----------------未完、途中一部欠如---------------

< 熊谷孝 講演記録 >
1978年6月17日
広島市民間教育サークル会議主催 第1回教育基礎講座

     第1回 教育基礎講座 1978年6月17日 於・広島市二葉中学校  
   《講義》 文学と文学教育   

国立音楽大学名誉教授/文学教育研究者集団 熊谷 孝  
 
   講義をはじめるにあたって  

 当日、この講座を選択なさる皆さん方とご一緒に考え合いたいと思っておりますのは、さし当たり次の点についてであります。

一、国語教育とは何か?ということについて、言語観・文学観の面からの根源的な問い直し。
二、文学とは何か? また、児童文学とは何か?を問うことのなかで、文学教育に関して、その〝何〟と〝いかに〟を考え合うこと。

 以上であります。ただし、私はここで、抽象的論議を繰り広げるつもりはありません。問題を、皆さんが当面しておられる現場の状況に<移調>して考えてみることで、指導の実際に直接・間接に役立つような、そのような<真の具体性>を、私は私自身の談話内容へ向けて要求しているわけなのであります。真に具体的なもの、真の具体性というのは、移調においてのみ成り立つような具体性のことにほかなりません。
 「かくかくの発問の仕方と、かくかくの手順でやると授業は必ずうまくゆくものだ」というような特効薬ないし即効薬的な方法上の具体性は、少なくとも国語科教育に関してはあり得ません。すぐれて教師の主体(=人間)を通してのみ実現するのが国語教育であり、文学教育だからです。
 それこそ具体的にいえば、小学校低学年の学童に対しては適切である発問の仕方も、(小学生に対して大へん適切であるがゆえに、それゆえにこそ)高校生に対しては全くバカげた発問の仕方だ、ということになります。また、同じ高校生相手の発問の仕方にしてからが、「高校生」の一語で括ることのできない違いが、個人差・学級差・学校差・地域差、世代形成過程のありかたの差、というかたちでそこに指摘されます。
 そのことを教師の側の問題としていえば、A先生のみごとな発問の仕方と指導の手順というものは、A先生のような教養のありかたと人柄、その深い人生体験と真摯な指導体験のありかたに裏打ちされ前提されて、「まことにみごとな」指導の仕方だということになるのですけれども、それをB先生がギクシャクした調子でサルまねしてみたところで、生徒は付いて来ない、というようなことも現実の事実としてあるわけです。
 A先生に学ぶところは大いに学びながら、B先生はB先生自身に合ったやり方で自分の指導の仕方を考えたらいい。B先生にはB先生で、A先生にはない、若い世代の持つ別のある良さがあるのですから。
 つまり、A先生に学ぶにしても、<移調>において(若い自分自身への翻訳において)、A先生の指導方式に学ぶというよりは、そのような方式を生んだA先生その人の人間観・教育観・言語観・文学観等々に自分のそれを対決させるべきだ、と私は思います。

 さて、当日、実際にどういう順序で話をすすめるか? まだ、腰がすわりません。ただ、どういう形でか話題にしたいとおもっているのは次のようなことです。

A.国語教育とは何か

  ① 国語教育は、全教科・教科外活動の分担任務である。(外国語教育と母国語教育と)

 ② 国語科教育固有の任務は、母国語に関して、現実把握の発想との相関・相即関係における<言葉操作の仕方>を教育することである。(言葉と発想との二人三脚の関係/言語教育と文学教育という考え方)

 ③ 文法と文体/文種と文体/説明文体と描写文体 etc.

 ④ 認識の二つの基本過程(思考・想像)

 ⑤ 「表現と理解」の二元論と、「認識⇄表現」の一元論と。(表示・表現・記述)

B.文学とは何か

 ① 言語形象を通路とし、あるいはそれを通路に選ぶことを必要とする側面において、自分が自分自身になるための(自分に人間を回復するための)主体的な、形象的認知(鑑賞による感動の喚起)の営み。

 ② 子供が子ども自身になるための営みとしての児童文学。/回復すべき自己の原点としての児童文学。

 ③ 現代の文学精神(詩精神と散文精神)――対話による自己の回復。

 ④ フェノメノン(現象一般)と、アピアランス(受け手の形象的認知によってのもアピアするところの、非物理的なフェノメノン・実在)と。/鑑賞の重要性/「鑑賞上の盲人」(芥川)。

 ⑤ 典型の認識――一般と普遍/普遍と個。

C.文学教育は何をいかに 

※資料――
 私はときたま玩具と言葉を交した。木枯がつよく吹いている夜更けであった。私は、枕元のだるまに尋ねた。「だるま、寒くないか。」だるまは答えた。「寒くない。」私はかさねて尋ねた。「ほんとうに寒くないか。」だるまは答えた。「寒くない。」「ほんとうに。」「寒くない。」傍に寝ている誰かが私たち(・・・)を見て笑った。「この子はだるまがお好きなようだ。いつまでも黙って(・・・)だるまを見ている。」(太宰治『玩具』)
 

 
   《講義》 文学と文学教育 

  人間とことば――ことばは、対話するためにある
 ええっと、何から申しあげていいのやら、ほんとうにお暑うございます…。
 ことばには二つございまして、<インターナル・スピーチ>、<内なることば>ですね、それから<エクスターナル・スピーチ>、<外なることば>ですね。で、外なることばは発するのは私で、みなさんは内なることばで受けとめてくださって、くだんないこといやがるよなんて思ってみたり、おっ、これはちょっとイカスヨなんて思ったり(そんなことないかもしれませんが)、そんなふうにして、私も皆さんを気もちのどこかにあたためながら話をさせていただこうと思います。
 で、こんな暑い条件で始まりますんで、少しやっては長く休み、長く休んでは少しやるってのはウソですけれど、適当に休憩をとりながらやっていきたいと思います。しゃべることははっきりとまとまっておりませんが、レジュメに書いたようにですね、精一杯しゃべります。

   <内なることば><内なる仲間>

 さて、何から話したものかと思うんですが、ともあれ、人間の特徴はことばをもった生き物だということですね。それから、人間は笑うことのできる生き物だということですね。で、第一点の方に集中して話をいたします。
 言葉を使う生き物だということは、実は<ダイアローグ>、<対話>ですね。つまり対話しつつ生きてる動物だ、こういうことなんですね。これ、ぼくはちょっと確認をとりたいと思います。――人間の特徴は、ことばをもった生き物だ。そのことばとは何か。対話ってことなんだ。
 したがって人間は、二種類のことばを所有しております。さっき申しました。<インターナル・スピーチ>と<エクスターナル・スピーチ>です。
 で、人間が、このインターナル・スピーチ、<内なることば=内語>を所有しているってこと、このことの意味を考えていきたいのです。相手なしに人間はしゃべれません。私たちはオギャーと生れ出てくるわけですが、多くの場合父と母の二人の中へ、この私の場合で言いますと、五人兄弟ですから四人の兄プラス父と母、計六人の中へ生まれてまいりました。で、その六人の仲間によって育くまれて今日あるわけで、ことばもその六人の先輩から学びとったのです。私の<語り口>、そこにいらっしゃるあなたの<語り口>、それはスタンダードには、何のことはない、両親や兄弟姉妹から口まねで身につけられたものですね。私もまた、然りです。
 そして、これが保育園・幼稚園に行き、あるいは小・中とまいりました場合に、ちょっと数えきれないぐらいの仲間を所有して、その仲間を私――めいめいの私――は自分自身の中へあたためていきます。全部をあたためることなんかできはしない。セレクトして、選んでいくべきです。選んであたためながら、こちらが仮りにですね、成長したのに、相手が成長していないとすると、その仲間を切って捨てます。それから、ほんとにこの人偉いな、学びたいなと思う仲間を内にあたためます。私のスラングで<内なる仲間>と呼んでおります。
 で、私たちは、ことばを使って、内なる仲間と語りあうわけです。対話するわけです。だから、つまらない仲間ばっかり内にあたためますとグレちゃって、「それでよう、あれでよう」ってなことになりますけど、良き仲間をあたためて対話をしつづけるときに、そこに人間らしい成長がありえるのだと思います。そういうふうな存在が人間であるわけです。
 
   〝人間は考えるらっきょう(・・・・・)である〟

 ところで、パスカルという気取った男が申しました。〝人間は考える葦である〟。熊谷孝というどうにもならん男が申します。〝人間は考えるらっきょう(・・・・・)である〟。らっきょう(・・・・・)なんです。この、らっきょう(・・・・・)だっていう意味、解説いりませんでしょう。つまり、自分って何だって考えた場合ですね、自分ってらっきょう(・・・・・)だってことです。イメージしてくださいませんか、らっきょう(・・・・・)を。一つとして同じ形のものはありません。つまり人間にかえせば、他をもって置きかえることのできない存在、すなわち個人です。しかし、その個人、私という個人と、ワキタさんという個人とかコダマさんという個人には共通点があります。らっきょう(・・・・・)の皮をくっつけてるっていう点です。
 さっき言いました。人間は複数の中へ生まれてきて、複数の中で育くまれていく。だから、これは俺の考えだなんて思っていますが、よく考えてみると父親ゆずりの考えであったり、これこそわが個性だなんて考えると、案外先輩から学んだものであったり――。そんなふうにして、ともあれ人間はいろんな仲間をまさに()としてくっつけているわけですよ。
 だから、結局のところ、我は何者かってんで、自分が学びとったものをみんな切って捨てれば、我自身が残ると考えたらまちがいでして、らっきょう(・・・・・)()をむいて下さい、最後に残るのは空洞だけです。空洞が自分自身だなんてべらぼうな話はありません。いい()を身につけてるか、悪い()を身につけているかが問題なのです。()()との組み合わせです。
 つまり、自分が考えてるつもりで、実は自分達が、内なる仲間達が、<コミュニケーション=ダイアローグ=伝え合い>を行なっている状況、これが思考ということであり、想像ということであり、おしなべて認識ということなんですね。そういう生き物が人間なんだってこと、まず確認しておかないと、今日のテーマの「文学と文学教育」は成り立ちませんし、国語教育それ自体が成り立ちません。

   私の中の<私たち>―― 「存在が意識を決定する」ということの意味

 で、この熊谷テーゼ〝人間は考えるらっきょう〟ということを芸術家の問題に置き直しますと、偉大なる芸術学者だったギュイヨー、彼が語っていますね。
 芸術家の内側、内部ってのはどういう仕組み・構造になっているか。――オーケストラなんだよ、オーケストラ。へたくそなバイオリニストはつまみだしちゃえ、上手なのを連れてきて弾かせるんだよ、って。つまり、自分の内部改造っていう意味なんです。楽器が悪くちゃいい音は出ない、ぶっこわれたピアノだったらやっぱり古道具屋へ売っちまうよ、と。そして無理してでもいいピアノを仕入れるよ、と。すぐれた演奏者とすぐれた演奏楽器、それによって組み立てられてるのが芸術家の内側なんだよ、と。これはやっぱり〝人間はらっきょう(・・・・・)だ〟ってことでしょう。
 で、これを若い日のマルクスは(若い日の、です。この中にいらっしゃる半数くらいの方の年齢だと思います。その頃に彼は)言ってます。
 〝私が見ているのではない〟――ここで「見ている」というのを「考えている」と置きかえてもいいと思います。〝私が見ているのではない、私たち(・・・)が見ているのだ〟。――「私たち」すなわち、<内なる仲間>たち、あのらっきょう(・・・・・)()がですね、こぞって批評したり味わったりしながら「見ているのだ」、とこう申しました。
 やがて中年以降になった彼は、それをより抽象的、より一般的なことばに翻訳して、〝第一義的には、存在が意識を決定する〟。――「存在」が、即ち複数のらっきょう(・・・・・)が、また外側のらっきょう(・・・・・)候補生が、そのような人間存在が、あなたの「意識」を決定してるんだ、と申しました。これ、マルキシズムの根本原理ですね。
 若き日のはつらつたる(いえ、中年になっても彼ははつらつとしておりましたが)、未熟くささを含みながら非常にヴィヴィッドに頭を回転させて考え、また考えるだけでなしに、その考えることが同時に行動へ結びつくような、そのような道を選んだ彼が言ったことばは、くりかえします、〝私が見ているのではない、私たち(・・・)が見ているのだ〟。

   人間のことばと<伝え合い>

 それを今度は言語の立場から言えば、……あのう、少し余談めきますが、でも後に結びついていくのでここで言っておきたいのですが、ええっと、皆さんがたの条件反射の知識、いかなるものでしょうか。私は、全然弱いんです。言語に関する面しか知りません。ソビエトのアカデミーで、パブロフがぼくみたいな人文科学の連中なんかを前にしながら講演した記録が残されていますね(『パブロフ選集』って名前で出版されてます)。あの中にあるんですが……そこでのパブロフの実験報告にしたがえば、おおよそ次のごとくです。
 この実験に用いたベル、これは信号、シグナルですね。別の言い方をすれば<メディア>、仲立ちになるもの、<媒体>ですね。で、ここにエスという犬とポチという犬がいるとします。エスという犬には、このベルを鳴らしては餌をやる。これをくりかえしていると、エス君はやがてベルの音を聞いただけで唾液の分泌をはじめるようになるわけですね。そのエス君を右のコーナーへつなぎます。それから、ポチという犬には、ベルを鳴らしては、残酷ムードですが針でグサッとつくんです。むろんポチ君は悲しげに身悶えして鳴きます。これをくりかえしてやると、もうベルの音を聞いただけでキャンキャンと鳴き叫ぶようになります。このポチ君を左のコーナーにつなぎます。で、今、熊谷パブロフがここでもって、えいっとあのベルを鳴らしたとします。さて、いかなる事態になりましょうか。右のコーナーのエス君はよだれ出してニヤニヤしちゃって、「早くメシ持って来いよ」なんて顔してる。ところが左のコーナーのポチ君はというと、「助けてくれェ」てな調子でもってキャインキャイン鳴きわめくわけです。
 つまり、同じ一つの音が、双方に違った結果をもたらすわけです。言いかえれば、音の物理的な、何フォーンだとかというのは同じなんだけれども、それを受けとる相手方にあっては、違った意味の<媒体>になるわけです。
 で、もしワンちゃん達が、人間のように<ことば>を所有していたならば、「おい、あれは餌がくる合図だよ、なんでそんなに悲観的になってるんだ。」とか、「おいおい、そんなにおっとりしてていいのかい、あれは苦しみをもたらす始まりのベルなんだぜ、舌なめずりなんかしてちゃだめだ、もっと事態を真剣に考えろよ。」とか、こんなやりとり、伝え合いができるんでありましょう。でも、ワンちゃんの条件反射は第一信号的条件反射、低い度合いの条件反射でして、ついに<伝え合い>ができないんです。
 人間の条件反射は違うのです。たとえば、ベテランの教師がですね、「あなたは、いい気になって習慣的にそれやってるけど、どんな意味あるのですか。」なんて、若い教師からグサッとつかれて「ウーン、なるほど」と思いいたってみたり、逆に「やっぱりベテランだけのことはある、よく見てるなァ、ぼくも考え直すよ。」なんて若い先生が反省したり、そういう<伝え合い>の条件反射、第二信号系の条件反射、すなわち<ことば反射>ができるんです。この場合の<伝え合い>とは、言いかえれば対話するってことです。

 いかがでしょうか、私は<エクスターナル・スピーチ>を使って、一方通行の話をしてるでしょうか。それとも、みなさんの、あなたの<内なる仲間>とどこかでつながってるでしょうか。つながるように話したいんだけれど、独りよがりになりがちで、それこそリフレクション=反省という意味の条件反射をしなければならないところにきてるわけですが……。一〇分間休憩をとりましょう。

     ――――<休憩>――――


  国語教育――対話のできる人間を育くむために
 さて、国語教育は何だということ、とくに国語科教育は何だということにぼつぼつ入ってゆきたいと思っていますけれど、「一、何々。二、何々……」と箇条書きしてもはじまりません。基本は何か、ということですが、要するに、対話ができる人間をつくるということ――。今すぐ、なんて誰も言っていません。小学校でできてしまったら、中学は、高校・大学はいらないことになってしまう。生涯の問題です。その基礎を与えていく仕事、これが国語科の教師の任務であろう、とやや抽象的な言い方のようですが、そう考えます。
 ところで、人間らしい人間というのは、対話のできる人間ということですね。自分の考えをゴリ押しして人に押しつけるヤツ、これは人間らしくありません。また、理由も考えないで相手の言うことにいちいちさからって噛みつくような人間、これも人間らしくありません。批判できる人間ですね。批判する、というのは貶すこととは全然別です。批判することで肯定することもあれば、批判することで否定することもある。批判のともなわない肯定・否定、犬に喰われろ、であります。

   国語をまっとうに操作できる人間を、その未来像において

 私たちは、すなおに対話できる人間、そういう人間の基礎づくりをする。すぐれて国語科がその任務を負うと思うのです。
 私は、国語教育をはっきり定義します。それは、いわゆる意味の言語教育でなく、またいわゆる意味のブンガク教育でもないのです。国語教育とは、アルファからオメガまで終始一貫して、子どものことばの使い方、<ことば操作>の仕方を教える活動なのだ。(――ご不満の方もおありでしょう。もう少し先まで聞いてください。一遍に二つ以上のことが言えないというのがことばの特徴です。つまり、<ことばの継時性>ですね。時間を継いで追っかけて語るほかないし、それ故に、それ故にまた、思考するにも適した道具、というのが言語です。絵を見れば一遍にわかりますね。こっちでもって太郎が花子を蹴飛ばしている。花子が泣きべそをかいている。と、武史が花子の応援に駆けつける。これらのことは、一枚の絵にちゃんと出てきます。でも、ことばは今言ったようなことをながながしく時間を追って話すしかありません。それで申しているのですから、どうぞ誤解のないように。)ただ、あくまで結論として、私はそう思います。
 国語科の教育、それは子どもの<ことば操作>の仕方を教える活動なのだ、ここをとりはずしますと、〝言語教育プラス文学教育が国語教育だ〟というような領域論、いってみれば「大陸棚協定」のようなことになります。どこまでが日本の領域でどこからが韓国だ、みたいなもので、言語教育と文学教育を寄せ算すると国語教育になる――ウソつけ!であります。また、私たちはとかく〝国語とは言語である。言語教育すなわち言語自体の教育である。文学教育はそれのおまけ、付録である。〟と、こういう考え方にすべりがちですが、バカ言え!であります。私、ことばが悪いのでお許しください。育ちが悪いものですから。でも、ほんとにバカ言え、と思います。
 国語教育は、母国語である日本語、それを日本人としてまっとうに操作できるような、そのような人間を未来像として描きながら、子どもを育てはぐくむ活動だ、そう考えるほかないものです。

   「文章のなかにある言葉」と「辞書の中にある言葉」

 ここでちょっと一例を申しあげます。芥川竜之介は半世紀前の作家です。この竜之介の書いたものの中で、例の『侏儒の言葉』、その中で彼は語っています。「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。」と。これ、私のベラボウに好きなことばなんですけど、この「文章」というのを、書いたものだけとはお考えくださいませんように。話していることも何もかもふくめて外に出たことば、日常会話や記録に用いられていることば、これが辞書の外のことばであり、「文章の中にあることば」です。で、これが生きたことば、〝ことば自体〟じゃないのですか。
 じゃ、「辞書の中のことば」って何


【-------------------------------記録集の8頁、9頁欠(乱丁)------------------------------】


 ぼくは今、文章のあり方っていいましたね。「私は今、ここに立っている。」というのもひとつの文章です。「皆さんに心から申しますが、こんなに静粛に聞いてくださる、暑い中で。感謝でいっぱいです。」これもまたひとつの文章です。そういう文章のあり方を、切り口によって、文法といい、文体というわけですね。文法というのは、要するに構文規則、ことばの形態法則。この切り口からひとつのあり方を文章に見た場合、これは修飾している、これは主語――、術語だ、助動詞だ、とこういうふうにつかむわけですね。これが文法ですよね。とっても大事なものですね。 ところで、<文体>とはそれと関係するけれど、基本の発想がそれと違うわけです。さっき読んだ芥川の文章(「文章の中にある言葉は……」)がありますね。その文章を、これが主語でこれが述語だねって見ていくのではなくて、文章のあり方を<現実把握の発想・発想法>という切り口からつかんでいく。この<発想>との関係から文章のあり方というものが考えられた場合、それを<文体>と、こう言うわけです。
 この点をおさえて、より明確に定義づければ、〝国語科教育は、<文体づくりの国語教育>だ〟と言い切ってよいかと思います。少なくとも私はそう信じています。
 さて、そうしますと、他教科でおこなう国語教育、これは何だろうということですが、これは必ずしも<文体づくり>の国語教育ではありません。たとえば、体育の時間、先生方はどうやって指導しますか。日本語を使って指導なさるでしょう。生徒たちも日本語を使って学習してるでしょう。そこでは、ことばの教授や学習そのものが目的ではないけれども、結果的には、その体育でなければ身につかないような母国語操作の仕方を学習しているわけですね。こんなふうにして、体育は体育の、理科は理科の、また社会科は社会科の固有の発想でもって、国語教育にたずさわっているわけです。その中で、国語科は、今言ったように、<発想とことばの二人三脚の関係、親子関係>を、まっとうに二人三脚で行けるように育くんでいく、そうして、すぐれた母国語操作のできる人間に育くんでいく、これが固有の任務であるわけです。
 それといま一点、国語教育という視点で考えます場合、英語教育ってのも国語教育のためにあるのではないでしょうか。英語教育ってのは、たとえば、広島に観光に来た外人さんに聞かれてもペラペラとしゃべれるようになる、そのことのためにやるのですか。ガイドになるためのものですか。違うんですよね。国語科の方から言えば、こういうことがあるでしょう。いわゆる日本語しか使えない場合、日本語のほんとうの姿がわからないということ。比較するものがあって本質がわかるっていうことですね。英語を学んで、さっき言った、日本語は<陳述>中心の特徴を持っているのだ、これをいかさなくちゃ、とこうわかってくるのはないですか。そういう意味で、英語教育、外国と教育は国語教育にとって絶対必要なんです。あくまでそれは、日本人を日本人らしく育てるための英語教育でなければならぬ、とこう思います。ガイドづくりの、いわんやテストにうかるためのそのような教育であってはいけない、と思います。
 さて、ここで一区切りつけましょう。

     ――――<休憩>――――
 

  対話精神の所産としての文学(児童文学)
 国語教育ってのは、対話できる人間の基礎づくりなんだ、そしてそれは発想が空転するんじゃなくて、文章のあり方に結びつく、そんな母国語操作のできる人間を未来像において、子どもを育くんでいく教育活動なんだ、こういうようなことを先程来、申し上げてきました。
 このことをふまえて、つぎに私は、文学と文学教育のことに入ってゆきたいと思います。

   教師の文学をわかろうとする姿勢こそ

 私は思います。教師が数学わかんないで、あるいはわかろうとしないで、数学教育できませんよね。同じように、文学をわかろうとしないで、文学教育もへったくれもないんじゃないでしょうか。教師が文学をわかろうとする気持ち、これが大事なんだ、と思います。
 中学校で例をあげて恐縮ですが、ある方は、漱石にたいへん傾倒している、が、鷗外はほとんど知らない、またある方は、太宰はいいが、遠藤周作となるとどうも読む気がおこらない、といったようにめいめいの<私の文学>ってものは違うと思うんです。でも、実際問題として、自分がいくら漱石が好きだからといって、漱石ばっかり教えてりゃそれでいいのかっていうと、そうはいきませんよね。やっぱり客観的にみて偉大なと言いうる文学者鷗外、自分はたとえ好かなくとも、わかんなくとも、教えなければなりませんし、教えるべきだと思います。で、そんなときどうするか。生徒に向かって言えばいい。「先生はまだよくわからない。だけどわかりたい。わかりたいから君たちといっしょにやるんだ。」と。この気持ち、この姿勢が大切なんだと思うんです。
 ただ指導書に書いてある順序で、主題はなんとかで、副主題(ってのがあるんだそうですね)がなんとかで、いくつの段落に分けてってやつ、これじゃあ文学教育が死んじゃいます。いいえ、文学そのものが文学でなくなってしまいます。

   文学と児童文学と――

 そこで文学ですが、ところで文学精神って何ですか。<対話精神>なんです。文学は対話精神の産物なんです。
 で、レジュメの資料をご覧ください。これは太宰治、彼がまだ二〇代の頃に書いた傑作『晩年』――彼の処女作品集ですね――のなかにある『玩具』という短篇の一節です。

    〈朗読〉
 私はときたま玩具と言葉を交した。木枯がつよく吹いている夜更けであった。私は、枕元のだるまに尋ねた。「だるま、寒くないか。」だるまは答えた。「寒くない。」私はかさねて尋ねた。「ほんとうに寒くないか。」だるまは答えた。「寒くない。」「ほんとうに。」「寒くない。」傍に寝ている誰かが私たち(・・・)を見て笑った。「この子はだるまがお好きなようだ。いつまでも黙って(・・・)だるまを見ている。」

 これ、形からいえば、少年時代の回想でしょうが、回想の津島修治、太宰治の幼年期にこんな場面があったかどうか、それは知るよしもございません。むろん、イマジネーションを働かせて書いたものでしょう。ここにほとんど、文学精神が対話の精神だってことが要約されている、と私は思います。
 だるまとの対話です。そして思えば、であります。ちっちゃい時、私たちも玩具、おもちゃと話をしやしませんでしたか。自分の過去を思い出せない方も、目の前の子供たちの姿はここにイメージ・アップできると思います。S・Lのあのおもちゃ、あれをこう走らせる時も言ってるじゃありませんか。「シュッシュッポッポ、シュッシュッポッポ」なんて。子どもは、本物が走っている以上なんです。汽車と対話してんですね。それから、こんなちいちゃい時、私たちは森の中のぼくの先祖、熊さんとお話ししたじゃありませんか。それが、今の私たちからは失なわれました、そういうファンタジーが――。
 で、こんなことを言うと現代の児童文学者に叱られるかもしれないけど、キンダー・メルヘン、童話ですね、私はこれをぜひちっちゃい時に与えたいなって思います。この童話をとおして素敵な対話のできた人間、すなわち、すてきな文学になじんでいた人間、彼・彼女はやがて中学へ行き高校へ行き、そしてその時半大人から大人になるのですが、それにふさわしい対話の相手、つまりそういう文学作品を発掘し、大人らしい姿勢で対話をつづけていくでしょうねェ、きっと。子どもが子供である時期に童話をぜひとも、と私は考えます。
 さて、太宰はこんなふうな、だるまと対話できた<私>を書いております。そして、傍にいるのは〝発達した大人〟です。これ、発達といえるのか、そこをどうぞ読み返してみてください。「この子はだるまがお好きなようだ。いつまでも黙って(・・・)だるまを見ている。」――カサカサになった人間ですね。失なってはならぬものを失なった人間ですね。
 〝児童文学とは、子どもが子ども自身になるための、児童それ自身にとっては自分が自分自身になるための営み〟ですね。子どもというのを、「赤い鳥」の時代みたいに、童心主義でもって「清らかな存在」なんて考えるのはバカげています。子どもはある意味でちっちゃな大人です。いけすかない大人の小型の人間、そういう面を持っております。その人間を<子ども>にかえしてやることですね。子どもの時期に、子どもらしい感覚・感情でいる人間になれなかったら、先は望み薄ですね。なんかそういうわけで、小学校の文学教育、徹底してやっていただきたい、と思います。

   対話精神にみちた文学(1)――死者との対話――大岡昇平の場合

 つぎに、詩精神・散文精神の話に入ります前に、<対話精神>のありようを、散文文学に例を求めて深めてみたいと思います。すぐれて文学的な文学といいますか、これが生きた文学だ、私たちに必要な文学だ、というのは対話精神にみちた文学のことです。そして、その対話ということがはっきり表現に出たような作品すらあります。
 大岡昇平の『野火』とか『俘虜記』といった敗戦後二・三年といったあの時期に書かれた作品、これらはアメリカ軍の、占領軍の検閲を通すために削りに削り、書き換えに書き換えた作品で、しかもあれだけ骨をぬき、身を削ってなおかつアピールする、そんな文章なわけですが、大岡昇平さんは大変不満なわけです。さもありなんと思います。で、彼は、とうやらとにかくカッコウだけ沖縄返還のなんのと、そしてなんか日本の立場も少しは、ということになったその時期に、精魂こめて、『野火』や『俘虜記』を通して書きたかった作品を書いたんですね。それが、これからお話しする『ミンドロ島ふたたび』、そしてあの長編『レイテ戦記』です。
 彼はかつて、南方に、ミンダナオ島へ、そしてレイテ作戦に参加した一兵士でした。そして今、それから一〇年たち、二〇年たった今、というわけです。あそこで、お墓ももたずに野ざらしにされて、わが戦友が死んでいる。いや、殺されたままになっている。この戦友を弔わずにはいられなくなった、と同時にその戦友の声を聞きたい、死者の声を聞きたい――死者との対話ですね――こうして、彼は南方へ再び出かけるわけでございます。そうしたら、と彼は書いております。あの草むらから、この木陰から、あの岩の外れから戦友が次々と姿をあらわした。私は訊ねた。「おれは生き残ったよ。君たちはいろんな希望も抱きながら、満たされないで死んでいった。何か私に、代わってできることはないか。」と。戦友は次々と答えて言った。ある者は叫んだ。「アメリカを皆殺しにしてくれ!」また、ある者は言った。「俺は死んだ。だが私は、赤ん坊を、男の子を故郷に残して戦地へ連れて来られた。あの子だけは、俺みたいな運命に陥らんようにしてくれ。息子に、私が強いられたように銃を持たされる日の来ないようにしてくれ。」こんな叫びがあちことから聞えてきた。そして私はひとりになって考えた。アメリカ人を皆殺しにする――不可能なことである以上に無意味であり、いけないことだ。アメリカ人だ、日本人だ、だからではない。日本人の中に多くの敵がいたじゃないか! 今だっているじゃないか。アメリカ人の中にほんとの仲間もいるじゃないか。そんなことは自分にはできない。だけど、今の時代を知らずに眠っている戦友たちにこんな返事をして何になろう。戦友は叫ぶ。「アメリカ人を皆殺しにしてくれ。俺や俺たちを殺した人間を皆殺しにしてくれ。」この戦友の心からの叫びをくぐったところで、私にできることは何だ、何がある。――こうして大岡は、常にあたためてきた<内なる仲間>、戦友に語りかけつつ対話するわけですね。――そうだ、軍事基地を日本から、飛行場も何もかも日本から追放することだ。これは、できないはずのことではない。そのことへの努力に、残り少ない人生を捧げよう。なにより私は自分の武器、ペンを通して軍事基地追放の戦をたたかいつづけることだ。
 彼はこのようにして、まさに<死者との対話>を、一篇の作品に、いえ後には『レイテ戦記』、そのような長編に書き継いでいくわけです。これぞ、文学精神であります。なぜならばそれは、<対話の精神>に満ち満ちているからです。

   対話精神に満ちた文学(2)――自然との対話――井伏鱒二の場合

 それから、井伏さんです。予定外なのですが、『増富の谿谷』という短篇が日中戦争の末期、昭和十六年だったでしょうか、書かれております。四〇〇字詰の原稿用紙に直して二〇枚前後という短いものなんですけど、これには実名の人物が三名登場してまいります。村松梢風さんと佐藤垢石さん、それに田中貢太郎さんですね。
 <私>は最初、その佐藤老人とこう、山を登って行くのです。そして、なんか、今日は疲れた、明日は釣を朝からやろうということで、二人は一杯飲んで寝ちゃうわけです。で、あさが来て、早朝に二人は川しもに向かって引返すんですね。すると急に谷が拡がって見える切通しの下り口に、おどろいた、三抱えもある、いいえもっと大きな大きな胡桃(くるみ)の木が、毅然と立っていた。二人は顔を見合わせて、「こんな木あったかね。」「こんな木あったかしら。」「気がつかなかったね。」「でもこんな大きな木、道につき出たこんな木を、見落すはずはないね。」「不思議だね。」そんなこと言いながら、二人で首をかしげながら麓の方へ向かおうとすると、路の曲り角のところでぱったりと二人の清楚な感じの娘さん――どうも姉妹らしい――に会った。おそろいの紺がすりを着て手拭をかぶり、目籠を背負っていた。そして、この美しい娘さんが、姉さまかぶりの手拭をぬいで、丁寧にお辞儀をした。私たちもあいさつを返して、と、咄嗟に<私>の口から出ちゃった。実はこれからバスに乗って駅にむかうのですね、麓へ行って。どう行けばいいか、分ってるんです。来る時乗ってきたんですから。だけど咄嗟に出ちゃった。「もしもし、お尋ねしますが、バス停に行くにはどう行ったらいいでしょうか。」
 どう答えたかは忘れました。知りたい方はご自分で読んでください。楽しい作品ですから。そして話はもう少しあるんです。
 二人は、あんな美しい人がこんな田舎にいるのかしら、単に美しいだけじゃないよねって、彼女たちが曲り角を曲がるまで見送るんです。なんか尊いものが自分達から離れていく、消え失せていくような思いだった。で、私たちは東京に帰りつくんです。
 そして、それから数年たってなのですが、さっき申しました田中貢太郎さんが、しばらく土佐へ行ってたんだが、東京へもどることになった。その歓迎会を仲間でやろうよってわけで会合を持った。するとそこに、村松梢風さんが来てた。で、二人で将棋さして、旅の話なんかしているうちに、どちらが云いだしたともなく増富谿谷の話になった。梢風さんは二十数年前に行ったという。それであのときのことを思い出して<私>が言おうとすると、村松氏の方が話した。「あそこで、とてもきれいな娘を見たんだよ。」「二抱えもある胡桃の木のところでね。」あっ、と思った。で、思わず<私>は聞いた、「あんたもバス停に行く道聞いたの。」って。そこが面白いとこなんですけれどね、井伏文学の。文学ってなんのことはない、ことばの芸ですからね。ことばはどうでもいいって人には文学は不要のものですよ。ことばの面白味です、文学は。――するとまあ、村松さんの答えたのは、「二十何年前に、あそこにバスが通ってるかよう。」でございます。そこだけ食い違ったんですけれど、まったく同じものを二十何年前に村松氏は見た。しかも、向こうから紺がすりの、胡桃の木の、って言い出した。……それから数日後、そこで終わりますが、<私>は去年大学を卒業した石田という青年に、この話をした。そしたら相手は根を輝かせた。「どうぞ先生、この話を」と言うのですね、その青年は、「世にも不思議な物語の、まるであのミステリーみたいに奇怪な物語のごとく人に話してくださるな。」と。「村松さんとあなたの見たのは、それは偶然に過ぎないんだよ。でもね、僕もその偶然を求めて明日すぐ増富へ行ってきます。」ってんです。そこで終わるのですがね。この青年、たいしたものですね。
 つまり、ここで作品をはなれますけど、作品について話します。こういうことです。実名の人物が出てくるってのは余り結構なことじゃないんですが、しかし、この作品の場合は生きてますね。あの村松さん、〝もののあわれ〟を解する人ですね。対話の精神を持ってる人ですね。この<私>も、まがりなりに、持ってるんですよね。そして、あの青年はというと、対話の精神を求めている人なんですよね。そういう精神の持ち主の前には、胡桃の木は、大木は己が姿を――それは木の精ですね――見せる。そういう精神を持たない人には決して、胡桃の木は己が姿を見せないであろうし、いわんや己が精神、娘さんに変身したその精を見せることはない。胡桃の木も、こちらが求める気があれば話しかけてくるのですね。こういうつかみ方が、ご当地のご出身の井伏鱒二さんのもつ対話精神、文学精神なんですよね。
 将来、ぼくは、今のあなたが教えてらっしゃるお子さんたち、小学生・中学生、この方たちがみなさんの年齢になる頃に『増富の谿谷』をほんとにある意味で、<わが文学>として読める人、それから『ミンドロ島ふたたび』、あれをほんとに怒りをこめて読める人、こういう大人になるように、その基礎をしっかりきずいていただきたい、と思うわけです。それでは、一〇分ほど休憩を――。
 
  
文学と文学教育――対話による自己の回復をめざすもの
 
 開会させていただきます。主催者側でご苦労して準備してくださった『皇帝の新しい着物』、どなたもご存知の作品、と言いたいのですけれど、広島の先生、いかがでしょうか。大畑末吉さん――この間なくなられましたね、この方も――の翻訳された『皇帝の新しい着物』でお読みになっていらっしゃいますでしょうか。それとも『はだかの王様』は読んだが、『皇帝の新しい着物』は読んでおられないでしょうか。国立音大の、高校から来たばかりの教養課程の学生たちに手をあげさせてみますと、千人の学生の中で『皇帝の新しい着物』を読んだ人は二人。何%でしょうか。「『はだかの王様』だよ」と言うと、「なんだ、つまらない。読んだ読んだ。」とこうくる。「だけど君たちは『はだかの王様』を読んだんで、『皇帝の新しい着物』は読んでいないだろう。」と言うと、「うん」と言う。これ、小・中・高の学校教育の中で、ついに読ませなかったのではないだろうか、と思うんですね。

   「皇帝」と「王様」との間――アンデルセンの発想と文体と

 ところで、「はだかの王様」というのは、たいへんみごとな、それこそテーマをよくつかんだ翻訳だ、と思います、あの題名の与え方は。が、もう一つの大事なテーマをこぼしています。今、目の前の子どもには「はだかの王様」の方がつかみやすいです。けれど何か残らない、これは子どものためのお話だよって終わってしまう。ぼくはこれ、『皇帝の新しい着物』を大学で教えています。私は、文学教育の教材体系ということでいえば、この『皇帝の新しい着物』は、まず小学校で読ませなければだめだ、そして中・高校でやり直し、仕上げは大学くらいでやらなければ、こう思っています。教材化する場合の、もっとも大事な作品のひとつではないか、と考えています。
 さて、ご存知のアンデルセンの自伝、思いおこしてください。アンデルセンがデンマークで生まれたのは一八〇五年、そして一八七五年に亡くなっています。この偉大な文学者、彼は三〇代、成人の文学・大人の文学のすぐれた作家でしたね。で、ぼく如き人間でも翻訳を通してでありますが、読んだのは『即興詩人』。非常に人々から拍手を送られた作品ですね。その彼が、ポッキリ成人文学の筆を折って、新たに児童文学、童話のペンを執ったのです。それが一八三五年ですね。ざっと計算して三〇の年。ご承知のように、デンマークでは年に一回、クリスマスに向けて童話集を出すわけですね、今と事情が違いますので。と申しますのは、当時、汗水たらして専制王政の下で苦しめられている農民大衆が働こうにも働けない時期があります、冬ですね、雪に閉じ込められていますから。で、その時期になったら親や兄弟が弟や妹、わが子に、たった一冊の童話集を読んで聞かせてやったりするわけですね。何種類も出ているわけではありませんし、他に何種類あったとしてもその一冊が廻し読みされるわけでしょう。こっちの農家で今晩読む、二日たったらお隣へ。と言うふうにして部落を渡り歩くわけですね。これがたぶん唯一の子どもにとっての娯楽だし、親や子どもたちやが、一年にほんのわずか、いっしょに親しめる、貧しい農民たちがくつろげる時節なのですね。この時期に子どもに読んできかせる童話として編まれたのが「アンデルセン童話集」だったわけです。
 で、このアンデルセンの「第一童話集」が世に出たのが一八三五年。たいへん評判が悪かった、専門家、玄人筋の間で。メチャメチャにたたかれた。というのは、含みがあるわけです。あの『即興詩人』の作者、大人文学をどんどん書きつづけてほしい作者が、自分たちのもとを離れてなんと、子どものための文学なんかに手を出した。もう一遍戻れよ、アンデルセン。そういう思いがこもった非難の声でもあったわけです。でも彼はめげずに翌年、また出したわけですが、これまた評判が悪かった。さすがの彼もがっくりきて、これは私の記憶に間違いがなければ夏のことだというのですが、ある農村地帯を首をうなだれて歩いていた、そしたら休憩時間で、農民の人が、しかも若い人が木陰に寝そべりながら一冊の本を読んでいる。ひょっと見たら自分の本ではないか。そして、その眼の輝きに驚いた。たった一人でもよい、自分の読者がいた。しかも目を輝かして読んでくれるこういう若い人が。この人はきっと、自分の弟や妹に読んできかせるだろう。そうだ、やはり書かなくては――。こうして書いたのが「第三童話集」。一八三七年のことですね。そうしてその中の代表作がこの『皇帝の新しい着物』です。
 で、先程、「はだかの王様」という日本語の訳名、題名は素敵であって、かつ素敵でない、と申しました。このいまひとつの理由は、「王様」ではなくって「皇帝」でなければならないからです。
 彼、アンデルセンは、なぜ大人文学の筆を折ったのか。大人に愛想をつかしたからですよ。すれっからしの、飼い慣らされた大人、そこに期待すべきものもない。彼は人間不信なのか。そうではありません。けどね、これをしも人間不信というならばですね、この人間不信は素敵だと私は思います。どうにもならない大人だっているわけです。飼い慣らされたまんまの大人、そのような大人がこの世に満ち満ちている限り、ついに革命の日は来ないのです。永遠に、わがデンマークには、であります。今の大人に期待すべきものはないのです。対話しても対話にならないのです。で、対話の対象を子どもに求めたわけです。それが端的に表われている作品が『皇帝の新しい着物』ということになると思います。
 彼は、「皇帝は」と書きました。わがデンマークは「王」によって支配されております、あの専制的な「王」によって。「王」などと書くと手が後ろに回るわけです。牢獄行きです。己れの保身のためでは決してない、ただ勇ましがっていたって何の役に立とうか。――彼は涙をのんで「皇帝」と書き換えました。そしてまた、今までの童話の書きだしは、と言えば「昔々あるところに(Once upon a time)」とか、「ベルトが糸を紡いでいた時分」とか、そんなふうな定型的なものだった。それを彼はぶち破りました。「数年前」ってことになっています。「今日のことじゃないのだよ。だけど大昔の、動物が口をきいていた時分のことでもないのだよ。そう、四・五年前のことなんだよ。ある国の皇帝がねっ。」という書き出し。この斬新な発想と斬新な文章表現、これによって話が切り出されていること――今は時計とにらめっこなんで、これ以上のことを申し上げられなくて残念なのですが、――もう、この題名が「皇帝(・・)の新しい着物」でなければならないことがご了解いただけたと思います。

   子どもの発達に即し、発達をうながす文学教育を

 そして、アンデルセンの愛読者たち、それは全デンマークの農村の子供たちですね。その子どもたちが十二歳のときに読んだとしたら、一八四九年の革命まで何年ありますか、一八三七年出版ですから十二年後ですね。当時十二歳の子どもは二四歳、読み聞かせしてもらった八つの子どもも二〇歳。当時の十七・八は立派な大人であり一家を荷って立てる年ごろですね、なんせ四〇歳過ぎれば親父はもう腰が曲がっちゃうのですから。そんなかつてのアンデルセンの愛読者、彼らが王政の悪さ、むごさ、人間疎外の姿を身をもって実感したとき、立ちあがらざるをえなかった、それがこの四九年の専制王政から立憲君主制への革命だったわけですね。そう、アンデルセンのこの童話の中では、「この国の皇帝は一時間ごとにオベベを着換えて着飾って、そうして遊び呆けている。」ということですね。ところが、「よその国の王様は」って書いてある。何のことはない、立憲君主制のいかなるものかがうたわれていますね。ちゃんとめいめいのノルマがあって、外国の使節が来たらそれを猟に招待するとか、劇場に案内するとか、午前中は政治上の執務をするとか、そういうことをやっている。ところがこのわが「皇帝」は、オベベのことばっかり考えているというふうに対比的に書かれていますね。二十歳になり、二十四歳になったその青年たちは、ああ、これはわがデンマークの「王」の姿そのままではないか、と気づく。「王」が国民から白い眼で見られていることは当然としても、彼が信頼している大臣たち、家来たちからすらウソを言われている、チヤホヤ踊らされている。結局、「裸」なのだ、誰ひとり彼の味方はいないのだ。立ち上がれ。そして実際、立ち上りました。そのような関係の中にアンデルセンの童話、とくに『皇帝の新しい着物』は位置づいているわけで――。
 で、ただし、小学校での指導の場合、言うまでもないことです。「そのときデンマークは専制王政の下にあった。」なんて説明、余計なことです。楽しめばいいのです。この「皇帝」のバカさかげんをよくわかってもらえばいいのです。そして何より、あの子どもたちの真実の叫び、この眼で見た真実――「皇帝は裸だ!」 そういう真実を口にできる、ことばにできる子どもを育くんでいただく、それあるのみです。
 むろん、この子どもは大人の苦しみはわかりません。妥協する以外に生きて行けない現実の中で「裸の皇帝」を見ても「おみごとなお召し物でございます」と言わざるを得ない大人の苦しみはわかりません。それは、やがて教え子が中学・高校へ行き、大学へ、あるいは仕事を持ったとき、ほんとうにわかってくるのでしょう。そのわかる基礎を与えてほしいのです。理屈は抜き、楽しませてください。これが文学教育だ、と私は思います。

   <点>と<線>――詩精神と散文精神

 さて、詩精神と散文精神の方に話を移します。
 <点>と<線>――いいえ、私、松本清張の話をここでするつもりは毛頭ございません。比喩なんです。あのう、人生ってのは永いようで短い、短いようで永いのですが、五〇年なり三〇年なり、人生がこうあります。<線>でございます。この<線>は最初に申しましたように自分が生まれて後、という意味じゃないんです。生れる前のことまで含んでるわけですね。人間は、ことばを通して『徒然草』を知り、ニュートンを知り、パスカルを知り、いかすべきものをいかしてという長い<線>の中で、人間はめいめい人生をすごしているわけですね。
 で、そのひとつを取り上げますと<点>ですね。自分がハッとしたこと、これだけは叫ばずにはおれないっていうような<点>。その本当に訴えたいものを訴える、人生という一線上の一点をとっての呼びかけ、そういう精神のありよう、それが<詩精神>です。そして、<線>上のいくつかの<点>、それをつづれば短い線となる、そのようないくつかの<点>を取り上げての呼びかけ・訴え、これが短篇小説です。つまり訴えたいことはもう少し原因を書き、それから先はわからないけれどそのプロセスも書く。長編小説にいたっては、これはまさに<線>ですね。その<線>の中には、自分の訴えたいことがむろん、含まれます。と、同時に、訴えていいのやら、第一自分には未解決の問題、しかし、どうやら自分には問題がありそうにも思われるが、しかしあるともないともいい切れない、そういうこともどんどん取り上げていくのが長編小説ですね。すぐれて井伏鱒二の長編小説、たとえば『さざなみ軍記』、『多甚古村』、戦後の『かるさん屋敷』『安土セミナリオ』、そうした作品は、この<線>の精神によって貫かれています。「僕はこう思う、こういうもんだよ。」っていうような、作中に作者がしゃしゃり出てですね、演説をぶったりはしません。作品の中で誰かが語っています――それは語り手であり狂言廻しなんですが――その彼の語るところをそれとして書きとめていく、という方法で井伏文学は展開しております。これが<散文精神>ですね。<線>において対話しよう、対話を求めていこう、こういう精神のありようのことですね。

   <定住者の文学>を現代の子どもに


 いわば詩は訴えです。しかし、訴えという場合、たとえば藤村の「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ」、これはさすらい人の詩なんですね。あまりにもあざとく・あくどい俗世間に背をむけて逃避していく、そのことで自分の人間性を守ろうとする、漂泊者の文学なんですね。だが、現代の詩は違う。小野十三郎さんがみごとなことばを作られましたね。現代の詩、それは<定住者>の文学でなければならない、と。だから同じ詩精神といいながら、<漂泊者の精神>と<定住者の精神>という詩精神のあり方の基本的な違いがでてくるわけですね。
 <定住者の精神>、それは広島なら広島で生きて、そこで妥協もするだろうし、忍従の一面もあるかも知れない。腹が立つけどこの上役、ぶん殴りたいけどぶん殴ったら首だ。その時ガマンをする。そういうものも含みこみながら、妻がいる、子がいる老いた母がいる、そういう苦悩を抱えながら、広島を離れられない人間。しかも別の面では、この広島を限りなく愛している人間。それが<定住者>。
 この定住者の精神、そのサンプルとして、花森安治さんの詩『戦場』をお持ちしました。『暮しの手帖』(九六号)に、数年前こんな特集があったんです、戦争の苦悩を真に苦悩した人達の文集を特集したことが。
 なんとかして次の世代へこの戦争体験を語り伝えたい、対話したい。で、手記を募りました。花森安治さんは「編集後記」に書いております。なんて規則を無視した文章ばっかりなんだろう、と。表記法なんてなっちゃないよ、と。原稿用紙の使い方だって知らないんだ。へたくそな文章、だけどなんと心打たれる文章であることか。何で心打たれるんだ。書かずにはおれない、伝えずにはおれない、この<発想>が、ひとつひとつの部分だけほじくってりゃへたくそなんだが全体として、訴えてくるんだ、読んでみてくれ、と。
 ほんとに、そういう文章でした。うそがひとつもないんです。そして、花森さんは、最初、自分のサインを、署名を入れずに、この『戦場』という詩を巻頭に載せました。東京大空襲です。お気に障るところがあるかもしれません、「広島よりひどい」って書いてあります。そんなことあるか、原爆と空襲……なんておっしゃらないで下さい。ひとつの普遍化、典型化ですから。そういう目でご一緒にたどってください。これが現代の<詩精神>の作品だ。いわゆるクロウト詩人ではない、ひとりの<定住者>の、訴えの、<点>の精神の、これがひとつのシンボルなんだ。こんな意味で、ひとつ棒読みしますから、皆さんは皆さんの美しい発声法で、ご自分で読んでください。


  戦  場 
          
花森安治

<戦場>は
いつでも
海の向うにあった
ずっと向うの
ずっととおい
手のとどかないところに
あった
学校で習った地図を
ひろげてみても
心のなかの<戦場>は
いつでも
それよりもっととおくの
海の向うにあった

ここは
<戦場>ではなかった
ここでは みんな
<じぶんの家>で
暮していた
すこしの豆粕と大豆と
どんぐりの粉を食べ
垢だらけのモンペを着て
夜が明けると
血眼になって働きまわり
日が暮れると そのまま
眠った
ここは <戦場>では
なかった

海の向うの
心のなかの<戦場>では
泥水と 疲労と 炎天と
飢餓と 死と
そのなかを
砲弾が 銃弾が 爆弾が
つんざき 唸り 炸裂していた

<戦場>と ここの間に
海があった
兵隊たちは
死ななければ
その<海>をこえて
ここへは 帰ってこられなかった

いま
その<海>をひきさいて
数百数千の爆撃機が
ここの上空に
殺到している

焼夷弾である
焼夷弾が
投下されている
時間にして
おそらく 数十秒
数百秒
焼夷弾が
想像をこえた量が
いま ここの上空から
投下されているのだ
それは 空中で
一度 炸裂し
一発の焼夷弾は
七二発の焼夷弾に分裂し
すさまじい光箭となって
地上に たたきこまれる
それは
いかなる前衛美術も
ついに及ばぬ
凄烈不可思議な
光跡を画いて
数かぎりなく
後から 後から 地上に
突きささってゆく

地上
そこは <戦場>では
なかった
この すさまじい焼夷弾攻撃にさらされている
この瞬間も
おそらく ここが
これが <戦場>だとは
おもっていなかった

爆弾は 恐しいが
焼夷弾は こわくないと
教えられていた
焼夷弾はたたけば消える
必ず消せ
と教えられていた
みんな その通りにした
気が付いたときは
逃げみちは なかった
まわり全部が 千度を
こえる高熱の焔であった
しかも だれひとり
いま <戦場>で
死んでゆくのだ とは
おもわないで
死んでいった

夜が明けた
ここは どこか
わからない
見わたすかぎり 瓦礫が
つづき ところどころ
余燼が 白く煙りを上げてくすぶっている
異様な 嘔き気のする臭いが
立ちこめている
うだるような風が ゆるく
吹いていた

しかし ここは
<戦場>ではなかった
この風景は
単なる<焼け跡>にすぎなかった
ここで死んでいる人たちを だれも
<戦死者>とは 呼ばなかった
この気だるい風景のなかを動いている人たちは
正式には 単に<罹災者>であった
それだけであった

はだしである
負われている子をふくめて
この六人が 六人とも
はだしであり
六人が六人とも
こどもである
おそらく 兄妹であろう
父親は 出征中だろうか
母親は 逃げおくれたのだろうか
持てるだけの物を持ち
六人が寄りそって
一言もいわないで
だまって 焼けた舗道を
歩いてゆく
どこからきて どこへ
ゆくのか
だれも知らないし
だれも知ろうとしない

しかし
ここは<戦場>ではない
ありふれた<焼け跡>の
ありふれた風景の
一つにすぎないのである

あの音を
どれだけ 聞いたろう
どれだけ聞いても
馴れることは なかった
聞くたびに
背筋が きいんとなった

6秒吹鳴 3秒休止
6秒吹鳴 3秒休止
それの十回くりかえし
空襲警報発令

あの夜にかぎって 空襲警報が鳴らなかった
敵が第一弾を投下して
七分も経って
空襲警報が鳴ったとき
東京の下町は もう
まわりが ぐるっと
燃え上っていた
まず まわりを焼いて
脱出口を全部ふさいで
それから その中を
碁盤目に 一つずつ
焼いていった
1平方メートル当り
すくなくとも3発以上
という焼夷弾
<みなごろしの爆撃>

三月十日午前零時八分から
二時三七分まで
一四九分間に 死者
8万8千93名
負傷者
11万3千62名
この数字は
広島、長崎を上まわる

ここを 単に<焼け跡>
とよんでよいのか
ここで死に ここで傷き
家を焼かれた人たちを
ただ<罹災者>で 片づけてよいのか

ここが みんなの町が
<戦場>だった
こここそ こんどの戦争で
もっとも凄惨苛烈な
<戦場>だった

とにかく
生きていた
生きているということは
呼吸をしている
ということだった
それでも とにかく
生きていた

どこもかしこも
白茶けていた
生きていた
とはおもっても
生きていたのが幸せか
死んだほうが幸せか
よくわからなかった

気がついたら
男の下駄を はいていた
その下駄のひととは
あの焔のなかで
はぐれたままであった
朝から その人を探して
歩きまわった
たくさんの人が
死んでいた
誰が誰やら 男と女の
区別さえ つかなかった
それでも やはり
見てあるいた

生きていてほしい
とおもった
しかし じぶんは
どうして生きていけばよいのか
わからなかった

どこかで 乾パンをくれるということを聞いた
とりあえず
そのほうへ 歩いていってみようと 
おもった

いま考えると
この<戦場>で死んだ人の遺族に
国家が補償したのは
その乾パン一包みだけだったような気がする

お父さん
少年が そう叫んで
号泣した
あちらこちらから
嗚咽の声が洩れた

戦争の終った日
八月十五日
靖国神社の境内

海の向うの <戦場>で
死んだ
父の 夫の 息子の
兄弟の
その死が 何の意味も
なかった
そのおもいが 胸のうちをかきむしり
号泣となって
噴き上げた

しかし ここの
この<戦場>で
死んでいった人たち
その死については
どこに向って
泣けばいのか

その日
日本列島は
晴れであった


 ……コメントなんかそえられません。もし、この詩を教材にして、生徒のみなさんと、それからサークルのみなさんと、近所隣りの方々と対話していただけたら、と思います。
 今日、ぼくは、終始ほんとうに、なにか、心の中でこう、対話しながら話ができた、っていう喜びでいっぱいです。広島へうかがえて、ほんとうにうれしいです。お元気でがんばってください。ぼくもがんばります。『井伏鱒二』という本、来月出しますが、もう明日、東京に帰ったらすぐ次の本、『太宰治』を書きはじめます。ぼくは対話精神を持った作家の仕事、少しでも紹介して、自分の人生を終えたいと思っています。体のきく間、頭の多少とも回転する間、つづけます。ぼくもがんばります。みなさんもがんばって下さい。ほんとうにありがとうございました。

     ――――<おわり>――――


 以上、1978年6月17日(土)にもたれた教育基礎講座・教科別講座(国語)の熊谷 孝先生の講義「文学と文学教育」をテープおこししたものです。
<文責・新江義雄>
           1978年6月30日発行


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