熊谷孝文学教育論集  
講演レジュメ 文学教師の条件
1982.8 「文学と教育」121)
   

1. 文学教師の視点的立場から
2. 文学史を教師の手に(一)・(二)
3. 前提になる資料、五編
4. 戦争前夜の文学者像と文学教師像
5. 二者択一、兵隊か馬賊か
6. メンタリティーの自然が選ばせた教育の営為
              
  文学教師の視点的立場から

 お手もとの集会プログラムを順にたどってみてください。基調報告に続いて私の報告が日程・第一日に組まれております。そして、二日めからは本番です。そうしたプログラムの構成からもお分かりいただけますように、私の報告は、基調報告との相互分担において、事前に――というのは日程が本番に移る前に、集会の共通課題をある程度方向的に明確なものにしておくという任務を負っているわけであります。
 任務の相互分担? ……むろん、量的な、また項目的な分担ではありません。基調報告のほうでは、おそらくは、(基調報告というその報告の性質上)どちらかと言えば帰納的かつ包括的に問題の処理を試みることになるでありましょう。それに対して、私の分担報告では、どちらかと言えば演繹的に――と言いたいところですが、思いつくままをアトランダムに、ということで、お許しいただこうと思っております。

 さて、集会の共通課題についてなのですが、大すじにおいてそれは、各自、相互に、文学教師本来の視点的立場〈注〉に立って、文学教育の〈何〉と〈いかに〉を実践的に問い直す共同の作業を組む、ということに尽きるかと思います。現に、集会のプログラムは、そのような作業行程の路線に則(のっと)って、@文学と教育の論理を問い直し、また、A作品評価と教材選択の基準を問い直しつつ、そこに、B学習者へ向けての作品媒介の論理(=文学の授業の方法原理)を確かなものにする、という目的意識において組み立てられております。
〈注〉 文学教師本来の視点的立場〜 「文学の論理(虚構・典型の論理)に背を向け、また、通俗への反逆において精神の自由をひたすらに守り抜くという、文学本来の精神に背を向けた、文学教育というようなものはあり得ないし考えられない」云々。したがって、文学の教師には、自身に、はっきりと精神の自由を守る側に立って行動するという意識が必要とされる。」いいかえれば、「メンタリティーの自然において、平和と自由を志向するというプシコ(心理)・イデオロギーのありかたが要求される」云々。(小稿『平和教育としての文学教育』/本誌前号所掲)
 もっとも、右の@〜Bのプログラムは、いわばプログラムの論理的・内容的側面を示すものにほかなりません。それの実際の柱立ての展開は、お手もとの日程表に記されている通りのものなわけです。つまり、《文学教育を問い直す》パート(第一部)と、《文学史を教師の手に》というパート(第二部)との二部構成です。が、そうした文学教育を問い直す作業の中に、〈文学史の方法〉をテーマとしたゼミを大きく位置づけ、また、それに続く第二部の全体テーマを、やはり文学史意識――教師の文学史意識のありようの問題に求めている点に目をとめてみていただきたいと思います。
 上記@〜Bの示す文学教育の作業課題は、このようにして、全国集会の場では――ということは実は、日常の文学教育の実践面にあっても――絶えず文学史意識に前提されつつ、現実の作業行程を展開させることになるわけなのであります。


  文学史を教師の手に(一)

 全国集会のレギュラーな参加者の方はご熟知のように、《文学史を教師の手に》というのは、もともとは私たちの研究姿勢を示す(あるいは相互に研究姿勢を確認し合うための)合い言葉――十数年来の集会スローガンでした。それも最初のうちは、教師の手に 、ではなくて、教師の手で 、ということだったわけです。文学史を教師の手で、という、そういうことでした。
 それはどういうことか(どういうことであったのか)といいますと、たとえば森鴎外の『最後の一句』なり、太宰治の『魚服記』なり『葉』を教室で扱うというような場合には、あらかじめ、可能なかぎり多くの研究者・文学史家の見解に接して、それらの見解と自分の判断・見解をつき合わせて再考する、というのが、まず普通でしょう。とりわけ、オーソドックスな(と一般に言われているような)見解や、未見、最新の研究論文、さらには教育実践の事例などを求めて自分自身の判断を確かめる、というのは誰しもやることでしょう。つまりは、独善・独断に陥ることを避けての営為であります。その辺のところが、ひとりで気随に作品を楽しんで読むのと、文学教師として学習者に対して責任を持つ読みかたをするのとの違いでありましょう。
 そんなふうに、徹底して先学の業績に学ぶ姿勢をとりながらも、しかもなお文学の論理に背を向けたような作品論の氾濫を前にしたような場合には、これは教師同士協力して、作品論・作家論の、究極において文学史そのものの書き換えの作業に取り組むほかなくなるわけです。つまり、そこで、文学史を教師の手で 、ということになったわけなのであります。
 多少すじを通した言いかたをすると、そういうことになるわけです。が、実際はそのことより何より、お仕着せの文学史論を口移しにして喋っていたのでは、文学がどこかへ往ってしまう。文学不在の文学教育なんてのは洒落にも冗談にもなりやしない、という想いが私たちの場合そこに先在し先行していた、というのが本当のところでした。
 だが、そんなふうに言うと、「思い上がりもはなはだしい、教師なんかに文学が分かってたまるか。」といった、ヤクザもどきの罵声が、またまた、文学をメシの種にしているような人たちの間から聞こえて来そうです。(ちなみに、教師なんかに、というのは、つまりは普通一般の読者なんかには、ということです。文壇文学は、このようにして、文壇人だけのものだ、ということを文壇人自身いってるようなものです。最近の芥川賞作品の視野の狭さというか底の浅さは、まことに理由のないことではありません。本誌前号、前々号の佐藤嗣男・高田正夫両氏の評論参照。)
 けれども、私たちは決して思い上がっているわけではありません。私たちが否定的なのは、素材を主題と取り違えることで、文学の論理(=虚構・典型の論理)に背を向けた、素材主義 の文学論=文学史論に対してなのです。また、多くの場合、そうした素材主義を下敷きにした、イデオロギー主義 の作品評価、作家論、文学史論の氾濫が目に余る、ということを言ってるまでのことなのです。
 で、そうした素材主義=イデオロギー主義の氾濫の中に在って私たちの思ったことは、ケース・バイ・ケースの格好で、その都度その都度、個々の作品について考えるというのでは、もはやどうにもならない。いま自分たちが究明を必要としているような文学史の対象領域を大幅に一括設定して共同研究を組むという継続的・持続的な営為に自分たちの作業課題を移行させていくほかはない、というふうに、おいおいに私たちは考えるようになっていったわけです。


  文学史を教師の手に(二)

 そうした営為は、文学史を教師の手で 、という姿勢を徹底させたものであると同時に、文学史(文学史意識)を教師の手に ということを前提としてのみ可能とされるものであります。いいかえれば、所詮は仮説の域にとどまるものであるにせよ、方向感覚だけは確かな、そうした文学認識論文学史方法論を自分たちのものにすることです。多分、そのことで、文学史の作業実践=実証も可能になるわけのものでありましょう。
 だが、そうはいっても、お互い、自分の守備範囲にはおのずと限界があります。それは決して固定的なものではないけれども、それにしても、であります。芥川文学はあと一年か二年も打ち込めば一応の見通しはつきそうだが、井伏や太宰はその先の課題だ、というような経験はお互いのものでしょう。また、逆照射というのでしょうか、井伏なり太宰なりの世界をくぐることで、逆にはっきり芥川の世界が見えて来る、ということがあるわけです。こうした経験も、やはりまた、対象領域の違いを別にすれば、ひとしく誰しものものでありましょう。
 そのことを文学教育の問題として言えば、その限り、鴎外に打ち込んでいる人に鴎外を教わり、芥川に打ち込んでいる人から芥川文学の手ほどきを受けるということが、学習者にとってしあわせなことなんだと思います。それに打ち込んでいる人でなくては分からない、鴎外文学なり芥川文学の機微というものがありますし、また、それに打ち込んでいる人でなくては持てない、(それを)教えることへの情熱というものがあります。教師のそうしたひたむきな情熱は、おのずと若い学習者の胸に伝わっていくのです。そうして、(今ここでの例でいえば)鴎外文学なり芥川文学の生命であるものを学習者の心ごころに伝えることにもなるわけなのであります。
 あえて申します。こうした場合、いわゆる意味の教えかたの上手、下手――授業技術の巧拙といったことは二の次ぎです。(端的な例が、教えることのナカミがカラッポ、ソッポで、教えかただけがうまい、というのは、どういうことなのでしょうか。技術主義は文学教育にはなじみません。)
 ともかく、そういうわけですから、文学教師にとって文学史への自身のコミットメントが必要不可欠のものになるわけなのですけれども、しかしさっきも申しましたように、各人の守備範囲にはそれぞれ限界があります。で、自分の守備範囲を越えた作家・作品を扱う必要に迫られたような場合にはどうするか、ということなのですけれども、原理・原則に変わりはありません、その時は自分にとって学習者のポジションに位置づく生徒諸君、学生諸君と共同学習・共同研究を組んだらいい、というのが私の持論です。
 持論のなんのというより、守備範囲の極端に狭い私の場合は、そうするほかはないし、いつもそういうふうにやっている、というまでのことなのです。分からないもの同士、一緒に学び合い、分かり合おうとする、という、そういうことです。ただ、それだけです。
 ただし、そうした場合にあっても教師に要求されることは、教師その人が(対象領域がどの辺か、というようなことではなしに)自身に文学史の作業実践にコミットしているということです。このことは、文学教師の条件――少なくとも条件の一つです。自分が実際に文学史の作業実践に参加していてこそ、教え子たちのそうした共同作業の中にあっても、その学習・研究をオリエントし方向づけるという、教師としての任務が可能になるような、文学史的な方向感覚を自身に持ち得るわけなのですから。

 このようにして、いっさいは実践です。実際に文学史の作業実践に取り組むことの中で、〈文学とは何か〉〈文学史とは何か〉という文学認識論文学史方法論の理論的課題も初めて具体的解明への道を用意することになるわけなのであります。それは、理論が実践への方途を準備し、同時に実践が理論のありかたや方向性を規制する、という関係なのであります。
 個人個人の研究は別です。サークルとして私たちが十数年の時日、共同研究をその点に傾注したのは、後期鴎外文学と、芥川竜之介・太宰治の全生涯にわたる文学、そして井伏鱒二の、『幽閉』から『黒い雨』に至る全作品の展開を中心にした近・現代文学、さかのぼって、西鶴・芭蕉・蕪村を中心とした近世文学などでありました。他方、透谷から藤村へ、文学史一九三〇年代、文学史の中の児童文学、といった課題とも取り組みつつあります。
 作業はようやくその緒についたばかりですが、ともかく、そのような作業を通して導かれた私たちの文学認識論と文学史方法論のケルン(核)は、文学系譜論です。私たちの文学史意識は、この系譜論を座標とした、現代史としての文学史とでも言うべきものであります。
 具体的なことは、集会当日に。


  前提になる資料、五編

 具体的なことは集会当日に、と申しましたが、そのことを含めて、集会テーマの理解へ向けての諸側面からのレディネスを、というのが、むしろ、どうやら、私の報告に課せられた主たる任務であるような気がいたします。書き進めているうちに、おいおいにそういう気がして来た、という意味です。
 で、そういうふうに考えていいとすれば、当日は、次の各稿の叙述を前提としつつ、時には部分的にそれをなぞるかたちで、話題を組むことにもなろうかと思います。といいますのは、これらの稿には、いま自分が課題としているような作業の側面、側面が、ある程度具体的に語られているように思うからです。
  @ 『暗い谷間の教師像』(本誌119号に再録)
  A 『国語教育とは何か』(同右)
  B 『私の太宰治論――鴎外につながる一つの文学系譜』(本誌109号)
  C 『平和教育としての文学教育』(本誌120号)
  D 『今次集会の課題と構成』(集会プログラムに付載)
 課題の各作業行程がそこに、と申しましたが、焦点になるのは実は、@『暗い谷間の教師像』という稿なのです。文学教師の条件を考える、という直接的な所与の課題の性質からいって、そこに焦点を求めることになるわけなのであります。
 そこで、これは報告者の身勝手な願いですが、できれば、あらかじめ、この『教師像』の稿にお目通しおきいただけないだろうか、と思います。その際に、かくかくの点に目をとめ、少し敷衍(ふえん)して読んでみていただけないだろうか、と思うような個所が幾つかあります。その辺のことを、以下に。


  戦争前夜の文学者像と文学教師像

 右の『教師像』の稿には、《教育の原点・国語教育の原点を探る思索の中での回想》という、ながながしい副題が添えられております。つまり、これは、そういうテーマの切り取りかたによる、中学生時代の恩師の回想の記録であります。
 これは数年前に、書かずにはおれない気持ちから書いたものなのですが、今回の集会の基本テーマである《教師論》《文学教師論》について考える自分自身の現在の必要から、(その掲載号が絶版になっているということもあって)この機会に再掲載していただくことにしました。そこに紹介した、前田千寸先生という根っからの自由人、暗い谷間の時代を自己に――自分の人間に忠実に生きた、そういう一人の教師像について考え合うことが、百千の教育談義を重ねるよりも、遥かに深く文学教育の本質について論議を尽くしたことになる、と考えたからであります。
 といいますのは、(今年の集会のテーマがまさにその点にあるわけなのですけれども)教育の〈何〉と〈いかに〉について考えることは、究極において、教師の人間、教師のメンタリティー、(持続的で一貫性を持ったメンタリティーとしての)そのプシコ(心理)・イデオロギーのありようの問題について考えることにならざるを得ないという実感が(いわば追跡された実感として)私にはある、ということなのですが。
 別して、文学教育という教育の営為については、教師その人のプシコ・イデオロギー、さらには、(プシコ・イデオロギーの言語形象的客観化としての)文学的イデオロギーが、その営為のいっさいに深くかかわってこざるを得ない、という判断が前提にあってのことなのですけれども。
 コメントを一、二。ここで暗い谷間の時代というのは、荒正人氏などがそう呼んでいる時期よりは上限に少し幅をもたせているわけです。(ということは、この暗い谷間の時代を最も特徴的に性格づけている転向世代の問題を、私は、プロレタリア政治運動、文化・文学運動の壊滅以前の時期にすでに見つける、という視点的立場をとっている、ということなのですが。)ともあれ、それは、今ここでの話題の限りでは、二〇年代末から三〇年代初めにかけての時期をさしているわけです。
 それを今年の集会で扱う作家・作品につなげていうと、井伏鱒二が『朽助のゐる谷間』や『炭鉱地帯病院』などを書き、やがてまた、『川』の冒頭部分の稿が準備されつつあった時期に当たります。でありますからして、それはまた、日本帝国主義による中国侵略の大きな一歩が刻印された満州事変前夜の一時期であった、ということになるわけなのであります。


  二者択一、兵隊か馬賊か

 それは、子供心にも、ひどい時代だな、と思いました。直接学校の内側へ目を向けてみますが、ひと握りのひたすら学歴志向の生徒や、近郊農村の大地主、町の大店(おおだな)、ガッポリ儲けを貪っている開業医などの跡取り息子である生徒たちを除いては、大方の中学生の心情はアナーキーでした。荒れていました。荒れるはずです、お先真っ暗、希望らしい希望も持てずに日々を過ごしていたのですから。
 それに、私たちが内心の反抗と自嘲の思いをこめて「兵隊ごっこ」と呼んでいた、週二回の軍事教練のたびごとに、配属将校(学校常駐の、軍部派遣の陸軍士官)が、頭のテッペンから出るような金属製の声で喚(わめ)き立てるのです。
 「間もなく戦争になる。必ずなる。シナが相手だ。その時、お前たちは名誉ある陛下の軍人として満州の野に死ぬるのだ。一死以て厚き皇恩に報い奉るのだ。分かったなっ。そういう覚悟をつくるために、本日もこれより教練を実施するっ。」
 荒れるのも、これでは当然でしょう。荒れるように仕向けておいて、荒れるな、と言うのは、どだい無理な話です。もっとも、荒れかたにもいろんなジャンルがありまして、希望のない人生の中に無理にも希望へ向けて突破口を模索する、なんていうのもありました。
 S君という同級生ですが、同級生間での彼の通称はシナ浪人マンゴロ(満州ごろ)、そしてバゾク(馬賊)というのですけれど、兵隊に取られて、さんざんしごかれたあげく戦死というのよりは、まだましだというわけで、動乱の満州で馬賊の群れに身を投じることを大マジメで考えていました。どこか滑稽感を伴うことは確かですけれど、でも哀れです。(結果は彼は満州の現地で兵隊に取られて、戦死しました。哀れです。)
 異常な時代には異常であることが、むしろ正常だと言えるのかどうか知りませんが、S君以外の同級生の多くが馬賊にも満ごろにもなろうとせずに、その限り、ともかく、ある平衡感覚を保てたのは、実は荒れるという、いっときの発散と退避の場を友人同士協力し合って用意することができた、という点に追うところ少なくないように思うのです。
 荒れることにもそれなりの効用はある、ということなのですけれども、しかし、それも、みんなでワイワイやってる、いっときのことです。一人にかえると、常住こころの中を風が吹き抜けているような自分と向き合わなければなりません。前田千寸先生が掛け替えのない身近な人に思えて来るのは、決まってそういう時でした。
 田舎者の図々しさといいますが、不作法で図々しいところがあって、至って感度の鈍い私たち田舎っ子を相手に、先生は実に辛抱強く――と今にしてしみじみそう思います――指導に当たられました。年と共にミリタリズムの色濃くなる学校内外のいまわしい空気の中で、精神の自由を(学校の中にそれを求め得ないのなら書物を通して)自分自身にはぐくみ、内心にそれを守り通すことの必要を教えてくださいました。「荒れてみたってどうなる。もっと自分を大切にするんだね。僕も自分がこの先どうなるか、なってみないことには分からないが、絵がかけるうちはかくし、読めるうちは本を読むよ」しかじか。(先生の本業は画家でした。また、日本絵画史の一級の研究者でした。)


  メンタリティーの自然が選んだ教育

 そういう教育の営為を、先生はしかし、今は教科教育どころではない、荒れてる生徒に対してはまず生活指導をとか、力に対しては力を、といった現在どこかで見かけるような発想=方式でおやりになったわけではありませんでした。担当教科の教育に徹し、それを深める中での先生の個性的な教育でした。
 自分の人間を大切にし、また生徒の人間を大切に考えるからこそ、先生の教育はまた逆に、上からのお仕着せの教科の垣根を取っ払った、開かれた教育でありました。それは確かに国語の授業なのだが、それが同時に、すぐれた文学史・文化史・社会思想史の授業でもあり、人生論の場でもある、というようなスケールの教育でした。
 今でもはっきり覚えているのは、中一の時の先生の漱石入門の授業です。教科書に『草枕』のあの冒頭の部分が、『峠の茶屋』という標語で載っていました。例の「知(智)に働けば」「情に棹(さお)させば」「とかく人の世は住みにくい。」という個所を読み合いながら、先生は、まず、こんなことを口にされました。「明治初期のある文学者がこんなようなことを言ってるんだ。知性というのは、もともと感情の一種だ、感情を整理したものが知性だって、そう言ってるんだが、僕もそう思うね。だから、知に働けば角が立つような世の中では、情も否定される、人間が人間扱いされない。漱石は怒っているんだね、つまり。」
 先生の言う「明治初期のある文学者」というのが二葉亭四迷であり、それが『小説総論』の中の言葉だということを知ったのはずっと後になってからですが、それはともかく、予習の段階では、角を立てるような生き方をしてはいけないし、情に溺れたら人生おしまいだよ、という人生訓としてこの文章を読み取っていた私には、「漱石は怒っているんだね、つまり。」という先生の言葉はすごくショックでした。
 (スペースがあまり残されていませんので、詳しいことは紹介しかねますが)そのあと先生は、ご自身の郷里土佐の山中の茶店のよもやま話に話題を移し、それを中継ぎにして土佐の自由民権運動について語り、やがて『三四郎』の広田先生の自由の精神の骨骼について語る、というような授業でした。
 先生の教育は、当時のいわゆる徳育主義や今日の生活指導主義とは全く異質のものでありました。そうした先生の教育は、ミリタリズムの旋風が吹き荒ぶ中での、徹底した平和教育であり抵抗教育でした。しかも、肩ひじ怒らせたヒロイックな悲壮感などそこに伴うはずもない、先生のメンタリティーの自然が選びとった教育の営為でありました。
 前項〈戦争前夜の文学者像と文学教師像〉の補足をここで、と考えておりましたが、スペースがなくなりました。当日の談話の中で、ということにさせていただきます。

(筆者は、国立音楽大学名誉教授)

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