう語ったのは桑原のイロニーでしょうから、なにもこの言葉にこだわる必要はありません。そこにこだわらないで読むと、引用のかぎりでは、わたくしなんかも桑原に同調したくなってくるのです。が、それは、あきらめの文学から“なげき”を読みとらなくていい、そんな必要はない、というのではありません。むしろ、積極的にそれを読みとることで、あきらめに崩折れたこの保守的な(そのかぎり保守的な)民衆の文学を、わたくしたちのものとしてかちとる必要があるでしょう。保守を反動と見誤まって、それを向う側におしやるのはまちがいです。保守と反動とはハッキリと区別されなくてはなりません。保守と反動の区別をハッキリさせて、保守をこちら側に、ということは、けれど相手のあきらめの感情をそれとして認める、肯定する、ということではないはずです。それは、すくなくとも、相手のあきらめの感情に同調するということではないはずです。そうではなくて、そういうシチュエーションとそうした条件のもとでは、あきらめに屈折するほかなかった当時の民衆の心情を、相手の身になって感じとると同時に、そこまで相手を追いこんだ民衆の敵・民族の敵に対して怒りを燃やすことだ、と思います。
 が、古典鑑賞者としてのわたくしたちがそこに感じる怒りや共感は、ふれあう面はもちろんありますが、しかしその当時の民衆、その当時の読者のそれとは性質が違ったものです。相手はすでにあきらめてしまっています。あきらめを前提として、しかもあきらめきれずに一種の わるあがき(――悪質な意味にとらないでください)をやり、そして“どうせ”という気もちに落ち込んでしまっている相手なのです。あきらめから抜けだす、これっぽっちの可能性も、そこには見あたりません。ですから、その“あきらめ”は、やむをえないという以上に、むしろ“当然のあきらめ”でえさえあるわけです。それを、わたくしたちが、相手の身になって感じるとはいっても、相手に同調する以外、一身上の同じ立場はとれないわけですから、当時の読者の鑑賞とは鑑賞の軸がちがいます。
 たとえば、『菅原伝授手習鑑』ですが、わたくしたちがいま舞台で見たり読んで読んだりして鑑賞している『寺子屋』と、当時の民衆が鑑賞した『寺子屋』とでは、ですから別の作品も同然だ、といういことになるのです。鑑賞を軸にしていうかぎりでは、であります。繰り返しになりますが、近世民衆の、従ってまた古代民衆の鑑賞(――それがほんらいの意味における鑑賞です)を、それと同じ文脈においてわたくしたちのなかに再現することは不可能です。同じ文脈、同じ軸の鑑賞をこんにちに再現することが不可能である以上、――つまり以心伝心的な一定の仕方のよびかけが可能であるように加工された媒体(作品)が媒体としてのはたらき を本来的に失なってしまっている以上、これらの文学はすでに滅び去ったというほかないでしょう。
 そうです。芸術は永遠ではありません。そして、永遠でないところがそれのネウチなのです。芸術的表現の特ちょうだといわれるその具体的なナマナマしさは、日常的全体感に裏うちされたナマナマしさです。芸術的表現の日常性、そして芸術性……。むしろ、こうして永遠でないからこそ、過去のすぐれた芸術作品が古典として こんにちの範疇に再生産 される必要も起ってくるのではないでしょうか。古典とは、つまり、こんにちの民衆的・民族的必要において現代に再生産されることを要求されている過去の文学遺産(ひろくいって文化遺産)のことにちがいありません。過去の、あるいは異なる生活圏の文学作品を、こんにちの鑑賞にたえる作品として現代の範疇に再生産するしごと、それが文学の翻訳です。翻訳というのは、たんに言葉の壁をとり去るというだけのしごとではなくて、失われた体験・異なる生活体験、そして体験の要約としての思想・感情を、歴史的ならびに現代的意義の評価によって、こんにちの準体験として再生産することです。
 文学教育としての古典教育の指導過程も、体験の再生産としてのこの翻訳のしごとをとおして、学習者のあいだに古典を準体験させる操作だと思うのです。
 荒木の報告に示された指導の仕方は、明らかに翻訳による準体験への過程を、一歩々々生徒にあゆませています。自分に「ないもの、失われたものを見出して感動」した、という学習者の受けとめた感銘は、右にのべたような準体験がもののみごとに実現されたことをもの語っています。それは、けっしてアルス・ロンガー(いわゆる意味の古典の不滅)のゆえにもたらされた感銘ではありません。つまり、それはまた、ほんらいの意味の鑑賞がそこに再現したことを意味してはいないのです。鑑賞者の場合の規定によってもたらされる、二つの異なった鑑賞の軸を自覚することが文学の鑑賞と研究に、そしてこんごの文学教育のあゆみに新しい展望を提供することになるのだと思います。(附け加えていうと、それに近代主義というレッテルを貼るだけで、第二芸術論をほんとうには批判しえない秘密は、この鑑賞の軸への無自覚にあるといっても、そうたいしてズレはないように思います。)

  八 戦前から戦後へ

 もとへ戻って、読み方の基礎は話し方である、と西尾が語っている点ですが、(前出『読方教育論』)、発生論としてはそのとおりなのですけれど、実態論としてはむしろそれと逆の関係が成り立つ場合のあることも考慮されていいと思います。読み方の成長が話し方の成長を促すという面が、中学・高校と進むにつれて大きくなってきていることは見のがしえません。が、いま、問題はもっと別のところに見いだされます。基礎がだいじだし、話し方が基礎だからというので、一にも二にも話し方の一点ばりで、“話し方のための教材”に偏した教科書の編集をやりだすような傾向についてです。電話のかけ方だの、挨拶の仕方だのというあれですが、このかたよりが戦後においていっそう甚だしくなったことは占領教育政策と固く結びついているわけです。
 そのこと自体はむろん西尾とは無関係な事柄なわけですが、しかし戦後多くの国語教育理論家が、アメリカ方式の経験主義・実用主義の言語教育に抵抗感なしにあっさり結びつくことができたというのは、話し方と読み方との関係を具体的現実的に考えることをしないで、また何をというその具体的な内容を切り捨てた非現実的な思考におちこんでいたことと無関係ではないようです。
 また、国語科の綴り方指導は技術面の指導に限定した方がいい、という、前に紹介した国分の考えは、国語教科書に文学の教材は不要だというに近い主張として、そのまま戦後に持ち越されています(『わたくしの国語教育論』――原題『詩について』一九四七年)。それは、基礎学力を低下させるアメリカ方式の言語教育(言語技術主義)と、同じその片側の面である上からの文化主義(教養主義)の文学教育に対する抵抗の言葉なのでしょうが、しかし言語教育に屈折することで辛うじて抵抗をこころみた、谷間の世代の経験が身についた習性となってしまっている一面も見のがしえません。
 そういう意味では、戦時中、言語主義の神がかり教育への抵抗として、“その筋”の語る言葉 よりも、また教科書に書かれてある事柄〈言葉〉よりも、わたくしたちがこの目で見、自分の体験によってかちえた実感をこそ尊重すべきだとし、経験学習への道を選んだ人々のあいだから、戦後、アメリカ教育方式一辺倒の経験主義者を数多くうみだしているという関係は、国分のばあいとは軸が違うにしても、やはり、ならい性のこの習性による一面があるようにも思われます。
 右の国語科を言語教育一本に(?)という考え方は、石田宇三郎による国分批判(『国語教育の基本的方向』一九五三年七月)に端を発し、国分による反論(『国語教育の実践的課題』五四年三月)と、さらに片岡並男(『国語教育の階級的視点』五四年八月)・水野清(『言語教育と文学教育――国分・石田論争の発展のために』五五年六月)などの論争への参加によって問題のありかがハッキリさせられたかたちです。が、国分自身、五四年七月に発表した『文学教育の問題点』に至って、国語科以外に文学科を設けたほうがいいが、しかし「現状では、教師たち自身があらゆる創意を発揮して、文学教育を実践」するほかない、という考え方に変ってきているようです。そして、この論稿では、言語教育か文学教育かなどうるさく言わないで、「大きな必要に立って、あっさりと文学教育をおこなえばよい。」と語っているのですが、右のいきさつを知っている者にとっては、なにか割り切れない、戸まどいを感じさせられる言葉でもあるようです。西尾が、読み方の基礎を綴り方であるとする考え方を改めて、話し方にその基礎を見いだすに至ったとき、ハッキリとそのことをいい、また考え方の変った理由をみんなの前に発表していますが(前出『読方教育論』)、西尾のようなこうした折り目正しさにまなぶ必要が、国分のばあいにかぎらず一般にありはしないでしょうか。
 ところで、言語教育か文学教育か?……そこのところから日文協国語教育部会の文学教育への動きが、いわば占領国語教育への抵抗(経験主義としての言語技術主義の否定)として活溌になっていきます。その起点となったのが、益田勝実の大会報告(『言語教育か文学教育か』――原題『文学教育の問題点』一九五二年六月)でしたが、それは、「今までの国語教育は文学教育でありすぎた」(『言語教育と文学教育』五〇年)と考える西尾から、「ともすると、近年の『言語教育』を目のかたきにしているかのような傾き」として批判されることにもなったし(前出『文学教育の回顧と展望』)、また、時枝誠記の発言(『文学教育と国語教育』五二年二月)をアメリカ方式の言語技術主義批判のテーマのなかで相手どったことは、「時枝博士が日本の言語生活教育論者として典型的な学説の所有者であると考えて……相手にしているわけでは」ないという註がついてはいるものの、戦後のアメリカ一辺倒の傾向に対して批判的な立場を堅持した時枝の立場を知る者の目からは、やはり適切さを欠いているという批判もあるのではないか、と思います。
 右の益田の発言によって代表されるような文学教育への日文協の動きは、さらに前に紹介した荒木の『民族教育としての古典教育』に受けつがれ、西尾によってそれが“問題意識喚起の文学教育”として方法的に定位されるに至ったわけですが(『文学教育の問題点』五三年九月)、荒木たちが高校の国語教室でおこなったこの問題意識喚起の指導を小・中学校の現場に移して、というところから鴻巣良雄たちの現場の実践がはじめられたもののようです。今のところ、理論ないしテーマが先行していて、実践の具体例からテーマが提起されるというところまでは一般にまだ行き着いていませんし、一方、またその反対に、問題の理論的なとらえ方の弱さから、学校文学教育の極致を創作指導に見いだすというような、それ自身前提と矛盾するような結論が現場でなされたりもしています。が、たとえば、相川日出雄の『文学のちから』(原題『国語教育の仕事』)などを読むと、現場に腰をすえて、じっくりと子どもたちの指導をととりくんでいる教師こそ、すぐれた文学教育の実践者であることが知られます。

  九 若干の補足

 ここのところで、この解説に添えた文献リストをごらんになっていただくとハッキリしますが、戦後の文学教育運動は、まず、児童文学者協会を軸にし、『子供の広場』(四六年四月創刊)のささえとなったような、良心的な児童[文学]作家や文化人たちの児童文学運動に伴なって起こりました。大久保正太郎・栗栖良夫・菅忠道・関英雄その他を編集同人とする『子供の広場』は、「文学教室」の欄を設けて、山村房次の『ゴリキイ』や、片岡良一の『一ふさのぶどう』などの少年少女のためのすぐれた文学案内を試みました。また、大久保正太郎は「文学教室」シリーズを刊行して、右の計画をさらに発展させました。児文協の機関誌『日本児童文学』には、小田切秀雄の児童文学者への提言(『児童文学のために』四七年九月)や、川崎大治や国分一太郎による小学校国語教科書批判(四七年十月)、『現実と児童文学』(四七年九月)その他の菅忠道の文学教育への提唱などが掲載されました。
 双竜社刊の『現代児童文化講座』(五四年四月)に発表された関英雄の『現代の児童文学』は、戦後の児童文学の展開を問題史的に跡づけるとともに、児童文学者の文学教育への関心をうながす、力強い提言でした。いまなお、作家たちの片すみにくすぶっている、故意な文学教育への無関心と反撥を思いあわせる時、児童文学者自身によってこうした発言がなされたことの意義は大きく評価されていいでしょう。
 なお、この本の巻末に児文協の選択図書一覧を添えましたが、四七年七月にはじまる協会のこの図書選択事業が文学教育の実際面に果たした大きな役割は忘れられません。
 こうして児童文学者による文学教育運動がおし進められていたとき、学校教育の面での文学教育は、ほとんどブランクに近い状態でした。そのことは、後に添えた文献リストを見ていただくとよくわかるのですが、これはすでに明らかなように、上からの教育が言語技術主義をたてまえとし、下からの日教組の運動がまた、二・一ストをあいだにはさんで文化運動どころの話ではなかったという、当時の入りくんだ事情によるブランクなのでありましょう。(本文に収載した『山びこ学校の問題点』〈五一年十月〉などによっても、その当時の消息の一端が知られましょう。)日文協が文学教育への動きを示す以前、学校国語教育の側で文学教育の面に対する発言をおこなったのは、文献リストにそのことを記したように、『実践国語』を中心とした飛田多喜雄・輿水実などですが、それも一九五〇−五一年以後のことでした。一般的にいって、それは、学習指導要領の線に沿って文学教育の指針を示すといったふうなものが多かったにしろ、しかしそうした発言のあいだから、やはり“言語教育か文学教育か”というふうな問題が疑問のかたちで生まれてきていたことは見のがしえない点です。
 一九五一−五二年を境にして、児童文学者の側からの発言が下火になり、五二年の下半期以後日文協の活動が活溌になりはじめ、やがてイニシャをとるようになりますが、その理由を結論するのはまだその時期がきていないように思います。が、文献リストを五〇−五二−五三年と三つの欄を対照しながら辿ってみることで、しぜん何か腑に落ちるものがありはしないでしょうか。
 なお、“良心の灯”の項のことを書きもらしましたが、これは大久保正太郎の『国語教育の回顧と反省』(五五年六月)を参照しながらお読みになってください。高倉テル(『綴り方教育の本質』一九三八年)が言語教育、とくに文法教育を強調している理由や、「国語教育においてもやたらにむずかしい文章を解釈することに骨を折らさないで、理解し易いような表現に苦心することが肝心である。」(『国語教育における形象の問題について』四〇年)と城戸幡太郎が語っていることなどの底意・真意がそれによって明らかにされるでありましょうから。
 清水幾多郎が『児童と読書』(四一年)のなかで、何が良書で何が悪書かをきめるぐらいむずかしいことはない、と語っている、その抵抗のイロニーも、それをわたくしたちが谷間への回想のなかで読みとるかぎり、その真意を誤まることはないでありましょう。
 (紙数の関係で割愛した問題がいくつかありますが、それについては「講座・日本語」(大月書店)の第七巻『国語教育』所掲の拙稿をお読みいただきたい、と思います。)

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刊行のことば

 日本に近代的な児童文学が芽ばえた巌谷小波の時代からは半世紀をはるかに越えていますが、それは世界名作の再話屋翻訳など移植文学を主流とする歴史であったと、よくいわれています。でも日本の土壌に創造的な成果がみのらなかったわけではありません。人生の深い象徴をこめた小川未明の童話や、子供の感覚をいきいきとうたいあげた北原白秋の童謡をはじめ、世界の水準に照しても珠玉の輝きを放つ数多くの作品をあげることができます。ところが今日までこうした成果を集大成し、埋もれたものを掘り起こして、歴史の流れに位置づけてみるという仕事はほとんど放置されたままでした。
 児童文学の意義や役割には重い責任がかけられながら、社会的にはむくいられることのうすかったのが、日本児童文学と日本児童文学者の立場でした。この根底には、子供の人権を正当に認めなかった児童観が横たわっています。児童文学者は同時に子供の社会的な代弁者として、苦難のたたかいをつづけてきたのでした。それなのに、いま、日本の児童文学者は、子供たちから背をむけられるという深刻な矛盾に直面しています。こどもの心をとらえているのは、漫画・絵物語に代表される通俗的な娯楽読物でありくちびるにうたわれるのは卑俗な流行歌です。むしばまれていく子どもの魂を心配して、両親や教師たちのあいだには、児童文学への高い関心がわき起っています。日本の児童文学が今日のように、国民のきびしい批判と高い期待のまえに立たされたことは、かつてないことです。これまで民主的芸術的な児童文学としてたどってきた道を、子供のための国民文学の創造というひろい展望のなかで、見なおさぬわけにはいかなくなっているのです。そのためにも、民謡の再評価をはじめ児童文学の源流にさかのぼっての再検討や近代以降の児童文学について達成と欠陥を根本的に考えなおす必要に迫られています。また、一方、子供たちの人間形成における文学の働きをめぐって、文学教育の課題と方法とを理論的にも実践的にも明らかにしなければならないわけです。
 こうした要請にこたえて、ここに「日本児童文学大系」全六巻を刊行することになりました。日本の児童文学のエッセンスを集めたこの大系には、日本の子どもたちの生活、よろこび、かなしみ、いかり、夢が、それぞれの時代の特色にいろどられながらいきいきと描きだされています。それは子ども自身のものであるとともに、子どもの心の真実にふれたいと思うすべての親、すべての教師のためのものでもあります。

   一九五五年五月一日
  
猪野省三  
巌谷栄二  
   菅 忠道  
  熊谷  孝  
関  英雄  
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日本児童文学大系 第六巻――文学教育の理論と実践―― 目 次

T 谷間の抵抗
1 プロレタリア教育と生活綴り方運動
   プロレタリア綴り方教育のために………田部 久
   文学的教材論――尋常小学国語読本の考察………脇田英彦
   古典教材および各種教材を論ず――高等小学読本の考察………脇田英彦
   《プロレタリア教育の教案》小さなねじ………進行教育研究所
   《実践記録》階級的文学教育の実際………文部省学生部
   《国語教育界の動向》文芸的国語教育の欠陥………西尾 実
   ‖回顧と展望‖資料に裏づけられぬ素描――「生活綴方」の運動と「生活学校」の運動………国分一太郎
2 児童文学の教育性
   ‖問題の起点‖児童文学の教化性………与田準一
   教育における児童芸術の問題………松永健哉
   児童文学の教育性・倫理性………槇本楠郎
3 国語教材としての児童文学
   国語教材としての童話………金田鬼一
   国語教材としての神話………倉野憲司 
   国語教材の文学性………藤村 作
   師範教育の実際に童話を如何に取入るべきか………師範附属小学校主事三十一氏
4 鑑賞主義論争と文学教育
   ‖問題の起点‖文芸学への一つの反省………熊谷 孝・乾 孝・吉田正吉
   ‖対決‖古典及び古典教育について………岡崎義恵
   ‖批判‖鑑賞に先行するもの………片岡良一
   《問題の展開・一》文芸主義と言語活動主義………西尾 実
   《問題の展開・二》解釈学主義への一つの批判………大久保正太郎
   ‖解釈学的教育実践の一つの場合‖国語教室………石井庄司
5 良心の灯
   綴り方教育の本質………高倉テル
   言語の道具説と形象論批判………波多野完治
   国語教育における形象の問題について………城戸幡太郎
   児童と読者………清水幾多郎
   〈現場から〉明日の建設………坂本磯穂/『トロッコ』の取扱いに関して………岡部政裕
   〈屈折〉時代は移れり………宮崎晴美/国語教育所感………中山 健/
       国語教育の立場と方向………西尾 実/古典を貫くもの………房内幸成
U 戦後十年の文学教育
1 児童文学運動のなかから
   ‖問題史的展望‖戦後の児童文学と文学教育………関 英雄
   文学への迷信………大久保正太郎
   お話教育の発展のために………菅 忠道
   《アッピール》子どもに文学教室を………『子供の広場』同人
   子どもに何を………東京都児童福祉協会
   作家と文学教育………朝日新聞・学芸欄[熊谷孝執筆]
   『山びこ学校』の問題点………無着成恭・金沢嘉市・富田博之・滑川道夫・宗像誠也・依田新・他
     綴り方教育の現状とその将来………さがわ・みちお
   《アッピール》子どもに奉仕する文学を………『子どもと文学』同人
   《アッピール》子どもによい本を………『子どもの本棚』同人
    戦後児童詩教育の諸問題………渋谷清視
2 言語技術主義に抗して
    ‖問題史的展望‖一九五二年を中心に………森山重雄
    わたくしの国語教育論………国分一太郎
    言語教育と文学教育………西尾 実
    言語教育か文学教育か――高校国語教室の実践面から………益田勝実
    石田・国分論争の発展のために――言語教育と文学教育………水野 清
    スターリンと国語教育………水野 清
    文学教育の問題点………国分一太郎
3 問題意識喚起の文学教育
    ‖問題史的展望‖問題意識喚起の文学教育について………益田勝実
    ‖問題の起点‖民族教育としての古典教育………荒木 繁
    文学教育の回顧と展望………西尾 実
    文学教育の方法――西尾テーゼへの批判………荒木 繁
    文学研究と国語教育――一九五四年度日文協総会 一般報告………日本文学協会中央委員会
    ‖現場から‖『坂道』をめぐって〈小学校〉………鴻巣良雄
    文学のちから〈小学校〉………相川日出雄
    文学教育における現場の問題〈小学校〉………馬場正男
    中学校における文学史の教育〈中学校〉………山田勝太郎・越智治雄
    明日をつくる子らのための文学教育〈中学校〉………三宅よし子
    はたらくものの文学創造のために〈日本文学学校〉………針生一郎
    どのように仕事をすすめていくか〈サークル〉………『はくぼく』同人
4 戦前とのつながりを求めて
    ‖問題史的展望‖国語教育の回顧と展望………大久保正太郎
    教授方法の遺産………福井研介
    文学教育に何を求めるか………熊谷 孝
5 国際的経験にまなぶ
    ソヴェートにおける文学の歴史と教育………岩田みさご・土方敬太
    イギリス・アメリカその他の国の文学教育………瀬田貞二
6 文学教育の実際のために
    文学というもの〈小・中学生のために〉………片岡良一
    小説のよみ方〈中学・高校生のために〉………熊谷 孝
    文学教育について〈文学教師への提言〉………桑原武夫
    児童文学のために〈児童文学者への提言〉………小田切秀雄
    児童文学の問題〈教師と作家のために〉………乾 孝

 解 説(一九三〇−五五年)………熊谷 孝
 文学教育文献リスト(一九四五年八月−五五年八月)………熊谷 孝・荒川有史
   〈附〉児童文学者協会選択図書一覧
   
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熊谷孝 人と学問熊谷孝著作デジタルテキスト館