初期機関誌から
文学と教育 第39号 1966年7月30日発行 |
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『山椒大夫』の中に何を読むべきか 川越怜子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一、鷗外のモチーフをさぐる (一)原話との比較 鷗外がその語る如く「歴史離れ」することによって、この作品に描こうとしたものは、何か。作品の素材となった説経節古浄瑠璃『さんせう大夫』を意識的に改変している部分をとりあげ考察してみたい。(但し、古浄瑠璃『さんせう大夫』には幾通りもあるし、作者自身が意識的に改変しているということが重要だと考えられるので、「歴史其儘と歴史離れ」(大四- 一九一五)に書かれている「粟の鳥逐子女の事」のすじ立てと比較してみる。) 原話が作品と著しく異っているのはつぎの三点である。
「『山椒大夫』は古い物語を親しみやすい今風にしたところに功績があるが、同時にそこに弱点もある。地蔵尊の額に疵がつくとか、盲目の老母の目がひらくとか、不思議なことを描きながら、一方、厨子王が山椒大夫を罰しもせず、ただ奴隷を解放せしめるのみで、大夫一族はいよいよ富み栄える、としたのはおかしい。 これは、ペローの『赤頭巾』で、この可愛い少女が狼に食われてしまう残忍さをいとう後の人が、赤頭巾が助かるように改めたのと同じで、ヒューマニズムによる弱体化である。もとの話のとおり竹の鋸で姉の仇をひき殺すのでなければいけない。そうするためには全体の調子が変らなければならない。」(昭二六- 一九五一、新潮文庫解説) たしかに、大正期の読者の嗜好に投ずるところなきにしもあらずとは言いながら、このような改変を意識的に行なったのは、鷗外のモチーフが原話とは別のところにあったせいではなかろうか。 即ち原話が由良長者(由良長者をなぜ山椒大夫とよんだかについては柳田国男氏「山荘大夫考」参照)の残虐への憎しみにつき動かされて語られているのに対し、小説はかよわい一少女が運命をのりこえるために、けなげに生きていく姿(『中学校の教材研究と授業過程』所載、本間義人、武田金市郎所論によれば、"生命を燃焼させていく姿")を描くことに情熱が傾けられている。 だから、「額の烙印が守り本尊によって救われる話」は、原話にあるようなこれでもかこれでもかという拷問の場面がなくても、安寿の精神に衝撃を与える必要条件として成り立てば充分なのだし、姉としての人間的役割を最大限に発揮しきった安寿は、肉体的には消滅し、一すじの希求となって弟厨子王の中に生き続ければよいのだ。むごたらしい惨殺は敢て除去されている。 そして、このように[なカ]話として設定した以上、山椒大夫への復讐は極めて根拠薄弱なものとなり、歴史の発展の方向に沿ってあっさりと奴隷問題の決着をつけておいて、安寿が命をかけた一すじの希求が実現される場面で話が結ばれているのも当然だといわなければならない。 一連の歴史小説とは異なったロマンチックな発想に基いて、それを民話の世界の詩情にとかしこもうと試みたのがこの作品であると思う。たしかに、民話のもつ図太い大衆性は奪われ、そのなつかしさ悲しさがより多くうけつがれている。しかし、その中に追求された安寿の人間像は、運命の不仕合せになく、あわれさではなく「物に憑かれたように聡く賢くなっていく」姿である。地蔵尊の額の疵も、母の盲目がひらくのも、単なる荒唐無稽ではなく、安寿の純一な魂を読もうとするなら「不思議」ではない筈だ。そういう視点に立つとき、これは、単に殺されるところをたすけたというような弱体化とは異質のものではなかろうか。 (二)歴史小説の系譜の中で ① 鷗外は「歴史」の中に何を求めたか 『山椒大夫』の中のロマンチシズムの問題を鷗外歴史小説の系譜の中に位置づけてみよう。 明治四三年(一九一〇)の幸徳秋水事件が、時の官僚政府の知性である森鷗外にもいたく衝撃を与えていることは、同年に書かれた『沈黙の塔』『食堂』などの小品によってうかがうことができる。なぜなら、彼は科学者として文学者として夙に西欧の合理主義の洗礼をうけていたから。無政府主義も社会主義も一つの社会的生産物であるという常識はくつがえされ(『食堂』)、一切の自由なる魂の虐殺がはじまっていること(『沈黙の塔』)を見ずにはいられなかったから。そして歴史の絶対と対決することなしに一歩も進むことの出来ない憂いが、ますます深くなり四五年(一九一二)『かのように』の中で作中人物の口を通して語られている。「ぼんやりして遣ったり嘘をついてやれば造作はないが、正直に真面目に遣ろうとすると八方塞がりになる職業を僕は不幸にして選んだのだ。」と。 こうした時代のきびしさが、鷗外の目を「歴史」の世界へ立ち帰らせたといえないだろうか。歴史的絶対の中をさまざまに生き、そして死んでいった人間への関心(再確認)という形で。賢明な鷗外が無意識に行なった韜晦がその中には介入していなかったとはいえないが、「永く鷗外の中に仮睡していた古い気質がめざめしめられた」(高橋義孝執筆、筑摩書房森鷗外集解説)というようなものではなかろうと思う。 その歴史小説の先蹤をなした『興津弥五右衛門の遺書』(大正元・一九一二)は乃木大将夫妻の自刃に刺激をうけてなったということで、(鷗外の歴史小説に一貫するテーマはエゴイズムで自己を立てるか、自己を没却せしめるかという問題であるが、)これは自己没却をテーマとしている『阿部一族』(大二・一九一三)は自己主張をテーマとしている。鷗外の歴史小説にはこの『興津弥五右衛門』的な線と阿部一族的な線があり、『渋江抽斎』に至って一本となっている。『山椒大夫』は前者の系列に入る。」(前掲書 解説要約) 『興津弥五右衛門の遺書』が乃木大将夫妻の自刃にって触発されたものであることは肯けるが、自己没却の死を賞賛するために書かれたとは考えられない。なぜなら、弥五右衛門の死を書いた彼は、筆をついで『阿部一族』の死を書かずにいられなかったから。 興津弥五右衛門の死と阿部一族の死とどこが異なるか。異なるのは両者の生き方ではなくおかれた状況の相違である。阿部弥一衛門にもし追腹が許されていたら、弥五右衛門と同じ従容たる死を死んでいたであろう。阿部一族が主君(封建体制)に対する反逆の死をもって自己主張をしたのは、殉死によって封建社会の中に自己を位置づける場を塞がれたからである。つまり同じ問題を両面から探っているまでのことだ。蓋し「殉死」によって己の生を完結し得たとする封建時代の常識は、改めて鷗外を瞠目せしめる力をもっていたのであろう。と同時にそれは、鷗外自身の内部にある封建的発想を再検討する場でもあった。 鷗外は矢つぎ早に『佐橋甚五郎』(大二・一九一三)を書く。甚五郎の強烈な個性派権力者家康の個性と対決し、封建制の埒外に出ることで主張される。(以上三編は『意地』と題する単行本に収められた。) しかし誰もが『佐橋甚五郎』であり得たわけではない。では封建社会の中で生き続けた大部分の人びとは、どのように己自身であり得たのか。「追腹」と同様、現代感覚では奇異としかうけとれない封建道徳の「仇討」はいかなる社会的要請の結果なのか。『護持院原の敵討』(大二・一九一三)。そして、翌年(大三・一九一四)には『大塩平八郎』『堺事件』『曽我兄弟』。このように作品の展開をたどってくると、鷗外の最大の関心事は、さまざまな個性と各自の生命を持っていた筈の人びとが、一定の歴史的状況の中をどのように生きたかということに帰着するように思う。 しかも描かれているのがすべてひたむきな精一杯の生活者ばかりである。 「綾小路の目は一刹那銅鉄のように光った。『八方塞がりになったら突貫して行く積りでなぜ遣らない。』秀麿は又目の縁を赤くした。そして殆んど大人の前に出た子供のやうな口吻で声低く云った。『所詮、父と妥協して遣る望はあるまいかね。』『駄目、駄目』」(『かのやうに』) 八方塞りの状況に立ったとき、人びとはどのように生きたか。自分らしく生きることが妥協を許されないことだとしたら……鷗外は歴史をあらうことによって、秀麿の解答を探りつづけたといえないだろうか。幸徳秋水事件は歴史の歯車の中に生じた相克の一個の典型であり、乃木大将の死もまた指一本改変を許さぬ歴史的事実なのだから。 ② 創作方法の変化 鷗外の創作方法はこうした中で確立されていると見てよい。 「わたくしは史料を調べて見て、其中に窺はれる『自然』を尊重する念を発した。そしてそれを猥に変更するのが厭になった。 これが一つである。わたくしは又現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありのままに書いて好いなら、過去も書いて好い筈だと思ったこれが二つである」(「歴史其儘と歴史離れ」 大四・一九二五) 丹念に史料をあさり、それを科学者としての合理精神でくみ立てあらい出していく中に一つの時代を生きた人間をとらえるという方法である。『かのやうに』と一つの仮説におきかえることではすりぬけられないものを現実は持ちつづけている。だからこそ反面、 「わたくしは歴史の『自然』を変更することを嫌って、知らず識らず歴史に縛られた。わたくしは此縛の下に喘ぎ苦しんだ。そして、これを脱せようと思った。」(前掲書) と言わずにいられないものが鷗外の中に生れてきたのも当然である。 その創作方法の変化は「運命の指し示すところに従う人間を描く」(筑摩書房、森鷗外集解説)ためのものであったのだろうか。 近代文学鑑賞講座4(角川書店)稲垣達郎氏所論の中にもつぎのような一文が見える。 「この創作方法の変化は『安井夫人』あたりから少しずつ起り『山椒大夫』へきてはっきり転換をこころみた。(以上要約)『山椒大夫』では、運命が命ずるところへ、安んじて自己を打ち込んで自己を顧みない、そういう大きなものに従いながら、そうすることでおのずから自己が生かされてゆくという人間、時には淡々たる風調でありながら、激しい内実から抜け出ているといった人間が大きく呼吸している。(以上原文の儘)この種の人間系列は前後の作品『安井夫人』のお佐代さん・『ぢいさんばあさん』のるん・『最後の一句』のいちに、少しずつちがった風貌とニュアンスで示されている。」 「この運命」ということばを「奴隷であるならそれをこえるべき役割を当然になっている運命」「父母にひきさかれたら万難を排しそれを求めるべき運命」と解するなら、同感出来る解説である。 では、「罪人の子いちは身をすてても父を救おうという運命にしたがった(最後の一句)」というべきなのだろうか。私たちはふつうこのように「運命」ということばをつかわない。 磨いたような知性を身につけて「運命」に立ちむかっていく一少女の命の力を端的に描きたかったからこそ、「歴史離れ」というロマンチシズムが要求されたと言いたい。 しかし、一つの決意の後では、「自己を打ち込んで自己を顧みない」「淡々たる風調」が行為者の心情の中にみられることはたしかだ。すでに老境に入ろうとする鷗外がそうした心情にいたく心をひかれはじめていることはうかがえる。だから『高瀬舟』(大五・一九一六)に恬淡無礙の境地を描こうとする。 しかし、人間をこえたところに科学も文学も発展性がない。鷗外の関心は、厖大な歴史の中を矛盾をはらみつつ生きていく人間のことに帰らざるを得ない。所謂伝記小説とよばれる『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』「北条霞亭』がそれである。 『山椒大夫』は以上のような流れの屈折点に位置する作品だといえよう。そこには鷗外がこれまでに積み重ねてきた人間観照の鍛錬を経た理想像がある。しかし「歴史離れ」しきらぬ創作方法によって観念の空転を斥けている。「母を求める」という課題の平易に裏づけられつつ、この作品の大衆性と文学性が保証されている所以である。 二、安寿の「生」を ――『中学校の文学教材研究と授業過程』所載、本間義人・武田金市郎氏所論について―― このように位置づけられる『山椒大夫』の主人公「安寿」の心情の中に
たしかに「安寿の死」は一編の集約点に位置づけられている。
かりに百歩譲って、その「死」に最大の比重がおかれていたとしても、その「生」を語ることなしに「死」の意味を位置づけることは不可能である。そうしたものを素通りして「死」それ自体を意味づけようとすれば、「殉教の死」「宗教的法悦における死・あるいは絶対帰依」といういくらかあてはまっていくらか的はずれな概念のおきかえに終始するだけで、この作品を晦渋なものにしてしまう。このように意味づけた「死」そのものを「その美しさに感動しつつも、あえて、これを批判する」ということが、果して「高度の鑑賞」に到達することになるのかどうか。これが「わからせることのできないもの」であったのは当然のことなのだ。 少し意地の悪い書き方をしたが、実はすぐれた実践家である両氏が、その実践の中で生徒に「わからせようとしたもの」そして「わからせることが出来ると考えたもの」
「死」の位置づけは「生」を語ることによってのみ可能なのだ。 三、指 導 過 程 表現に則して安寿と厨子王がおかれた状況と安寿の人間的成長を正しくよみとらせること。 <メ モ>
以上の構造に従って発問の内容を設定する。
テキスト 参考文献
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