初期機関誌から
「文学と教育」 第40号 1966年9月10日発行 |
|
発達と教育――乾先生の講演要旨 福田隆義 | |
人間の精神発達は「子どもの内側に、ちゃんと予定表がかきこまれてあって、そのとおりに展開する、というものではない。」また、「買いたての大学ノートみたいに、まったくの白紙であり、それに、経験のみをかき加えていく、というふうなものでもない。」人間の精神発達は「内的要因と、外側との出あいの発展、という考え方にたたないと、青年期の発達という問題は考えにくい」という整理を最初にされた。 つまり、人間の精神発達は、何日たてばヒヨコになる、と決っているニワトリのたまごや、何日すればマユをつくる、と決ったコースをたどるカイコとはちがう。そういう生物的水準で考えてはならない。と同時に、外側にのみ発達の要因を求め、訓練のされ方いかんによっては、どうにでもなるという、折目正しい(?)経験主義、経験論の伝統にたって考えることもできない、と語られた。つまり、機械的唯物論とか素朴実在論の立場からは発達の問題は解決できない、という意味に、わたしは理解した。 たとえば、“反抗期”ということも「第二反抗期は、中学生時代にやってくるとか、今は、成長加速現象で小学校の上級生にやってくる。」といわれている。が、こういうふうないい方をするということは、“反抗期”というものを、生物学的にとらえている面があるからだと指摘される。 ところで、乾先生は、“反抗期”ということは、「有効な概念ではない。誤解されやすい概念である。」といわれる。もっともこのことばは、「おふくろ的発想にもとづく」子どもの統治者である、おふくろの側から、「自分が“反抗”されたと感じた時、これを“反抗期”と命名したことばにすぎない。」というのである。 乾先生が、“反抗期”ということばが適切でないとおっしゃる理由は、左記のごとくである。 ① 先にもふれたように、生物学的必然としてとらえ、子どもの発達の“節”としての意義を見失いがちになる。 ② “反抗”といっても、それは相手があってのことである。あつかい方によっては、いわゆる“反抗の質”がちがうはずである。それを、今、反抗期だからと、ひとしなみにかたづけてしまうと、その中にある発展的モメントを、うまく伸ばせない。 ③ “反抗期”という名まえによって、親にとって、つごうの悪い面だけをひろいあげてしまう危険がある。 などがそれである。 右のように“反抗期”というものをおさえたうえで、“第二反抗期”の特徴について、次のように語られた。 基本的には、一般化する能力が出来ている、ということであり、一を聞いて十を知る段階に近づいている。」といえる。「おふくろのお説教も、一般化して、この原理でいくと、どうなるだろうということを考える力がついてくる。」したがって、「ママ、このまえはこういったのに、きょうは……」ということになり、あげ足とりのかたちで、初めはあらわれる。 けれども、その中にある「いちいち注意しなくても、原則を納得させれば、それにしたがってちゃんとやっていってくれる。」その芽をわすれてはならない。“反抗期”ということで処理されてしまうと、つい、「おとなにとって迷惑な面だけをとりあげて、プラスの面は、わすれられてしまう。」と警告された。 しかし、青年期の特徴は、それだけではない。ことばどおり“反抗”といってもいいような一面もる。が、このばあいもやはり、たんに何才になったから……というのではなく、「子どもを育てている社会、まわりの見方に規制される。」なお、このことは、「熊谷孝先生監修の名著、空色の美しい本(『中学校の文学教材研究と授業過程』<明治図書刊>)の十一頁にかいてあるとおりです。」と文教研の考え方に賛成された。そして、その社会、その時代によって“反抗の質”のちがいに話をすすめられた。 たとえば、日本とアメリカでは、個人の自由が許容される幅は、まったく逆になっている。日本では、赤ちゃん天国であり、成長するにしたがって、だんだん自由が制限され、一人まえになると、まったく自由がなくなってしまう、そして、さらに老化すれば「としよりのいうことだから……」と。いうなら、自由の幅が“V字型”に伸縮する。が、アメリカは、それとは反対に“∧字型”になる。こうしたちがいが“反抗期”のちがい、“反抗の質”のちがいをもたらさないはずがない、とおっしゃる。 さらに、日本の戦前と戦後の、子どもたちに対する行動制限、行動規制には大きなちがいがある。戦前の女生徒(当日とりあげた作品『女生徒』<太宰治>の主人公)が、下着にバラの刺しゅうをしたような陰惨な反抗のしかたと、戦後のそれとではかなりちがった形となってあらわれている。また、屋敷町の子には、屋敷町特有の、そして、下町の子には、下町特有の行動規制というものがあり、階層別によっても、そのあらわれ方がちがう。 以上のような事例から、“反抗”といってよいような一面も、それは、たんに生物学的なものではなく、その時代、その社会、あるいは、階層など、社会のしくみによって、ちがったかたちであらわれる。つまり、「青年期の心理は、まさに、その時代の影を宿している。」別のいい方をすれば「青年期を、おとなたちが、どのような姿勢でむかえいれようとしているのか、、ということの反映である。」と結ばれた。 つぎに、教育・教師の役割についてふれられた。「一般的には、教師も環境として、ひとしなみに、他の物的環境と同じように考えられがちであるが、発達していこうとする者の代弁者、媒介者の役割をも果さなければならない、特殊な任務をもっている。」それを、子どもの精神発達という面から、もう一度、みなおしてみようということで話をすすめられた。ここでは、精神発達に於ける社会的要因は、たんに外的条件だけではない、ということを、自我の形成とことばの働きに焦点をあてて話された。 まず、うまれ落ちたばかりの人間の子どもが、いかに生物的には無能であるか、ということから話し始められた。そして、ママの一人二役の言語教育から、やがて五十音をおぼえ、さらにことばをおぼえ「しゃべる動物――人間」になるまでをくわしく話された。 つまり、ママは一人二役を演じることで、赤ん坊と環境を媒介してきたのだが、今や、そのママの役割は分化して、子どもの主体が動きはじめる。子どもの側からいうなら、ママを頭の中によびこむことができるようになる。ということは、いうまでもなくママとおしゃべり(相談)ができることである。 乾先生は、このことを敷衍して「精神発達の知的側面を端的にいうと、どれだけ自分の頭の中で、自問自答ができるか、どれだけおおぜいの仲間を呼びこみ、うまく会議ができるか、ということである。」と整理された。 人間の特性はここにある。おしゃべりが身について、はじめて人間になる。おしゃべりが身につくということは、「頭の中に、他人と共通の信号系列ができた。」ということである。「自分の住んでいる社会のアミのめに自分の大脳皮質をひっかけたときに、人間は人間になる。」社会と断絶された真空の中では、人間は人間として成長しない。「ほかならぬ、この“オレ”が……」と、力んでみたところで、しょせん、その“オレ”も、「社会の伝えあい(コミュニケーション)のパターンにより、考え方の原型が形成される。」わけである。 ところで、そのコミュニケーションのパターンをそのままにしておいても、ごく自然のかたちに放っておいても、「その社会のコミュニケーション状況の大まかなところが、子どもにうつる。『その社会の物の考え方や、見方は、その社会を支配する者の、考え方や、見方が主流になってしまう。』ということになる。」いうなら、命令者の伝えのやり方が子どもの中にできあがる。絶対主義の社会にあっては、ものを考えるということが、「命令者は誰か。」ということを、探しだすことになってしまう。そういう主流が形成されることになる。「対話をつくりだす、ということは、たいへんむずかしいことである。」と結ばれ、対話・相談に話をうつされた。 「相談するということは、相手の立場にたたないとうまくいかない。」自己中心性の段階といわれる子どもは、自分の立場と相手の立場のちがいがわからない。したがって、そこでは相談はなりたたない。あるのは「ひとりがってん」である。 ところで、“第二反抗期”といわれる時期には「相手と自分の知識や、考え方のちがいを考え、相手の中に自分の意図したものを引っぱりだすための、信号えらびができるようになる。」また、そういう相談がスムースに進行するためには、「相手の立場にたって、自分の中の相手と、自問自答してみなければならない。」そういう内部操作が可能になる時期である。いうなら「ことばだけで実験ができる」「ことばで(概念で)整理できる」段階になっているといえよう。 これを別の視点から整理しなおすと、相貌的把握の段階から、範疇的認知の段階へ、あるいは、自分で見、体を動かして対象をつかむことから、頭の中で実験する概念的思考へ発展していく力が育ってきた段階であるといえよう。 が、しかし、「相貌的なものを卒業して、範疇的なものへ、という考え方は、まちがっている。範疇的なものがはっきりすればするほど、相貌的な受けとり方にふかまりがでてくる。」そういう関係にある、と両者の関係をおさえられた。つまり、相貌的認知は低級であり、範疇的な認知が高級だという俗見に反対されたわけである。われわれの発想、未分化→分化→統一という考え方を、心理学の立場から、具体例で裏づけていただいたことにもなる。 ともかく、“第二反抗期”は、ことばで実験できるようになってくる。それは、たとえば[出さない手紙をかくとか、日記に夢中になる。」というようなことに、端的にあらわれている。自分の目の前にいる仲間とグループがつくれるだけでなく、より抽象的な集団の中に自分を位置づけることも可能になってくる。したがって「より抽象的なレベルの社会の価値体系に対しても反抗するようになってくる。」ということができる。 そうした、自分をつき放すことができるとか、相手の立場にたって考えられるようになっている、ということは、より本格的な文学教育も可能になってくる時期といえよう。
|
|
∥機関誌「文学と教育」∥初期機関誌から∥「文学と教育」第40号∥ |