初期機関誌から
文学と教育 第37号 1966年2月26日発行 |
文教研誕生の頃 福田隆義 |
一九六〇年二月二六日、この日に「文学教育研究者集団」は誕生した。ところは、東京都港区桜田小学校わきの喫茶店「オリエント」である。 この誕生日は、ある意味では脱皮の日であり、新生の日でもある。すでに、われわれには研究団体であると同時に、運動団体である「サークル文学と教育の会」という母体があった。また、サークルの中心メンバーは、「文学教育の会」(日文連の前身)の会員でもあった。 ところで、われわれは、全国的規模における文学教育運動の重要性を痛感しながらも、同一水準における実践の整理に、ある種のあせりとむなしさを感じはじめていた。なんとかしなくてはいけない。もっと前進しよう。そんな気持を基調に、「芸術的認識を生かした文学教育の構想」を常任委員会に提案したりした。が、時期尚早(?)という理由で、われわれの問題意識は当分生かしてもらえそうにもなかった。 そんなら、というわけで、小人数でも、もっと研究に徹しようじゃないか、研究に徹するところから文学教育運動を見なおし、推進しようじゃないか、ということになった。 その決意を具体化した日が、二月二六日。 しかし、われわれは、一昔前の青年将校のように血気にはやったわけではない。というより、ああした国家的規模における狂気を批判する姿勢で、われわれの進むべき方向を設定したのである。 太宰治も語っている。二・二六事件は、「狂人の発作」であり「最も悪質の犯罪」であると。その最も悪質の犯罪を二度とくりかえさせないために、今、われわれは何をなすべきか、と考えた。 その発想のなかから、「文学教育研究者集団」は生れたのである。 あれから六年。 われわれはたえず新しいプランをもち、「研究者集団」の名にはじない研究をつづけてきた。 その成果の一つ、〔文学の教授過程〕を昨年は世に問うた。その続編も近日中に発行される。そういう意味では、たいへんすっきりした、お誕生でもあった。 |
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