初期機関誌から
文学と教育 第38号 1966年5月20日発行 |
文教研・66年度ゼミナール(一) 戸坂理論学習会の発足 |
(1) 戸坂潤の学問精神と実践にまなぶ お読みの方も少なくないのではないかと思う。東大出版会から「近代日本の思想家」という評伝のシリーズが出ている。その中の一編に、『戸坂潤』という平林康之氏の著書が収められている。 ところでこの評伝は、次のようなマルクスのことばを利用することで叙述がはじめられている。「学者というものは、みずからいやしくしようとせぬ以上、公けの生活に積極的に参加することを決してやめてはならない。生活の中へ、自分と同じ時代に生きる人々の社会的・経済的闘争の中へ、みずからはいりこむことなしに、まるでチーズの中のうじ虫のように、いつも自分の書斎や実験室にとじこもってばかりいてはならない。学問は自分本位のたのしみであってはならない。学問的な目的に献身できるような幸運な人たちは、だれにもまして、自分の知識を人類の用にたてるひとでなければならない。」 著者がここでマルクスのことばを引用しているわけは、「もし近代の日本において、この言葉の意味する真の学問精神を、少しもまげることなく、みずからの人生につらぬきとおした人があったとすれば、戸坂潤こそその数少ない人々のうちでも、第一にあげられなければならない」人だから、ということのようだ。 真実の学問精神を実人生につらぬきとおした戸坂潤は、ところでだれでも知っているように、敗戦の日をその数日後にひかえた一九四五年八月九日、長野刑務所で獄死した。そのころ、「日本中が牢獄となっていた。」が、「その牢獄の牢獄では、言語に絶するほどの待遇でだれ一人栄養失調に陥らぬものはなく(中略)その受刑生活は、まさに“なしくずしの死刑”であった。ついに腎臓を侵された。健康でわかわかしく逞しい戸坂の肉体もこれに耐えることはできなかった」(平林氏・同上)のである。ときに、戸坂潤四十五歳。 (2) 学習は順序をふまなければならない 戸坂論文のいくつかを文教研の基本学習文献に組みこむようになってから、年余になる。が、その著作のほとんどいずれもが絶版になっているために、サークルのゼミで実際にテキストのかたちで使用することはできずにいた。いや、じつは、サークルのメンバーが共通してめいめいに所持している一冊の本があった。戸坂先生の全著作ちゅうの圧巻『科学論』である。きっと、みなさんも所持しているに違いない、粗悪なセンカ紙に印刷された戦後版の、あのペラペラな本である。 恥も外聞もなく楽屋をさらけ出しているが、これは、しかしどうも、むずかしすぎて歯が立たないのである。各自、なんべんか食いついてみたのだが、これは、眠られぬ夜のための、よき催眠剤という結果になってしまった。哲学史への、とくに近代哲学史への無知が、そういう結果をみちびく原因ないし理由のひとつという自己診断である。 これは、どうやら、せめて訳本でなりと、ディルタイやハイデッガー、フッサール、さかのぼってリッケルトたち新カント派のもの、A.コントのものなど、ひとわたりその入り口だけでものぞいてみた上でないと、わかるはずがない、ということになった。そこで、さし当たって時評的な色彩の濃い、比較的(これもあくまで比較的の話だが)肩の凝らないものから読みはじめて行って、各自その間に青帯の文庫本にでも当たってみることにし、その上で『科学論』に取り組もうじゃないか、という話し合いになった。 というのは、この二月に勁草書房から戸坂潤全集の第一回配本がおこなわれ、配本の巻(第二巻)に時評論集『日本イデオロギー論』(一九三六年初版)が収められていることを知ったからだ。この『日本イデオロギー論』が果たして「肩がこらない」ものかどうか、はなはだ疑問である。が、これでさえ全然お歯に合わないとなったら、以後、でっけえ口はきくな。そういうことで、はじめることにしたのが、こんどの『日本イデオロギー論』学習月間である。 たまたま、本誌の誌友の方たちの間から、全集刊行のこの機会にぜひ文教研主催の戸坂理論学習会を、という声があった。『菅原伝授手習鑑』寺子屋の段ではないが、上記のように、文教研の実態、「いずれを見ても山家(やまが)そだち」――みんな似たりよったりで哲学史には弱い。(正確には、にも 弱いというべきか。)しかし、自身の問題として哲学(認識論と論理学)の必要は人一倍感じているものばかり。さし当たって、四月末〜五月いっぱいくらいの間は、この本に収められている諸論文について読んで話し合うことにしようではないか、ということになった。 (3) 第一回学習会 оと き 四月二十三日(土) 四時〜八時 оと こ ろ 文教研事務局 оテキスト 「現代日本の思想上の問題」 (『日本イデオロギー論』序論) о話し合いの要点 @ 戸坂論文のシンタクス、文章構成、文体のダイナミックスについての分析 A 弁証法論理の確認――運動法則(矛盾、量から質への問題) 仮説をもつこと、本質の把握(=関係の認知) B 日本型ファシズムとして日本主義と自由主義との関係把握 etc. C 戸坂潤がここで提出している公式、定式は、こんにちでも公式であり得るか (4) 第二回学習会 оと き 四月二十九日(金) 三時〜八時 оと こ ろ 文教研事務局 оテキスト 「文献学」的哲学の批判 (『日本イデオロギー論』所収) о話し合いの要点 @ 「批判というのは、批判されるべき対象の現実的な克服に相応するところの理論克服のことである」ことの確認。 A すなわち、「実証」と「批判」との関係・関連についての確認。 B 実証主義的な「実証」は、実証の名にあたいしないものであることの確認。いっさいの前提を拒否する実証主義、 無前提な立場を主張する実証主義・客観主義は、じつは自己の立つ前提に対しる無自覚と、 自己の傾斜した立場への無自覚をいいあらわす以外のものでないことの確認。 C 実証主義と生哲学、プラグマティズムとの関係・関連の探求。 フランス実証主義とイギリス実証主義の系譜の探求。 D 実証主義文芸学としてのW.シェーラーの文芸学への展望。 E ハイデッガーの解釈学的現象学の矛盾について。 F 和辻哲郎の「もののあはれ」論への批判。 (5) こんごの予定 実際にやってみないことには見当もつかないが、さし当たり、五月七日(土)、十四日(土)の第三回・第四回の学習会で『日本イデオロギー論』を読み終え、二十一日(土)にこのテキストをめぐって総括的・補足的な討議をおこなう予定でいる。 六月以後は月一回。 |
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