初期機関誌から

文学と教育 第37号
1966年2月26日発行
   二・二六事件文教研版  熊谷 孝 
 くせに ということばが私は嫌いだ。男のくせに、女のくせに、子どものくせに――。何とも、いやな ことばである。大体、それは、文学作品の読み方指導というワクの中で論理に詰ったときに発せられることばである。あるいは、みずから論理を放棄したときに発せられる、ヒステリー症状のことばである。
―― 先生のくせに、デモにいくなんて。
  といったぐあいに、である。論理の論証も何もありはしない。
―― ママの言うこと、あんた、きけないっていうの。自分じゃ、おとなのつもりかもしれないけど、まだ一人前じゃないのよ。なにさ、子どものくせして……。
 まずは、こういったくあいである。こうした調子に出られると、ムスメさんのほうでも、これではどうにもなりません、というわけでだまってしまうのが普通である。彼女が母親まさりのヒステリーでないかぎりは、である。心ひそかに、「自分も、こういうママにだけはなりたくない」と思いながら、である。
 このムスメさんの気持がよォーくわかる。というのは、私たちも、この“くせに”にやられ通しだからである。
―― 文教研がどうのと、利いたふうなことを言うけど、なにさ、ちっぽけな団体のくせに。
―― 民間教育研究団体よ、友好的であれ、だと。何いやがる、分派行動をやってほかの団体を割ったのは、おまえたち文教研じゃないか。分派のくせに大きなことを言うな。
―― ほかの団体を割ったと思ったら、こんどはほかの団体に泣きを入れて、オレたちの身柄を頼む、といったそうじゃないか。あっちへベッタリ、こっちへベッタリのくせして、大きな口を叩くな。
  そんなわけで、このムスメさんの気持が実によくわかるのである。

  何でまた急にこんなことを言いだしたのかというと、“分派”文教研の足どりにふれて何か書け、という話が編集部から持ちこまれたからである。……というのは、むろん冗談で、この号はたまたま2月26日発行ということになるが、六年前のこの日がサークルが文教研と改称した日に当たるわけだから、その辺のことにふれて何かひとこと、という話だったわけである。それで、つい出ちまった、ということなのである。ひとつ口をすべらしたら、後から後からと出てきてしまった、という格好なのだ。申しわけない。
 上記の二番目、三番目のモンダイについては、この前の号だったか、そのまた前の号だったかに荒川有史さんが書いているから、それについてご承知いただきたい。最初の「ちっぽけな団体のくせに」ということなのだが、これが実は六年前の文教研の成立事情につながる話題になってくるのだ。
  うんと注をつけないと誤解をまねくいい方になってしまうわけだが、実をいうと、なるべ く「ちっぽけな団体」 にしようじゃないか、という、レギュラー・メンバーの考え方にしたがってサークルの改組をおこなった結果、“文学教育研究者集団”の誕生ということになった、という、いきさつ なのだ。
 つまり、それまでの私たちは、いわば運動第一主義だった。サークルの場を運動自体の場と考えて行動した。可能なかぎり多くの人に呼びかけ、可能なかぎり多くの人々を集めてサークルの会合をもった。会場は、そのころ港区の桜田小学校にいた小川勇さんや小沢雄樹男さん、木村広子さんのご厚意で、桜田の会議室を使わせていただいた。かなり手広な会議室が毎回満員の盛会つづきだった。入れ替わり立ち代り、いろんな人がやってきて、言いたいことを言って帰って行った。顔ぶれは一定しなかった。それは、職場のひごろの憂さばらしの場でもあった。それはまた、いろんな人のいろいろな形の授業研究の自由な発表の場でもあった。
 それはそれなりに、十分意味のある会合であった。が、会合をかさねることが学習や研究のつみかさねには必ずしもならなかった。サークルのレギュラー・メンバーは、もっぱら裏方さんで会の設営に追われ、勉強も何もあったものではなかった。
 やがて、文教連の前身である“文学教育の会”が生まれ、私たちサークルのレギュラー・メンバーは結果的に、その会の中央常任委員を兼ねることになった。こうなると、これまでサークルが担当してきた仕事は、文学教育の会の仕事に移されていいわけだし、これからのサークルの任務は、レギュラー・メンバーによる、かなりプライヴェートな性質の、“運動のための”しかし“学習一本槍”の研究・学習の場と考えていいのではないか、ということになった。つまり、各人の勉強部屋の延長である。ありていに言って、私たちは“勉強”に餓えていた。
 その後のいきさつ は一部、荒川さんの文章にゆずるが、退会のかたちで常任委員をやめさせてもらった後(―― この機会に明らかにしておくが、委員を辞任させてもらうことが退会の目的だった、退会が目的だったわけではない)、文学教育研究者集団と名称をかえたのも、こんどは研究者 として専念したい、ということだった。研究者 として相互に責任をもって、レギュラーに共同研究を持続的に進めていけるものの集団 、ということでの改称であった。そのころ、私たちは、よく言ったものだ、「二人でも三人でも、集団は集団だよね。一人で集団とは言えまいが、二人残ってりゃ、まあいいやね。いつまでも、この研究者集団という名前でいくとしようや」と。
 そんなことを話し合ったナカマが、たった八人。それも、たちまち六人に減った。いまは、どうやら集団といってもテレずにすむ程度にメンバーもふえてきているけれど、しかし私たちのつもりとしては依然、量はぜんぜん問題ではない。むしろ、「ちっぽけな団体」であることに徹したい気持なのだ。相互に責任を分けもった、持続的な共同研究の作業場としての「ちっぽけな団体」の性格をつらぬきたいのである。
 誤解をさけていえば、私たちは書斎派ではない。ただ、文教研というところは私たちの共有・共同の勉強部屋だ、と言っているだけである。サークルの個々人は、めいめいの持ち場で運動し実践する。サークルでの勉強で身につけたものを、それぞれの持ち場で生かすのである。サークルの他のナカマは、また無い知恵をしぼって協力にこれつとめるのである。これが文教研だ――と、多分そう言っていいのではないかと思う。
 サークルのメンバーの一人、一人は、じつは活動家・運動家の部類にはいる人たちなのではないか、と私は思っている。たとえば、鳥取で文学教育運動を精力的に盛り上げている津村武さん。千葉の南端で安房文学教育の会という、地域に即した組織活動をつづけている土橋保夫さん、本間義人さん。横浜を中心に神奈川県でやはり、教組教研に密着したかたちで文学教育への現場の関心をかき立て組織している、夏目武子さん、芝崎文仁さん。やはりまた、東京・荒川で組合活動とPTA活動の内がわに食い入って地道な組織者の役割を遂行している、蓬田静子さん。
 その他、あげれば限りがないが、宮城県仙北にどっかと腰をすえて教研部長として、(自身、理科教育がホーム・グランドでありながら)文学教育の面で教研活動にテコ入れする千葉一雄さん。といえば、この千葉さんは、こんどの第十五次全国教研では、宮城県代表グループの一人として国語教育分科会に参加した。
 第十五次教研と言えば、上記、鳥取の津村武さん、神奈川の夏目武子さんが、それぞれ正会員として参加して、良心的かつ非常に大胆な活躍を示した由。また、教研といえば、荒川有史さんが第十次全国教研では、大阪府正会員として参加、“言語の規定性・融通性”論議で文字通り会場全体を涌かせた(これは私自身傍聴していたので、この眼、この耳で見聞したところ)。次いで、第十一次教研にも東京都正会員として、荒川さんが参加。その活躍ぶりについては、日本文学協会の機関誌「日本文学」の六二年五月号参照。
 サークル全体の仕事としては、研究の中間報告というかたちで、先年〔文学の教授過程〕を明治図書から刊行。また来月下旬ないし四月上旬には、同じ出版社からその続編ともいうべき〔文学の授業構造〕(仮題)を刊行の予定。ショサイ派としては、まあまあではないか。
 私個人のホンネは、こうである。「ショサイ派である文教研にあまり法外な注文をつけてくださるな。」
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