初期機関誌から

文学と教育 第34号
1965年8月14日発行
   継承すべき民族精神 

 『文学の教授過程』に対する批判が、教科研機関誌『教育国語』2にでました。筆者は奥田靖雄氏。「民族精神」と題する寸評です。氏は、わたしたちのいう「民族精神」とか「民族的」ということばが、ひどく気になるらしいのです。氏は、
@ 『文学の教授過程』P64「日本民話のふるさとは、……」という部分 を引用し、これは、あの悪名高い「期待される人間像」と同じ考え方として、文教研は、「文部省から勲章がくるだろう。」と、おっしゃる。そして、そういう「インチキなものでないとすれば、具体的にしめしていただきたい。」と、いっています。
A そして氏は、わたしたちが国語教育の目的のひとつとしてあげた「民族的の発想において自由に、ゆがみなく、思考活動をくりひろげ……」をとりあげ、「民族的な独自性を絶対化し、不当に拡大し『民族精神』なるものをでってあげた。」かつての、ブルジョワ民族主義の「日本語には大和魂がやどっている」とみた「『ことだま主義』のハイカラな表現ではないか。」といっています。
B さらに、内容・形式を一元的にとらえようとする、わたしたちの考え方に対して、もっと国際的視野にたって考えなさい、民族的云々といいながら、おまえさんたちのあげた教材をみてごらん、翻訳文学が圧倒的に多いではないか、「ぼくたちは、形式的には民族語を用いて、国際的な思想と感情を表現するのだから、残念ながら、内容と形式とは一体ではない。」と、おっしゃる。
 上記のような理由で、わたしたちをブルジョワ民族主義と決めつけ、『文学の教授過程』は、現時点の国語教育界にとって、無益であるばかりか「そこに無気味なものを感じる」というのです。

  「感じる」のは自由です。しかし、同じ民間団体である、教科研常任委員の奥田氏が、公器である機関誌上で、いくつかの誤解や曲解のうえに、わたしたちを反動よばわりをする態度には問題を感じます。こうした奥田氏の態度こそ、現時点の国語教育界にとって、無益であるばかりか有害であると、わたしたちは思います。
 わたしたちとしては、まず、氏に静かに読みかえしていただくことをお願いします。そうすれば、氷解する面も多いと思うのです。
 が、それだけでは十分でないと考えます。以下紙幅のつごうで@の問題を中心に、氏の要望にそい、具体的に述べたいと思います。(ABの問題については、この誌上でつづけてお答えしていくつもりですし、『国語教育』10月号でも、正面からこの問題をとりあげています。)しかし、たぶん、『文学の教授過程』にかいてあることのくりかえしになるのではないか……、というのは、あすこにかきつけた以上に、具体的にはかきようがないと思うのです。

 わたしたちは、「民族」ということばを、近代資本主義の成立にともなって形成されたNationと同じ意味に使っているわけではありません。また、Nation形成の母胎となったVolkだけの意味で使っているわけでもありません。
 誤解をおそれずに端的にいうなら、民族的なものとは、歴史を背負った民衆の抵抗精神であり、民衆のねがいや苦悩の反映でもあります。たとえ、存在としては貴族であっても、彼自身の行動と思考の振幅の中に、民衆のそこなわれない精神が反映されているとき、そこにわたしたちは、民族的なものを発見しているのです。貴族の書いた作品だからだめだとか、プロレタリアートの書いたものだからいい、というふうに機械的にわりきっているわけではありません。
 以下、氏が引用された『さるのいきぎも』を例に、具体的内容を本文からひきだしてみます。「さるの知恵やユーモアを通して語られている、この民話の、批判・抵抗の精神が、まさに、民族的なもの」だと思うのです。
 猿の知恵、それをこの民話では「だましあい」ということで具体化しています。ところで、その「同じ“だます”という行為も、かめのばあいと、さるのばあいとでは、まったくちがった感情でわれわれはうけとめる。さるに対しては拍手をおくり、かめにはふんまんやるかたなさを感じるのはなぜだろうか。」「だれが、だれを、なんのためにだましたか、そういう視点でさるのだましたという行為をみなおすとき、それは、たんにだましたということではなく、さるの知恵、それも、すばらしい知恵として民衆にはひびくわけである。」そうした感情は、われわれ現在の読者だけでなく、「この話の語り手であり、同時に聞き手でもあった民衆にはあったと思うのである。」いうなら、この感情・精神は、われわれ民衆の継承してきた、あるいは、継承していかなければならないものであると思うのです。また、そうした感情は、そのまま、「愚かな権力者龍王」にも通じます。
 なお、初稿を紙幅のつごうでカットした部分があります。「創造的継承」の項に、次のような文を挿入していただければ、よりはっきりする面もあるかと思います。
 ――そういう意味で、民話の発想は、現実的であり、民衆の人間的自覚・社会的要求によって、再創造されてきたし、今後も、そういうかたちで、継承されるべきだと思う。すくなくとも、この民話は、そうした民族の体験の累積であり、まさに民族の遺産である。民衆のなかから、あるいは、民衆の立場からうみだされ、民衆のなかで語りつぎ再創造されてきた話、それをこそ民話とよびたい。そうした民話のなかにのみ、今日、われわれが継承し、再創造していかなければならない、民族の知恵を発見することができる。
 だから「そうした民衆の感情がそこなわれていないところが、この民話のステキなところである。もともと民話は、子どものための教訓話ではない。童話ふうに、あるいは、教科書ふうに、へんな教育的配慮(この民話では、冷酷すぎるということが問題になりそうである)でかきかえられたものは、すでに民話としての生命を失ったも同然である。」と考えるわけです。文部省からの勲章は望めそうもありません。

 以上のようなことをふくんで、氏が引用された「日本の民話のふるさとは……」の部分を位置づけていただければ「大和魂」を強調するものでないということが、おわかりいただけると思います
福  田  隆  義
荒  川  有  史
HOME機関誌「文学と教育初期機関誌から「文学と教育」第34号