初期機関誌から
文学と教育 第36号 1965年12月15日発行 |
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森鴎外『山椒大夫』をめぐって―荒川区中学校国語部会報告― 蓬田静子 | |
最初から教材があるのではない。存在するのは文学作品である。どの作品をどのように教材化するかは、教師の姿勢の問題である。 こんにち、現場では、教師も子どもも感動できない作品で、授業が強いられている。 第一、教師が感動できないのに、子どもだけを感動させようとしても無理である。 教材は、授業にとっての基本的な武器である。ナマクラでは、対象を切ることはできない。国定教科書の検閲強化に抗して、自主的な教材編成をおこなうべきではないのか。 現状肯定のあきらめからは、創造的な教育活動は生まれてこない。 ところで、『山椒大夫』は傑作か。 石川淳、桑原武夫の否定論。 岩上順一の肯定論。 どの立場をとるかによって、教材化の視点はちがうし、当然、指導過程論もちがってくる。 『山椒大夫』を評価する場合、二つの系列から考える必要があるだろう。 一つは、民話の系列であり、もう一つは、鴎外の作品系列である。 『山椒大夫』の原型は、寛永版の説教節『さんせう大夫』で、後に浄瑠璃にとりいれられた。散所民のなめた苦しみがレアルに語られている。散所の長者――さんせう大夫を、土中にうめ、首をギーコギーコ竹ののこぎりで切りすてる。そうせずにはおれない憎しみ・怒りなどが作品の基調となっている。 鴎外の作品系列で考えた場合どうなるか。 『雁』『青年』『阿部一族』などと比較して。 指導上の問題。 男生徒より女生徒にすうっとはいる作品だという報告があったが、そのはいり方に問題がある。また、民間伝承を事前に与えておく必要があるかどうか。抜粋を前提にするならば、教師の考えに子供を引摺り兼ねない。発達に即しつつ発達を促す教材を選ばなければならない。『山椒大夫』の書出しをカットして与える事はナンセンス。 読みは、基本的には一つである。読みは、つねに総合読みである。 |
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