初期機関誌から
文学と教育 第35号 1965年10月1日発行 |
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第十二回研究集会の成果と問題点 佐伯昭定 | |||||||||||
T 第十二回集会のなりたち 集会がどう進められたか、初めにまとめておきたい。 ◎ 第一日 ・午前 基調報告
◎ 第二日 ・午前 報告2 プーシキン『りょうしと金のさかな』
二日間にわたる集会は、以上のような経過で行われた。報告1、2、3は小学校から、報告4、5、6は中学校からとなっている。ただし、報告3の荒川報告は小学校から中学校へのつながりを、特に、配慮されていた。 U 文教研の主張 夏目さんと熊谷さんによってなされた基調報告は現時点での、文教研の積極的な主張そのものであり、また文教研独自の文学教育への構えを世に問おうとしたものであった。 現時点での主張とは、過去十一回の集会をいわば跳躍台として発展し、積みあげられてきた文教研理論の成果の上に立っての主張という意味がまずひとつある。もうひとつは、まさに戦国時代の様相を呈している現在の国語教育界にあって、一民間教育団体としての文教研の主張という意味である。ことに今集会は過去の集会とはちがった状況でなされたということがいえる。というのは、文教研の集団の責任において、初めての著書『文学の教授過程』を出版し、多くの読者を得た。それだけに多くの人たちが、この集会に注目し、期待をかけていたということである。 第十一回集会はこういう状況の中で開かれたのである。 熊谷さんがまず問題にしたのは、“文学の生理をどうつかむか”ということであった。文教研機関誌「文学と教育」三十四号に、熊谷さんは「文学の生理」ということを次のように説明している。それは「文学の体質というか、その体質の論理――」 文学教育の方法原理は、とうぜん文学というものから規定されるはずだし、文学というものをぬきにしては、その方法原理を明らかにすることはできない。 「文学というもの」……あいまいないい方かもしれない。とにかく、文学が文学として存在するには、やはり条件があるはずだ。文学が成立するその条件をつかみきれないまま、いやむしろ、つかもうとしないで、作品を教材化しようとするからこそ「イデオロギー一辺倒の悪しき素材主義におちこんでしまうのだ」と熊谷さんは指摘している。 昨今の国語教育界、文学教育界のさまざまな対立やくいちがいはこの「文学の生理」についてのつかみ方に違いがあるからではないかと言っている。 この文学の持つ生理について、真鍋呉夫氏の発言を引用している。
熊谷さんの報告をこんな言い方でうまく要約したなどとは、決して思っていない。正直な話、自称他称文学教師の中には、作品もろくに読まないで(少し極端かな)作品がみんなわかっちゃうという指導過程を作っている人がいる。案外、こういうのが現場にモテルという。熊谷報告はこれらの傾向に対してきびしい批判を加えながら「文学をあくまでも文学として受けとらせるには」という基本的な問題と正面からとり組んだ報告であった。 夏目さんの基調報告は熊谷さんの前になされたが、報告の構造としては、熊谷報告の展開という形で「技術としての方法」に焦点を合わせてなされたものである。 方法原理を具体的な場面にひきすえて考えれば、そこであきらかにされなければならない問題のひとつに、文学教育を受ける側の「発達」という問題がある。これは、この日の午後になされる乾先生の話につながる問題である。 「文学がわかっている感情の素地」をほりおこし「発達に即して発達を促す」ことを保障するためには「教材選択」や「指導過程」の問題がとうぜんとりあげられねばならない。が、しかし、その前に文学教育の構造の問題があるだろう。「中学後期に文学科の独立を」と主張されたのは、「発達」とこの「文学教育の構造」から出てくるものである。 夏目報告は、熊谷報告から出てくる問題を一歩具体的な形で示したところに大きな意味があった。 V 文教研・その強いところ よく「作品の分析」といわれるが、それが、「分解」でしかない場合がある。ひとくちに「分析」といっても、具体的にやろうと思えば、なかなかむつかしい問題である。つまり、作品の表現理解を成りたたせるためには、さまざまな操作が必要である。 ・表現をそのディメンションにおいてとらえること。 ・そのためには、とうぜん本来の読者をどうとらえるか、という問題につながってくる。 なぜそのような手続きをふまなくてはならないのか。それは ・文学における言語の機能を作用因の側面からとらえらえようとするからである。 それだけではない。だが要するに、作品の分析ということは、ひとつ、ひとつの単語の意味を調べ、それらのつながりをはっきりさせていくだけで、できるものだとは考えていない。こういう方法で作品研究や教材研究ができたと思うから、だから指導するときは、作品を全部わからせたことにしないと気になるのである。 文教研の強さは、このようなまちがいを起こさないための方法論を持っていることであろう。 荒川報告は『最後の授業』を分析するに当って、ドーデ文学の基本的理解から始めた。この作品は読者の対象が子どもではなく、おとなの文学としての『月曜物語』の中の一部である、という指摘もさることながら、杉山氏、上村氏などによって評価されているドーデ文学の否定的側面の根きょは根も葉もないことが実証された。それに対して井伏、大仏氏の評価の正当さを論証している。 このようなドーデ文学の研究の上に立って、小学校五、六年に与える意味と、中三、高一段階に与える意味を明確に指摘した。 次に、「文学と教育」三十四号に述べられているので、ここで詳しく述べることはさけるが、川越さんの『屋根の上のサワン』への作品論と作家論をふまえた理解はまさに一流である。 『さるのいきぎも』を報告した福田さんはこういっている。 『くらげほねなし』という題名でも知られていること作品は、題名がちがうだけでなく、明らかに表現理解の方向にも違いがある。これはたぶん、偶然に書き換えられたものではなくて、民衆の体験の受け継ぎ方に、時代的変遷があったからではないか。福田さんの報告にはこのような民話への理解が前提となっている。 安房文学教育の会の主力メンバーのひとりである館山文教研の本間さんは『走れメロス』について、こういっている。「太宰治といえば『走れメロス』しか扱えないような文学教育であっては困る」。本間さんは『一日の苦労』『ヴィヨンの妻』『斜陽』『人間失格』など、広く太宰作品をとりあげながら、そのことばを裏付けている。 芝崎さんはイリンの『人間の歴史』をとりあげながら、その中で、当時、インテリを囲む作家群のはたした役割を明らかにし、この作家の思想的背景に『自然弁証法』のあることをつきとめている。そして、文学の授業では、いつもきまりきったように物語や詩だけをとりあげるのではなく、『人間の歴史』のような作品も文学教材となり得ることを主張している。 私は少し人をほめすぎたようである。 だが、これは文教研の機関誌上でのことであるから、我田引水ということにはならないだろう。 今さらいうまでもなく、これらの報告に共通していえることは、とりあげた作品を、ただそれを読んだだけでわかることを元にして作品を評価し、分析しているのではないということ。文学についての深い理解を基盤にした作家研究・作品研究をふまえていること。文教研の強さを、そこに見出すことができる。 W 強いか、弱いか それが問題だ 研究集会の成果をもうひとつ別の角度から見てみよう。 小島さんは福田報告に対して、 「せかいがちごうていたら」「よっぱらたらひゃくねんめ」こういうことばをどう教えたのかと質問した。また川越さんは、「生きぎも」の意味は必ずわからせておかなくてはならないことなのだが、この大事さは(さるにとって)子どもにわかったのか、と。黒沢さんも同じ質問であった。また、助言者の林進治先生は福田報告に限らず、初めて作品の世界に接したときの印象をとりたてて出されることにいったいどれだけの意味があるのか、という問題も出された。これらの発言に共通した点は指導過程の具体性についての問題である。これらについては、いろいろ討議や説明がなされたが、外部からの参加者には指導過程についての不明確さに多少の不満が残ったのではないだろうか。 文教研では“典型例”という形で提出するつもりでいたものが、はたして典型例になり得ていたか。指導過程は各自が作るものだという文教研の考え方はそれとしても。それであるとしても、指導過程の研究はやはり共通の問題でもある。この側面について、文教研は強いか弱いか、問題として残しておきたい。
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