初期機関誌から
文学と教育 第34号 1965年8月14日発行 |
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継承すべき民族精神 | |||
『文学の教授過程』に対する批判が、教科研機関誌『教育国語』2にでました。筆者は奥田靖雄氏。「民族精神」と題する寸評です。氏は、わたしたちのいう「民族精神」とか「民族的」ということばが、ひどく気になるらしいのです。氏は、
「感じる」のは自由です。しかし、同じ民間団体である、教科研常任委員の奥田氏が、公器である機関誌上で、いくつかの誤解や曲解のうえに、わたしたちを反動よばわりをする態度には問題を感じます。こうした奥田氏の態度こそ、現時点の国語教育界にとって、無益であるばかりか有害であると、わたしたちは思います。 わたしたちとしては、まず、氏に静かに読みかえしていただくことをお願いします。そうすれば、氷解する面も多いと思うのです。 が、それだけでは十分でないと考えます。以下紙幅のつごうで@の問題を中心に、氏の要望にそい、具体的に述べたいと思います。(ABの問題については、この誌上でつづけてお答えしていくつもりですし、『国語教育』10月号でも、正面からこの問題をとりあげています。)しかし、たぶん、『文学の教授過程』にかいてあることのくりかえしになるのではないか……、というのは、あすこにかきつけた以上に、具体的にはかきようがないと思うのです。 わたしたちは、「民族」ということばを、近代資本主義の成立にともなって形成されたNationと同じ意味に使っているわけではありません。また、Nation形成の母胎となったVolkだけの意味で使っているわけでもありません。 誤解をおそれずに端的にいうなら、民族的なものとは、歴史を背負った民衆の抵抗精神であり、民衆のねがいや苦悩の反映でもあります。たとえ、存在としては貴族であっても、彼自身の行動と思考の振幅の中に、民衆のそこなわれない精神が反映されているとき、そこにわたしたちは、民族的なものを発見しているのです。貴族の書いた作品だからだめだとか、プロレタリアートの書いたものだからいい、というふうに機械的にわりきっているわけではありません。 以下、氏が引用された『さるのいきぎも』を例に、具体的内容を本文からひきだしてみます。「さるの知恵やユーモアを通して語られている、この民話の、批判・抵抗の精神が、まさに、民族的なもの」だと思うのです。 猿の知恵、それをこの民話では「だましあい」ということで具体化しています。ところで、その「同じ“だます”という行為も、かめのばあいと、さるのばあいとでは、まったくちがった感情でわれわれはうけとめる。さるに対しては拍手をおくり、かめにはふんまんやるかたなさを感じるのはなぜだろうか。」「だれが、だれを、なんのためにだましたか、そういう視点でさるのだましたという行為をみなおすとき、それは、たんにだましたということではなく、さるの知恵、それも、すばらしい知恵として民衆にはひびくわけである。」そうした感情は、われわれ現在の読者だけでなく、「この話の語り手であり、同時に聞き手でもあった民衆にはあったと思うのである。」いうなら、この感情・精神は、われわれ民衆の継承してきた、あるいは、継承していかなければならないものであると思うのです。また、そうした感情は、そのまま、「愚かな権力者龍王」にも通じます。 なお、初稿を紙幅のつごうでカットした部分があります。「創造的継承」の項に、次のような文を挿入していただければ、よりはっきりする面もあるかと思います。
以上のようなことをふくんで、氏が引用された「日本の民話のふるさとは……」の部分を位置づけていただければ「大和魂」を強調するものでないということが、おわかりいただけると思います
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‖機関誌「文学と教育‖初期機関誌から‖「文学と教育」第34号‖ |