熊谷 孝著作デジタルテキスト館  (デジタルテキスト化:山口章浩氏)
  熊谷 孝 著 
文学入門


学友社 1949年6月20日発行

  
『文学入門』
  ※原本は、縦書き、1ページ14行、1行43文字。全151ページ。
  ※漢字の旧字体は新字体にした。
  ※くりかえしの記号(「ゝ」や「ゞ」)は対応する仮名になおした。
  ※ふりがなは省略した。


目  次

文学のまがいもの…………………………………………………………………… 1
思想と文学…………………………………………………………………………… 11
  思想は生きものだ……………………………………………………………… 11
  現実の反映……………………………………………………………………… 24
  人民のことば・奴隷のことば………………………………………………… 30
  商品としての文学……………………………………………………………… 36
   ―忘れられた読者―
  こんにちの文学をささえているもの………………………………………… 39
  人間解放の文学………………………………………………………………… 48
  政治と文学……………………………………………………………………… 63
文学の方法と対象…………………………………………………………………… 78
  人民のための文学……………………………………………………………… 78
   ―『空気がなくなる日』について―
  作品享受についての一つの調査……………………………………………… 93
  表現と理解……………………………………………………………………… 107
   ―子どもの文学とおとなの文学―
  文学と科学……………………………………………………………………… 120
   ―ふたたび実感の問題にふれて―
  文学作品の価値………………………………………………………………… 136
あとがき……………………………………………………………………………… 144
   ―ロダンの芸術思想にふれて―



  文学のまがいもの    

 いけないな、と思う。こんなことでいいのかしら、と首をかしげさせられる。それがみんなに読まれた場合の影響や効果を考えて、身ぶるいさせられることさえある。文学作品にしたしむのは、たのしいことであるはずなのに、このごろではうんざりさせられることのほうが多い。雑誌の創作欄をうめている詩や小説は、そのほとんど全部が、あくまに魂をうりわたしたような作品ばかりだ。こんな文学のまがいものが、それをわたしが読んでいる、その同じときに、やはりほかの若い学生諸君や勤労者の諸君によって読まれているのだとおもうと、身ぶるいするばかりか、はらだたしくさえなってくる。
 子どもあいての創作にしたって、そうだ。人民の子の、明るくすなおなこころを、あくまの子のうすよごれた、くもりのあるものにゆがめていくようなものが、いま、ひじょうに多いのだ。いけないな、とおもう。そして、どうにかしなくては、としみじみ考えさせられてしまうのだ。
 こんな時代に、文学をたんに美しいものとしてだけ語るのはまちがっている。こんにちの文学のきたならしく、うすよごれた魂を、うわべのごてごてした厚化粧に魅せられて、それを美しいというのはいつわりである。だが、また、文学作品の実際がそうであるからといって、文学そのものがそうした性質のものだと考えるのもまちがっている。文学というものは、ほんらい、人間の生活をすがすがしく明るいものに高めていくためのいとなみであったはずだ。過去にもそういう文学はあったし、いまげんに、そういういとなみが、いくたりかの作家、いくたりかの批評家、そしてかれらをささえている、めざめた人民たちによっておこなわれている。だが、それも、こんにちの文学ぜんぱんからの動きからすれば、とるにもたりないような、ささやかな、かすかな動きにすぎない。文学の現実は暗い。そして、この暗さが、現実そのものの暗さからきていることは、あとでのべるとおりだ。
 文学は、まだ、いまでも、奴隷のくさりにつながれている。

 こういう時代に、こんなふうな文学環境のなかで、文学とはどういうものかという問いにこたえることは、けっきょく、どういうのがほんものの文学作品で、どういうのが文学のまがいものであるのかという、ほんものとにせものとの見わけかたを語ることになってくるのだ。そういうことを語るいがいに、こんにち、文学を説明する手だてはないし、また、そのことをぬきにして、文学のほんとうのすがたを明らかにすることはできない。文学をほかのものから区別する、文学固有の性質が何であるのかというようなことも、だから、そういう角度から考えられていった場合に、こんにちの文学的実践にやくだつ生きた知識として理解されてくるのである。そういうことをぬきにして、たんに文学とは何かというようなことが問われていくとき、そこにみちびき出されてくるものは、文学とはことばをなかだちにした芸術のことだ、という、あのふるめかしい定義にすぎない。いまどき、そんな定義をむしかえしてみたところで、それでいったいどうなるというのか。むろん、文学をそう定義することにまちがいはないし、すべてそこから出発しなければなるまいが、問題はいまそのさきにある。創作や享受の実際にやくだつ、文学への理解というものは、文学の現実をはなれてはありえない。ことの実際をはなれて何ものもありえないし、また、ことの実際をはなれた論理のすべてはいつわりである。
 世間におこなわれている文学入門書というものにたいして、わたしは、もうせんから大きな不満をいだいていた。それがきまって文学の実際をはなれたものであるからだ。こんにちの文学の実際からはなれているということは、また、これらの入門書の問題のとりあつかいが、わたしたちの生活の実際からはなれた、ことばの遊戯にすぎないものだということである。どうしてかといえば、人間生活の実際(現実)をはなれて文学というものはありえないからだ。文学は、もと人間の生活のなかからうまれ、そして人間生活(社会)といっしょに成長してきたものなのだ。現実からうまれて、現実そのものについて考え、そして人間の現実生活のありようを変えていくというのが、文学のアルファでありオメガである。これらの入門書が文学の実際に即していないというのは、つまり、こんにちの文学のほんとうのところが、筆者その人につかまれていないということによるのだ。だから、それはまた、こんにちの現実そのものが筆者に理解されていないということのあらわれでもあるわけなのだ。このようにして、学者の書いた入門書は、きまって「文学とはことばを媒体とした……」の定義をむしかえしたものになっているし、また、作家の書いたものは、ひとりよがりな、おひけらかしの創作苦心談におわっている。こんなものを百冊よんだところで、文学のほんとうのところはわからない。文学のほんとうのところが知りたかったら、こんなものに時間をつぶすことのかわりに、まず、現実のしくみそのものについてしっかり勉強することだ。わたしたちがそのひとりである、人民自身の立ちばに身をおいて、社会と人間との関係をふかくふかく考えてみることだ。いま、人民は、社会のどういうしくみのなかに、どんな生活をいとなんでいるのか。社会の動きが、わたしたち人民の生活や思想のうえにどんな影響をあたえ、また、わたしたちの生活の実践が、社会の動きそのものにたいしてどういうはたらきをもつか、等々々。そういうことが、身についた知識となって、ほんとうに生活のうえにいかされてくるようになれば、どれがほんものの文学作品で、どれがにせものであるのかというようなことも、自然にわかってくるはずのものなのだ。
 どうしてかといえば、文学は、世の中の実際をうつしたものであり、わたしたちの生活のうえを考えたものなのだから、それがことの実際とちがっているような認識をあらわした作品は、けっきょく、にせものだということになるし、その反対に、ものごとをあるとおりに、うそいつわりなく書きあらわした作品はほんものだということが判断されてくるわけなのだ。そういう判断は、けれど、社会というものがほんとうにのみこめていなくてはできないことだ。社会の勉強がさきだといった理由の一つはここにある。だが、せっかくの社会の勉強も、その勉強したことが、知性の実感となり日常的な生活の実感となって、自分の思想そのものを動かすようにならなくては、文学表現のかんどころをつかめるような、感受性のきめのこまかさはでてこない。文学の表現というものは、ことばのあやを、ぎりぎりのところまで生かしきった表現なのだ。そのことを、文学は融通性の面におけることばの使用だ、といったひともある。つまり、日常わたしたちが使っていることばというものは、ことばほんらいの規定的な意味におけるそれと、規定的な意味をはなれた、きわめて融通性にとんだものとの組みあわせなのだ。科学のことばとしては、あるきまった波長の長さやその状態をあらわす「赤」とか「赤い」ということばが、日常生活の面では「危険思想」とか「左翼的」というような意味にも、また、「赤い心」とか「赤誠」という熟語になって「こころのまこと」というような意味にも、融通して用いられている。ことばの芸術である文学が、融通性の面におけることばのあやを生かした表現を選ぶのは当然のことだ。芸術は、がんらい、享受者の日常的な生活感情の波間を縫い、その起伏にそって問題を認識し表現しようとするものなのだから。
 文学の表現が、そういうふうに、ことばのあやに生きる、きわめてニュアンスにとんだものになっていっているのは、また一つには、政治が作家の舌をしばっているということにもよるのだ。まがいものは知らず、ほんものの文学者で、政治に舌をしばられずに、だれはばかるところなくもののいえたような作家が、これまでいったいいくたりあっただろうか。たとえば、「ヴェニスの商人」のシャイロックが、人道にはずれた、貴族の奴隷所有を非難していることはだれでも知っていようが、そういう抗議なり非難が、悪玉シャイロックの口をかりてなされなければならなかったところに、「政治」をはばからねばならぬ、作家シェークスピアのなげきがあったわけなのだ。観客から見れば、にくい悪役のシャイロックなのだ。かれはにくむべきユダヤ教徒であり、だにのような高利貸なのだ。そういうシャイロックのことばは、くさいもの身知らずのたんなるにくまれ口として聞きながされてしまうだろう。これが、アントニオなりポーシァなりの口をかりてのことばであったなら、と考えてみれば、シャイロックにこのせりふをいわせていることは、効果を半減しているどころか、相手によってはマイナスにさえなりかねないのだ。そういうことは承知のうえで、あえてこうした表現をとらねばならなかったところに、「近代」にめざめたルネサンスの芸術家シェークスピアの面目がある。よほど目のこえた読者なり観客でなければ、それのほんとうのところは理解できそうにもない、奥歯にもののはさまったような、こうした表現――それが、しかし、近代以降の文学のつねなのである。
 ことばのあやに生きる文学の表現というものは、常識のしょぼしょぼまなこではむろんのこと、たんに社会のしくみをそれとして一般的に理解しているというだけでは理解されようはずもない、ニュアンスをもっている。一般的認識は、知性の実感にまで内に深められ、血のかよった思想とならなければ、それは文学の認識を内容づけ、それの表現を理解する感受性とはなりえぬのだ。むずかしいのは、この点である。

 こんにちの文学入門書がどういうものでなければならないか、ということも、だからしぜん明らかだろう。文学をたんに文学として語るだけでは、文学のほんとうのところはわからない。文学が芸術としてもつ固有の性質とかはたらきというようなことも、現実との過不足ない関係においてとらえられてこそ、こんにちの文学的実践にやくだつ生きた知識としてわたしたちのものになるのである。こんにちの入門書は、だからして、文学作品のにせものとほんものとをみわけるための、ほんものの思想といつわりの思想とのはっきりしたみわけかたを語るものにならなくてはいけないわけだ。つまりは、現実のうそとまことをみわけ、いまの世の中のゆがみや生活のねじくれを身をもって直していこうとする、実践への情熱に結びつく、ほんものの思想にまで、ひとびとのこころとおもいを高めなくてはならないのだ。そうしたこんにちの問題との正しいパースペクティヴ(遠近法)においてとらえられてこそ、文学のほんとうのところも明らかにされようというものなのだ。それがわたしにできるか。入門書を書くということは、ほんとうをいえば、専門書を書くことより数段むずかしい。文学というものが血となり肉となて、ほんとうに自分のこころに生かされていなければ、とうていできるしごとではない。わたしは、ざんねんだが、失格だ。
 失格者であることはじゅうじゅう承知のうえで、あえてこのしごとにとりかかろうというのは、そのひとをえた、すぐれたしごとがうまれるまでの「つなぎ」になろうという気もちである。さらにいえば、この文学第一教程的な面の空白を見て、じっとしてはおれない気もちがわたしにペンをとらせたのだというふうにもいえようか。つまり、人民の日本のにないては若い人たちであるということだ。それを裏からいうと、レディー・メードの常識的な思想にこりかたまった「おとな」どもには、期待すべきほとんど何ものも見いだせないということだ。ところが、いまあるものは、そういうおとなを対象(相手)にした文学案内ふうのものばかりだ。
 わたしは、この小さい本のなかで、思想と文学との関係や、文学固有の方法や対象の問題を、こんにちの文学現象に即して考えてみたいとおもっている。それを、いま、新制高等学校にまなぶ年ごろの若い学生諸君や、やはり同じ年ごろの勤労者の諸君といっしょにかんがえてみるつもりなのだ。この入門書は、なによりもそういう若い人たちのための文学教程として書かれる。だが、一世代・二世代としうえの、一般青・壮年のひとたちが読んでも、時間のむだづかいにならないようなものにしたいと考えている。
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  思想と文学
   思想は生きものだ

 わたしの父親は、わたしたち兄弟のことでずいぶん苦しんだ。わたしや、わたしの兄たちが、手におえないほうとう息子であったからではない。むしろその反対に、自分の正しいと思った思想に、純粋に、誠実に生きようとする、わたしたちであったからだ。
 父は、明治と年号の改まるまえのとし、慶応三年に秋田で生まれた。そして、冶金や電気について、当時としてはかなり進んだ知識を身につけた技術家だった。それで、役所につとめても会社にいっても、ひじょうにちょうほうがられたし、だいじにされもした。会社では、課長とか所長というようなポストにつくこともできたし、いきおい暮しむきもゆたかであったらしい。だからゆたかな大地主の家に生まれたとはいえ、自分の「はたらき」だけで生活をささえていかなければならない境遇にあった、次男ぼうのわたしの父は、自分の身につけた技術だけをちからに暮らしをたてていったわけだし、またそうしてえた収入で、つぎつぎ兄たちを高等学校から大学へと進めた。父の考えはこうだった。学問さえ身につけておけば、出世も立身も思いのままだ。なまじっかな資産など残しておくより、学校に入れることのほうが、どれほど子どものしあわせかしれない。つまり、こんなふうな考えであったらしい。それで、つぎつぎと兄たちに「学問」をさせた。父のねらいは、いちばんうえの兄にたいしてははずれなかった。大正の初年に工科大学(いまの東大の工学部)を出たこの兄は、ある大きな財閥の会社にはいって、やがて技術部長になり工場長になり、油脂工業の面では有数のエクスパートになった。そして、いまげんにその会社のなんとか取締役という肩書きのある重役になっておさまっている。むろん、頭もよかったらしい。中学時代から大学を出るまで、ずっとトップをきっていたそうだ。だから、大きい兄さんをみならえ、とわたしたちは母からよくそういわれたものだ。小さい兄たちも、学生時代やはり「秀才」の部類であったらしいが、それでも、あにきにはかなわない、とよくそう言い言いした。だが、やはり時代が「よかった」のだ。父も、大きい兄も、日本の資本主義が発展してゆく時期に生まれあわせたのだ。おくれて進んだ日本の資本主義が、欧米のそれに追いつこうとして、新しい知識と進んだ技術を必要としていた、ちょうどその時期に技術家として世に立ったひとたちであった。
 父の時代と大きい兄の生きた時代とは、つまり日本の資本主義工業の草分けの時期と、それがより大きくのびていく時期とをそれぞれあらわしている。だから、このふたりのあいだにも、かなり考えかたのちがいはあった。初代と二代目のちがい、いわばそうしたちがいがあるにはあった。だが、まじめにこつこつ仕事にはげんでさえおれば、しぜんに立身出世もできるし、らくな暮らしができるようにもなると考える点では、親子の意見はすっかり一致していた。このようにして、いわば三代目である、つぎのふたりの兄たちの時代と思想を理解することのできないひとになっていった。
 大正の末年と昭和になってから学校を出た、つぎのふたりの兄も、やはり工業技術家であるという点では、父や大きい兄とおなじことだ。技術者になることは、家憲ではなかったにせよ、すくなくともわが家の惰性であった。ひとりの兄は、工業技術にたいするよりはむしろ文学に興味をもち、自分では大学の文科に進むことを望んでいたらしかったが、その願いはついにいれられなかった。いちばん小さい兄も、同じ技術家ではあっても、映画のキャメラマンかなにかになる希望をもっていたらしいが、けっきょくは大学にはいって化学工業を専攻することになった。末っ子のわたしだけが、自分のこころざすとおり文科の学生になることのできたのも、気にそまない職業に自分をしばりつけなければならなかった、このふたりの兄のあたたかい理解によるものだ。ともかくそういうわけで、つぎのふたりの兄も、大学を出ると会社員になり工場ではたらくことになった。だが、もうこの時期は、資本主義がきょくどに発展したあげく、過剰生産におちいり、買い手のつかない品物が市場にごろごろしているという時代であったから、工場でもむしろ人べらしをやっているくらいのもので、就職難ということがいわれはじめ、また政府でも失業対策などにのりだしてきはじめた時分だった。技術家をだいじにした昔とはもう時代がちがうのだ。まじめにしごとにはげむことで立身出世が約束されていた時代とは、時代がちがってきたのである。「いくらがんばってみたって、お父さんや大きい兄さんのような出世はできませんよ、なにしろ時代がちがうんですからね。それに、ぼくはべつに出世なんかしたくはありませんよ。いまの時代に金もうけしたりするのは、こすっからい悪いヤツばかりですよ。だって、よほどずるいことでもやらんかぎり、ふつうにやっていて金のたまるはずがないじゃありませんか。」
 このいくじなし、といって歯をくいしばる年老いた父のまえで、小さい兄がこんなことをいっていたのを、わたしはいまに忘れられない。
 そして、自分の時代にみきりをつけた、うえのほうの兄は、時代にみきりをつけると同時にこの世の中にみきりをつけて、神の福音に自分の生きがいを見いだそうとする人になっていった。もっとも、それには、もっと深いこみいった事情もあったけれど。それで、この兄が自分のみちしるべとして求めたのは内村鑑三であった。妥協ということを知らぬ、無教会主義のクリスチャン内村鑑三。内村さんがそういう人であったように、この兄も、信仰生活の面ではいささかの妥協もない、かたくななまでに純粋にきびしい人だった。また、小さいほうの兄も、自分には出世などいうことよりもっとだいじな問題があるといって、やはりキリスト教の信仰に身をゆだねていった人であったが、うえの兄のばあいとはちがって、人間の世の中の矛盾をそのままにしておいて来世の福音だけを考えるような人ではなかった。だから、早稲田の学生であった時分には、商人の中間搾取から学生生活をまもるためにといって、学生消費組合の設立にちからこぶをいれたり、いろいろな社会事業などに献身的な運動をつづけたりもした。
 父や大きい兄には、弟たちのこの思想がついに理解できなかった。思想のちがいは、血のつながりをこえて、父と子とのあいだに、兄と弟とのあいだに大きなみぞをつくってしまった。いちばん末の弟であるわたしは、――文学をやるようなヤツはろくでなしばかりだ、わたしは、父からも兄からも問題にされなかった。そして、わたしはまた、自分の正しいと考える思想に生き、父や兄たちのあゆんできた道とは別の道を、いま、あゆみつづけている。

 思想は、だから、子をして親にそむかせ、弟をして兄にそむかせる、生きた現実のちからである。思想のもつ、そういうたくましい力というものは、がんらい思想というものが、わたしたちの生活の実際と結びついてうまれたものだということにもとづいている。子どもをふるい常識のきずなにつなぎとめようと、いくらあがいてみたところで、子どもには子どもの時代の新しい生活がある。父なり母なりの思想が、やはり親たちの生きた時代の生活の実際からうまれたものであるように、新しい思想には、また新しい時代のなまなましい体験の裏づけがあるのだ。ひとをとらえてはなさぬ、思想のねづよさは、ここにある、このようにして、思想は、現実の生活のなかからうまれ、そして現実そのものをうごかす底知れぬ力となるのである。
 思想は、いわば人生をしき写しにしたものだ。それは、歴史を生きるなまみの人間が、死に生きの人生のたたかいにおいてかちえた苦難の代償である、ということができよう。時代の体験をひとつの思想に結晶させるために、これまで、どれほど多くのひとがなやみ、もだえ、かつ苦しんだことだろう。また、純粋に、誠実にそのひとつの思想に生きようとしたために、どれほど多くのひとが、たえがたくしのびがたい、はずかしめとさいなみの、とし月をすごさねばならなかったことか。
 現代の思想の歴史は血にいろどられている。思想のたたかいのきびしさに、いたましくもきずつきたおれた、とうとい犠牲のいくたりかを、わたしたちはわたしたちの思想の血すじのなかにもっている。満州事変から太平洋戦争にいたる、この侵略戦争のさなかに、あるいはまた、人民解放のれい明がおとずれようとしていた終戦の前後において、軍閥・官僚政府の警察の手によってとらわれの身となり、およそ人間としてかくもむごいしうちがなされうるものかと思われるまでの責めさいなみによって、いたましくむごたらしくなぶり殺しにされた、いくたりかの先駆者のすがたを、いま、わたしたちは、わがこととしてわれとわが胸に思いうかべてみることができる。わたしの思想の底をながれているものも、現代を生きる者のひとりとして、こうした多くの先駆者のながしたとうとい血である。

 思想は、内なるものとのたたかいであると同時に、外なるものとのたたかいである。また、外なるものとのたたかいであると同時に、内なるものとのはげしい格闘である。こころのなかに巣くっているふるい思想とたたかうためには、わたしたちは、まず身をおこして外部の敵とたたかわなければならない。そのような思想をうみだし、それをささえているところの現実のるつぼのなかにとびこんで、現実(わたしたちの生活の実際、世の中の実際)そのもののゆがみを直そうと努力することのうちに、わたしたちの思想そのものがきたえられ、ゆがみのすくない、ちからづよい、ほんものの思想にまで成長する。このようにして、わたしたちの思想は、わたしたち自身、現実とのたたかいのうちに自分の手でかちえたものである。だから、自分のいだいている思想というものは、自分にとってはぬきさしならぬ、ぜったいのものとなるのである。
 「わたし」の思想はわたし自身のものであって、ほかのもののそれではない。「わたし」は「わたし」の思想をもっている。しいられて、むりじいにしいられて、「わたし」はいまの思想に生きているわけではない。どういう思想をもつかということは、めいめいの自由である。経験の教えるところにしたがい、むしろなまなましい自分の体験の整理として、「わたし」はいまの、この思想にたどりついたわけなのだ。
 しかも、「わたし」の思想は、わたしたちの時代のものの見かた、考えかたから自由であることはできない。わたしたちの考えは、多かれ少なかれ、この時代の思想、この時代特有のものの見かたにしばられている。時代のながれにさからって生きようとする考えも、時代のながれにさからって、とそう考えている点で、じつはかえって時代の思想というものにこだわり、それにしばられているということができるだろう。つまり、わたしのいいたいのは、思想いっぱんというようなものはありえない、ということなのだ。思想は時代の子だ。思想は、いつだってだれかの思想であり、ある社会環境に生きるなまみの人間の思想であるということだ。なまなましい自分の社会体験の要約――それが思想というものなのだ。思想は、つまり人間の社会生活の産物である。だから、その人がどういう思想をもっているかということがわかれば、また、その人がどういう生活をしてきた人かということも、げんにどういうしかたで生きている人かということも明らかになるというわけのものなのだ。だからまた、思想というのは、けっきょく、ある個人なりグループなりが、その社会をどのように生きたか、またどのようなしかたで生活しているかということの、ことばへの要約であり翻訳であるということにもなろう。
 ことばで言いあらわされないものを思想とよぶことはできない。思想はことばである。ことばに言いあらわされるということは、体験が生きた知識の体系としてまとめられるということだ。どうしてそういうことになるのかというと、「ことば」というものが、がんらい、自分の体験を相手に伝えるための手段としてつくられたものだということによるのだ。自分の体験を他人に発表できる程度にまで体験そのものを整理することによって「ことば」がもたらされ、また、ことばを手段として考えることで、必要な体験とむだな体験とがみわけられ、自分にとってたいせつだと思われる体験が知識として保存されて、こんごの生活にやくだてられるというわけなのだ。そして、だいじなことは、その知識が、生活の生きたしくみ(体系)のなかに織りこまれていくという点だ。だからこそ、それは、生活の実際にやくだつことにもなるわけなのだ。体系としてのつながりもまとまりももたない知識のかけらは、それをいくらよせあつめてみたところで、きびしい人生を生きぬくうえのたしにはならない。思想は、人間の生活の実践からうまれてくる。と同時に、逆に人間の実践そのものを方向づけるはたらきをもっている。そういうはたらきをもたない、たんなる知識は、それは学問でもなければ思想でもない。

 ところで、ことばに要約された体験が思想であるということは、思想が固定的な傾向をもつということだ。ことばは、がんらい、ものごとを固定的に――といっていけなければ、ある規定のもとにものごとをとらえるために作られたものだ。それは、規定的にものごとをとらえ、あらわすことによって、自分の考えをあやまりなく相手につたえ、また、相手の考えをあやまりなく理解する、そういうための手だてであったはずだ。「ま四角なテーブル」ということばは、長方形でも円形でもないま四角なテーブルを、いすでも机でもないテーブルをさしている。「ま四角なテーブル」ということばは、ま四角なテーブル以外のものを示すことはできない。思想は、体験のことばへの翻訳として、ことばの運命に殉じなければならない。体験はことばとなることによって、体験のしかたそのものをひとつの方向に固定し、しばりつけ、だからまた、ものごとにたいするかれの感じかたや、うけとりかたや、判断や、さらにまたそのとりさばきかたまでをも、つまりはかれの行為のすべてを、そうしたひとつの方向にみちびいていく、生きた現実のちからとなるのである。
 こんにち、なお、封建的な観念がひとびとのこころをとらえてはなさぬのは、むろんそういうふるい観念が再生産されうるような条件が社会のしくみのなかに残されていることにもよろうが、しかしそれだけではない。一方には、そういう条件をのりこえうるだけの、もっとつよい別の条件がうまれてきているのに、そうした状態がいまにつづいているのは、ひとつには、思想そのものの固定的な傾向によると考えなくてはなるまい。新憲法が施行された、この時代になっても、やはり天皇を神格化して考えることをやめないひとたちや、あいもかわらず、「陛下の官吏」として人民にのぞむ公務員や、そういう公務員と自分たち人民との関係を上と下との関係として考えるようなひとたちや、昔ながらの「戸主権」をふりまわして結婚にたいする娘や息子の自由意志を平気でふみにじる父親や、また、ストライキという合法的であった行為をなにか不道徳な、けしからんことのように考えて、「先生たるものが」といって教員組合の行動を非難する父兄や、そういう世間のわからずやの声におびえて、罪人のような青い顔をして泣きねいりする先生たち、等々々。――そういうふうに封建的な観念からぬけきれないでいるひとたちを、わたしたちは、わたしたちの周囲におびただしく見いだすだろう。
 思想というものは、こんなふうに、またこんなふうなものとして、多かれ少なかれ固定的な、われとわが身をひとつの方向にしばりつける傾向をもっている。なぜなら、それはたんなる知識、ネクタイ代りの「教養」的知識ではなくて、なまなましい自分の生活体験に裏づけられた、生きた知識の体系であるからだ。思想は、ふつうにそう考えられているように、たんに頭の問題ではない。思想は、むしろ「胸」なのだ。知性と感情とが、分ちがたくひとつものにとけあったところに、はじめて思想とよばれうるものがめばえてくる。であればこそ、思想はふじみなのだ。不死身といったのは、むろんことばのあやだし、いいすぎだけれど、踏んでも蹴られても、すくなくとも、ちょっとやそっと痛いところをつかれ、自分の考えのいたらない点や不合理な点をほじくられたところで、そんなことではたじろぎも身じろぎもしないというのが、思想というもののかたくなさである。それは、つまり、思想というものが身についた知識、知識の体系であるからだ。

 思想は、いわば住みなれた家だ。かきねがこわれ、のきがかしいだぐらいのことでは、たちのく気にもなれない、というのがふつうの人情だ。たしょう住み心地はわるくなっても、雨風をしのぐのにかくべつ不便は感じないし、それになによりも馴れだ、習慣だ。はたの眼からはどんなに使いにくそうに見えても、また、どんなにきたならしく、あぶなっかしく見えようとも、わたしにとっては住みなれた、この家がいちばんしっくりくるのだ。間どりのぐあいや台所のつくりの不合理さ、そうした不合理な設計からくる日常生活の不便を、わたしはかくべつ不便とは感じていない。だぶだぶの出来あいの服にからだを合わせるのと同じように、生活のほうを家のつくりに合わせて暮らしをたてるというしだいだ。がんらい、生活のためにあるはずの家が、生活のありようそのものを規定していく、という関係がそこにうまれてくるのである。そして、やがてひとびとは、不便を不便として感じないばかりか、それを便利とさえ感じるようになっていくのだ。そこで、生活の便利のためにつくられたことばが、かえって生活そのものをしばりつけ、思想が生活のありようそのものを固定化させる、ということにもなるのだ。
 このようにして、もともとの生活の実際に合わせてつくられたことば(思想)が、世の中の進むにつれ、生活の変化するのにともなって、現実(世の中の実際)と矛盾するようになっても、それは現実のほうがまちがっているのであって、現実をうつしたことばのほうがほんものでほんとうだと考える、妙な錯覚を生じてくる。つまり、鏡にうつった顔がほんものの顔で、顔そのものは顔のまぼろしにすぎない、というわけなのだ。いまげんに、そうしたかんちがいをもとにした、さかだちした観念が、哲学や科学や芸術の世界で大きくのさばりかえっている。


   現実の反映

 世の中は、移り変るものだ。進歩するものだ。運動ということこそ、自然と人生をつらぬく歴史の根本法則なのだ。こちらが動かなくとも、相手は動いている。いや、動かないとおもうのはまちがいで、それは自分が一歩あとじさりしたということ、世の中の進歩からとり残されたということである。あたらしいものも、時がたてばふるくなる。進んだ思想といわれるものも、そのままの考えをつづけていたのでは、やがては、かびくさくおくれた思想になってしまうだろう。それは、思想が固定的な傾向をもつのに反して、現実のほうがどしどしさきに進むからだ。歴史に停滞ということはない。置きざりにされ、とり残された思想。これが、しかし思想というものの運命である。思想は時代の子である、といったのも、まずこの意味においてである。
 そこで、思想と現実との関係を、自分の肖像写真と自分自身との関係にたとえてみることができるだろう。いま、わたしの机のうえには二枚の写真がのせられている。一枚は三十年まえの、つまりわたしの赤んぼうのころの写真だ。もうひとつのほうはというと、ついこのあいだうつしたばかりのものである。二枚が二枚とも、わたしの肖像であることにまちがいはない。そして、また、それがどういう角度からの撮影であるかということはべつとして、どちらの写真もやはりわたしのありのままをうつし出したものである。だが、赤んぼうの写真をひねくりまわして、目がどうの口がどうのといってみたところで、いまのわたしの顔かたちを理解するうえにはほとんどやくだたないばかりか、それは第一むだなばかげたはなしだ。いまのわたしを知るひとが見てこそ、この写真も過去と現在とのつながりや、その間の変化を知るための材料にもなりうるというわけのものなのだ。見合いの写真に自分の赤んぼう時代の写真をおくるばかはあるまいし、また、相手の赤んぼうのころの目鼻だちを問題にして、お嫁さんをえらぶような非常識なひともまさかあるまい。ところが、このまさかが、思想と現実との関係においてはりっぱに成り立つのだ。
 このたとえで、「写真」はむろん「思想」を意味しているし、「わたし」というのは「現実」のことである。赤んぼうからおとなへの成長といったのは、ことわるまでもあるまいが、現実の移り、変化をさしていっているわけだ。まえのたとえで、鏡にうつった顔とほんものの顔の例をあげたが、あそこに見られた関係がもとになっての、かんちがいがそこにあるわけなのだ。つまり、写真のほうが実物で、なまみのわたしはたんにそれをしき写しにしたものにすぎないという、あの錯覚である。そこで、赤んぼうの時分の目鼻だちをよりどころにして、おとなになったわたしの顔かたちを詮議するというようなことにもなるのだ。そればかりか、わたしがおとなになったというのはじつはうそで、この写真が示しているとおり、おまえはほんとうはまだよちよち歩きの赤んぼうにすぎないのだ、というていの論法をここにもちこむわけなのだ。写真にうつっている赤んぼうがわたしであることにまちがいはない。いまのわたしと似てもつかないからといって、それがわたしでないというのは正しくない。まだ見ぬひとにいまのわたしというものをわからせるためには、もう一枚のおとなの写真のほうを見せなくてはなるまい。また、いまのわたしを知っているひとにとっても、ふだん気づかなかった顔かたちの、ある特長を、はっきりと図式化して自覚させるという点では、この写真は大いにやくだつわけなのだ。
 つまり、思想というものは、現実を自覚的にとらえたところにうまれてくるものなのだ。もっとも思想とそうひと口にはいっても、思想にもピンからキリまであるのだから、その自覚というのにも「無自覚の自覚」という程度のものもあるにはある。けれど、ともかくそれがある角度、ある座標軸によって現実をとらえたものだということだけはたしかである。思想は、もともと知性だけを手がかりとした現実の認識ではない。知性による認識が日常的な生活感情のすみずみまでしみとおり、そのことによって感情そのものが高められ、また、そのようにして高められた感情においてもういちど、現実をかえりみ、現実にふれたときにうまれてくるのが思想というものなのだ。だから、思想は、むしろ感情による現実の認識であるということすらできるだろう。もっとも、その感情の高さは知性の高さに比例するし、だから思想の高さは、けっきょくその当人の知性の高さに比例するということにもなるわけだが。
 誤解をさけるために、ことわっておくが、ここに知性というのは、知識の体系、ないし体系化された知識のことであって、そういう組織づけをもたない、ばらばらの知識のあれこれをさしているのではない。むろん知性にもいろいろある。高い知性、低い知性。ゆたかな知性と、まずしい知性。だが、それが、いちおう内化され身体化され、自分のものとなった知識であるということにまちがいはない。自分というものにおいてまとめられ統一されることによって、知識は、ひろい意味での生活の体系(しくみ)のなかに席をしめるようになるのである。世間ですぐれた科学者だといわれているひとが、おがみやの「御神託」を信用する程度に、おくれた低い思想のもち主であるというような例は、体系化されない知識の無力を示す一つのばあいであるし、またそれを裏から見れば、身についた考え――思想というもののふじみなたくましさ、根づよさを示す生きた証拠だということにもなろう。

 で、ともかく、思想は、あるきまった座標軸、あるきまった視点による現実のは握であった。ところで、その座標軸のとりかたが、現実(ものの実際、ことの実際)に即しているかどうかということで、その思想のうそかまことかかが決定されてくるわけだし、また、当人が自分自身の認識の座標軸を自覚しているかどうかということが、その思想に伸びゆく可能性を約束し、また、可能性をうばいとることにもなるのである。思想は、現実とともに進歩し発展するものでなければならない。過去のある時期において真実をあらわしえたところの思想も、こんにちの思想としてはいつわりである。そして、おそらく、こんにちの真理も明日の真理ではないだろう。それは、つまり、現実が動的な現実であるからだ。現実を支配するものは、運動という歴史の法則である。だから、思想は、それが真実をあらわすものとしてあるためには、動的な思想とならなければならない。
 どういうのが進歩的な思想かといえば、それは、現実をむりやり自分の考えに合わせて解釈するのではなくて、思想そのものを現実のあゆみに合わせて発展させていくような、そうした思想のことである。つまり、思想と現実との矛盾を、現実のほうに思想を近づけることによって解決するという考えかたなのである。現実をありのままに反映することで、逆に現実の人間生活がもつゆがみやねじくれをなおし、それをまっすぐな、より高いものにみちびいていく、そういう考えが進歩的な思想というものなのだ。だから、それは、自分の考えをひとつところに固定させることをしない。現実のうごきを正しくあるとおりに反映して、社会の進歩とともに自分の思想そのものを発展させていくのである。


   人民のことば・奴隷のことば

 現実のあゆみに歩調をあわせて進むのが進歩的な思想というものだ、といまわたしはいった。だが、見あやまってはいけない。戦争まえの自由主義時代には自由主義思想をとなえ、戦時中は戦時中で軍国主義のお先ぼうをかつぎまわり、戦争がおわると口をぬぐって、いっぱしの民主主義者づらをしておさまりかえっている、そういう世わたりじょうずの便乗思想と、ほんものの進歩的な思想とをごっちゃにしないことだ。なるほど、これらの便乗主義者どもも、新しい現実に即応して自分のあたまを切りかえていっているという点では、あるいは、がんこおやじのかびのはえたあたまよりはましかもしれないし、それはいちおう「進歩的」な態度だというふうにいえるかもしれない。だが、どうもちがうようだ。だいいち、戦時中にはミリタリズムを、こんにちにおいてはデモクラシーをというような態度が、果して現実をありのままにとらえたものだろうか。それはどんなに善意に解釈してみたにしても、たんに現実のうわつらをなでまわしたにすぎない考えだ、ということになりそうだ。
 どうしてこんどの戦争がおこったのかということや、この戦争がはたして人民の幸福を約束するものであるのかというようなことを、かれらは空爆下の壕のなかでただの一度でも考えてみたことがあったろうか。それは、あるいは、あったかもしれない。けれど、その考えには合理的な態度がかけていた。だから、けっきょく、どれほど深刻に考えあぐんでみたところで、ことの実際はつかめなかったわけなのだ。しかし、それもやむをえまい。自分のあやまりに気づいて民主主義に転向したというのなら、それもいちおうもっともなはなしだ。けれど、事実はそうではなさそうだ。
 そこいじのわるいことをいうようだが、かれらの現実を見る目は、世わたりはどういうふうにやったほうがとくか、という一点にそそがれているということなのだ。思想を高めるとか、現実を正しく認識するとか、どうすれば世のためひとのためになるのかというようなことは、じつはどうでもよいのだ。たんに暮らしがらくになればいい、もうかればいい、出世ができればいいの一点ばりである。がんらい主義主張なぞ、かれらにはどうでもよいことなのだ。どんな世の中になろうと、人民がうえようと、自分さえらくな暮らしができていばっておれれば、それで人生はたのしいのだ。だからこそ、波のまにまに損をしないようにとくをとるように、軍国主義になってみたり民主主義者にばけてみたり、あっちこっちと泳ぎまわるわけなのだ。それでは、このてあいには思想がないのかというと、そうではない。より多くの利潤を――もっとたくさんのもうけをという「りっぱな」人生の目的があるのだ。だから、民主主義を基礎にした社会のしくみというものが、働くわたしたち人民のしあわせをまもるようにできているいっぽう、こういうガリガリ亡者にはつごうがわるくできているということがのみこめてくると、死にものぐるいになって民主主義を骨ぬきにしようとかかるのである。看板だけは人民ほんいの民主主義にしておいて、なかみをもっぱら自分たちがもうけるのにつごうのいいしくみのものにすりかえようという陰謀をたくらむようになるのだ。こわいのは、この点である。
 じつをいうと、こんどの戦争をまきおこしたのも、こういう連中のしわざなのだ。もうけるためにはなんでもやる。このこんじょうが、わたしたちの手から愛する父をうばい兄をうばい、母を空爆下の猛火のなかにやけ死にさせ、あげくのはて、住むに家なくヤミとうえに苦しむ、いまの生活にわたしたちをたたきこんだのだ。だから、かれらは、こころならずもファッシズムを支持していたわけでもなければ、無智なためにだまされて帝国主義のの御用をつとめていたわけでもない。もうけるために植民地がひつようだから、手さきの軍部をつかって、いちかばちかのこの侵略戦争をひきおこさせたのだ。なかには、戦争になると商売がはんじょうするから、もうけが大きいからというだけの理由で戦争を礼讃していたむきもあるし、また、戦争をたねにもうけた不浄の財貨をヤミ資本にまわして、戦後のこんにち、人民のとたんの苦しみをしりめにふとるいっぽうの新興財閥もある。これが便乗思想の実体である。この現実即応の便乗主義と、ほんとうの進歩的な現実尊重の思想とのちがいについては、もうこれ以上ことばを要しないくらいのものだ。進歩的な思想というものは、つまり、自覚した人民の立ちばに立つところの思想のことである。

 ところで、自覚した人民の立ちば、といまわたしがいったのは、人民のすべてが人民自身の立ちばを自覚しているとはかぎらないからだ。いや、むしろ、いま自分たちがどういう危機にさらされているかということを自覚しているのは、人民のほんの一部にすぎない。問題は、げんざい人民のひとりびとりがめいめいの小さな利害にこだわり、しがみつき、敵としてたかかうべき相手と手をにぎり、友とすべき者をけおとし、そして人民に共通した大きな利害を見おとしているという点にあるわけだ。相手のつけめは、そこにある。それが思うつぼにはまり、相手のおもわくどおりに動かされているのが、人民の現状である。国会議員を選ぶさいに、人民はだれに票を投じたか。人民の利益を代表した党にいったいどれだけの票があつまったというのか。人民の敵であるはずの特権階級の政党にあつまった、あのおびただしい票は、ほかならぬ人民自身が投じたものではなかったか。そして、いま、人民大衆は、人民みずからの「自由意志」にもとづいて選んだところの、当の政党・政府の政治のために苦しまねばならぬのである。
 敗戦当時、ひとびとは歯をくいしばって、こういった、もう二度とふたたびだまされないぞ、と。また、ある評論家は、三十代の声を代表して、――わたしたち三十代のものは、ひと昔まえ、いまの四十代のひとたちに兄と師とを見いだしていた。ところが、かれらは、戦争のはじまるのと前後してファッシズムの反動の波に身をゆだね、ひとかどの軍国主義者となり、そして終戦になると、こんどは民主主義のながれに便乗して、さもはじめから民主主義者ででもあったかのような顔をして、もったいらしく民主主義についての教説をかたりはじめた。かれらは、しょせんご都合主義者だ。わたしたちは、かれらによって裏ぎられたのだ、という意味のことを語った。三十代の裏ぎられたという感じ、二十代のだまされたという思い。しかし、それは、二十代であると三十代であるとを問わず、敗戦当時における全民衆のこころであったはずである。そして、二度とだまされまい、友を裏ぎるようなこともすまい、というこころのちかいが、わたしたちのあいだにおのずからうまれてきたのであった。そのちかいが、やがて労働組合の結成というかたちで実を結んだわけなのだが、一方にはまた、「世の中はなるようにしかならぬ」というあきらめと、そうしたあきらめのうえにあぐらをかいた、すぐれたやくざこんじょうやら、ひくつな妥協的な態度やらを生みだしていったことも、あらそえぬ事実である。まさに思想の混乱時代というべきである。
 そうした思想の混乱が、民主主義者の仮面をかぶった、ファッシストどもによって助長せしめられた、すてばちなインフレーションの混乱を反映するものであると同時に、人民大衆にたいして画策された、かれらのきりくずしによるものであることはいうまでもない。それはいうまでもないことだが、そういうきりくずしにうかうかとのせられる人民の無自覚さというものは、長年自分のことば(思想)というものをもつことができずに、主人のことばを自分のことばとして信奉してきた、骨のずいまでしみとおった、あの封建的な奴隷こんじょうのせいであるといわなければなるまい。日本の人民は、ついこのあいだまで、人民でも国民でもなく、臣民であったのだから。


   商品としての文学
    ―忘れられた読者―

 奴隷のことば(思想)から解放されぬかぎり、人民のしあわせというものはうまれてこない。人民は自分のことばをもたなくてはいけない。こんにちの文学のつとめは、人民にことばを与えることである。いや、民衆の現実、人民の生活の実際をほりさげて、人民のほんとうのことばを、見つけだすことである。ことばにあらわすすべをしらぬ、かれらのうれいといきどおりを、また、かれらの生活のよろこびと希望を、ほかならぬ文学のことばとして結晶させることである。そのことによって、文学そのものを、いままでのような奴隷の境遇から解放し、かがやかしい民主主義革命の前衛たらしめねばならぬのだ。そして、そのためには、まず、文学者のひとりびとりが、人民としての自分の立ちばをしっかり自覚しなければならない。何よりも自分というものを知性の光のまえに照らしだしてみることだ。そして、「わたしは人民である」ということを、はっきりとこころにきざみつけることがだいじなのだ。
 文学するということは、けっきょく、自分というものを見つめることだ、といわれている。そのことばにまちがいはないとしても、これまでのように、大地主や財閥・軍閥の色めがねをかけて自分を見つめたのではなんにもならない。いや、なんにもならないどころか、害になる。戦時中のいわゆる戦争文学や、勤労大衆の生活をきょくどにゆがめてえがいた、生産者文学(産業戦士もの)や農民文学等々、反動文学のながした害毒は、まだわたしたちのこころからきれいさっぱりとはぬぐい去られていない。文学者は、まず自分ほんらいのすがたにかえらねばならぬ。はだかになった自分が、人民いがいの何ものでもないということを、作家たちは、いまこそしっかり自覚すべきときなのだ。ところが、そうした自覚に生きている作家は、かぞえるほどしかいない。まちにあふれている文学作品の大部分は、戦争まえのぐうたらな旧自由主義時代の傾向をむしかえしたものか、さもなければ、ご時世むきの、うすっぺらであぶらっこくねちねちした作品ばかりだ。たまにがっちりかまえたものがあるかとおもうと、それは浮世の嵐をよそに閑日月をとりたのしむ遊閑者の文学だ。いったい、これはどうしたことだろう。
 それは、まず、文学作品というものも、いまの日本のような資本主義の社会にあっては、商品としてつくられるということのあらわれである。工場で働くひとたちが、自分の労働力を売りものにして賃金を受けとるのと同じように、文学の作家たちも、自分の労働力を提供して原稿料とか印税とかいうようなかたちで賃金を手にするわけなのだ。工場の生産物がゴム製品とか衣料製品であるのにたいして、文学者のこしらえたものが文学作品であるというだけのちがいが、あるにすぎない。商品であるという点では、けっきょく、どちらも同じことなのだ。文学作品は売りものだから、それにはあるきまったねだんがつけられる。ある作家に支払われる稿料は、四百字づめ一枚千円以上もするそうだし、また、ある作家のはせいぜい百円ぐらいだそうだ。そういう価格はどこできまるのか。答えはいたって簡単である。印刷して本にしたばあい、一方は飛ぶように売れ、一方にはあまり買いてがつかないからというだけの理由だ。品物の出来がいいかわるいか、つまり文学としてみてすぐれた作品であるかどうか、というようなことはじつはどうでもよいのだ。それで、いきおい作家たちも、いまの読者に受けのいい作品を書こうとこころがけるようになっていく。文壇というところは、文学者の仮面をかぶった、そういうひとにぎりの文学職人どもの集まりなのだ。
そこで、文学者ならぬ、そうした、文学職人どもが、ひとかどの芸術家づらをしてのさばりかえっておれるのも、だからまた、お涙ちょうだい式の三文小説や、いかがわしいエロティックな作品がちまたにはんらんしているのも、その責任のなかばは読者にあるという点に諸君は気づかれたろう。書くほうのがわからいえば、売れるからそういう作品を書くのだ。また、売れるからそういうものが本にもなり、雑誌にのりもするのだ。
 とかく文学というと、作品を書いた作家だけが大きくとりあげられて問題にされるかたむきがあるが、これは近代の誤まれる伝統である。英雄が歴史をつくるというあの観念、クレオパトラの鼻がまがっていたら式のあの考え、それがまちがいのもとなのだ。文学の英雄は、むしろ読者である。歴史上の英雄が、じつは貴族なり庶民なり、ある階層の一代表にすぎなかったように、文学の作家もまた、読者の意志によってうごく、その代弁者にすぎない。わたしたちは、これまでの文学論において相手にされなかった、この「忘れられた読者」を前におしだすことによって、わたしたち人民のあたらしい文学論をくみたてなければならない。


   こんにちの文学をささえているもの

 売らんかなの、あらっぽい稿料かせぎに夜も日も明けぬ、こうした文学者どもをあまやかしている読者というのが、じつはほかならぬ人民であるという点に、こんにちの問題がある。人民は荒れているのだ。すさみきっているのだ。祖国のため、大君のためとひたすらにそう信じて、いのちをかけてのひたむきな情熱をかたむけてたたかった、このたたかいが、ふたを開けてみれば、ほんのひとにぎりの大地主や財閥・官僚のための侵略戦争にすぎなかったことを現実の事実として見せつけられては、いったい何がまことで何がいつわりであるのか、ひとを信ずることもできなければ、自分で自分を信ずることさえできなくなってくる。すべてが信じられないし、すべてがばかげている。まともに生きてみたって、それでいったいどうなるというのだ。インフレの嵐はまっこうから吹きつけてくる。どのみち、ヤミをするいがいに生きられぬ世の中ではないか。それに、さきに望みがあるわけでもない。おさきまっくらな人生とわかったら、ふとくみじかく、その日その日をおもいのままに生きることだ。戦場でむなしく見おくった青春を、徴用工としてうすぐらい工場のなかにくすぶらせてしまった若い情熱を、いまここにとりもどすことである。貸したものは返えしてもらう必要がある。いや、返却をせまる権利があるはずだ。命令に服従することだけをしいられて、ついに経験することのできなかった意思の自由、行為の自由をいまここにとりもどして、士官や下士官たちが自分にたいしておこなったとおりの「思いのままのふるまい」をやってみせよう、等々々。そうしたおもいが、いま人民の胸にわだかまっているのだ。
 また、一方には、負けたからこういうことになったまでだ。財閥がわるいのでも軍閥がわるいわけでもない。戦争に勝ちさえしたら、わたしたちは、もっとしあわせな暮らしができたはずだ。だいいち、天皇がわたしたちと同じ人間だなぞいう、ばかなはなしがあるか。負けたから強制されて、ああいう憲法もできたが、わが国体に変りはないのだ。そのうちに満州に南方に、日本が進出する日がきっとくる。万事はそれまでのしんぼうだ、等々々。いまだにそんな悪夢をゆめみているひとたちもある。いや、あるどころのはなしではない。いまの四十代以上の年ぱいのひとには、こうした考えかたをするむきがひじょうに多いのだ。
 もうひとつの傾向は、例のあの世わたりじょうずの便乗主義だ。ともかくもうければいい、もうかればよいの一点ばりだ。ご時世むきの渡世には何がいいか、どうすればうまい汁が吸えるか、ヤミともぐりのあの手この手をあみだすのに余念ないのが、かれらのすがたである。つまり、いま人民が実感として胸にいだいているものは、戦時中とすんぶん変りない封建的・軍国主義的観念であるか、それとも、すてばちなその日暮らしの、ほろにがくふてぶてしい生活感情である。さもなければ、いまいった拝金主義、便乗主義のこんじょうなのだ。この三つの傾向は、それぞれがそれぞれの傾向として平行線をえがいているのではなくて、たがいにからみ合いもつれ合って、めいめいの生活を救いがたい矛盾に追いこんでいるわけなのだ。

 民衆の傾向は、むろん、いま述べたことに尽きるのではない。たとえば、戦後にいちじるしくなった宗教的傾向、とくにキリスト教にたいするひとびとの関心の高まりなどは見のがすことのできない、だいじな面だろう。さらにまた、この宗教的な傾向をもふくめて、いっぱんに精神主義的な傾向――この傾向は、ことのうわべだけをとりあげてみれば、まえの三つの傾向とま反対な傾向を示すものだということになろうし、よくまあこのすさみきった時代にと首をかしげさせられるくらいのものなのだ。つまり、人民のこころのなかには、すさんだ気もちがあると同時に、良心を見うしなうまい、たちなおろうとする気もちがある。精神主義は、いちおうの意味では、そうした民衆の善意と結びついてうまれたものだということができるだろう。かれらのねがうのは平和である。パンの問題にあくせくして、おたがいがおたがい同じ人間どうしが、いがみ合い、にくしみの目をもって相手をながめ、相手をのろい、目には目、歯には歯のいさかいを事としているこの世に、救いと平和をもたらすことである。そのような平和は、けれど、いくら社会の制度や経済組織を変えてみたところでうまれてくるものではない、とかれらは考える。人間ひとりびとりのたましいの救いがおこなわれえたときに、つまりは、神のこころをこころとし、隣人愛をもってこの世に神の国を実現させようと努力したときにのみ、永遠の平和がもたらされる、とそうかれらは考えるのだ。「ただ信ぜよ」の聖歌がそこに合唱され、「すべては神のみこころのままに」の祈りがささげられる。
 このようにして、けっきょく、神のまえではどの人間も平等であるということを語ることで、日常実際にわたしたちが経験させられている、この世の中のさまざまな不平等な人間関係は、それは問題にするだけのねうちのないものとして、うしろに追いやられてしまうのだ。同じ人間でありながら、財閥やヤミ資本家や、官僚や、そのとりまき連中だけがらくにたっぷり暮らせて、働くわたしたち人民だけが、どうして食うや食わずの、その日暮らしの生活を続けなければならぬのか。米をつくっている農民でありながら、自分ではろくろく食うものもなくてこまっているひともあるというのに、温泉の盛りばでさつびらきって遊びほうけている農村人も一方にはいる。これは、いったいどうしたことなのか。――神の愛を知らないからだ、隣人愛がたりないからだ、と精神主義者のあるものは考える。こまっているひとのあることを知ったら、自分だけ遊んでおれぬはずだ、もっと「自粛」するはずだ、とそうまたあるものは考える。ひとにいわれなくとも、そういう自粛がしぜんとできるくらいに精神修養ができ、信仰が高められてくれば、世の中は平和になるはずだ、という式の考えかたなのだ。つまり、万事を精神の問題、こころがまえの問題としてかたづけてしまうのである。

 だが、どうしてこの世の中には、だまっていてもらくな暮らしのできるひとがあり、働いても働いても暮らしのたたないような貧乏人があるのかということや、金もちは、金をもっている物をもっているという、ただそれだけのことでますます財産がふえていくようなしくみにこの社会がなっているのはどうしてか、というようなことは、こうした考えかたからすれば、事がらそのものとしては、それは「問題にするだけのねうちのない」ことだ、ということになろう。いわゆる不良少年であるとか、資産もみよりもない老人たちであるとか、そうした「ふしあわせな人」にたいしてだけ隣人愛を発揮するというのが、精神主義のたてまえなのだ。
 誤解のないようにいっておくが、そういうひとたちをに手をさしのべることがいけない、というのではない。いけないどころか、それはひじょうにだいじなことだ。だが、問題は、そういう「ふしあわせな人」がつぎつぎとうまれてくる、わざわいのみなもとをせきとめる努力をしないで、たんに結果だけをしまつしようとかかることは、わるくいえば、この世の中には「ふしあわせ」ということはない、あるとしても、それはこころがけのわるい人間のうえにだけおこりうることだ、という錯覚を世間のひとたちにひきおこさせることにもなりかねないのだ。老後、養老院のやっかいになるような人間はこころがけのわるいなまけものばかりだ、などいうはなしを耳にもするし、このことを生きたたとえにして説教している牧師を、わたしは知っている。
 だが、いったい、ふつういっぱんの勤労者に、自分のはたらきだけで自分の老後を養うに足るだけのたくわえができるものかどうか。老後どころか、現在の生活をまかなっていくことさえできず、子どもたちに満足な教育をほどこしてやることはおろか、子どもは中途から学校をさげてかせぎに出し、家のものみんなのはたらきでかつかつに一家が食いつないでいくというのが、これまでの人民の実状ではなかったか。こんごは、ますますひどい。ちょっとやそっとのたくわえがあったところで、この物価のつりあがりではどうにもなるものではない。それで、これまでも、たいがい年をとると子どものせわになるか、子どもがなければ、(また、子どもがあっても「はたらきのない」子どもだと)親類のやっかいになって、いやな顔をされされ小さくなっているというのがふつうだ。それで、子どももみよりもないと、つまり養老院ゆきということになるのだ。ふしあわせなのは、養老院にいる老人ばかりではない。

 話は横にそれたが、いまの人民の気もちのなかには、どうでもなれといったすてばちな気分がある一方、また、こうした精神主義的な気分も色こいのである。つまり、そこには、さまざまな思想やさまざまな感情がいりみだれて混とんとしているわけだが、それをつきつめてみれば、敗戦日本の人民たちが身をもって体験させられた、社会の矛盾や混乱を反映したもやもやであることはいうまでもないし、けっきょく、敗戦という事実をかれらがどういうものとしてうけとったかということによってもたらされた、思想であり感情であるということになろう。要するに、そこには、受け身な態度がみられるだけで、建設的な何ものも見いだされない。精神主義的な思想へのうごきといえども、それはひじょうに積極的な態度を示すもののようであって、じつは社会の矛盾そのものはほったらかしにしたまま、矛盾のさまつなあらわれの面だけをしまつしていこうとするものにすぎないし、それにまた、矛盾の解決をもっぱら精神の側面からだけおこなっていこうとするために、ほんとうの解決に到達しえないばかりか、いまの混乱をいっそう救いがたいものにしているのである。こんにちの人民に欠けているものは、合理的な精神である。つまり、理づめな態度でものごとをつきつめて考え、うそとまことをみわけ、それをありのままのすがたにおいてとらえ、勇気と情熱とをもって事にあたるという態度である。こうしたかたよりとゆがみからまぬがれえているひと、ほんとうにめざめたひとというのは、くやしいことだが、ほんのわずかの人民にすぎない。
 奴隷のことば(思想)から解放されないばかりに、自分を解放することもできないでいる、かたちばかりの人民の社会、それが民主主義日本の正体だ。そういうめざめない人民を相手に、ソロバン片手の商売をしているのが、つまりいまの文学者の大半なのだ。そういう文学者の手になる作品が、人民の栄養になるようなカロリーもヴィタミンもふくんでいないのはあたりまえのことだろう。そこには、栄養がふくまれていないかわりに、しびれぐすりがもられている。ひとびとは、文学のふんいきにふれることで、精神を高められることのかわりに、げれつなこんじょうをもたされ、また、度の合っためがねを求めているのに、色めがねを与えられたりもするのだ。これが、こんにちの文学の「効用」だ。
 文学の世界から奴隷のことばを追放し、文学をほんとうの人民の文学にまで高めていくというしごとは、むろん、人民のがわに立つめざめた文学者のつとめではあるけれども、同時にそれはまた、文学の読者である人民自身のつとめでもある。文学における読者の役わりは大きい。まず、人民自身の立ちばにめざめたひとたちが、ちからを合わせ、はげまし合い、そして本気になって同じ職場、同じ学校の友だちに働きかけ、かれらのこころにねむっている人民のたましいをよびさます運動が全国的にくりひろげられていったなら、くだらぬ三もん小説に胸をときめかせ、やすっぽい涙をながすようなひとも、めきめきすがたを消していくようになり、反動文学はやがてささえを失うことになるだろう。反動文学のくずれていくときは、同時に人民の文学がたくましく成長してくるときなのだ。


   人間解放の文学

 こんにちの文学の底をながれている潮のひとつは、政治の束縛から文学を解放し、また、文学の世界において人間性の自由を確立しようとする思想である。文学は、がんらい人間の自由のための、人間をあらゆる不当な束縛から解放しようがためのいとなみであったはずだ。すくなくとも、文学の名にあたいする文学は、古来すべてそうしたものであったわけだ。だが、文学のもつ、そうしたはたらきなりいとなみというものが、政治からの文学自身の解放ということになりはしない。ならぬどころか、そうしたいとなみこそ、まさに政治的ないとなみであるだろう。文学は、それ自身ひとつの政治なのだ。いま、そのことについて考えてみよう。

 「ヴェニスの商人」のシャイロックが、例の人肉裁判のシーンで、貴族の奴隷所有にたいしてするどく抗議していることについては、まえに述べた(「文学のまがいもの」の章参照)。
 ――どんなご裁判をだっておそれるはずがありましょうかい、まがったことをしていないてまえが。もし、おやしきにゃあ買収なすったおおぜいの奴隷がおりましょう。それをあなたがたは、ろばや犬のようにこっぴどくお使いなさる。そのはずです、買いとっておしまいなすったやつらだからだ。もし、てまえが、あなたに、あいつらを自由にしておやんなさい、姫さんがたのおむこさんになさい、なぜあんなひどい仕事をおさせなさる、あいつらの寝床もあなたがたのと同じやわらかなのにして、なぜ同じようにうまいものをお食わせなさらんと申したなら、あなたは、「あいつらはおれの所有物だ。」とおっしゃるでございましょう。てまえもそうお答えします。てまえが要求する肉一ポンドは高い値で買いとりましたもので、てまえの所有物でございますから、いただきたいと申すのです。それを「ならん」とおっしゃりゃあ、お国の法律はほごもどうぜんです。ヴェニスの政令はまるっきり無効だ。ぜひともご裁判をねがいます。いかがで。ねがえましょうかね。………
 シャイロックの口をかりての、この抗議は、同時に、ルネサンス当時におけるイギリス民衆の自由の立ちばからの批判と抗議をかわって述べたものだ。身分のきずなによって民衆をしばりつけ、民衆の人間性をないがしろにする、貴族の封建的支配。封建貴族のそうした圧制的な人民支配にたいする、それは、民衆の代弁者シェークスピアのきびしく手ひどい批判であった。
 ところで、この裁判が、けっきょく、貿易商人アントニオに有利に展開し、高利貸シャイロックの敗北におわるということは、諸君の知っているとおりだが、それもやはり、封建的なものにたいする民衆ののろいと、そうした市民大衆の敵を相手にたたかう「われらの代表」におくる声援と拍手をあらわしたものであったと考えられる。つまり、貿易業者は、ルネサンスの市民大衆の先頭に立つ、かれらの利益の代表者だ。市民たちは、貿易によって海外のすばらしく大きな富を自分たちの手におさめ、また、貿易によって工業をマニュファクチュアとよばれる、協業による工場制手工業のかたちにまで発達させ、そしてそのことによって、かれらのあとつぎが近代的な産業資本家になれるだけの下地をつくったのだ。いっぽう高利貸資本家というのは、貿易業者のような商業資本家とちがって、けっきょくは封建制度の支持者である。時とともに暮らしにひびのはいってきた貴族たち。屋台骨がゆるんできたために、いっそう搾取がはなはだしくなってきた、封建貴族のむごくきびしい年貢の取りたて。それでもう借金でもするいがいに生きていく手だてを見いだせなくなった、どんぞこ生活の農民たち。おもにそういう貴族や農民あいての、吸血鬼のようなあくどい高利貸かぎょうが、かれらの生活のすべてなのだ。だから、貴族や農民たちのがわからいうと、あくまのような存在だが、立ちばをかえて高利貸のほうからいうと、貴族も農民もだいじなおとくいさまである。客がなくては商売も成り立たない。そういういいお客があるというのも、世の中が封建制度の世の中であってくれればのはなしなのだ。だから、かれらは、封建制度を食いものにした、封建制度の支持者であったわけなのだ。
 つまり、シェークスピアが問題にしたのは、この点なのだ。だから、ヴィトフォーゲルが、アントニオとシャイロックのふたりは、商業資本と高利貸資本との「二つの経済的な原則を代表したものだ」といっている(「市民社会史」)のはもっともだ。むろん、十六世紀の作家であるかれが、そうした経済関係、社会関係をこんにちの社会科学的な認識水準においてとらえることのできようはずはない。そういう社会関係を、理論としてではなく、いわば生活の実感として感じていたというのが、かけねのないほんとうのところだろう。だが、だいじなことは、かれが民衆のこころをこころとすることによって、進歩の立ちばに立つことができたという点だ。そこで、諸君に考えてもらいたいのは、シェークスピアがどうして進歩的な市民の立ちばにたつことができたのかという点についてである。それは、つまりかれ自身が市民のひとりであり、また、市民らしい市民の生活をいとなんだひとだということに関係している。ロンドンの北にある小都市ストラッドフォード・オン・エイヴォンのゆたかな市民の家に生まれたかれ、父親が事業に失敗したことがもとで、学業を中途であきらめなければならなかった十三歳のかれ、ロンドンの芝居小屋の近くに小さな店を開いて、見物人の乗りものをあずかる、しがない商売にその日暮らしをつづけていた、その青年時代、等々、かれの生活のあとをたどってみるとき、高利貸にたいするかれのにくしみも、なにもかも、おのずとうなずけるものがあるだろう。市民のしあわせをはばむものがなんであるのか、いっぱんの市民が、いまどんな生活のなかにおかれているのか、だからまた、どうすれば市民のほんとうのしあわせがうまれてくるのか、そうしたことが、体験がもたらす生活の実感として、かれの胸にふかくふかくきざみこまれていったはずである。実際にどういう生活をしているかということが、その芸術家の作品をかおり高いものにもし、また、みすぼらしいものにもするのだ。諸君が目をするどくしてほしいのは、この点である。

 古来すぐれた文学は、人間解放の文学であった。いま、そのことをシェークスピアの文学について考えてみたわけだが、こんにちの文学も、それがまがいものでない、ほんものの文学になるためには、以前のそれにもまして、積極的な、自由と解放のためのいとなみとなるのでなければならない。どうしてかといえば、ルネサンス当時における人間解放のもつ意味と、こんにちのそれとでは、その幅において深さにおいて、まるで性質のちがったものになってきているからだ。
 かつての人間解放は、たかだか市民の解放という意味をもつにすぎなかった。人間というのは、つまり、市民のこと、市民的人間のことであって、農民その他をふくむ人民ぜんぱんのことではなかった。もっとも、この運動は、ほかの面からいうと、市民による市民自身の解放をめざすものであるとともに、貴族・農民その他の市民化、自己への同化をめざしているものであったから、それによって貴族の封建的特権は廃止され、またそれによって農民もいちおう解放される結果にはなった。西ヨーロッパ諸国の例についてみると、農奴として土地にしばりつけられていた農民も、封建制度がガタガタにくずれていくのにつれて、土地そのものから解放されて自由の民になることができた、というふうにいえよう。だが、土地から解放されることは、農民にとっては生活の手だてをうしなうことである。いいかえれば、それは解放ではなくて追放でさえあった。だから、農民に与えられた自由は、貧乏人の気らくさという意味での「貧困の自由」にすぎなかった。同じことは、市民自身についてもいえる。ひとにぎりの資本家をのぞけば、市民たちも、やはり、農民と同じように、自分の労働力を売りものにして、生きていくいがいには暮らしのたてようもない、貧困の自由を与えられたのだ。このようにして、「解放された」いっぱん市民と農民たちは、「あすのパンをのみ思いわずらう」工場労働者や農場労働者や職人等々になっていったのである。これが、ルネサンスから近代にかけておこなわれた人間解放のもつ、ほんとうのなかみだ。
 だが、それでもヨーロッパのばあいは、まだましだ。みじめなのは日本の近代である。農村にはごく最近まで封建的な地主制度がのこっていて、はたらく農民を現物納の高い小作料で土地にくくりつけ、生かさず殺さずの封建的な搾取をおこなっていたわけなのだ。だから、農民たちは自分の口をのりするのがせいぜいで、子どもたちを養っていくことすらできない。できないばかりか、暮らしがたたないから、かわいい娘をせん業婦に売りとばすというようなことにもなっていく。伊藤永之介の「鴉」という作品を読んだことのあるひとには、その当時の東北地方の農民のむごたらしくみじめな暮らしぶりが、なまなましい実感としてうかんでくることだろう。からすというのは、つまりそういうあわれなせん業婦のことだ。小作人の家に生まれた女の子は、生まれながらにしてからすになる暗い運命をおわされていた。それで農民の一部には、女の子の生まれるのをよろこぶような傾向があった。女の子の誕生はからすの生まれたことだ。高いねだんで売れる品物が手にはいったことだ。それで、女の子の生まれるのをよろこぶ傾向があったわけだ。それにひきかえ、男の子の生まれてくることは、役たたずの厄介もののふえたことだ。男はあととりひとりでたくさんなのに、とじゃまものあつかいにされた。そういうじゃまものは、学校も中途でさげられ、あるいはぜんぜん学校に入れられないで、商店のでっち小僧に住みこみ奉公をしたり、職人の徒弟になってみたり、そしてその大部分は工場の見習い工になっていった。
 都会の工場は、いわばそういう農村のあまされものの収容所である。植民地的低賃金とか半植民地的低賃金というふうにいわれている、けたのはずれたやすい賃金がそこにうまれてくる。相手は、あまされ者だ、あぶれ者だ。いくらやすく使ったところで文句のいえるような相手ではない。使うほうのがわからいえば、そういう気もちがある。使われるほうの小作の次男ぼう、三男ぼうはといえば、長いこと貧苦と忍従の生活にならされてきた者ばかりだ。資本家と労働者との関係は、このようにして、日本では、やとう者とやとわれる者との関係ではなくて、封建的な主人と家来との関係におきかえられる。もはや賃金にけちをつけるどころのはなしではない。せいぜい主人の気にいるように、ごきげんを損じないようにとつとめて、小さな自分の出世をはかるという、そんなことにもなっていたのだ。
 つまり、日本の資本主義は、農村の封建的な小作制度のおかげで、やすい賃金で労働力を手にすることもでき、いきおいもうけも大きいというわけなのだ。それを地主のほうからいえば、農村の失業者を工場でひきとってくれるおかげで、小作制度の矛盾は目だたないですむし、小作争議のなんのというごたごたのおこる率もすくなくなってありがたいということになる。だから、日本では、封建主義と資本主義とは敵みかたのあいだがらではない。敵でないばかりか、血のかよった仲のいい兄弟みたいなものだ。半封建的資本主義――そんな名まえが日本の資本主義にかぶせられているのも、そのためである。日本の近代社会は、こういうふうな資本主義と封建主義とのからまり合いのうえに成り立った。だから、政治の制度のうえにも、貴族院のような、たんに封建貴族の子孫であるという、それだけの理由から政治にくちばしを入れうるようなしくみもつくられていくことになったし、また、封建主義をまもるためというかんばんをかかげた大政党がつくられたり、しかもその政党が政権をにぎって内閣を組織したりということにもなったのだ。そればかりか、治安維持法などという悪法をしいて、こういう封建主義に反対するひとにたいしてはむろんのこと、たんに反対の考えをもっているらしいという憶測だけで縄をかけるような、乱暴なことまであえてした。
 こんなふうに人民をいじめつけた結果が、経済生活の面でいえば、国内購買力の低下だ。過剰生産だ。高率の小作料と植民地的低賃金。だから、せっかくの資本主義工業製品も、国内では買い手がつかない。人民はそれがほしくとも、手が出せないのだ。そこに、海外市場の開拓と独占、またそのための軍事能力の増進等々、太平洋戦争のみなもとは、遠くここにある。
 これが日本の「近代」であった。日本には近代がなかった、といったひとさえある。けっしていいすぎではない。日本の近代文学が、なにかはじめからあきらめと絶望の調子をみなぎらせていたのも、だからむしろ当然のことだといえるだろう。

 こんにちの文学を求める自由が、それのひろがりとふかまりとにおいて、かつてのそれとちがった性質と内容をもつべきは当然のことである。かつての自由を、だから旧自由主義をこんにちにむしかえしたところで、それは現在の問題を解決するちからにはなりえない。かつてのそれは、たんに市民的な自由にすぎなかった。しかも、日本のばあい、現実は封建的遺制の支配する現実であったのだから、自由ということは、ただ観念(考え)としてひとびとのこころに生きていたにすぎない。それにまた、その自由の観念は、日本的現実にねざすものというよりは、西欧のそれを移し植えたものだといったほうがあたっている。つまり、現実の反映としてうまれた思想でなかったのだから、この観念は、大地に根をおろしてすこやかに伸びていくことができなかった。現実の実際面で満たすことのできないあきたらなさを、観念の世界で代用満足する、いってみればそういう性質のものであった自由の思想は、このようにして、日本にあっては、現実のなかからうまれたものではなく、だからまた、現実を動かすちからにもなりえない、無用の飾りものになってしまった。そこに、思想は思想、現実(実際)は現実、世の中は理くつではいかぬものとする考えや、また、思想というのはつまり理くつのことであって、それはたんにあたまの問題にすぎないというような、思想そのものにたいする、いっぷう変った理解をうみだすことにもなったのである。
 思想というのは、実際の用には役だたないへりくつのこという考え、若いときはだれでもいちおう自由であるとか真理とは何かというようなことを考えるが、人生の経験を積んでくれば、そんなことは役にもたたない無用の考えにすぎなかったことがわかって くる、というような俗物的な考えも、だから日本の近代においては、いなみきれない真実をふくんでいたということにもなるのだ。だから、また、西欧的なそういう思想は、その思想にふれた当人にとっても、たんなる知識として、あっちのポケットこっちのポケットというふうにしまいこまれて、思想としてのまとまりも肉づけももたぬまま、ただたんにおひけらかしの「教養」になってしまったのである。教養ということばが、実用にはあまり役だたぬ、身だしなみの知識というふうな意味でつかわれるのは、日本だけの現象だ。
 だから、自由の観念に生きることによって、人生をろう獄だと感じた北村透谷は、けれど、封建的なくさりにつながれた、この人生のろう獄から自分を解放するすべを見いだすことのできないまま、二十代の若さでわれとわがいのちを絶ってしまうことにもなっていったし、また、近代文学のさきがけだといわれている、二葉亭四迷の「浮雲」が、すでに、思想と現実との矛盾に作品のテエマを見いだし、妥協することをあえてしないがゆえに、現実のねづよい封建的なちからによっておしひしがれ、そしてはかなくもろくやぶれさっていく人間のすがたを、わが身のこと、わがこととしてえがきだすことにもなったのである。日本の近代文学は、だからなげきの文学である。それは、自由の観念を現実の生活のなかにもたらそうとしたために、なやみ苦しみ、そしてきずつきたおれた敗者の苦悶の文学である。もっとも、なげきと苦悶は、日本文学にだけ見られるあらわれではない。ヨーロッパの近代文学にも、なげきはあった。しかし、そのなげきは、からだをもう一歩さきへおし進めたところにうまれた、なげきであり悲しみであった。それは、つまり、近代の人間解放のもたらしたものが、じつはひとにぎりの人間の利益をまもるための自由にすぎず、いっぱん人民にたいしてはたんに貧困の自由を約束したにすぎなかったという、社会の現実に根をもっている。理想と希望にもえ、いのちをかけてたたかいとった自由が、こうしたものでしかなかったという点に、西欧文学のだいじな主題の一つがあるのだ。

 こんにちの日本のむずかしさは、封建的なものからぬけださねばならぬと同時に、市民的なものを超えなければならぬという点にある。これまでの半封建的なしくみからぬけ出して、純粋の資本主義の体制に日本をかえていくというにしても、資本主義ではもうどうにもならぬというのが、こんにちの現実なのだ。だからこそ、そうとう程度に保守的なあたまをもったひとでも、修正資本主義というようなことを口にするわけなのだし、一方にまた、純粋の社会主義の組織に日本の社会をきりかえていこうと考えるひともあるわけなのだ。それにまた、いまの日本は、げんに社会主義政策をあわせ用いることで、どうやらこうやらその日その日をまにあわせているしまつなのだ。だから、こんにちの人間解放の文学が果さねばならぬだいじなしごとが何であるのかということも、おのずと明らかだろう。それは、つまり、こんにち求められている人間解放がどういう性質をもち、また、どういう内容をもっているかということできめられてくる事がらなのだ。ルネサンス当時における人間解放の対象(相手)が市民であったのとはことなり、現代の対象となるものは人民いっぱんである。工場で働くひとであろうと、耕作にしたがう農民であろうと、また官庁や現業の公務員であろうと、さらにまた医者や学者や弁護士であろうと、およそ自分の労働力によって収入をえ、暮らしをたてているところのすべての人民が、その対象となるのである。こうした人民大衆を奴隷のことばから解放することによって、人民の名にあたいする人民たらしめ、またそのことによって、搾取ママ脱カない真の人民の社会を作りあげることである。文学は、いま、まさにそのような人民解放運動の一翼として、たちあがらねばならぬのだ。
 人間いっぱんというようなものはありえないし、また、解放いっぱんというようなこともありえない。こんにちの人間解放は、人間による人間の搾取という、むごくいまわしいことのない社会に人民を解放することでなければならない。人民文学は、つまり、そういう社会をつくりあげるためのいとなみであるわけだ。現代の文学は、人民解放のための文学でなければならない。人民のため、人民解放のためと考えたとき、自由のための自由であるとか、人間いっぱんのための自由であるとか、政治からの人間や文学の解放であるといった、そうしたばかげた考えにたいして、わたしたちは、ちからのかぎり反対しなければならぬ。
 およそ近代の歴史を知るほどのひとにとって、自由のための自由だとか、人間ぜんぱんのための自由というようなもののありえないことは、いわば「実験ずみのこと」だろう。人間ぜんぱんのためというようなこと、つまりまんべんなく全部の人間にとってつごうのよいことなど、階級というもののある、この人間の世の中にありよう[ママ]はずはない。全体のため――日本という全体、国民という全体のためととなえた、こんどの戦争が、一部を全体にすりかえた、ひとつまみの大地主や財閥の利益のためのものにすぎなかったこと、これまたわたしたち日本の人民が、とうとい血のぎせいにおいて身につけることのできた「実験ずみの知識」ではなかったか。だから、人間ぜんぱんのためとか、全体のためとか、自由のための自由とか、そういうことを口にする連中にかぎってあぶないのだ。政治からの人間の解放であるとか、右にあらず左にあらず一党一派にかたよらない自由な立ちばであるとか、そんなことをまことしやかにとなえているてあいにかぎって「ひとにぎりの人間」のご用をつとめることで、そのおこぼれをちょうだいしようとするさもしいこんじょうの人間なのだ。わたしたちも、うかうかしていると、こういう連中のしり馬にのせられて、自分で自分を破滅のふちにおとしいれることにもなりかねないのだ。


   政治と文学

 政治と文学との関係も、このような観点から考えなければならない。政治から文学を解放することで、文学の自由をかちえようとする考えはわらうべきである。そのようにして考えられた自由は、やはりだれかのための自由であり、そしておそらくは「ひとにぎりの人間」のための自由であるだろう。政治からの文学の解放、文学のための文学、そうした思想にたいして、わたしたちは人民の立ちばから、きょくりょくたたかわなければならない。そのような思想こそ、人民文学の成長をはばむものであると同時に、文学の真の自由をほろぼすものであり、だからしてまた、民主主義そのものにたいしてたたかいをいどむ人民の敵であるからだ。だが、ひるがえって考えれば、そうした思想が世にはびこり、まじめになってそういうことを主張したり、実際行動に移したりしているようなひとがあるのも、むりからぬことだといえよう。人民はながいあいだ「政治」に苦しめられてきているからだ。つまりはそれと同じことなのだが、文学もまた、政治に舌をしばられて、思うとおりのこと、思うようなことを、ことばにいいあらわすことができないできているのだから。だからこそ、自由のための自由とか、政治に仕えない文学独自の立ちばというようなことばが、「ことば」そのものとして、ひとびとの心をひくものがあるわけなのだ。
 ながいあいだ封建制のくさりにくくりつけられていた、わたしたちには、自由ということば、解放ということば、そうした「ことば」そのものが、すでに魅力的なのである。そこで、神につながる高貴な人間精神を肉体のろう獄から解放せよとさけぶ精神主義や、逆にまた、肉体を精神から解放しようとする、いわゆる「肉体の文学」の主張や、実感だけが文学をほんとうの文学に高めてくれるささえだとする、実感主義の提唱などが、こんにちいっぱんの支持をうけるということにもなるのだ。

 ある評論家は、声たからかに、「天地がくずれてもこれだけは確固不動だというもの、わたくしが半生のあいだもちつづけ、いとほしみはぐくんできた生活感情、人生意欲がいっさいである。」といい、「この実感を超えたところにあるすべての理論は虚偽である。」といっている。つまり、自分の身についた思想というものは信念だ、それは自分にとって動かしがたいものだ、ということをいっているわけだ。この考えにまちがいはない。だが、それだから自分の考えに反する理論はみんなうそだというのは道理にはずれている。それは、むしろ、自分の考えに合わない理論は自分にとってはうそに見える、というふうに語られるべきだろう。だが、おそらくこの評論家のいいたいのは、身につかない考えは文学をつくるうえの役にはたたないということ、作家たちは、実感にささえられた、なまみの思想で文学せよ、ということなのだろう。だから、この実感主義の主張も、自分の思想や感情をころして書いた、あの戦時中の産業戦士ものや兵隊ものの作家たちのばあいを考えると、なるほどとうなずけるものがあるのだ。だが、それにしても、自分の実感が文学にとっていっさいであるという理くつは成り立たない。たんに理くつとして成り立たないというだけではない。それは、ことの実際にあてはまらないし、つまりそれだからうそだということになろう。こういう考えは、まかりまちがえば、それが実感でありさえすればどんな作品を書いてもよいし、また、どんな受けとりかたをしてもよいということになるだろう。だからまた、実感がこめられてさえおれば、それはすぐれた作品だと言うことにもなりかねないのだ。
 肉体の文学は、いわばそうした実感のコムプレクス(錯綜)からうまれた、実感主義のいちばんわるいあらわれである。かれらの考えは、つまりこうなのだ。思想であるとか精神というようなものは、時代によってもちがえば、環境のちがい環境の移りによって変るものだ。時とところによってちがい、また、ひとによってもちがうのが、精神というもののすがたである。そればかりか、きのうの自分の思想は、もはやこんにちの自分のそれではないというように、たよりなく浮動するのが、この思想というものなのだ。つまり、どういう思想が真実であり、また、どういう思想がいつわりであるのかということをきめる、絶対の規準というようなものはありえない。思想の真偽ということは、だから相対的な事がらであって、絶対のものではない。だからして、思想のなかに――意識であるとか精神であるとか、そうしたもののなかに、人間のまことを求めることはできない。信用できるのは、なまみのこのからだ(肉体)だけである。だから、肉体のまこと、肉体的本能のありのままをとらえることが、人間のまことを自分のものにするゆえんなのだ。肉体のまことを探ることは、またやがて、人間精神のまこと(ありのまま)にふれることにもなるだろう。どうしてかといえば、意識とか精神というようなものは、けっきょく、肉体の附属物にすぎないし、それは肉体のうごきにしたがい、本能の求めるところにしたがってうつろう、浮動的なものにすぎないから。この事実に目をつぶって人間精神の神秘を説き、思想の自由を説くものは、偽善者だ、俗物だ。人間の自由と解放は、肉体をかいほうすることをぬきにしては成り立たない、等々々。
 そこで、ある肉体の文学の作家は、こういっている。
 ――諸君は、おのおの私事において、正しいこと、みずからかえりみて正しいと信ずることをおこなっていられるか。諸君は信じているかもしれぬ。しかし、それが、みずからかえりみること不足のせいであり、みずからを知ること足らざるせいであることを、そうではないと断言し得るや。
 ――快楽ほど人を裏ぎるものはない。……わたしは快楽はきらいです。しかしわたしは快楽をもとめずにいられない。考えずにいられない。
 ――諸君は上品です。私事については礼儀をまもって人前でしゃべらず、その上品さで、諸君のたましいは真実ゆたかなのだろうか、真実高貴なのだろうか。
 ――肉体なんかたいくつですよ。うんざりする。たいくつしないのは、原始人だけ。知識というものがあれば、たいくつせざるをえないものだ。快楽は不安定だというけれども……知識というものが不安定なのです。………
 こうしたことばを、作家のほんねとして額面どおりに受けとることが正しいかどうかはべつとして、「快楽ほど人を裏ぎるものはない」ことは承知のうえで、しかも快楽を求めずにはおれない人間の本能を、それとしてありのままにえがくことで、人間のまことに達しようとする「肉体の文学」のゆきかたには、いなおった人間の強さがある。
 からだのまことこそ、人間のまことであるとする考え、これも、こんにちの実感である。ところで、その一方には、精神こそ人間のまことをあらわすものであり、肉体はそのまことを、いつわりのくさりにつなぐところの、ろう獄であるとする考えもある。肉体の束縛から精神を解放することだけが、人間に真の自由をもたらすゆえんである、とこのひとたちは心からそう考えている。つまり、これもまた、こんにちの実感である。このようにして、これらの文学者たちは、めいめいの実感をよりどころにして、あるいは肉体のまことを、あるいはまた人間精神の神秘を、文学のことばに翻訳しているのである。

 ところで、そのような実感をささえているものは何であろうか。作家たちは、政治の支配からぬけだした文学の自由の立ちばにたち、文学者としての良心にしたがい、自分をいつわることない、文学の創作に精魂をかたむけているつもりなのだ。実感主義の文学者が、商売こんじょう身にしみた、いっぱんの文学職人どもとちがうゆえんである。だが、かれらが、文学職人でないから、それでいいということにはならない。文学職人でないということと、りっぱな文学者であることとは別のことだ。そこで、かれらの実感をささえているものが何かということが、問われねばならぬのだ。
 実感主義の文学は、政治に仕えることをこころよしとしない。そして、政治という主人をしめ出しにすることで、けっきょく自分というものを主人として選ぶにいたったわけなのだ。だが、それでは、自分とは何であるのか。かりに肉体あっての精神というふうに考えるにしても、人間はひとつの肉体として他の肉体(他の人間)とつながっている。自分の肉体の要求をみたすためには、また他の肉体とのかかわりをもたねばなるまい。さらにまた、自分の肉体のそうした要求は、他の肉体となんらかのかかわりにおいて、つまり自分の肉体が他の肉体のなかにあり、それらとある一定のかかわりをもつことによって、ひきおこされたものであるだろう。たとえば、それが食欲というような肉体の要求であったとしても、その食欲をみたすためには、わたしたちは、自分で米をつくるなり買うなりしなければなるまい。しかし、食物をつくるしごとは、すぐさま農具や肥料や土地の問題に関係し、だからまた、一方に機械工業や化学工業につながりをもっていくと同時に、ヤミ肥料、小作料、供出割当で、土地の配分等々の問題をなかだちにして、こんにちのインフレーションの問題につながり、さらに、国際経済・国際政治の問題にまでつながっていく。また、米の配給をうけて暮らしていくということも、だから、ちょうどそれを裏がえしにしたかたちで、国際関係にまでつながりをもっていくこと、くどくいうまでもあるまい。
 だから、どのような生きかたをしようと、生きているということそのことが、なんらかのかたちで政治につながりをもっていることになるのだし、また、どのような生きかたをしているか、他の人間とどのような関係を結んで生きているかということで、政治そのものが右にも動き左にも傾くということになるのだ。そのことによって、また、わたしたちの食欲がみたされたり、みたされなかったりするという関係がみちびかれてくることにもなるわけなのだ。
 みたされた胃ぶくろと、みたされない胃ぶくろ。いまかりにみたされているとしても、明日はおそらくみたされないであろう胃ぶくろ、肉体のまことに内容を与えるものは、このようにして、社会の制度であり経済の組織であり、つまりは政治そのものであるだろう。そしてまた、政治を動かすものも、また、この肉体にほかならない。そのような肉体は、もはやたんなる肉体ではなくて、精神をそなえた人間である。なまみの人間――食いかつ働くところの人間、生きることによって考え、また考えることによって生きかたを規定していくなまみの人間、それはたんなる肉体でもなければ精神でもない。具体的な人間は、肉体と精神との、だからまた、生物的人間と社会的人間との統一者である。肉体だけを解放しようとすることは、精神だけを解放しようとすることで問題を解決しようとするのと同様にあやまりである。精神だけを、精神の側面においてだけ人間を解放しようとすることが、かえって人間をふるい制度のくさりにくくりつける結果となるように、肉体だけを解放しようとする考えも、人間をかえってふるい政治のわくにおしこむ結果をつくりだすことになるであろう。歴史と政治にママかえりみない、実感による人間解放が、人間に自由をもたらさないばかりか、奴隷の状態にながく人間を放置する結果となること、以上のとおりである。実感主義の文学の効用は、まことに戦時中の実感否定の文学のそれとかわりなく偉大である。

 そこで、いよいよ、文学者のこうした実感をささえているものが何かという問題であるが、それはつまり、読者によってとらえられた、現実の実感にほかならない。文学の享受者である人民の、肉体と精神とにたいする、また自由と解放とにたいする実感のコムプレクスが、そのささえなのである。人民の思想がそのような実感にささえられたものとしてあればこそ、人民のそうした考えや、意識を代弁した「実感による自己反省」の提唱や、肉体の文学、精神主義の文学などがこんにちいっぱんにひろくおこなわれもし、また、そうした評論や作品のうけがよく、売れもするから、文学者たちはますます自信をふかめて創作に馬力をかけ、そのことがまた、わにわをかけて、ひとびとの意識や感情を救いがたいものにしていっているのである。
 つまり、現代に欠けているものは合理精神である。保守主義というのは、どんなあたらしい刺激を与えても同じ反応しか示さない態度のことである、とある生物学者はいったが、こんにちの時代を支配するものは、反合理的な保守主義だということができる。そうした保守主義者たちが自分では伝統と世俗に反逆する進歩的な人間のつもりでいるところに、こんにちの混乱の手におえない、むずかしさがある。こんにちの文学者に望みたいことは、自分というものを、政治とのつながりにおいて、ふかくするどく見つめることである。なによりも、自分の肉体と精神を政治と対決させることである。自分の思想をささえている実感が、それとしてことの実際をとらえた実感であるのかどうかを、きびしく見きわめることである。そうしたきびしい自己批判が、自分のいまの実感をいつわりであると判定したとき、――それでも、この実感にしがみつこうとするのは、文学の精神に反している。頭ではなるほどとおもうが胸にはおちないというばあい、文学の作家たるものは、よろしく頭の論理にしたがうべきである。知性の声をしりぞけて創作にしたがうことは、文学をけがすことになる。文学の求めるものが真実をおいてほかにないからだ。
 理くつのうえではそうだけれど、しっくりこない以上どうしようもないというのなら、それが実感として自分の身についた思想となるまでは、作品の発表をみあわせるがよい。そして、あたらしい視点によって死にものぐるいの習作をつづけたらいい。――それこそ理くつというものだ。それでは食えないし、商売にならないというのなら、ひらきなおってこういうほかはあるまい。食えなくともしょうがないではないか、文学のしごとはほかのしごととちがうのだから、と。文学者は民衆の教師である。良心的な教師は、食えなくなってもヤミ屋を兼業しない。また、良心をころして真実をゆがめ、かわいい学生にうそを教えるようなことはしないだろう。教壇から真理を語ることは、あるいはめざめない学生たちの反感をひきおこすことになるかもしれない。また、同僚や校長やその他の気うけもわるくするだろうし、やがては逆宣伝とともに、職場を追われることにもなりかねまい。だがもしその教師がほんとうに学生を愛し、真理への愛にもえているのなら、学生にだけはうそをつく気にはなれないだろう。むろんひとを見て法を説けで、当の相手にいちばん効果のある方法を選ばねばならぬのはいうまでもないが、効果をねらうことと妥協することとは別のはなしだ。かさねていうが、文学者は民衆の教師である。文学者は、民衆の教師としてなによりも真理に忠実でなければならぬ。
 文学の愛好者であるひとたちに望みたいことも、つまり同じことなのだ。自分の実感の正体を見きわめてほしいということ、合理精神を身につけてもらいたいということ、そのことなのである。ちょっとでも理づめに考えてみたら、肉体だけが人間のまことであって、思想はいつわりだというような論理が、てんでそっぽな考えであるということは、すぐにでもみわけがつくはずだ。だってそうだろう。知識というものが不安定なものであり、思想のすべてがいつわりであるのなら、肉体だけがまことだという思想そのものもいつわりである、ということになるからだ。だからまた、自分の実感を文学の主人とすることで政治そのものを否定するというような実感主義は、けっきょく、自分そのものを否定するということになるだろう。なぜなら、肉体だけが真実で、自分の思想、自分の実感そのものすらいつわりであるのだから。

 文学者は、それが自分にとって意識的であるといなとにかかわらず、自分があるきまった政治の立ちばに立つことをこばむことはできない。人民の立ちばに立つことをこころよしとしないで、人間ぜんぱんの立ちばに立とうとするものは、れいの、一部を全体にすりかえた「ひとにぎりの人間」のための政治の立ちばに立つものだ。あらゆる政治から自分が自由であろうとするものは、すくなくとも人民の立ちばを否定しているという点で、人民と反対の立ちばに自分の身をおいているということだけはたしかである。しかも、考えてみれば、人間は人民の立ちばに立つか、人民いがいの立ちば、つまりひとにぎりの人間の立ちばに立つかのほかはないだろう。もともと中間者の立ちばというようなものはありえない。それがありえないというのは、つまり中間者というようなものはない、ということなのだ。俗に中間階級であると考えられている、学者であるとか芸術家であるとか、そうした知識層のひとたちも、そのなかのごく一部をのぞけば、研究所や学校から受けとる給料とか稿料などで生活をいとなんでいるひとたちばかりだ。
 つまり、かれらは、自分の勤労(生産労働)によって生計をいとなむりっぱな勤労者なのだ。工場労働者だけを労働者であると考えるのは、ひと昔もふた昔もまえの、労働運動はなやかなりし当時の観念である。学者は研究労働者であり、教師は自分が教育労働者であるということを自覚しなければならぬ。「わたしは人民である」という意識にめざめたとき、文学の作家も読者も自分の立つべき立ちばが一つしかないということを知るだろう。
 文学者は政治を主人とすることをこばむとき、「自分」を主人とするのほかはない。「自分」はそして意識的であると無意識的であるとにかかわらず、ある政治の立ちばをとる「自分」であるのだ。このようにして、この文学者は、ある政治を否定することで別のある政治の立ちばに立って創作しているのだ。文学は、だから、政治の支配から自由であることはできない。できないばかりか、文学はそれ自身、ひとつの政治なのだ。また、それが政治であるからこそ、こんにちの時代に大きな意義をもつのである。
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  文学の方法と対象

   人民のための文学
    ―「空気がなくなる日」について―

 いまの「少年少女の広場」が「子供の広場」といっていた時分、この雑誌にこんな創作がのった。題は「空気がなくなる日」、作者は岩倉政治氏である。諸君のなかには、この作品を読んだひともきっといるだろう。

 「かなりいぜんのことである。日本のどこから、あんなばかばかしいうわさがひろがったものか? その年の七月二十八日という日に、ほんの五分間ほどのことだが、この地球上から空気がなくなってしまうそうだという話がやかましくなったものだ。」村にこのうわさをもち帰った学校の小使いさんは、「町のほうは、空気のなくなる話でたいへんですぞォ」と、おびえたように目をまるくしていった。けれど、先生たちは、わらって相手にならなかった。「べんきょうをしている先生たちにとって、そんなばかげた話は、てんでうけとれなかったから」である。
 「ところが、そのつぎの日になると、こんどは校長先生が大さわぎをはじめた。」県庁のお役人もそういっているし、どうもほんとうらしいというのだ。「わがハイのまなんだ学問からいえばじゃねえ……」といって校長先生は、「つまり、この地球よりも、ずっとずっとでっかくておもたい、たいへんな天体が、……つまり星がじゃ、わがハイらの世界へ、デーンと近よってくると見たね」と「学問的」な説明をはじめた。青くなった先生たちのひとりが、「すると、地球のいんりょくが、そいつのいんりょくにまけて?」と口をさしはさむと、こっくりうなずいて校長先生は、さらにその「学問的」な説明を不安と得意をごっちゃにした表情でつづけていくのであった。
 七月二十八日までには、あと一週間しかない。「校長先生は子どもたちをたいへん愛していた。」だから、校長先生は自分が先きにたって、どうすれば五分間呼吸しないで生きていられるかというけいこを、子どもたちにさせることになった。だが、いくら練習を重ねてみても、人間は二分間と息をしないではおれないものだ、ということがわかった。そこで、「いよいよこれは、よういならんもんだいだ」ということになった。
 「けっきょく、だれいうともなく、いちばんたしかな方法は、ゴムのふくろのなかへ、空気をつかまえておいて、いよいよのときに、すこしずつはなからすうほかないらしい、ということにきまった。」
 ところが、「これは多くの人々にとってたいへんざんこくな話であった。」というのは、氷ぶくろにしろ、自動車のチューブにしろ、五分間も息をするための空気を入れるのには、たくさんの品がいるわけだし、それを買うための金など、貧乏な百姓にあるはずがないからだ。そうこうしているうちに、一個一円二十銭だった氷ぶくろが、百円二百円だしても手にはいらぬということになってしまった。

 ここまでで、まず話の半分だ。それから、八人家族のまずしい農民のうえに話がすすめられていく。「うちのもんが、みんな死んでゆくのに、おらだけ生きのこっておれるかい。」これは、せめて末っ子にだけでも借金して氷ぶくろを買ってやろうか、と親たちがいいだしたときの子どものことばだ。
 「かわいそうにな。おまえら、こんな家へうまれずと、地主のだんなのところへうまれたらよかったに……」
 「そうしたら、おら、あのウスノロの大三郎ときょうだいちゅうことになるんけ?」と子どもははきだすようにいった。大三郎は、自分のことしか考えない、いやなやつだ。おまけにうすのろで、からいばりのげじげじのようなやつなのだ。子どもは、親たちが、あんなやつの家をうらやましげにいったことさえ、はらだたしくてならなかった。「みんな死んでやらあい」子どもたちは口々にそういって、表へとびだしていった。
 七月二十八日、「このぶきみな日は、空ぜんたいを血のようにそめた、みょうな朝やけのなかに明けはなれた。」子どもたちは、先生や友だちと最後のお別れをするために学校にあつまった。うすのろの大三郎だけが、自転車のチューブを六本も肩にかけて、南洋の陸軍大将みたいなかっこうをしているきりで、校長先生も、男の先生も、女の先生も、たれもかれも一つのゴムぶくろさえさげてはいなかった。「子どもは、しかし、このありさまをみて、世の中に金もちというものの、思ったよりかすくないのにびっくりした。」そして、だれひとり大三郎のことをうらやましがったりするものはなかった。どころか、「こんなウスノロの大三郎などといっしょに生きのこったりしたら、それこそたまらないなと思った。」
 空気のなくなるうわさは、むろんデマだった。ゴムを高く売りつけてもうけようとたくらんだ連中の、たちのわるいつくりごとだということも、あとでわかった。
 そのときが来ても、生きている自分を見つけると、「子どもは、ふいと大三郎の南洋の陸軍大将をおもいだした。そしていまは、おかしいというよりも、なんだかかわいそうな気がしてならなかった。」

 この話は、これでおしまいだ。すじのまとめかたがまずかったので、作者のねらったかんどころをつかまえそこなったかもしれないし、だから作者の岩倉さんに、わたしはそんなことは書かなかった、といってしかられるかもしれない。が、ともかく、わたしのうけとったかぎりでは、だいたい以上のようなすじがきの作品だ。すじをひろうということは、ところで、すじを追いながら作品の主題をとらえるということだ。だから、以上の要約は、けっきょく、わたしが理解したかぎりでの作品の主題を説明的に述べたものだということになろうし、また、主題的な部分にアクセントをつけて述べたすじがきだということにもなろう。じつをいうと、そういうわたしのアクセンチュエーションをはっきりさせたいために、そこのところを原文のまま引用しておいたわけなのだ。(原文の引用が、みんなそういう意味をもつというわけでは、むろんないが。)で、もうすこし具体的にこの作品のテエマを解説しておく必要がありそうだ。
 まず気づくのは、うわさとかデマとかいうものにたいする作者の観察だ。うわさというものは、しぜんとうまれてくるものではなくて、だれかが、ためにするためにつくったものだということだ。つまり、ゴムを高くうりつけてもうけようというふうに、かならず損得にからんでねつぞうされるのが、このデマというものの性質だということを、作者はいっているらしい。健康な常識――良識で考えてみれば、うそだ、つくりごとだということがひと目でわかるようなことでも、ながいあいだ盲従することにだけならされて、批判ということを忘れてしまった民衆の目には、この見えすいたうそがほんとうらしくうつるのだ。相手のつけめは、そこにある。人民の無智と無自覚を利用して、かれらのとぼしい財布の底をはたかせ、金を貸してやるからということで、複利計算のすごい高利の金を貸しつけては、死に生きの苦しみにかれらを追いこみ、または自分たちのつごうのわるい人間にけちをつけて、デマとともに相手をほうむりさる等々々、いまの世の中でおこなわれているデマのあの手この手は至れり尽くせりだ。この作品に出てくる子どもの親も、かわいい子どものために借金して氷ぶくろを買ってやろうかと考えた。直接作品のおもてに書かれてはいないけれど、ほかの子どもの親たちも、きっと一度は同じようなことを考えたにきまっている。とうぜんそこまで考えさせられる作者の筆のはこびだ。
 つまり、そういうふうな子どもにたいする親の愛情というようなものまで利用して金をもうけようとかかるのが、この「ひとにぎりの人間ども」のあさましさだ。悲劇の原因が、そういうさもしいこんじょうと、そういうこんじょうがとうぜんうまれてくるようにできている、いまの社会のしくみそのものにあるとしても、そういうたくらみに乗ぜられるすきをつくっているのは、人民自身である。無智で好人物の小使いさん。善人でにくめないけれど、すこしちょろすぎる校長先生。一度はそんなばかなことがと笑ってはみたものの、県庁のお役人がそういっているというのだし、それにえらい学者がほんとうだといい、だいいち尊敬する校長先生がそういうのだから、と考えこんでしまう先生たち。ひとがいいというだけでは、正しくは生きられぬ人生であることが、そこに示されている。
 わたしたちを、そういうあやまちから救ってくれるのは知性だ。合理精神だ。ともかく、この先生たちも、一度は笑ってうわさを信用しなかった。それは、「べんきょうをしている」ひとたちだったからだ。ある程度の合理的な考えかたが、そこにはたらいていたと考えられる。だが、けっきょく、えらい学者のいうことだ、「うえの」お役人のいうことだ、校長先生のいうことだというわけで、迷信におちこんでしまうのは、さっきもいった、長いものには巻かれろ式の、ぬけきれない奴隷こんじょうのせいである。それにまた、校長先生にしろこれらの先生たちにしろ、その知性というのが知性というに足りない、体系としてのまとまりもつながりもない、知識のかけらにすぎぬことが、そこにはっきりと示されている。「わがハイのまなんだ学問からいえば……」というふうに、それが「考える学問」――ほんとうの学問ではなくて、まなんだ「学問」、つまりひとかけらの切り売り知識にすぎないことが暗示され、さらに、「地球のいんりょくが、そいつのいんりょくにまけて……」という、とてつもない表現に、このひとたちのもつ知識というのが、体系もなにもない、ばらばらの知識にすぎないことを、この作品は戯画的にばくろしている。
 人間の愛情はとうとい。けれど、知性の裏うちのない愛情がいまの世の中ではどういうことになるのか。
 子どもの親は、借金までして子どもに氷ぶくろを買ってやろうと考えた。また、地主のだんなの境遇をうらやみもした。しかし、それは、子どものしあわせとは別のことだ。子どもは、大三郎と兄弟になるぐらいなら死んだほうがましだと考えている。そして、むしろ、村のひとたちといっしょに死んでいける自分のほうを、生き残る大三郎なんかよりずっとしあわせだと考えている。子どもは、むしろおまえらも地主の家に生まれてきたら、うちが大三郎の家のように金もちだったら、というような文脈であらわれてくる親の愛情を、かなしくはらだたしいものにさえ感じている。純真な子どもに奴隷こんじょうはない。相手がだんなの子どもだろうが、いやなやつはいやなやつだ。うすのろは、やっぱりうすのろなのだ。そこには、かけひきもなければ打算もない。ものごとをありのままに見つめて、判断し行為する人民の、そこなわれない「たましい」がある。奴隷のことばにとらわれた親たちには、このどたんばになっても、まだ、ぬけきれず、すてきれないものがある。親たちには、けっきょく、子どもの気もちはほんとうには理解できないのだ。そして、ただ、自分だけ生き残ることをしないで、親といっしょに死のうという子どものことばに、なんということなしに、「しんみり」とさせられてしまうだけなのである。
 校長先生は、子どもたちをたいへん愛していた。それで息をとめて五分間しんぼうするけいこにかかった。だが、それができることかできないことか、はじめからわかりきっていることだ。わかりきってはいても、どうせだめだとは知りながらも、ともかくいちおうやってみたうえで、という、「おぼれるものわら」の気もちがそこにはたらいているのかどうか。しかし、おそらく作者のねらいは、そういう点にはないだろう。合理精神を欠いた愛情というものが、けっきょくは相手を愛さないのと同じ結果になるということ、いやむしろ、愛する相手を苦しめるようなことにさえなりかねないということ、おそらくそういう点に、ここの問題はあるのだろう。失敗するにきまっていることを実行にうつすというのは、ばかげたはなしだ。だが、失敗するにきまっているという見とおしは、知性による判断の結果だ。だから、知性のないところに、正しい判断も正しい見とおしもありようはずはない。いま、人民に欠けているものは、知性であり、知性による合理的な判断である。校長先生も、ほかの先生たちも、子どもにたいする深い愛情はもちながら、知性を欠いていたために、こういうわかりきった失敗をしでかすという、ばかげたことになった。しかも、それは、子どもたちに苦しい思いをさせただけのことで、子どもたちの危急を救うことにはならなかった。それで、失敗してみてはじめて、「これは、よういならんもんだいだ」ということに気づくしまつなのだ。気づいたときは、もうおそい。悪日がもうまぢかに迫っているのだ。

 七月二十八日。このぶきみな日は、「空ぜんたいを血のようにそめた、みょうな朝やけのなかに」明けはなれた。いかにも不吉なことを予感させられるような空模様である。だが、不吉なことというのが、げんに起らなかったし、また起りうるはずもなかったということを前置きにして、ここまで筆がはこばれてきたのだから、怪談を読むのとちがって、読者は、顔色を変えるどころか、おそらくにやにやしながらこのへんを読みすごしてしまうことだろう。読者に、にやにやしてもらえれば、作者のねらいはいちおう果せたわけだ。だが、そのにやにやを、もうすこし別のにやにやに変えてもらいたいというのが、作者のいつわらぬ願いだろう。そういいきってしまっては、すこしずれるところがあるかもしれないが、つまりは迷信の問題なのだ。いまでも、夢に出てきたひとが口をきかないと、それはそのひとが死んだことの知らせだ、というようなことをいう人があるが、それは、あたるばあいもあればあたらないばあいもある。そして、あたらないばあいのほうがほとんど全部なのだが、あたるばあいもあるというのは、こうなのだ。遠くにいる弟が死に生きの病気で苦しんでいるというたよりをうけとったようなばあい、夢に出てきた弟が口をきかなかったりすると、もしやとおもう。そして、そういう重い病気なのだから、ちょうどそのじぶんが臨終だったというようなことも、またありうることなのだ。つまり、それは偶然の一致にすぎない。偶然の一致というよりは、ふだんその当人が夢の知らせというようなことを信じているものだから、あるいはまた、信ずるというほどではなくとも、そういうことをつね日ごろ聞かされているものだから、そんなときにかぎって、口をきかぬ弟のすがたを夢みたりもするわけなのだ。だから、さっき夢はあたるばあいもあるとわたしがいったのは、ほんとうをいえばまちがっている。べつに夢があたったわけではなくて、そういうときに、そういう気分にとらわれていたから、そういう夢をみたというだけのことだ。
 ともかく迷信というものは、おたがいになんの関係もない事がらのあいだに、むりに原因と結果の関係を見つけて、そこになにかしら神秘的なものが支配しているかのような錯覚をおこすところにうまれてくるのだ。だから、そういう目で見なければ、たんに赤い朝やけとしてうつるものが、血にそまった、ぶきみな朝やけとして、このばあい、ひとびとの目に映じてくるわけなのだ。赤い朝やけが、あかるい美しいものとして受けとられるか、ぶきみな不吉なものとして感じるかということは、むしろ、そのときそのばあいの、ひとびとの気分と気がまえのほうに原因があるということになろう。
 作者は、つまり、村のひとたちの気分になりきって、「このぶきみな日」と書きだし、「空ぜんたいを血のようにそめた、みょうな朝やけのなかに……」と、そう表現しているわけなのだ。しかし、そう表現することで、読者のほうはにやりとくるにちがいないという安心感が作者にはあるのだ。つまり、そういう安心感のうえに立って、村のひとたちの気分になりきった表現をあえてここでしているというわけなのだ。
 さて、この日にどういうことがおこったか。不吉なことのおこらなかったかわりに、すばらしいことがおこった。南洋の陸軍大将いがいは、みんな貧乏人の子どもばかりだということが、子どもにのみこめたことだ。子どもは、「世の中に金もちというものの、思ったよりかすくないのにびっくりした。」暮しむきがらくだ、らくでないといっても、そう差のあるものでない、いっぱん人民の生活。ぎりぎりのどたんばになってみれば、人民の利害は共通し一致したものであるということ。いまの世の中は、けっきょくのところ、白い手と黒い手との二つから成り立っているのだということ。同じひとの子であるのに、うすのろの大三郎のような人間だけが生き残れて、あとのみんなは、いっしょに死ななければならぬ運命にあるのだということ。そういうことが、子どものこころにはっきりと意識されたのは、ほんとうにすばらしいことだ。
 だが、気がついたときは、もう手おくれだ。それは、死の直前なのだ。あがいても、もがいても、どうにもならぬ、ひとのいのちの終りなのだ。
 だが、しあわせなことに、すくなくともこの人たちにとってはまったく意外なことに、死の宣告のその日の正午は、むしろ死からの解放のときであった。「へっへっ! でっかいヤツをいっぱいくわされたわい、へっへっ。」そういって、子どもの父親は、「ブヨくいのあとがゴマをちらしたようなふとももを、ぴしゃんぴしゃんたたきながら畑へでていった。」

 そのさきになにも書かれてはいない。作者の筆は、ここでぷつんととまっている。だが、父親のこのことばと、畑に出ていく父親のこのすがたに、「のどもと過ぎれば」の、あのふるいことわざを思わせるものが暗示されていないだろうか。このことばとこの姿に暗示された父親のそれからの生活は、これまでのそれとなんら変りない「平和」な生活にすぎない。死に生きの苦しみを味わわされながら、ときが過ぎればまたけろりとして、あなたまかせの生活に逆もどりしていく、いっぱん人民のすがたが、そこに象徴されていないだろうか。戦争の正体がばくろされて、歯をくいしばった終戦当時の人民。連合軍による日本本土占領がわたしたちの死と奴隷化を約束するもののように錯覚して、あわてふためいた、あの当時。それが奴隷化どころか解放であることを知って、ほっとひと息ついた人民。そのくせ、自由ということのほんとうのところがのみこめないばかりに、戦争まえと同じ奴隷の境遇に自分で自分を追いこんでいった、日本の人民。すこしうがちすぎた見かたかもしれないが、戦前戦後のそうした民衆のすがたが、そこにえがかれているようにも思えるのだ。
 ところで、この作品のいちばん終りのところで、子どもがこんなふうなことを思ってみたということが書かれてあったはずだ。大三郎の「南洋の陸軍大将」をおもい出して、おかしいというよりも、何だかかわいそうな気がしてならなかった、ということが。
 大三郎は、はじめからおわりまで、自分さえよければそれでいいというこんじょうの、いやなやつだ。うすのろのくせに、親の顔をかさにきて、ふだん学校でのさばりかえっているばかりか、自分の友だちも、友だちの兄弟も、親も、村のだれもかれも死ぬというのに、自分だけ、自分の一族だけ生き残ろうとする、いやないやなやつだ。人民の子はちがう。人民のたましいをもった子どもは、「おらだけ生きのこっておれるかい。」と考えるし、また、考えるだけでなしに、正しいと思ったことを実行にうつしていく。それなのに、大三郎は、――大三郎はにくむべきやつだ。ほんとうにいやなやつだ。だが、大三郎にほんとうのしあわせというものはない。食いものにされる人間はふしあわせだが、ひとを食いものにして生きている人間もまた、人間としてほんとうにふしあわせだ。自分のふしあわせに気づかないだけに、それはいっそうみじめだといえる。だが、子どもの親には、このみじめな人間が、村ぢゅうでいちばん幸福な人間に見えるのだ。大三郎をみじめな人間に感じたとき、子どもは、何がほんとうの幸福かということに気づいたのだといえるだろう。親の時代は、もう終った。いまからは子どもの時代である。人民のほんとうのしあわせは、奴隷の幸福、豚の幸福をふしあわせと感じたときにめばえてくる。


   作品享受についての一つの調査

 「空気がなくなる日」という作品を説明することで、わたしは、文学とはどういうものかということや、また、人民の文学はどういうものでなければならないのかということなどを、いちおう具体的に述べたつもりだ。実際、「空気がなくなる日」は、ちかごろにない、すぐれた文学作品だ。子どもが読んでも、おとなが読んでも、子どもは子どもなりに、おとなはおとなの目で、この作品をおもしろいと感ずるだろう。
 むろん、この作品は、十二三から十六七の若い、また小さいひとたちを相手に書かれたものである。だから、この作品の表現――この作品のえがきあらわしているところのものを、わたしが受けとったようには、この小さいひとたちや若いひとたちは理解していないだろう。ある意味では、もっとすなおに、もっとそっちょくに、この作品の表現を自分のこととしてなまなましく理解しているにちがいない。この作品に出てくる「子ども」というのは、けっして他人ではない。そこにおこった事がらは、どこかよそにあった事件ではなくて、自身の身のうえにおこった事がらであるのだ。「子ども」の立ちばに身を置いて、読者は、「子ども」といっしょになっておこってみたり、悲しんでみたりするわけなのだ。そしてまた、作品のおもてに書かれていない「子ども」の生活の面まで、こんどは自分の想像で書きくわえ、書きたして、「子ども」の生活のぜんたいをこうにちがいないと考えてみているわけなのだ。作者が当の相手としてえらんだ読者の理解(享受)は、まずこうしたものだ。
 だが、それでは、読者の立ちばが作中の人物のそれとすっかりいっしょになってしまうのかというと、そうではない。そこには、やはり距離がある。立ちばがいっしょになるというにしても、だれも、うすのろの大三郎の立ちばに自分を立たせて悦に入ったりはしないだろう。どういう立ちばに読者を立たせるかということ、いや、だまっていても読者がその立ちばを選びたくなるような、そういう人物のくばりかたに作者の苦心があるのだ。それに、また、この「子ども」は、ほんとうに空気がなくなるのだと思って、なやんだり苦しんだりしているわけなのだが、読者のほうには、それがうそだということが、はじめからわかっている。その日のぶきみな空模様というのも、それは、「子ども」たちにとっての実感なのであって、読者のそれではない。つまり、作中の人物と読者とのあいだには、やはり超えられぬへだたりがある。だから、作中の人物とひとつになるというにしても、それは、いくたりかの人物のなかの、あるきまった人物の立ちばに身をおくということであるし、また、ひとごとではない、わが身のことと思われる作中の人物の身のうえについても、かれの生活なり思想なりを、ある距離において観察できるような位置に、読者はすわらされているわけなのだ。読者の席をどこにもうけるかということに、また、表現にたいする作者の苦心がある。
 そういう場所の選びかたをまちがえたり、案内のしかたがわるいために、読者が妙なところに迷いこんでしまったりするような表現では、文学の表現ということはできない。文学以前の作品というのは、つまりこういう作品のことだ。そこで、文学の作家は、だれを相手に書くかということをまずきめてから、相手の生活や生活の実感、さらにまた、その実感にささえられた思想や理解力というようなものをしっかり見さだめておいて、しごとにかからなければならない。
 文学するということは、自分というものを見つめることにほかならぬ、といわれているが、それもつまり、作家のがわからいえば、読者とこころのかよった自分というものを見きわめる、ということでなければなるまい。作家は、作品をとして自分のいいたいことをいい、訴えたいことを訴える――なるほどそれはそうにちがいないが、そのいいたいこと、訴えたいことというのが、手前がってなひとりよがりのいいぶんであったとしたら、ナンセンスもはなはだしい。作家が、たんに自分の「実感」だけをよりどころにして創作するとき、その作品は、きちがいのたわごと同然のものになってしまうだろう。人民は、いま、ヤミとうえにあえいでいるというのに、作中の「人民」は生活の苦しみを知らぬひとたちばかりだ。こんな例はやまほどある。現実は暗いのに、作品の世界は底ぬけな明るさだ。いまの文学作品にはこの手が多い。実際はこのとおりだが、だからといって、文学とはこうしたものだと考えるのはまちがっている。すくなくとも人民の文学は、うそを書いてはいけないはずだ。現実を実際あるとおりにうつすことが、人民文学のいのちである。それは人民解放のための文学であるからだ。
 そう考えてみたばあい、たんにいいたいことをいい、訴えたいことを訴えるというのではいけないことが、しぜん胸におちるだろう。その訴えたいことというのが、読者である民衆自身がいいたいと思っていること、訴えたいと思っていること、そのことにつながる、いいたいこと、訴えたいことでなくてはならぬはずだ。文学者は民衆の代弁者である。また、その教師である。人民の教師である以上、文学者には、人民のことば(思想)を指導し、それをりっぱなものにそだてていく義務と責任があるはずだ。ことばにあらわすすべを知らぬ人民の、つもりつもったうっぷんやいきどおりを、あるいはまた、働くものだけが知っている生活のよろこびや悲しみを、さらにまた、世の中のもつれからくる生活のゆがみや感情のねじくれなどを、文学のことばに整理し翻訳することによって、かれらにきびしい自己批判を与え、思想を与え、かれらの生活に方向を与えていくということこそ、こんにちの文学者の果さねばならぬ、だいじなつとめであるはずだ。
 だから、また、文学者には、正しい現実認識が必要であるというようなことも、それは、読者である民衆によって認識された現実のどういうものかということを、めざめた人民の立ちばに立って検討するということでなければなるまい。それから、もう一つはさっきいったことだ。読者の理解力に応じた表現をとるということだ。たとえば、子どもを相手におとなのことばを使ってみたところでなんにもならない。相手の理解力に応ずるということは、しかし相手そのものを理解するということでなければならない。相手の生活や相手の思想を理解もしないで、たんにことばだけやさしくしてみたってはじまらない。だから、また、表現をやさしくするということが、内容を低いものにするということであってはならぬはずだ。むろん、それも程度問題だが、相手の水準が低いから、ほんとうのことがいえないというのは、一般的にはうそだ。水準の高い低いということよりは、それはむしろ、思想や感情のゆがみやもつれの程度が問題なのだ。でなかったら、子どものための文学は、きまっておとな相手の文学より低級だということになってしまうだろう。子どもを相手に書かれた文学作品だっていいものはいいし、おとな相手の作品でもくだらないものはやはりくだらない。表現のやさしい、むずかしいということと、内容の高い低いということとは別のはなしだ。

 そこで、話をもう一度もとへもどして、「空気がなくなる日」という作品が、おとなが読んでも子どもが読んでもおもしろいと感ずる作品だという点について考えてみよう。
 「空気がなくなる日」は、なによりも子ども相手に書かれた作品であった。せいぜい十六七ぐらいまでの年ごろの若いひとたちが相手の作品なのだ。だから、いくらおとながおもしろがって読んだり見たりしたところで、当の小さいひと、若いひとが、なんだこんなものというのでは、この作品は失敗の作だということになるわけだ。表現のじょうずへたということは、だから、当の読者の気もちにしっくりいくような技巧がとられているかどうか、ということできまる。そこで、わたしは調査をしてみた。この作品が、実際にどんなふうに読まれているか、理解されているか、という点についてである。
 まず、小学校二年生の女の子三人あつめて読んできかせた。みんな学校のできがいい、すなおな子どもたちばかりだ。それから、ふだん童話やなにかに興味をもって読んでいる子どもたちであるということも、ここにつけくわえておいたほうがいいかもしれない。ふたりのお父さんは、新制高等学校の先生だし、もうひとりは会社員の子どもだ。読んでいくうちに、引力ってなんのこととか、校長先生のくせにどうしてばかなの、というような質問が出てくる。話がうすのろの大三郎のところまでくると、ああ幸太郎さんみたいなひとね、という。(女の子たちのクラスは、男女組で、幸太郎君はクラスきってのいじわるであばれんぼうだ。)そして、大三郎がなんでかわいそうなのかわからないという。また、空気がなくなるなんてつくりごとをしたひとたちが、ほんとうににくらしいという。ぶきみな朝やけのところは、みんな息をころして聞いている。空気がなくなるというのはウソだということがわかっていながら――いや、それとこれとは別なのだ。空気がなくなるとは思わないけれど、なにかしら不吉なことがおこるにちがいないと思っているのだ。空気がなくならないかわりに、地震かなにかになって「子ども」が死ぬんじゃないかと思った、とかわいい読者(きき手?)のひとりが、あとでいった。もうひとりの女の子は、どうして大三郎がひどい目にあわないの、ともいった。
 これが六年生の男の子になると、校長先生がちょろすぎはしないかというようなことに疑問はもたないかわりに、ぶきみな朝やけのことでは、なんにもおこらないのにどうしてそんな空模様になったのかと、首をひねるのである。そして、「子どもたち」がどうして大三郎をなぐりつけないのかということや、大三郎一家みたいな、ふといこんじょうのやつらを、なんで村のひとたちがそのままにしているのか、というようなことをいうようになる。大三郎をかわいそうな人間だと感ずる「子ども」の気もちにたいしては、そうだ、ほんとにそうだ、と共鳴するものもあれば、ちっともかわいそうでなんかない、とりきみかえるものもいる。
 つぎは女学生についての調査だが、十六七の女学生諸君の読後の感想を聞くと、小学生諸君と同じように、口をそろえて、「おもしろかった」とはいうが、どこがどういうふうにおもしろいのかという点ではまちまちだ。「子どものおとぎばなしでしょう。」――これは手がつけられない。手はつけられないが、これも一つの読みかただ。
 おつぎは――みんなといっしょに死のうという「こども」の気もちが、たまらなくかわいそうで泣けてきた。かわいそうだけれど、親兄弟と死に別れするよりは、そのほうがどんなにしあわせかしれないとも思った。そして、自分だけ生き残ろうとする大三郎がにくらしくなったし、こんなさわぎをおこさせたゴムつくりだかゴム商人だかが、刑務所に入れられればいいと思った、というのである。
 ほかのもうひとりの女学生は、こういった。こんなおもしろい創作を読んだことはない。もうせん漱石の「坊ちゃん」をおもしろいと思って読んだけれど、この作品を読んでみたら「坊ちゃん」がつまらなくなってきた。それがどうしてだか自分にもよくわからないが、つまらなくなったことだけはたしかだ、と。――そこで、わたしはきいてみた。世の中にどうしてふしあわせというものがあるのかということや、おたがいになかよく暮らしたらよさそうなものなのに、ひとを苦しめるような悪いやつがうまれてくるのはどうしてか、というようなことが、「空気がなくなる日」には書かれてあるのに、「坊ちゃん」にはそういう点へのきりこみがないから、それでつまらなく感じるのではないか、と。
 「そう、それなんです。それではっきりしました。」といって、この女学生は、ほんとうにしあわせな人間の世の中をつくるためには、坊ちゃんが赤シャツをなぐりつけたように、大三郎ひとりをたたいてみたってしょうがないと思うことや、大三郎に自分のみじめさをさとらせるためには、みんながめざめて、みんなの力で、それがしぜんとのみこめてくるようなしくみに世の中を進めなくてはだめじゃないのか、なにせ相手はうすのろなのだから……というようなことを、特長のある、おもい口つきで、ぽつりぽつりと語りはじめた。

 これは、ほんの一部についての調査だが、それでもおおよそのけんとうはつくだろう。つまり、だれもがこの作品をおもしろいと思って読んでいるわけなのだが、おもしろいということの内容はめいめいにちがっている。作者が相手として選んだ、当の読者のあいだにおいてさえ、その受けとりかたにはかなりのはばがある。こういうちがいは、どこからくるのだろう。結論をさきにいうと、それは、読者めいめいの体験のちがいがもとになってのちがいだ、ということになるのだ。たとえば、この作品には、ちょろい校長先生がえがかれている。それを、受けとれない、と二年生の女の子たちがいうのは、校長先生というものが、おさない子どもたちにとっては無条件に「えらい人」であるからだ。六年生の男の子たちが、そりゃそうにきまっているさ、という調子で読みすごすのは、一つには、そんなことにはこだわらないで話の本すじをとらえるだけの修練――読書体験ができているからだし、また一つには、わが校の校長先生がノミスケでこちこちで、そのくせおひとよしだという、実際の経験からもきている。また、たとえば、幸太郎君はもてあましの乱暴者でいじめっ子だが、それだからといって、別に悪いことをしたむくいを受けているわけではない。むくいは、むしろ、いい気になって女の子たちをいじめていることで、自分を悪い子にしていっているという点にあらわれているわけだ。うすのろの大三郎のばあいだってそうだ。最後の場面でみんなにそっぽをむかれたり、からかわれたりするだけで、因果応報、気がヘンになったなどということにはならない。ところで、二年生の女の子たちは、どうして大三郎がひどい目にあわないの、という不満をのべるのだ。それは、ふだん読みふけっている童話の影響による点がすくなくない。むろん、童話の影響とだけいいきるわけにはいかないが、そういう読書体験が大きくはたらいているということだけは、子どもたち自身の口うらからも察しがつく。
 つまり、子どもたちは、実際の生活のなかでみたされないものを、このお話しの世界に遊ぶことでおぎなっているのだ。生活の実際面では幸太郎君に泣かされてばかりいるのだが、それが童話のなかの「幸太郎」――いじめっ子は、なにかの機会に反省していい子になったり、あるいはまた、気はやさしくて力もち式の桃太郎みたいな、もっと強い子があらわれて、この「幸太郎君」をぎゃふんといわせたりもする。物語というものは、つまりこの女の子たちにとっては、実際生活では求められないものを与え満たしてくれるもの、ということにきまっているのだ。だから、この作品のあつかいが、なんだかあきたりないのだ。
 この女の子たちにとってはそうだが、六年生の男の子のばあいは、なんで大三郎みたいなやつをほったらかしておくんだ、という点に、かえって疑問をいだくようになっている。つまり、大三郎がなぐられるなりなんなりすることのほうが生活の実感にぴったりくるという点では、両方とも同じことだが、女の子のほうのは、「お話し」ではそういうふうになるのがおきまりなのに、という期待はずれにめんくらっているわけだし、男の子のはそれとちがって、自分たちの実際生活と作品の世界とのくいちがいに、実感にそぐわないものを感じているわけなのだ。男の子たちは、自分たちの生活の実際面で、クラスのこんなゲジゲジはのさばらしてはおかぬのだ。自治会で問題にするなり、腕と腕なら、衆のちからでしまつをつけているのだ。だからこそ、そこにぴったりしないものを感じるわけなのだ。
 体験のちがいからくる受けとりかたのちがいは、女学生どうしのあいだにも見られること、まえに述べたとおりである。まえのふたりの女学生の受けとりかたは、ふつうによくそういわれている「女学生のセンチメンタリズム」からまだぬけきっていないばあいを示しているし、あとのひとりのばあいは、人民のたましいにめざめはじめた人の受けとりかたを示している。いい忘れたが、この女学生は、なかなかの読書家だし、それに、学校の自治会をありきたりの「お修身」的自治会から学校運営自治会にまで高めようとして、いまけんめいに力を入れているファイトの持ちぬしだ。

 こう見てくると、体験のちがいというのは、つまり体験のしかたそのもののちがいということだし、また、生活の実感――思想のちがいということにもなろう。作品は一つだが、その内容は、相手によっていろいろさまざまに理解されてしまうわけだ。作品の内容が一つだと考えるのは、ことの実際からはなれている。
 文学は表現だ、というようなことを口にするひとがあるが、ただ表現だというようなばかげたことはない。文学にとって表現はぬきさしならぬ、だいじな意味をもつというのなら、いちおうはなしはわかるが、しかし、表現がだいじだということは、内容がだいじだということとじつは同じ事がらなのだ。(この点については、つぎの「表現と理解」「文学と科学」の項で吟味するつもりだ。)だから、文学においては、内容より表現のほうがたいせつだなどという議論は成り立たないし、ましてのこと、文学は表現だなどということにはならない。それは何かを表現したものだ。その何かを、が、つまり内容というものなのだ。もっとも、このいいかたは、ほんとうはまちがっている。文学のはたらきは、ある内容があって、それを作品にあらわすというようなものではなくて、内容――というよりは、むしろ内容をつくる認識と表現とが一つものになってのはたらきであるからだ。ほんとうは、そこまで考えなくてはいけないのだが、かりにまえのように単純に考えてみたとしても、内容なり表現なりが、読者によっていろいろに受けとられているわけなのだから、自分の受けとりかたや、自分が受けとった内容をめやすにして「この作品の表現は……」などいうのは、いい気なはなしだということになろう。
 つまり、表現とか内容というのにも、作者による表現(内容)と、読者の理解(享受)した表現(内容)との二つがあることになるし、また、読者の理解した表現というのにも、そこにかなりのはばがありでこぼこがある、ということになるのだ。そういうくいちがいのもとをつくっているものが、つまりめいめいの体験のちがい、実感のちがい、思想のちがいであるというわけなのだ。


   表現と理解
    ―子どもの文学とおとなの文学―

 表現のうまい・まずいということは、だから、その作品がだれを相手に書かれた作品であるのかということできまる。当の相手にぴったりするような表現がとられていれば、あとのだれがなんといおうと、それはじょうずな表現だということになるわけだ。ところで、「空気がなくなる日」の読者についてのわたしの調査は、作者が選んだ当の相手にたいしても、かならずしも思うような効果をあげているとはかぎらない、という結論に達するのである。それでは、この作品は失敗の作ということになるのか。そうではない。いま、そのことに筆を進めよう。
 むろん、読者のたれかれが、なんだこんなものというのなら、それは失敗の作だということにもなろう。だが、さっきの調査が示しているように、みんな一様におもしろいというのだ。いままで読んだ創作がつまらなく感じられてくるぐらい、おもしろいという読者さえあるのだ。ただ、どういうところが、どういうふうにおもしろいかという点で、はばがありでこぼこがあり、また、作者のねらったかんどころをはずした受けとりかたもなされている、ということなのだ。だが、一方には、いまいったとおりの、女学生のすばらしい受けとりかたもあるわけだ。
 いまの過渡期に、表現理解のこのはばやでこぼこはいたしかたないということが、まずいわれなくてはなるまい。いまの過渡期にというのは、まずさしあたって、半封建的な観念(考え)から人民本位の観念へのきりかえの時期に、という意味である。いまのこの時代は、おとなも子どもも、まだまだふるい観念にとらわれているし、それに世の中のうごきは、かならずしも、このふるい観念をこわすような方向にむかってはいないからだ。(くわしいことは「思想と文学」の章参照。)こんにちのありさまでは、家庭のふんいきそのものが、そういうふるい観念にしばられているばあいが多いのだから、いきおい子どもたちの読物も、講談社ふうの、あのやりくちの読物にかぎられているというばあいが、ひじょうに多い。いまの十六七の年ごろのひとだって、学校では軍国主義の教育をうけ、また読物の面でもやはり講談社ふうのそれにそだてられてきた人たちが大部分なのだ。それに、さっきもいったとおりの、いまの世の中のありさまなのだ。だから、そういう相手にいちばんしっくりいくのは、講談社文学の表現だということになろう。だが、ありきたりのものを書くのなら、それは職人しごとだ。年季をいれた文学者にとって、それはたやすいことだ。たましいをあくまにうりわたしさえすればである。人民の良心をもつ作家には、それができないのだ。
 ありきたりのものを商売気たっぷりに書くことはやさしい。それができないから、というよりは、そういうあくまの文学をたたきつぶして、人民の栄養になるような文学を生みだそうと考えるからこそ、そこに、ぎごちない表現も、、いまこの過渡期にうまれてくることになるのである。しかし、表現のぎごちなさというのが、めざめない読者(奴隷のことばにしばられているひとびと)の固定した「実感」をめやすにしての「ぎごちなさ」であるばあいが多い、ということも見おとしてはいけない。「空気がなくなる日」のばあいにも、このことはあてはまる。読者の作品理解が示す、あのはばとでこぼこが、一つには、読者めいめいの体験のゆがみ、ゆがんだ体験のしかた、誤まれる実感、等々、読者のそうした生活のもつれとねじくれがえがきあげたカーヴだ、というふうにいえないこともないのだ。
 たとえば、大三郎をみじめな人間だと感じる「子ども」の気もちこそ、ゆがみない、すなおな人民の子どものこころなのだが、自分はどうしてもこの「子ども」の気もちにはなりきれない、という読者もげんにあるのだ。だが、むろん、そこにはことばのゆきちがいというか、読みかたが粗雑なための誤解もある。さっき六年生についての調査のところでいったように、「ちっともかわいそうでなんかない」と、そう語った子どもは、「かわいそう」ということばそのものにこだわって、その意味をとりそこねているのだ。だから、大三郎なんかちっともかわいそうでない、そういうこの男の子たちのこころのなかは、悪をにくみ、自分だけよければという利己的な考えやふるまいをにくむ気もちでいっぱいなのだ。それを裏からいえば、人間はおたがいになかよくしていきたいものだ、自分は、ひとにいじわるをしたり悪いたくらみをしてひとを苦しめたりするようなおとなにはなるまい、――いってみるなら、そういう気もちなのだ。だから、けっきょくは同じことになりそうなのだが、ここのちがいは大きい。つまり、そういう雑な読みかたしかできない、というところに問題があるのだ。そういう粗雑な読みかたをすることで、この世の中のさまざまな罪悪や人間悪の根を社会のしくみにまで掘りさげてえがいている、この作品の表現をいわば「坊ちゃん」ふうの正義感――さらにもっとやすっぽい、うわつらの正義感をあらわした作品として受けとっているわけなのだ。そういう読みかた、理解のしかたを植えつけたものこそ、じつは講談社文学にほかならないのだ。
 人民文学が手を焼くのは、それが講談社文学のわくのなかにいる読者相手のしごとだからだ。むろん、そのわくのそとにいるところの読者もあるにはある。だが、それも、人民に背なかを向けているという点では、けっきょくは同じことなのだ。たとえば、お上品にかまえた「赤い鳥」ふうの童謡・童話、また、純粋におとな相手のものでは、「政治と文学」の項で述べたところの実感主義の文学等々、いわゆる純文学である。そうした反動文学が与えた、またげんに与えているところの害毒は、ひとびとの頭と胸をむしばみ、悪血となって、体内をのたうっている。人民文学のしごとは、いわばこうした病人に血清注射をほどこし、栄養剤をあたえ、手あつい看護のもとに健康の回復をはかることである。あるいはまた、病気のかるいうちに予防注射をおこない、ばいきんにたいする抵抗力をつくることである。「空気がなくなる日」の果している役割は、まさにそれなのだ。この作品が、第三期症状の者にたいして効果をあげることができないからといって非難するのはあたらないし、また、相手がかるい病人のばあいであっても、その病人(読者)の環境があまりに不潔すぎて、せっかくの注射もむだになるというようなばあいだってありうるわけなのだ。それは、くすりが悪いのでも注射のしかたがへただからでもない。
 だから、つまり、その作品が、読みごたえのするすぐれた内容の作品かどうかということや、また、その表現が読者にたいして適切であるかどうかというようなことは、たんに読者の受けがいいかわるいかという、事がらのうわつらだけでは判断できない。だが、そういう読者にだけはわかってもらおう、と作者が考えた当の相手にさえ、この作品がしっくりいかなかったとしたら、それはやっぱり表現のしかたがまずかったのだ。だが、そんなことは、だいじょうぶない。調査の項のおわりにかかげた女学生の読後の感想に耳をかたむけるがいい。また、六年生の男の子たちのなかば以上は、「子ども」の気もちに共鳴することで、まずまず作者のねらったとおりの方向に作品の表現を理解しているではないか。それに、この作品は「子どもの広場」の読者が相手だ。この雑誌の読者といったら、――いや、読者の素質そのものより、むしろその家庭環境、生活環境のほうが問題なのだが、だいたい人民の意識にめざめたひとたちの環境であるはずだ。当の本人は、すこしぐらいぼんくらであっても、作品の正しい読みかたを指導してくれる人のひとりやふたりはそばにいようという、めぐまれた環境なのだ。そう考えてみたばあい、この作品が、当の読者にとってぴったりした内容と表現をもった作品であることが、よくわかるだろう。

 そこで、こんどは、相手にぴったりするとか、しくりいくということについて考えてみる必要がありそうだ。
 文学作品というものは、むろん、たのしく読めるものでなくてはいけないが、そのたのしさというのが、一度読んでしまえばそれっきりというたのしさ、おもしろさではないはずだ。二度三度と読みかえすことで、はじめ読んだときとはまた別のたのしさを発見するというのが、文学にしたしむもののよろこびである。自分がおさなかったために、また、まずしい心をもっていたために、とりつきにくく読みづらかった文学作品が、そだったこころで読みかえしてみると、ほんとうにしっくりくるというようなばあいもあるし、逆にまた、自分にしっくりきていたはずの作品が、いまとなってはぴったりしなくなった、というようなばあいだってある。あの女学生が、もうせんたのしく読んだ「坊ちゃん」が、いまの自分にはものたりなくなってきた、というのなぞは、あとのばあいだ。
 つまり、すぐれた文学作品というものは、読めば読むほど味がでてくるものなのだ。味がでてくるというのは、その作品のもつ内容の高さがだんだんに理解されてくるということだし、つまりは、文学によって自分が高められるということなのである。また、それがすぐれた作品であれば、自分が高まるのにつれて、作品のほんとうのところが理解されてきて、そのたのしさはいっそう深いものになるのである。「空気がなくなる日」がおとなにとっても、やはりたのしくおもしろい作品だということの理由の一つはここにある。つまり、おとな――おとなにもいろいろあるが、人民の心をもったおとなに、この作品の表現がたのしいものとして受けとられているのは、一つには、社会にたいする理解のしかたと実践意欲の点で、作者と同じ一つの方向にある自分を感じるからでもあろうし、また一つには、ながい読書体験・享受体験からして、文学というものの読みかたをひとわたり心得ていることによる、ぴったりした感じというようなことがもとになっているのかもしれない。それに子ども相手の創作であるだけに、作者の技術的な苦心はかえってなみなみならぬものがあるのだが、それだけにまた、表現そのものはきわめて単純化されているし、子どもの直観に訴えてぴんといくような、そういう角度からの、要点をつまんだ問題のとらえかたがなされているために、読者が自分の想像をはたらかせて表現をおぎなうという部分が大きくなって、かえっておとなにとって興味ふかいものになっている、というふうにも思えるのだ。「空気がなくなる日」の表現が、おとなにとっても子どもにとっても、たのしいものとして受けとられている、というこの理由は、おおよそそんなところだろう。
 子どもにだけたのしくて、おとなが読んではなんの興味ももてないというような作品は、ろくなものではない。(「おとな」というのは、さっきいったプラスの意味のおとなのことだ。)子どもの生活の栄養になるような、すぐれた文学作品というものは、おとなにとってもまた、たのしいものであるはずだ。どうしてかといえば、そこには人民の生活の真実があらわされているからだ。もっとも、その真実は、子どもの生活の実感においてとらえられた真実である。作家は、読者であるところのそうした子どもの実感につながる自分の実感を見つめて創作しているわけなのだ。だから、その真実はひじょうにナマな、またひじょうに素ぼくなかたちであらわされた真実にすぎない。だが、素ぼくであるということが、きまって複雑なものより劣っているということにはならない。素ぼくであっても、正しいものは正しい。また、考えかたそのものがいくらこみいっていても、まちがった考えは、やはりまちがっている。いちがいに、単純なものより複雑なもののほうがねうちがあると考えるのは、これまた近代の誤まれる伝統である。素ぼくであるために、かえって黒と白との区別がはっきり示されている、こうした作品の表現に、はっと虚をつかれた思いをするのが「複雑」な生活を生きるおとなのつねだろう。おとながそこに見いだすものは、複雑な実生活のさまざまを要約し単純化した、人生の見とり図である。しかし、そのような見とり図が、作者の意図した表現のなかに立体的に図式化されているわけではない。表現の足らないところをおぎなって、そういう立体化――形象的な図式化をおこなっているのは、読者そのひとである。
 子どもの読者が作品に接するばあいでも、ただたんにことばのうわつらを読むだけでなくて、作品のおもてにえがかれていないことにまで想像を走らせて表現をおぎなっているということは、まえにも述べたとおりだが、そういうことは、作者にとって当初からの予定のプログラムであったはずだ。文学の表現とは、ほんらいそうしたものであるのだ。読者によるおぎないなしに文学の表現は成り立たない。そして、また、読者がどんなおぎないかたをするかということは、読者そのひとの体験できまる。だからこそ、作者は、どういう生活をしている人たちを相手に書くか、だれに読ませるために書くか、ということをきめておいてから、仕事にかからねばならぬのだし、また、読む相手の生活そのものにふかくくい入って、かれらの思想や体験の実際をわがものとしなければならなかったわけなのだ。
 子ども相手の作品が、おとなに読まれるばあいの表現のおぎないというのは、しかしそれとはだいぶはなしがちがうようだ。おとなに読まれるというばあいをも、作者はいちおう考えのなかに入れているかもしれないが、表現そのものは、しかしあくまで子ども本位だ。子どものために書かれた文学作品をおとなが読むばあい、作品の表現にあきたりないものを感じるのはあたりまえのことなのだ。あきたりない点というのは、けっきょく、素ぼくなかたちでしか真実が示されていないということに関してであろう。真実が素ぼくなかたちで示されているということこそ、じつはかえって魅力的な点なのだが、おとなはしかし、いつまでもこの「素ぼく」のなかにとどまっていることはできない。というのは、あらわれが素ぼくであっても真実(真理)は真実にちがいないが、その真実には、あるきまった限界があるからだ。いつわりではないが、それは、あるきまったわくのなかでの真実であるからだ。

 たとえば――というより、「空気がなくなる日」の表現についてなのだが、人間悪や悲劇のもとを、社会のしくみそのものにまでつき入ってあつかっているのがこの作品だ、とさっきわたしがいったが、ほんとうをいえば、そういうことは、この作品の表現には生かしきられていないのだ。それは、むしろ作者の胸にあることで、表現のなかにまでとけこんではいない。そういうふうに社会のしくみにまでほりさげてものを考える作家であればこそ、こうした作品を書くこともできたとはいえるけれど、そういう思いが、思いどおりここに生かされているわけではない。だが、これは作者のちからが足りないせいではない。問題は、むしろ相手にあるのだ。当の相手である読者そのひとの体験のまずしさ、おさなさである。おさなくしか真実(真理)というものを考えることのできない相手に、理づめに合理的に「もののまこと」(客観的真理)をわからせることはむずかしい。そして、「もののまこと」は、ただたんに「こころのまこと」(まごころ)を道筋としただけでは、とらえることのできぬものなのだ。それは、どうしても合理的な態度で理づめに方法的に段階をふんで考えていかなくては、つかめぬものなのだ。だから、「もののまこと」に達するのには、どうしても知性の訓練が必要なのだ。一段、一段と石段をのぼりつめるように、段階的に自分の知性をきたえ、とぎすましていくよりほかに、道はないのである。「もののまこと」に至ろうとして、合理的なものに、そしてまたより合理的なものにと人間の知性をきたえていくものこそ、法則を求めて進む科学のすがたにほかならない。文学がもとめる真実も、手段はちがっても、けっきょくは、この「もののまこと」に合致するものでなければならぬわけだ。そういう「もののまこと」の立ちばに立ったばあい、おとなになって、子ども相手の文学があきたりぬものに感じられるのは、あたりまえのことなのだ。
 そこで、つまり、さっきいったような「表現のおぎない」がなされることにもなるのだ。しかし、それは、あくまで「おぎない」であって、作品の主題を別のものにすりかえたり、あらぬ方向にずらしたりすることではないはずだ。(むろん、なかには、そういうすりかえをして読むおとなもあるが、それはべつにおとなにかぎったことではない。この点については、まえにも述べたとおりだ。)それは、だから、作品の主題を、主題の示す方向にふかめて表現を「理解」しているわけなのだ。そのことから明らかなように、さっき「空気がなくなる日」がおとなにもたのしめる創作だといったのは、この作品の内容なり表現なりが、主題の示している方向にふかまっていけば、おとな相手の文学としてもりっぱな作品になる、ということでもあるのだ。その反対に、たとえば「少年クラブ」式講談社児童文学を、それのむかっている方向に主題をふかめていけば、そこにうまれてくるのは、「キング」式俗流反動文学でしかないのだ。


   文学と科学
    ―ふたたび実感の問題にふれて―

 「芸術はながく、人生はみじかい。」ということわざがある。ひところ、ずいぶんはやったことばだ。人のいのちがみじかいというのはほんとうだけれど、芸術のいのちがかぎりないというのは、うそだ。この「うそ」を「まこと」にすりかえて、この戦時中は、日本のふるいかびくさい文学作品のあれこれをかつぎ出して、みんな一様にかぎりないいのちをもつ古典だととなえて、お祭りさわぎをしたものだ。そのくせ、人間性のまことをありのままにとらえあらわしたような、自由謳歌の文学は、けしからんというわけで、古典のわくのそとに追いやったりもした。たとえば、十七世紀の市民文学者、井原西鶴の作品なぞが、そのいい例だ。また、たとえば、万葉集のような作品でも、――万葉集のなかには、この歌集が編集された当時の作品もあれば、ずっとふるい時代の歌もあることは、諸君の知っているおられるとおりだが、そのなかのわりあいのちの時期に属する歌だけが、万葉集の本質をあらわすものだとして、いっぱんに宣伝されたものだ。後期の歌というのは、大化の改新をさかいに日本に一君万民体制の政治組織ができあがり、天皇が神として考えられるようになってからの作品なのだ。「皇は神にしませば……」式の歌、「海ゆかば……」式の歌が、それである。その半面、徴発され、親と別れて海辺の防備におもむく防人たちの悲しみを、きわめてそっちょくに訴えたような歌は、そっとふたをされてしまったのだ。
 つまり、芸術は永遠である、というようなお題目をとなえるのは、例の「ひとにぎりの人間」どものご用をつとめようとする連中か、そうでなければ、しびれぐすりのもられた文学や音楽のききめで気がヘンになった連中ばかりだ。だって、そうだろう。文学が文学としての意味とはたらきをもちうるのは、それを文学として受けとる相手にたいしてだけであるからだ。読者なしには文学は成り立たないし、また、文学の表現は、読者の体験の裏うちなしには成り立たない。文学が文学として成り立つのは、作家と読者との共通した体験の面においてである。その体験というのが、日常生活の面における体験を枢軸とした体験であることは、まえにも述べたとおりだ。文学の表現というものは、相手がどういう生活をしている人たちであるのか、また、どういう生活の実感に生きる人たちであるのか、ということにたいする計算から、みちびきだされるものなのだ。はやいはなしが、手紙のようなものだってそうなのだ。書く相手によって、いいたいこともちがえば、いいかただってちがうだろう。「あのとき、あそこで、きみのいったことは……」というような表現は、あのとき、あそこにいあわせた、同じ体験をもつものどうしのあいだでは、したしみふかく、ほんとにぴったりとしたいいあらわしかただということにもなろう。だが、かりに、このハガキがまちがってほかの人のところへ配達されたばあいを考えてみるがいい。「あのとき」がいつのことなのか、「あそこ」というのが、いったいどこのことなのか、てんでチンプンカンプンだ。また、かりに、「あのとき」が何月何日のこと、「あそこ」というのはどこそこのこと、というようなことを説明されてみたところで、「あのとき、あそこ」での体験をもたないものには、けっきょくその気分はわからない。文学の表現だって同じことだ。文学は、作家と読者との共通した体験の面において成り立つものなのだ。しかも、その体験は、いわば「あのとき、あそこで」ふうの、きわめて日常的な性質の体験であるという点に、特長があるわけなのだ。だから、時代がちがい、環境がちがえば、それは文学としてのはたらきをしなくなるのはあたりまえのことだ。また、子どものための文学作品が、そのままでは文学としてのはたらきをおとなにたいしてもつことはできないし、おとな相手の文学の表現は、また子どもにとっては、ことばの羅列いがいのなにものでもない。「ひじょうにえらい詩人だって、ことばの通じない国ではなにもできはしない。」とロダンもいっている。
 だから、そこに、外国の作品を日本語に訳すとか、古典を現代語に訳して味わうというように、時代や環境のちがい文学作品にたいしては翻訳ということがおこなわれるわけなのだ。だが、その翻訳ということも、ただことばのうわつらをとらえて、それを自分たちのことばに訳しただけではなんにもならない。たとえば、おとな相手の作品を、ことばだけやさしくして、子どもむきのものにしてみたところで、それは子どもの文学にはならない。まえにもいったように、作品の主題を主題の方向においてとらえ、しかもそれを子どもの現実(生活の実際)に翻訳して、子どものことば(思想)として表現しなおすところに、おとなものの子どもものへの翻訳がおこなわれるわけなのだ。翻訳の名にあたいする翻訳というのは、ことばの内容(思想)そのものを訳したもののことだ。よく引かれる例だが、中国のふるい時代の思想家の書いたもの、たとえば論語だとか孟子だとか荘子というような本を、いわゆる同文同語の日本語に訳したもの(漢文)で読むより、ヨーロッパ語訳で読んだほうがずっとわかりがいいし、ほんとうのところがつかめるというのは、この関係をあらわしている。
 話はもとへかえるが、ともかく文学というものは、共通した体験の面で相手に訴えていくものだった。それで、体験のちがう相手にたいしては、翻訳ということを媒介にして相手に訴えるほかはないわけなのだ。学校の国語教室でおこなわれている、文学教材の読みかた指導というのは、つまりこの翻訳による文学理解のしごとであるわけだ。ただ残念なことに、指導するほうのがわの先生自身が、文学というもののほんとうのところを理解していないために、また、翻訳ということの意義をつかんでいないために、翻訳ということが、ただの字句の解釈や「気のきいた」通釈に終ってしまったり、作品の表現理解と称して、作品のつまらんところに感心することを生徒にしいたり、そのくせかんじんのところを見おとしたりという、とてつもないひどいことになっているのがいっぱんだ。そこで、諸君はまず、文学の表現というものが、体験の日常性にささえられているものだということを、はっきりさせておく必要があろう。
 だが、文学の表現が日常性にささえられているということは、文学の表現そのものが日常的な性質のものだということではない。それは、日常性に即しながら、しかも日常性を超えたところに、うまれてくるものなのだ。
 自分というものを見つめるところに文学がうまれるというにしても、その自分というのは、作家にとって、読者いっぱんの生活と思想につながる自分であったはずだ。そういう自分というものは、もはやただの日常的な自分ではない。たとえ自分の生活の日常には、奴隷のことばからぬけきれぬものが残っているとしても、文学者としての自分は、そのような生活の実感をころして、めざめた人民のこころをこころとすることで、創作にしたがわなくてはならぬわけだ。だから、文学の世界は、作家が自分の体験の日常性(生活の実感)に即しつつ、しかもそれを超えたところにうまれてくるということにもなるのだ。また読者のほうからいうと、作品にえがかれている人間の生活は、まがいもなく自分自身の生活につながるものをもっている。というよりは、自分のいいたかったこと、訴えたかったことが、そこに語られているのだ。ことばにあらわしえなかった自分の思いが、ある一つのまとまりをもち、あるきまった秩序にしたがって述べられているのだ。だが、その思考の秩序は、自分の生活の常識とは、かなりかけはなれた性質のものである。が、しかし、そのような秩序(思想)によらなければ、自分の思いは、けっきょくことばとなって相手に訴えるちからになれないということも、いまは明らかなのだ。このようにして、読者は、日常的な生活の実感のわくのなかで文学を享受することをとおして、じつはかえって非日常的な体験を体験させられるというわけなのだ。だからこそ、文学は、作家にとっても享受者にとっても、自分というものをきたえてくれる現実のちからであるわけなのだ。

 また、こうもいえるだろう。科学者のしごとが、ただたんに現象の変化のしかたを書きとめるということに終るのでなくて、どうしてこういう現象がおこるのかということをつきとめ、また、この現象とほかの現象との関係をきわめて、現象そのものの本質を明らかにすることに、しごとそのものの目標があるように、文学者のしごとも、やはり、現象のうわべだけをながめて、それを文章に書きあらわすということではないはずだ。それは、科学者のばあいと同じようにめざすところは、現象をその本質においてとらえるということだろう。だが、そのばあい、科学は、現象の一般化、体験の非日常化という方法によって、それをおこなっている。たとえば、ここに三本の鉛筆がある。また、紙が三枚に本が三冊ある。科学のやり口は、この三つの事がらを、「数」の面からは「三」ということば(観念)にまとめあげる。「三」という数は、しかし「ことば」(観念)としてあるだけで、実際にはそんなものはない。あるのは、三本の鉛筆であり三枚の紙であるのだ。だが、三とか四という、そういう形のない抽象的な数の観念が自分にこなせるようになってきて、はじめて実際生活を生きることもできようというものなのだ。さらに、この数の観念を、もっと抽象的なaとかbとかxとかyというような文字で表象することができるようになって、わたしたちの日常的な体験からぐんとはなれた、一般的なものになり、また、それが微積分的知識にまで非日常化され、物理学のことばとなることによって、こんどはわたしたちの日常生活そのものに大きな影響と変化を与えるものになってくる。人類の生活にこの原子力時代をもたらしたものが何であるのかを考えてみれば、そのことは明らかだろう。
 文学の方法は、科学のそれとはおもむきをことにしている。それは、現象を一般化するのではなくて、典型化するのである。日常的な体験(生活の実感)をたんに抽象的にとらえるのではなくて、非日常的なものを媒介にして、別の体験に移っていくのである。別の体験というのが、つまり、典型的な生活面における体験のことだし、また、ここに非日常的なものというのは、そうしたあたらしい体験に作者や読者をみちびき入れる、知性の実感のことなのだ。作家が自分自身の日常生活をそれとしてえがいた、身辺小説とか私小説というようなものでさえ、やはり読者の生活や思想につながるところの自分というものをとらえて、えがいているわけなのだし、読者が同感しそうなところにはアクセントをつけてえがいているのだから、それもやはり、ある程度の典型化をおこなっているということになるのだろう。現象の典型化というのは、つまり典型的な現象をもとめて問題のありようをはっきりさせるということなのだ。
 たとえば、「空気がなくなる日」にえがかれているような事件そのものは、そうそうしょっちゅうおこることではない。だが、ふくむところがあって、相手にけちをつけるための作りごとをひとにしゃべるというようなことや、根も葉もないそういうデマが「ほんとうのこと」としてひとのうわさにのぼるようになって、本人がひどく当惑するというようなことは、どこにでもあることだ。そういうデマというものの性質をよく考えてみれば、それはけっきょく、損得ということにからんでおこることなのだし、つまりはめいめいの小さな利害にこだわって、みんなが、みんなに共通した大きな利害を見おとしているところにおこることなのだ。だから、あることないこと、ひとのわるくちをいってみたり、また、自分のこととなるとあわてだすくせに、ふだんことさらそういう話題をこのんで求めたりする、そういう奴隷こんじょうが、人民相互の結びつきをばらばらにして、相手に乗ぜられるすきをつくっているということにもなるのだ。そのあげくは、相手が自分たちを苦しめるためにつくったデマを、自分たち自身の手であっちこっちにばらまいて、いっそう手ひどい苦しみを味わうという結果にもなるのである。だからまた、うわさとかデマというものは、それがわたしたちにとってめずらしい事がらではないだけに、問題はかえって大きいのだ。しかし、たいていの人は、そういうことに気がついていない。気づいていないから、もとめて自分からデマの運搬人になったりもしているわけなのだ。
 そこで、すててはおけぬ問題だということを訴えるのには、まずできるだけたくさんのデマの例をあつめ、その実例にもとづいて、それの性質や種類によるデマの分類をおこない、デマがどうしてうまれるかということや、それがどんなふうな手続きで大勢のひとに伝わっていくものなのかということや、デマのあげた効果はどんなものかということなどを、一般化して説明しなければならない。これは、つまり、科学という手段による訴えかたである。もう一つの訴えかたは、文学やその他の芸術によるそれだ。文学という手段によるばあいでも、むろんそういう一般的な認識は必要なのだ。ただそれが、事がらの一般的な認識にとどまっているかぎり、文学にはならない。文学の認識においては、すくなくともその一般的認識は、知性の実感にまで日常化されなくてはならない。それがさらに、知性の実感を媒介にして感情の面にまでしみとおり、感性の実感にまで、肉体化され日常化されたら、それはほんものだ。知性と感情が一つものにとけあったところにうまれる生活の実感。そうした実感にささえられたものが、つまり思想なのだが(「思想と文学」の章参照)、そういう一般的な認識が文学者の思想にまで主体化されてきたら、その作品は、幅と厚みのある堂々たる文学作品にもなろうというものだ。そういう文学作品は、文学にとって、だからまた、ひとしく文学にたずさわるひとびとのいだく美しい夢である。夢を現実におきかえようとして、ひとびとの努力が、いまにかたむけられているわけなのだが、この過渡期にそれを望むことは、ほんとうをいえばむずかしい。むずかしい証拠には、人民の文学をめざして書かれた作品のほとんどが、事象にたいする非日常的・一般的な認識を、――つまり科学的認識による事がらの説明を、たんにそれとして、日常的にあてはめてお説教したみたいなものに終っていることからもわかるだろう。
 それが文学作品であるからには、一般的認識は、すくなくとも知性の実感にまで、うちに深められなくてはならない。そして、そのような知性の実感に媒介されて、感性の実感は知性の光にかがやくものとして、常識のしょぼしょぼまなこからは、ありふれた平凡なものにしか見えぬ、日常的な現象のなかから、時代に共通する本質的な問題を、いわば準体験的・日常的な感覚においてさぐりあて、それを典型的な生活面に移して、具象的にくっきりとえがきあらわすのである。「空気がなくなる日」にえがかれたような事件は、そうざらにあることではない。だが、それをひとまわり、ふたまわり小さくしたような事件は、奴隷のことばが支配するこんにちの社会では、毎日どこかしらでおこなわれていることだ。「空気がなくなる日」の事件は、いわばそういう、かずかずの小事件を、問題の焦点に合わせて拡大撮影したものだ。その拡大のしかたや拡大の程度は、読者である小さいひと、若いひとのこのみ(生活の実感)に応じてきめられている。そのことを、もうすこしきっぱりしたいいかたであらわすと、そうした事件が大きな問題をはらんでいるということが、読者になっとくいく程度にまで、事件そのものを特殊化し、拡大しているということなのだ。それは、現象を典型化することで問題をうかびあがらせるということなのであって、現象のもつ日常性をころすことで問題を一般化してとらえるのとは、方法的にいっても、また対象のとりかたからいっても、まるでちがっている。
 文学と科学とのちがいは、だからして、方法のちがいであり、対象のとりかたのちがいである。方法的なちがいというのは、一方が現象の一般化という方法をとるのにたいして、一方が典型化という方法によっているということだ。そういう方法のちがいがどこからくるかといえば、双方の対象(相手どるもの)のちがいにもとづくことなのだ。対象がちがうというのは、誤解を避けるためにいっておくが、なにも「もののまこと」「ものの道理」――客観的真理にいろいろあるという意味ではない。世界が一つである以上、真理は一つだ。ただ科学の対象(相手)となるものが、客観的な真理(事実)そのものであるのにたいして、文学――芸術の認識の対象が、事実にたいする芸術家の享受であるというちがいが、そこにあるわけなのだ。
 つまり、文学の作家が、自分の認識の対象として見つめるものが、知性の実感に媒介された、読者のそれに通ずる自分の日常的な生活の実感であり、そうした実感にささえられた思想そのものであるという点に、科学的認識とのちがいがあるのである。だからまた、科学の求めるものが主体的な真理(こころのまこと)であるというふうにいうこともできるだろう。
 けれど、これは、文学の求める「こころのまこと」が、たんなる「まごころ」であってよいということではない。こんにちの文学作品の実際が、たとえばあの肉体の文学のように、たんなる「まごころ主義」におちいっているようなばあいはすくなくないけれど、だからといって、文学がそうしたものであってよいということにはならない。文学がさぐり求めようとする「こころのまこと」は、「もののまこと」をゆがみなく反映した「こころのまこと」でなくてはいけない。文学の認識が、知性の実感にささえられたものとしてあらねばならぬというのは、そのことなのだ。日常的な生活の実感をおもんずるあまり、もののまことを否定し、自分の知性をきたえることを忘れている実感主義への逸脱を、人民文学のために、わたしたちはきびしく警戒する必要がある。
 主体的ということは、主観的ということとはちがう。主体の尊重ということを語ることで、自分の主観(日常的な実感)をあまやかしてはいけない。過去のすぐれた芸術家たちが、自分の「かん」だけをたよりにあれほどりっぱな仕事をやってのけたということを理由に、文学にとって理論的な認識など何ものでもないなどと考えたら、それこそとんでもないはなしだ。「かん」だけがよりどころだったから、過去の文学は、きょくたんな反動時代には、手も足も出なくなって沈黙してしまうということにもなったのだ。ルネサンスのれい明がおとずれるまでの中世文学のすがたは、そのことを示している。また、こうもいえよう。その「かん」というのが、じつはその当時におけるいちばん高い知性の水準を示すものであるということだ。現代の知性は、科学的認識にもとづく合理的なものの見かたに裏うちされたものだ。科学の認識を否定して、こんにちの文学はありえない。

 ところで、文学の対象(相手)となるものが、事実そのものではなくて、事実にたいする享受であるということから、文学においては、認識することが同時に表現することであるという関係がうまれてくる。文学の対象は、たんに日常的なものではないけれど、すくなくとも日常化された、あるいは日常的なものにこなされつつある、日常的・非日常的な体験である。だから、文学の創作過程は、非日常的・一般的な角度からまず現実を認識しておいて、さてそのつぎに、認識内容そのものを文学という形式に移して表現するというようなものではないわけだ。一般的な認識は、文学以前のことに属している。この「文学以前」が文学そのものをしばるかしばらないかは、その理論的認識が、作家の知性の実感にまで深められてきているかどうかできまる。文学の作家は、知性の実感に媒介された、自分の日常的な生活の実感において、問題を認識するのである。日常的な実感というのが、読者の思想にかようそれであることは、くりかえすまでもあるまい。また、どういう問題がそこに選ばれるかということをきめるものが、作家の知性の実感であるということも、自然明らかだろう。知性の実感において問題がとらえられずに、たんに一般的な認識において問題が提出されているようなばあい、だからそれは「観念がさきばしりした作品」になってしまうのだ。さて、ここまでくると、はっきりするだろう。作家のもつ知性の実感というものも、やはり読者のそれにつながるものだということが。
 人民文学の課題は、だから、知識層のひとびとを相手として考えたばあい、読者であるこれらの人民大衆が、たんに一般的な認識としてもっている正しい知識を知性の実感にまでふかめ、また、かれらのあいだにたんに知性の実感としてとどまっているところの民衆の善意を、かれら自身の生活の実感にまで日常化して、正しい実践にみちびくということにあるわけだ。むろん人民文学は、はたらく人民ぜんぱんを相手とした文学でなければならないし、また、大多数の人民の現状が、奴隷のことばにしばられていることからすれば、人民のがわに立つ文学の作家たちは、まず、そういう目ざめないひとたちを相手にした仕事をしなければならぬということにもなろう。だが、血の犠牲をはらったこの戦争を身をもって体験していながら、いまだに地主・財閥の政党に票を投ずるようなひとたち。人生の目的は金もうけにあり、という「固い信念」に生きるひとたち。文学といえば不健全なものと考えて、文学のブの字も知らないで、三十、四十になってしまったようなひとたち。また、小説というと、汽車の旅のつれづれをなぐさめる、吉屋信子や菊池寛りゅうの講談社文学を思いうかべるようなひとたち、等々々――こうしたひとたちを相手にして、文学はいったい何ができるというのか。
 あえていうが、文学は、こうしたひとびとにたいしては無力である。猫にとって小判が小判としての意味をもたないように、文学はこうしたひとびとびたいしては、文学としてのはたらきをもたない。こんにちの段階において、人民文学が自分の相手として考えてよいのは、むしろ、人民の意識に目ざめつつあるいわゆる知識層のひとびとや、知的な反省を自分の生活にたいして試みつつある年若い勤労者や学生たち、さらにまた、来たるべき次の時代をになう少年少女たちではなかろうか。


   文学作品の価値

 文学においては、認識と表現とは一つものだ。問題を認識することが、同時にそれを表現することになるというのは、文学――芸術に固有のことである。認識とりもなおさず表現という、この関係がどこからくるかといえば、それは芸術の対象そのものの性質によるのだ。この点については、わたしたちがまえに見てきたところである。
 文学の対象の性質がほんとうにのみこめていたら、こうしたことにはならぬはずなのだが、「この作品は内容はいいが、形式がなっていない」とか、「作家の認識はたしかだが、どうも表現がまずい」というような作品批評が、いまでもそうとうはばをきかしている。ここでひとびとが内容とか認識といっているのは、文学以前の一般的認識のことだろう。あるいはまた、一般的認識による認識内容のことにすぎぬだろう。つまり、「内容だけいい作品」というのは、問題が知性の実感においてとらえられることのかわりに、たんに一般的認識において問題が提出された「観念のさきばしった作品」のことなのだ。そういう作品の内容がいいはずがない。認識だけがたしかで、表現がなっていないというようなことはありえない。表現がへたくそなら、認識もなっていないにきまっている。認識のしかたがいいかげんだったら、表現も雑なのだ。とうぜんそういうことになるだろう。
 認識と表現。内容と形式。しかし、これは古くして新しい問題である。
 古くして新しい問題であるというのは、この問題がふた昔まえ、そしてまたひと昔まえに、文学にたずさわるひとびとのあいだでしんけんに論議され、けっきょく未解決のままこんにちにもちこされた問題であるからだ。ひとびとのしんけんな努力にもかかわらず、どうしてそれが解決されなかったかというと、もしこの問題に正しい解答が与えられたら、「ひとにぎりの人間」どもにとってつごうのわるいことになるので、せっかくできかかった答案を、もみくちゃにして破りすてたというしだいなのだ。つまり、この問題につきまとっているのは、政治の問題につながる例の「芸術の永遠性」への迷信なのだ。永遠なる世界無比の国体への信仰に人民をつなぎとめておくためには、古事記や日本書紀に書かれてある事がらが歴史上の事実であり、また永遠の真理である、ということを語る必要があったわけなのだ。そこに、永遠に変らぬ古典の価値というようなことや、それの裏づけとしての、「芸術のかぎりないいのち」というようなことの「証明」をおこなう必要に迫られていたいたわけなのだ。だから、永遠だという議論のほうに勝ちめのありそうなうちは、高見の見物をしていたが、旗色がわるくなってくると、言論の弾圧という手に出てきたわけなのだ。
 つまりは同じことなのだが、それをもう一つの面からいうと、こういうことになる。財閥・軍閥のファッショ勢力が、侵略戦争の下準備をやっているあいだは、自分たちの陰謀を人民たちに見ぬかれないように、みんなの目を政治からひきはなそうとして、文学や音楽や映画・演劇、それからスポーツのようなものまで「自由」の仮面をかぶせられて、それに利用されたというわけなのだ。学生は、野球にダンスにうつつをぬかし、また一般の勤労者は、たまさかの休日をインチキ・レヴューやチャンバラ映画で、「労働力の再生産」をおこない、このようにして、まがいものの自由に酔いしれているうちに、「歓呼の声に」だまされて「護国の鬼」となり、「声なきがいせん」をするということになったのだ。文学もまた、そうした「政治からの人民の解放」に一やくかったわけだし、いったん戦争ということになると、こんどは軍閥政治への人民の隷属のために、一はだぬいだというしだいなのだ。「芸術の永遠性」論議の消長も、侵略戦争のこの線にそった、ひとつの社会現象であるということができるだろう。

 芸術のかぎりないいのちというようなことが、まっかないつわりにすぎないことは、諸君にとってもはや明らかなことだろうが、ことのついでに、もうひとことつけたしておきたいことがある。それは、文学作品の価値ということだ。文学作品の価値ということについて、それをいま、芸術の永遠性の問題につながる古典の「不滅の価値」ということから話の糸ぐちをみつけていこう。
 古典の価値は永遠だというような考えかたが、どこからうまれてくるかといえば、それはさっきいったとおりだ。だが、そういう考えが一般の支持を受けているのは、文学――芸術の享受というものの日常的な性質によるのだ。しかしほんとうをいえば、それが日常的な体験の面で相手に訴える、認識・表現の手段であるからこそ、「芸術はながく」ということばに反して、芸術のいのちはみじかいのだ。それにまた、芸術の表現するものは、なにかしら人間生活にとっての問題であるわけだ。芸術は、だいいち、問題を認識し表現するためのものであったはずだ。たとえば、「空気がなくなる日」という作品は、ある面からいえば、デマというものの性質を問題にした作品だった。そのことでわかるように、文学作品というのは、つまり、日常性のことばを媒介にして人生の問題を考えあらわしたもののことだ(「文学のまがいもの」の章参照)。その問題というのが、ある時代、ある社会の人生問題にかぎられていることはいうまでもあるまい。その時代にとって問題であったことも、つぎの時代にとってはもはや問題ではない。かりにその問題が解決されないまま、つぎの時代にうけつがれていったとしても、そのばあい、問題はまるでちがった性質のものになっている。そのことは、「坊ちゃん」と「空気がなくなる日」との問題のあつかいかたのちがいからもあかるだろう。
 赤シャツといういやなやつと、大三郎といういやなやつ。そのいやなやつを山嵐も坊ちゃんもしまつすることができなかった。できないから、なぐりつけてせめてもの気ばらしをやったわけだ。赤シャツは、いま大三郎と名まえをかえてあらわれた。いやなやつはいまでもいる。だが、いやなやつの正体が、こんどこそつきとめることができたのだ。どうしたら、いやなやつを根だやしすることができるかという見とおしも、どうやらつきかけてきたのだ。問題は、いま、まるでちがった形でわたしたちのまえに示されている。
 文学が問題表現の手段であり、それの解決のための認識手段であるということの判断からしても、古典の不滅の価値というようなことはいえないわけだ。理くつはたしかにそうなのだが、なにかしらしっくりこないというのは、さっきもいった、享受というものの日常的な性質のせいなのである。つまり、あっさりいって、わたしにはシェークスピアの作品がたのしいし、バルザックのものがたまらなくおもしろいということなのだ。現代の文学作品にたいするばあいなんかとくらべにならんぐらい自分にはしっくりくる、という事実(日常的な実感)なのだ。それは事実なのだから否定するわけにはいかない。否定するわけにはいかないが、そういう古典をたのしいと感ずる自分の享受が、作者の意図した表現を超え、その当時の読者による表現理解(享受)を超えて、作品の主題をより深めて理解したり、ゆがめて理解したりするところにおこる、たのしさでありおもしろさである、ということを見おとしてはならぬのだ。(「表現と理解」の項でいった、子ども相手の作品にたいするおとなの享受の例を、そのまますぐここにあてはめるのはすこしむりかもしれないが、しかし、話のすじは同じことなのだ。)
 だから、自分にしっくりくるからといって、古典のいのちはかぎりないものだとか、すぐれた文学作品は永遠に生きるものだということには、絶対にならない。それにもう一つは、自分の感覚にぴったり合った作品を、そのまま不滅の価値をもつ作品だなどというふうに考える思いあがりが、ここでいましめられねばならぬのだ。文学作品の価値は、自分にしっくりするかしないかというようなことできめられる事がらではない。価値というのは、社会的有用性のことだ。いまの世の中で、何がいちばん必要なことであり有用なことであるのかといえば、それは人民の解放ということだ。人民解放のための人間のいとなみこそ、この世の中でいちばんとうとく、いちばん美しい「価値」である。どうしてかといえば、人民解放のときは、同時に、人類ぜんぶが解放されるときであるからだ。

 食いものにされる人間は、ほんとうにふしあわせだ。だが、ひとを食いものにして生きている人間も、またふしあわせである。そういうふしあわせを、わたしたち人間の世の中から根だやしすることこそ、わたしたち現代を生きるもののつとめなのだ。文学もまた、人民解放のためのいとなみとならなければならない。人民文学の確立は、しかしながら、文学者そのひとのつとめであると同時に、めざめた人民ひとりびとりのつとめである。文学における読者のやくわりがどんなに重く、どんなに大きいかということについて、わたしは、すでに多くのことばをついやしている。
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  あとがき
    ―ロダンの芸術思想にふれて―

 けっきょく、こんなものになってしまったが、それでも当初のねらいだけは、はずさなかったつもりだ。これで「批評」の問題にふれ、絵画や音楽や彫刻・演劇・映画などとのつながりやちがいについて触れることができたら、いちおうプログラムどおりにいったわけだが、かぎられた時間にしばられて、そこまで進むことができなかった。批評の問題その他について、もっとくわしいこと、もっと深いことを求められるかたは、まえに書いたもう一冊の本(「芸術の論理」)について見ていただきたい。まえの本は、たれかに自分の考えを訴えるというよりは、ことばにいいあらわすことで自分の考えそのもののゆがみを正していくという性質の書きものだった。だからして、書きあげてみると、あとさきのくいちがいがかなりはっきりめだっていた。こんどの、このしごとにしたって、やはりそのとおりなのだが、それでも最初からあるきまったプランとプログラムにしたがって書かれていった点はちがっているし、それにまた、「芸術の論理」でいい足りなかったこと、いいそこなったことをおぎなう気もちがあったことも事実だ。たとえば、実感の分析などがそれだし、肉体の文学その他こんにちの文学の傾向にたいする時評などが、その例だ。だが、またその半面、まえの本に書いておいたことをあてにして、くわしいことはそちらで承知してもらおうという安心感があって、書きとばしをやってのけたところもすくなくない。たとえば、価値の問題であるとか、芸術家の創作過程における、また享受者による表現理解の過程における、批評のはたらき、というような点の省略である。
 ところで、「芸術の論理」のなかの数章を二三の雑誌にまえもって発表したところ(たとえば「文学」Bd・15、NO・4、「芸術研究」NO・2、NO・3など)、それについていくたりかの読者から批評が寄せられた。いまそのことに触れておくことは、この本の読者にとってもむだではないと思うのだ。
 つまり、まえの本で、芸術はことのうわつらをえがくのではなくて、内部的真実においてものごとをとらえるのだというロダンの芸術思想を例として、芸術の認識や表現について語った部分があるのだが、それではきみはロダンの考えそのものを肯定するつもりか、という非難がその一つだ。
 「天才も時代の子だ。いや、時代の真実を生きたという意味で、時代の子と呼ぶにふさわしいのは、じつは天才のことなのだ。」という意味のことを、まえに書いたわけだが、すると――きみは、そういうふうにいっているくせに、一方では、天才ロダンのことばがまるで超時代的な真理をいいあてているかのようないいかたをしている。これはどうしたことか、という批判なのだ。
 この批判にたいしては、いまどきロダンなどをもちだして申しわけなかったというほかはないが、わたしのつもりでは、芸術家の現実認識を示すひとつの具体的なサムプルとしてロダンのばあいをとりあげただけのことで、ロダンの思想そのものを無条件にうけいれているつもりはないのだ。ロダンが「内部的な真実」とか「絶対の誠実」といっているもののなかみは、むろんたいしたものではない。そのことは、人間の生きる権利のために、首切り反対を叫び労働時間の短縮を叫ぶ、工場労働者のサボタージュによる抗議を、たんに仕事のよろこびを知らぬ者のしわざとして非難するような、かれのまずしい社会認識から推しても明らかだろう(ロダンの「遺言」参照)。民衆の偉大な芸術家、とふつうにそういわれているロダンは、けれど、このようにして、一般的認識においてはむろんのこと、知性の実感においても、人民に背なかを向けた芸術家だったといわなくてはならない。つまり、この点にロダンの思想の限界があるわけだし、ひいてはまた、かれの芸術的認識の市民的な限界があるわけなのだ。ロダンが偉大であるというのは、かれの芸術の占める地位が、近代市民的なものの、プラスの面における集約的な帰着点を示しているからであって、それ以外の、またそれ以上の意味においてではけっしてない。
 ものを厚みにおいてとらえよとか、「自然」に忠実であれとかれがいうのは、一つには、すでにこの時代において市民芸術が末期症状を示しはじめ、ものの「自然」(ありのまま)にそむいた非現実的な傾向をとるにいたったことへの反ばくである、というふうにいっていえないこともないのだ。そういう芸術のあらわれの面に見られる末期的な症状というものは、市民的社会そのものの世紀末的な混乱を反映したものにほかならないし、また、そのような混乱が、さっきいったような、労働者のサボタージュというようなこともひきおこしているわけなのだ。そういう文脈で考えてみたばあい、ロダンの「天才的な卓見」というものも、それを時代の制約を考えることなしにうけいれることは、かえってマイナスの結果をさえまねくことになろう。
 つまり、わたしにたいする批判者のことばは、同時にわたしのいいたいところでもあるのだ。――以上が、批判にこたえてのわたしの意見なのだ。
 「文学入門」は、宮城県の疎開さきでのしごとである。二度の戦災で本もノートもいっさいがっさい焼いてしまったうえに、すごくへんぴなところへひっこんでしまったので、資材ママ 資料?]の裏うちという点ではゼロにひとしい、こんなものしか書けなかった。ちかいうちに東京にもどれそうな見とおしなので、そうなったら、もうすこしましなしごとをして、うめあわせをつけるつもりでいる。
 おわりに――若いひとびとを相手のこうしたたのしいしごとにしたしむ機会を与えてくださった大久保正太郎さん、このしごとにいろいろの便宜や援助を与えてくださった伊藤廣吾、伊藤徳三の両君、妻敬子にふかい感謝をささげたい。
  一九四八年三月十五日夜
宮城県岩出山の仮ぐうにて
筆 者


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