「子どもたちと子どもでない人たち」の文学 私たち「文学教育研究者集団」は、数年にわたる共同研究の成果を、二〇〇四年十一月、『ケストナー文学への探検地図』(こうち書房刊)として一冊の本にまとめてみました。その後も、ケストナー文学への探検は続いております。夏、秋の公開研究集会にケストナーの作品を取りあげています。 集会参加者は、どなたも“文学教師”としての資格をお持ちです。集会プログラムには次のことばを掲げています。「“文学教師”――それは、自身に文学を必要とし、また、文学の人間回復の機能に賭けて、若い世代の“魂の技師”たろうとする人々のことである」と。学校教師はもちろんですが、教師以外の方、たとえば、会社員、主婦、大学生、高校生等も参加されています。 ゼミナールでは、自分はどう読んだのか、参加者自身の印象の追跡としての総合読みを行っています。 今までのゼミナールでは、詩や『雪の中の三人男』、『ケストナーの終戦日記』など大人の読者を対象とした作品のほか、『飛ぶ教室』『動物会議』『長靴をはいた猫』『エーミールと探偵たち』『点子ちゃんとアントン』など、いわゆる児童文学といわれている作品も、真剣に話し合いました。どんな風に話し合いは展開するのか、『ケストナー文学への探検地図』(以下『探検地図』と略記)に掲載の座談会を参照願えたらと思います。紹介の意味もかねて、同書からの引用を多くしました。 ここでは、大人も真剣に語り合いたくなるようなケストナー(児童)文学の魅力について、二つの側面から考えてみたいと思います。 現実凝視の鋭さ 座談会の一つ『動物会議』(池田香代子訳・岩波書店一九九九年刊)の中で、この作品の発表時期が問題にされています。この作品の発表は一九四九年の何月なのか、と。「一九九八年刊のハンザー社版の『ケストナー全集』を見ても、初版は一九四九年にヨーロッパ出版社から刊行されたと書いてあるだけだし、いろいろ調べてみたのですが、何月ということまで書いてある文献がみあたらない」ということです。その年の九月にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)、また、十月にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、ドイツが東西に分断された年であるから、何月に発表されたのか、考えるのは意味があるのではないかというのです。「もっとも、九月以前でも以後でも、東西分断が決定的になっていくという時点でこの作品が発表されたということに変わりはないんだけどね」と、話は深められています。 座談会のこの発言に接し、私自身、このことを無意識に読んでいたことに気づきました。東西ドイツの分断ということを意識しますと、『動物会議』のいくつかの場面が鮮明に浮かび上がってきました。座談会では言及されていない部分を、まず取り上げてみます。 人間たちは戦争が終わって四年もしないのに、また、戦争のうわさが広まっている。戦争の犠牲になるのは子どもたちだ。このことを知ったライオンのアーロイス、象のオスカル、キリンのレオポルドは、人間の子どもたちのために、何をしたらいいんだと、考えあう。象のオスカルは一晩中考えて、あることを思いついた。すべての動物の代表に、動物ビルに集まってもらおう。きっかり四週間後。連絡係はてきぱきとこなし、動物の代表たちは、空を飛んだり、船に乗ったり……、それぞれ固有の方法で、会場をめがける。厄介な目にあったのは、汽車の乗った動物たちでした。「地上はたくさんの国にわかれている」ので、「とおせんぼのしゃだん機がおりていて、制服の役人たちが、意地の悪い顔をして立っていた」。パスポートや、出国ビザや入国ビザのことをうるさくたずねます。動物たちはこれらとは関係なしの生活をしているのですからから、「なんだ、なんだ?」と様子を見に、ライオンのアーロイスや象のオスカル、トラやワニも列車から降りて、役人たちに近づきます。制服の役人たちは驚いて逃げていきます。すかさず、オスカルが怒鳴ります。「逃走ビザはおもちですかあ?」と。列車に乗っていた動物たちは、息が苦しくなるほど大笑いします。絵は大きな動物と対照的に役人たちの逃げる姿が小さく、こっけいに描かれています。遮断機をおろして国境を固守しようとする人間世界のしきたりが、笑い飛ばされているようです。 動物会議が始まり、冒頭演説は白クマのパウル。「ぼくたち動物は、団結して、二度と戦争や貧困や革命がおきないことを要求します! そういうことは、おきないようにしなければなりません! なぜなら、おきないようにできるからです! ですから、おきないようにするべきです!」「第87回目の人間の会議の出席者に正式に要求します。いまあるもっともゆゆしいさまたげ」「国ぐにの境をとびこえてください。とおせんぼのしゃだん機は廃止されなければなりません」。「そんなこと、動物にはあたりまえです。かしこい人間たちも、それを学ぶべきです」。 動物たちにとって国境は問題になりません。国境があっても飛び越えてしまいますから。 ドイツ人にとって、冷戦体制はドイツの分断という形で突きつけられ、新たに遮断機がおろされようとしています。その危機の渦中にあって、ヒステリックに声高に叫ぶのではなく、動物たちの発想にみならって、現実の矛盾を笑いの中に抉り出しているといえましょう。 『探検地図』の「年譜・ケストナーの生活と文学」は、ケストナーの創作活動とともに、その時代の政治・社会事象にも配慮されています。 座談会『飛ぶ教室』の中の次のようなことも私の印象に強く残っています。この作品の出版は、「一一月三〇日付の、お母さん宛の手紙」などから、十一月末に出版されたのではないかと。ヒトラーが政権を握った一九三三年一月より後なのです。何人かの会員の継続した追及の結果、長年の課題が明確になったのです。 このようなことが分かったからといって、作品を子どもの読者たちと読みあうとき、政治・社会事象をすべて説明しなければならないのでしょうか。『飛ぶ教室』座談会で話し合われています。「ケストナー自身も言ってますよね。政治を回避してはダメだ、と。全生活過程、全日常性をベースにする限り、政治も経済もみんな出てくるわけ。でも、子どもにとっては発達段階からいってわからないところがあってもいい。大人になるにしたがって、そういう世界がもっと生な形で自分たちの問題として迫ってくる。だからケストナー文学は、子供のとき読んで、また、大人になって読む本なんだ。」と。 ケストナー文学は、その「児童文学」を含めて、大人が真剣に話し合うのに値する文学なのです。それとともに、ケストナー文学への探検はぜひ子どものころから始めてもらいたい、子どものとき感じる作品の面白さにじゅうぶん浸って欲しいと切実に思います。 いきいきとした会話 つい最近(二〇〇五年十一月)の公開研究集会で『雪の中の三人男』(一九三四年 国外での出版、七一年 創元推理文庫 小松太郎訳)を読みあいました。登場人物の性格・表情が浮かんでくるような会話に満ちた作品でした。文庫本の作品解題によりますと、映画会社から依頼され脚本として書いたのを小説化したということです。セリフが生きているはずです。が、この作品に限らず、ケストナーの作品は登場人物の話しことばがいきいきとしています。 『探検地図』掲載の「エーミールと探偵たち」の中に、作中人物エーミールとほぼ同年齢だった当時の読者マルセル・ライヒ=ラニッキの次のようなことばが証言として引用されています。 「ベルリンも街角や裏庭と来れば、私たちには先刻なじみの舞台である。登場人物のしゃべり方も、私たち、この大都会で育ったみんなとそっくりである。それが大事なところで、この本は信用できると思われベストセラーとなったのも、突き詰めれば日常語が本物だったおかげだろう」云々(『わがユダヤ・ドイツ・ポーランド』から)。 同時代の同年代だった人にだけでなく、時空間において遠く離れた今日の私たち読者にも(翻訳によってですが)、登場人物を彷彿とさせるような話し方として響いてきます。当時の日常語が、形象による思索に刺激を与えるように再加工されている、つまり、文学の描写になりえているから、読者がリアリティーを感じるのでしょう。 この稿を執筆中の十二月十九付朝日新聞「天声人語」に、毎年クリスマスが近づくと「読み返したくなる作品」としてケストナーの『飛ぶ教室』が取り上げられていました。父親が失職中のためクリスマス休暇に帰宅する旅費の送金をしてもらえないマルチンと、ギムナジュウムの舎監べク先生との会話、帰宅後のマルチンが両親に最初に言ったことばが引用されていました。さらに「まえがき」の「子どもの涙は、決して大人の涙より小さいものではありません」云々も。 マルチンを含む少年たちは、仲間の支えあいの中で、さらに、子どもの涙の重さを知っている先生たちに見守られ、成長してゆきます。また、少年たちと関わることでこの先生たちも自分をとらえなおしています。 人間の可能性が追求されているこの作品が、ヒトラー政権成立後に発表されたことに驚きを感じました。現実を厳しく見つめ、その厳しさに絶望することなく、本来の人間のあるべき姿を追求し続ける、このケストナーの姿勢にリアリズム志向のロマンチシズムを感じます。ケストナー文学を一貫しているのはこの精神ではないかと思います。鋭い風刺詩も、同じといえましょう。「風刺は、あるべき未来、真の希望を求めつづけようとする」(『探検地図』ケストナー語録) 精神から生まれるのですから。 いきいきとした会話の源泉 いきいきとした会話はどこから生まれてくるのでしょう。『わたしが子どもだったころ』の次のような少年時代からのケストナーの観劇体験を思い起こします。 「切符売り場が開かれると、一番安い席をすばやく手に入れるために、母といっしょに幾時間も往来で待った」、「私の芝居ずきは最初のひと目で好きになったのだが、最後の目を閉じるまで変わらないだろう。時折私は劇評を、時として脚本を書いた」、「見物人としてわたしにまさるものはない」。ケストナーは優れた鑑賞者でもあり、創作の源泉はこうしたところにもあったようです。 ケストナーのことばに対する関心は、その学位論文(一九二五年完成)にも窺えます。高橋健二『ケストナーの生涯』(駸々堂出版刊)によりますと、論文名は「フリードリッヒ大王とドイツ語」。大王はプロイセンを軍事大国にし、人望があったということですが、フランス文化一辺倒で、日常語もフランス語(王侯・貴族も同様)。その王が国民的教養を高めようと、「ドイツ文学」についての論文を書き、その中でゲーテの若いころの戯曲を酷評したということです。反響が大きく、反論が殺到。ケストナーは、百年前の、大王の意見を追跡し、反論を根底から分析し、ゲーテが詩、小説の創造を通して、民衆が日常使っていたドイツ語を再加工し、母国語として普及させた、その功績をたたえているということです。高く評価されたというこの論文にちなんで、「ケストナーのドイツ語」はこの「ゲーテのドイツ語」と匹敵するといえないでしょうか。 ケストナーの文学活動について、『探検地図』「序とあとがきにかえて」の簡潔なまとめを、引用します。「ケストナー(一八九九年二月二三日〜七四年七月二九日)は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期にあって、花開きかけた民主的なワイマール体制の崩壊とナチス・ドイツ(第三帝国)の出現という歴史の激動期に、子どもの心を忘れずに勇気を持って生きることを、美しい民衆のことばで語りかけた作家でした。『第三帝国』にあっては、その過酷な言論弾圧にも屈することなく、『ふるさとドイツ』にとどまって、(国外出版を余儀なくされましたが)、書き続けた作家です。第二次大戦後も、核・軍備の拡大化する状況に対して警告を発し続けました」。 美しい民衆のことばを、私は特にそのいきいきとした会話に感じました。作品の中で登場人物は会話を通して心を通わせ、その伝え合いを通して成長し、また、本来の自分を取り戻して行きます。これがことば本来の機能といえましょう(ケストナーの発想を生かした翻訳とは? みんなで検討を重ねましたが、今回はふれられませんでした)。 ヒトラー政権下では、命令言葉による弾圧とともに、巧みな人心掌握で人々の良心を麻痺させていきました。人々を分断し、いきいきとした会話、対話を奪っていきます。このことをケストナーは麻痺させられる側、つまり、私たちの側から、次のように描いています。 「良心は曲げることのできるものだ。……被支配者はそれがたとえどんなに不道徳なものであっても、支配的な道徳と心の平和条約を結ぶのだ。……転回のきく良心と電動装置で結びついている時代の歯車は……ゆっくりと一こま一こま動く」(『探検地図』「ケストナーの終戦日記」の引用から)と。今日の私たちと重ねて、考えたくなります。 ケストナー文学と対話することで、本来のことばの機能を取り戻すきっかけになるのではないでしょうか。 紙幅の関係上、コメントを添えないまま、ケストナーの詩を紹介いたします。今日、私たちが乗っている汽車は、どこに向かっているのでしょうか。 鉄 道 譬 喩 (一九三一年作、板倉靹音訳・昭和十二年五月号「コギト」による) ‖『ケストナー文学への探検地図』紹介‖書評目次‖ |