初期機関誌から
文学と教育 第39号 1966年7月30日発行 |
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『マーシャとくま』―小学校低学年の授業 福田隆義 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
自分(たち)のかいたものを、読みかえして「これでよし。」と思うことは、まずない。というより、あるほうが、逆におかしい。つねに、新しさを求めているはずの、文学教育研究者集団にあっては、なおさらである。 昨年八月、わたしたちの共同研究で『文学の教授過程』が出版された。そのなかで、わたしは『マーシャとくま』をとりあげて論じた。が、ここでふたたび、この作品を問題にしようとするのも、左記のような理由からである。 『文学の教授過程』の反省 外部の方からも、貴重なご批判をいただいた。たとえば、波多野完治氏や、荒木繁氏からである。と同時に、わたしたち相互の内部批判もかなりきびしかった。 この『マーシャとくま』も例外ではない。そのなかでも、集中的に批判されたのが<指導過程>であった。つぎに、そのおもなものを列挙してみよう。 ① 特殊条件の考慮(教科書の教材でない、ということである。教科書の教材なら、必ず何人かの子は、家庭ですでに何回か読んで教室にのぞむ。しかし、この教材に関するかぎり、作品との初対面を教室でさせることができる。また、本を持って帰さなければ、先を読ませずに考えさせることもできる。――『文学の教授過程』から引用)として強調していることは、あまりにも特殊すぎて移調がきかない。もっと典型的な事例を示せ。 ② 移調がきかないということも、さることながら、読みかえすたびに、新しさを発見する(させる)ような授業を、というのが、われわれの理想である。作品と初対面の子にも、予習をしてきた子にも、それぞれ新しさを保証するような授業をしてみよ。 ③ <国語教育としての文学教育>というのが、一貫したわれわれのテーゼだが、その線にそった整理が欠けている。語イ指導・文法指導など、どこでどう指導したのか、具体的に示せ。 ④ 「絵物語」として、この作品を高く評価し、「絵」のすばらしさと、重要さを指摘しておきながら、それを指導過程でどう生かしたのかが、はっきりしない。 要するに、指導過程が、きれいごとにすぎる。現実の教室では、もっと悪戦苦闘したはずだ。それがかけていない。したがって、説得力を欠く、というのである。 ⑤ さらに、今回出版された、『中学校の文学教材研究と授業過程』から、みなおして、小学校低学年のあるべき姿に、反省する点はないか。 と、注文がつく。『マーシャとくま』の資料提供者のひとりであり、直接執筆を担当したわたしは、身の細る思いであった。けれども、そこはサークルの特徴。七月二日(土)の午後から翌朝にかけて、再度、作品研究と、実践への具体策をみんなで考えてくれた。わたしは、、四月に転勤。団地の中の学校で、前任校とは、まったく環境はちがうが、二年生の担任になった。それをさいわいに、七月四日から一週間、この作品そ教室にもちこんだ。 授 業 過 程 全過程を録音テープに収めた。が、ここでは、はじめに概略を述べ、つぎに、マーシャの計画のすばらしさをどうつかませたかについて、具体的に述べる。 (一) 全体のながれ
(二) 具体的な授業内容 授業のながれのなかでは、3にあたる部分である。前の三時間は、たんねんに表現をおってきたが、ここで授業のスタイルをかえた。
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