熊谷孝文学教育論集  
“国語教育としての文学教育”から“文体づくりの国語教育”へ
1970.8 「文学と教育」65)
   

 これは一九七〇年春季合宿の熊谷孝先生の講義の一部である。文教研がなぜ教科構造論を模索するようになったか、その歴史的必然性にふれている初めの部分を掲載することにした。(編集部)
                
  “国語教育としての文学教育”から“文体づくりの国語教育”へ

 私たちは、いま、“文体づくりの国語教育”ということを合い言葉に、学習し、実践を組み、運動を続けているわけですが、最初のうちは――というより、かなり長い期間にわたって“国語教育としての文学教育”ということを唱えていたのでした。それがどうして看板を掛け替えたんだ、なんてよく言われますけれど、看板を掛け替えたとか標札を書き換えた、というつもり は私たちにはありません。“国語教育としての文学教育”という考え方(概念)を突きつめていくと、“文学教育”そのものが、“文体づくりの国語教育”として位置づけられてくる、というようなことなのです。もっとも、それは、文学教育が“文体づくりの国語教育”の内容のすべてだ、という意味では決してありません。
 そうではなくて、文学教育そのものが“文体づくりの国語教育”の一環である、という自覚のもとに営まれる必要がある、という意味です。ですから、文学教育を焦点として言えば、それは文体づくりの国語教育としての文学教育だ、ということを言っていることになるわけです。だからして、標札を書き換えたのではなくて、“文体づくりの国語教育”というスローガンは、“国語教育としての文学教育”というスローガンの主張を自他に向けて 明確にしたものである、ということになりましょう。
 言葉を重ねますが、(1)“国語教育としての文学教育”というのは、それの具体的・実質的な内容から言って“文体づくりの国語教育”としての文学教育――ということなのです。然り而して、(2)“文体づくりの国語教育”の内容ないし対象は文学教育に限定されるものではありません。それと同時に、言葉を添えれば、(3)文学教育活動は“文体づくりの国語教育”のかなめ の役割を果たす領域である、ということなのです。理由は後刻申しあげます。
 ……と、そんなふうにだけ言うと、“国語教育としての文学教育”ということを初めて口にした時分から、私たちが明確な“文体づくり”の意識(自意識)を持っていたみたいに聞えるかもしれませんが、そういうふうに概括したとしたら少し ウソになります。少し と言ったのは、全然ウソというわけじゃないということでして、そこ、ここで行なわれている“文体剥奪のコクゴ教育”に対するアンチ・テーゼという格好での“文体づくり”の意識は、やはり、そのころの私たちにもありましたが。が、そのコクゴ教育が文体剥奪の教育以外のものではない、という明確な整理が私たちにできるようになったのは、やはり、私たちが自分自身に“文体づくり”という明確な概念(思考形式)が持てるようになってからなのです。
 こちらにそういう概念の用意があってこそ、相手のありかたをある枠づけにおいて、まっとうに批判することも可能になるのですね。私たちは、私たちのこの“文体づくり”という概念を絶えず、より有効な 概念につくり変え、その概念内包を充実させていく必要を痛感します。

 最近、私たちの文学教育研究者集団も新しい会員が非常にふえまして……早い話が、きょうの合宿研究会から初参加という方も三人、四人といるわけでして、“国語教育としての文学教育”ということをアピールしていたころのことなど、どうやら、そろそろ、研究者集団の神話時代だか伝説の時代になりかけております。そこで、きょうは、その伝説の時代からこの集団に在籍していた者の口から、伝説が誤って“伝承”されることのないように、その時分のことについて“証言”を行なうことにいたします。いわば、「“国語教育としての文学教育”から“文体づくりの国語教育”への文教研理論発展史の裏話」みたいなことに話題を見つけてということなのですが。


   文学教育のロマンティック・エイジ

 ここにあります、この、私たちの集団の第17回全国研究集会記録集に収められている「文教研十年の足跡――委員長の福田(隆義)さんのお書きになったものですが、この記録によりますと「集団の発足は、一九五八年十月」だったそうです。私が「だったそうです」というのは、おかしな話ですが、記憶ボケしてしまって覚えていないのです。……そこで、ともかく、文学教育研究者集団の歴史は十一年半ということになりますが、その十一年あまりの文教研の歴史は、理論発展史というか理論形成史という視点からすると、だいたい次の三つの時期をそこに考えていいんじゃないかと思います。
   《第一期》 文教研成立前後、57〜60年
   《第二期》 第二信号系の理論の摂取による自己変革の時期、61〜67年
   《第三期》 “文体づくりの国語教育”の自覚的な実践の時期、68年以降

 右の第一期が、まるでそれが口ぐせ みたいにして私たちが“国語教育としての文学教育”ということを、そこ、ここでしゃべったり書いたりしていた時期だということになりますが、そういうアピールを私たちが現場に向けて行なったというわけは……そのわけ を語るためには、文教研成立の58年以前の、文学教育のロマンティック・エイジについて語らなくてはなりません。
 ロマンティック・エイジ――さし当たって、民間文学教育運動のロマンティック・エイジという意味ですが敗戦後まもなく、戦争による荒廃から“子どもを守る”文化運動の一環として、民主的な児童文学運動が展開されるようになったのですけれど、その運動のひとつの特徴は、かなり明確な文学教育意識によって裏打ちされていた、という点に求められるかと思います。そのことは、たとえば――というより、それが最もティピカルな事例になるかと思うのですが――一九四六年四月創刊の「子供の広場」という雑誌の掲載諸作品の文体や発想、その“文学教室”といった企画などを一見すれば明らかだろうと思います。
 たとえば、戦後児童文学のピークのひとつを示す作品といっていいかと思う、岩倉政治の『空気がなくなる日』や、壺井栄の『あたたかい右の手』はこの雑誌に掲載された作品でした。
 また、たとえば、この雑誌のある号の編集後記には次のように書かれています。
 ――「すこし、むずかしいが、とにかくなんべんもくりかえして、読んで下さい。みなさんの心をゆりうごかすものが、きっとあるにちがいない。『文学教室』では、人類の進歩につくした、りっぱな文学者のおいたちや、しごとを、どしどしショウカイして、みなさんの文学の勉強の手びきをしたいと、おもっている」云々。
 つまり、“子どもたちに文学教室を”“子どもの心の糧(かて)になるような、本格的な文学作品を”という編集企画だったわけです。それと同時に、ほんとうに“文学のわかる”子どもにするためには、自然や社会への科学的な眼を養うさまざまな読み物を、という編集企画でした。
 雑誌「子供の広場」の仕事に代表されるような、こうしたまっとうな文学教育意識が多くの学校教師のものになる日が、やがてそこに訪ずれました。また、これらの児童文学雑誌や作品にはぐくまれて成長した子どもたちが青年期を迎える日がやって来ました。で、そのことと直接関係をもっているかどうかは今は論外として、ちょうどそのような時期に学校文学教育は、まず、高校の分野で目をみはるような活動を示しました。52年から53年へかけての、荒木繁氏や益田勝実氏などによる、この分野における文学教育の実践報告は、理論的にも実践的にも非常に高度のものでありました。その教育意識の底流をなしていたものは、学習指導要領ラインのコスモポリタニズム、俗流プラグマティズムへの批判でした。民主・民族的人間の回復と確立――いわば、そのことを文学教育自体の問題として、生徒たちの胸にそのような“問題意識”を“喚起”しようとするものでありました。
 この“問題意識喚起の文学教育”の提唱と実践に接したときの自分の感動を、私は、「文学教育の季節」という題名のエッセイ(拙著『文学教育』国土社刊所収)で語ったことがあります。「文学教育の季節」という言葉(題名)に託したものは、文学教育の季節の到来に対する私自身のよろこびでした。また、その季節いよいよたけなわ となることへの期待でした。
 ともあれ、荒木氏たちの活動に触発された形で、文学教育はやがて小・中学校の分野にはいり込んで行きました。その文学教育は、その後のあの、通読・精読・味読の三層読みだの、なん段階法といった鋳型にはまった読解指導方式のものとは次元を異(こと)にして、やや野放図だけれども、文学を愛し子どもたちを深く愛する教師たちによる、いきいきとした文学教育活動だったわけです。
 やや野放図だというのは、その作品の選択やら教材化のしかた、それから指導過程といったものが、かなりアトランダムであり、自己流であり、十分体系的だとは言えないような面を持つ、という意味です。その代わりに、そこには作品との対決がありました。教師と児童・生徒との対話がありました。いきいきとした対話が……。根本のところで文学が息づいていた、ということです。(今の、文学作品の読みかた指導とか読解指導というのには“体系”があります。非文学化 の方向へむけての“体系化”された“体系”があるわけです。私たち文学教育研究者集団が模索し続けているものは、教師と子どもたち自身に文学的感動を保障するような、そのような文学教育活動の組織化という意味での“体系”です。)
 たとえばの話です。その時分、全国青年教師連絡協議会という団体がありました。略称、全青協というのですが、その団体には、社会科や歴史教育、生活指導その他の部会があるのですけれど、国語教育 なり文学教育 の部会というのはありませんでした。それがなくて、文学 部会というのがありました。この部会の究極の目的は、やはり“文学をどう教えるか”という点にあったわけですが、しかしそのことより何より、教師である自分たち自身文学のわかる人間になろう、ということを直接の目的とした若い教師たちの集まりでした。つまり、そういう姿勢が、少なくとも反体制的な、民主的な考えかたを持った教師たちにあっては当時全般のものだった、ということを全青協という青年教師の団体に事例を求めて紹介したわけです。
 ですから、そういう教師たちの研究集会などで講師を外部から委嘱するというような場合、いわゆる意味の国語教育のスペシャリストやエクスパートではなくて、国語教育の側から言えばアウトサイダーであるところの文学者や文学研究者を選んだ、ということなども当時のひとつの特徴だったと思います。私自身の、文学教育なり国語教育への参加のしかたも、最初のうちは、まさにアウトサイダーなるがゆえの国語教育への参加だったわけです。
 まさにアウトサイダーとして、秋田教組の青年部年度大会へ出かけたり、静岡や千葉の研究集会へ出かけたり、それから全青協の文学部会で、現在の文教研メンバーである福田隆義さん、斎藤芳淳さん、工藤泰生さんがたとの出会いを経験したわけです。つまり、いろいろな場所で、いろいろな現場の先生がたとの人間交流が行なわれたわけですが、そうした人間交流の中から共通の目的を持って生まれた文学教育研究者集団は当然、少なくとも最初のうちは、教育研究サークルであるよりは文学研究のサークル、むしろ思想の科学の研究サークルでありました。


   文学教育の抹殺と否定

 単に教えるためにだけ文学作品を読む、という、そういうのじゃない、まっとうな文学教育的関心を、解釈学流の読解指導方式のものに関心の方向をズラす格好で、体制側の理論がそこへ割り込んでくるのです。そういう“時期”がやってきたのです。勤評の実施、特設「道徳」の施行、58年(昭和33)の学習指導要領の改定という、そういう一連の動きの中で、文学教育をただの“文学教材の読解指導”にスリ替えることを始めたわけでした。
 もっとも、体制側の楽屋裏へ回って言えば、事情は多分、ずいぶんと複雑だったんじゃないかと思います。たとえば、言語過程説の立場を堅持する時枝誠記氏のような国語学者が、58年の改定の表向きの立て役者でした。多分、そういうこともあって、“解釈学”は表面上、この新指導要領の指導理論という格好では顔を出しておりません。むしろ、国語教育の営みは、「国語に関してその言語過程の指導を行なうものなわけだから、教材の文章はいろいろな文種 ――説明文だ、物語文だというあれ――を児童・生徒の言語生活に即して与えればいいのであって、文章の言い表わす内容 がどういうものか、というようなことは二の次の問題だ。」という考えかたが表面に出される、という格好でした。
 必要なのは文種 であって文章の内容ではない、というこの考えかたは、実質的には文体 軽視の文章観(言語観)を言い表わしています。こうした考えかた(言語観)を拡大解釈(?)することで、そこに教材を“文体抜きの文章”へと改変する結果をつくり出しました。改変の実質的な中身は、文学の道徳化をはじめとする全教材の右寄り改変ということでした。それと同時に、(いつか私たちの機関誌で福田隆義さんや黒川実さんがそのリサーチの一端を報告していたような)教師用の指導書に解釈学的国語教育の指導方式をたっぷり盛り込む、という手を使ったわけですね。
 ですから、現場の教師大衆がこの指導書を拠り所にして授業を行なう限り、右寄りの教材を使って、右寄りの指導方法で国語教育を実践するという結果にならざるを得ません。時枝さんたち教育課程審議会委員諸氏の意図がどこにあったかは別として、教科書検定の実際は、また教委その他の教育管理機構を通しての教師大衆に対する“指導”の実際は札つきの右寄りの国語教育理論――解釈学的国語教育の理論による指導方法の指示以外ではなかったわけなのです。
 文学教育研究者集団の結成が、指導要領のいっそうの改悪が実施された一九五八年という年だったということは、だから新参加の会員の方々にもわかってもらえると思うのです、その結成の目的は、文学教育のロマンティック・エイジを、まっとうにリアリスティック・エイジに発展させることで、文学教育の側面から母国語教育を右寄り改変・改悪から守り抜こうという決意のあらわれだったわけです。


   教科構造論への志向

 決意はたいしたものだったのですが、しかし実際にやれたこと、実践できたことというのは実はあまりそうたいしたことではありませんでした。……という評価は別として、私たちがこの時点でアピールし続けたのは、先刻申しました“国語教育としての文学教育”ということでした。
 そのアピールの内容は、(1)文学教育は、その教育活動の内容や性質から言って、国語教育の重要な一環であり側面だ、ということ。したがって、(2)それは、国語科の専売特許ではないけれども、国語科 教育の中にハッキリ市民権を認めてその権利を積極的に行使させるようにしないと、国語科教育や国語教育そのものがダメになってしまう、というようなことでした。つまりは、(3)文学教育を欠いては国語教育は国語教育としての任務を果たし得ない、というアピールでした。
 何だ、そんなこと当たり前じゃないか、わざわざアピールするまでもないことじゃないかと、きょう初参加の方々が思われるようでしたら、それは私たちの運動がまんざらムダではなかった、ということになろうかと思います。私たちの“国語教育としての文学教育”という提唱は実は、四面楚歌だったのですから。にもかかわらず、終始一貫してそのことをアピールし続け、まずしい実践ではあるけれどもその実践の成果をつぎつぎに提示し続けてきたのですから。
 それに、以前は何となしに使っていた“文学教育”という言葉(概念)を体制側では58年前後から意図して使わないように心がけ始めたのですから。“文学教育”にかえて使うようになったのは、“文学教材の読解指導”という言葉でした。また、“文学作品の読みかた指導”という言葉でした。
 ずっと後のことですが、「文学教育というのは、教師の趣味の問題にすぎない。少なくとも、国語科の中には文学教育というようなものはない。」ということを、文部省の役人や指導主事たちが公言するようになりました。たとえば、ここにいる夏目武子さんの文学教育の論文を、当時文部省の教科調査官だった沖山光氏が“批判”して、そう書いています。つまり、そういう情勢の中での私たちの“国語教育としての文学教育”という提唱だったわけです。
 それだけではありません。これは同士討ちみたいなものなのですが、(1)文学教育はほんらい芸術教育なのだから国語科から芸術教科へ移籍させるべきだ、という声。それから、(2)文学というものの性質からいって、文学教育というようなものは成り立つはずがない、という文学教育不可能論。――体制側は、何とかして文学教育そのものを国語科から、さらには学校教育の外へ追放しようと企んでいるおりから、私たちとしてはむかっ腹たつやらガックリくるやら……。今だから言いますが、「なんてカンが悪いんだろう、鈍いんだろう」と内心そう思いました。
 が、それはそれとして、国語教育ないし国語科教育の中に文学教育を位置づけて考えるということを言う以上、私たちは、国語教育構造論ないし国語科構造論(教科構造論)を具体的な形で提起せざるを得ません。これは、光栄ある(?)国語教育のアウトサイダーをもって任じていた私個人にとっては“無理難題”以上のものでした。さいわい、国語教育のエクスパートぞろいの文教研のことでしたから、私自身は文字通り討論のアウトサイドにいて、皆さんの構造論への構想論議に耳を傾けることの中で、たっぷり勉強させてもらうことができました。
 その構想の根底にあったものは、人間の体験の日常性・科学性・芸術性の概念でした。体験――それを、行動、行為、実践と言い換えても問題の限りさしつかえないし、その体験を、認識・反映の体験、すなわち現実をある筋道として(論理として)つかみとる体験、としぼって考えてみてもいいかと思います。科学の論理をくぐり芸術の論理をくぐって日常性の論理を高めて行っている、人間の認識体験のノーマルな現実のありようが、まず、私たちの念頭にありました。
 そのことを言葉操作の問題との関係・関連においてつかみなおし、言葉操作の指導の問題として考えてみた場合、児童・生徒の日常生活における言葉操作のしかたを確実な思考と結びついたものにし、豊かな想像と結びついたものにするためにも、(1)言葉(国語)に関しての科学の論理、同様に(2)言葉に関しての芸術の論理が指導されねばならないというふうに、――当時、私たちは考えたわけでした。国語教育は、国語に関しての論理教育であると、そう考えたのでした。日常性・科学性・芸術性というつかみかたは現在でも変わっていませんが、後に第二信号系の理論に媒介され、さらに言葉操作の問題を文体の問題としてつかみなおすことで、現在私たちが主張しているような構造論へと修正されて行くわけです。

(国立音楽大学教授)



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