初期機関誌から
文学と教育 第33号 1965年5月20日発行 |
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報告『『屋根の上のサワン』』 ―孤独の質こそ問題― 福田隆義 | |||||||||||||||||||||||||||||||
『屋根の上のサワン』については、月刊『国語教育』(明治図書)だけでも、三人が論じている。順をおってあげると、35「『屋根の上のサワン』について」(川越怜子)、51「『屋根の上のサワン』について」(宇野章)、56臨時増刊「井伏鱒二『屋根の上のサワン』」(玉井五一)がそれである。 右のように、この作品が現場人の関心をひくのは、井伏文学の傑作であるというより、多くの教科書に収録されているからではなかろうか。 ともあれ、『文学の教授=学習過程・中学校編』にとりくもうとしている文教研にとっても、避けるわけにはいかない作品の一つである。したがって、春の研究集会で、前記、三つの論文をふまえ、徹底した作品論のうえにたった教材化を試みようとした。が、偉大な井伏が、そうやすやすとわかるはずがない。問題の多くは、「井伏月間」というスケジュールのなかにくみこまれることになった。ここでは、その研究会で指摘された問題点の一つにかぎって報告する。 なお、当日の報告は、前記35の論者、川越怜子と、明星学園の佐伯昭定であった。 孤独の質 前記、三氏とも、作中の「私」の孤独を問題にしている点では一致である。川越さんは、井伏の処女作『山椒魚』の「寒いほどひとりぼっちだ!」という孤独感と比較しながら「人間はさびしいものだ、という原罪意識にも似た寂寥感が『屋根の上のサワン』の底を流れている」といい、宇野氏は「サワンに托したわたしの心情の切なさ、サワンとわたしの思い屈した心情の象徴的存在として、一種の人間的哀愁がこめられていることをみのがしてはならないだろう」という、坂本浩氏の論を引用している。また、玉井氏は「『思い屈した心』『言い表せないほどくったくした心』『くったくした思想』という抽象的リフレインで終わっているのが、一読しただけで気になります。」といい、さらに「その『言い表せないほどくっした心』が、なぜいいあらわせないのか、あるいは、その当時の作者の気持として、とうてい表現できないほど複雑微妙で、厄介なものだったのか、あるいは厖大深刻で危険なものだったのか――略――このことは、、私にとってはあんがい大事なことであり、この大事さは、作者である井伏鱒二にとっても、とても大変なことだったことについては間違いのないところです。」といっている。 ところで、同じく「人間は孤独である」「人間は淋しいものだ」といっても、そのなかみは同じではない。二つのちがった発想が考えられる。 その一つは、絶対的孤独ともいうべき、人間は本来孤独なものである。生まれながらに背負っている宿命だ。そういう意味での孤独である。 いま一つは、もともと人間は孤独ではない。しかし、複雑な社会のなかで、自分を生かすためには、他との交渉を断ち切るほかはない。意識的に孤独になることで、自分のみちを切り開いていくという、絶対的孤独に対して相対的孤独ともいうべきものがそれである。作中の「私」の孤独は、そのどちらの発想なのだろうか。いうまでもなく、そのちがいは、井伏の立っている基盤に関係する。 『山椒魚』と『屋根の上のサワン』 この二つの孤独を具体的にするために、井伏の処女作『山椒魚』(初稿・大正十二年、昭和四年発表)とを比較しながら考えてみた。が、両者とも、絶対的孤独という発想で人間を描いたとすることには疑問が残る。『山椒魚』も『屋根の上のサワン』も、ともに相対的孤独であると考えるべきではないか。 すなわち、山椒魚は、蛙との和解によって鞭撻しあえる相手がえられた。あるいは、えられる可能性をもった孤独であったのではないか。 また、『屋根の上のサワン』の「私」の心境は、山椒魚のそれとくらべれば、かなり複雑である。山椒魚のように和解によって仲間ができる、そういう条件ではなさそうだ。けれども、同じ孤独になやむサワンに代表されるような相手はいた。いたにはいたのだけれど、私とサワンとは、別の生き方をしなければならない状況にある、といっていいのではないか。 右のように、両者とも、対社会との関係で、孤独にならざるをえない状況においこまれていると考える。それは、大正末期から昭和初年という時点でみなおすとき、さらにはっきりしてくる。 たとえば「だが、この頃は、もう左翼全盛時代で作家たちは滔々としてそちらへ行った。さきの『陣痛時代』(注:震災による『世紀』解散後結成した同人)の仲間なども、殆んど『戦旗』に入って、小説は止して実行運動に走った。左翼でなければ、道の片端をトボトボと歩かなければならないような勢いであった。」(中野好夫編・現代の作家)また、「井伏鱒二らの文学は、プロレタリアの立場ではなく、インテリゲンチャそのものの立場において、、文学観を喪失させ人間観や社会観を分裂させようとする帝国主義の圧力に抗して、新しい文学を創造しようとする意図をふくんでいた。」(日本評論社・日本文学辞典・岩上順一) こうした視点をはずして、孤独の問題は考えられない。 また、『山椒魚』の、和解によって相手をみつけられる可能性をもつ孤独と、『屋根の上のサワン』の「私」の、別々の生き方をえらばなければならない孤独のちがいも、この社会の流れのなかに位置づけてみて、はじめてうなづける。 「私」の目 右のような状態のなかで、『屋根の上のサワン』の「私」は、現実をみつめているわけである。プロレタリアートの立場に身をおいてしまった「私」ではなく、小市民的インテリゲンチャの立場からである。いうなら、渦中にはいりこまず、外側から冷静にみつめていると思われる。それだけに、現実を客観的につかみえている面もあるし、自分自身をまともにみつめられる可能性もあったわけだと思う。 サワンに対する「私」の対し方にそれがうかがえる。同じ自分のなかに、サワンを自分のもとにとめておきたいという気持と、解放してやるべきだという気持とが混在している。そして、サワンを自分のもとにおきたいという、その気持は自己中心的な、手まえかってなわがままでしかない、ということを知っている。けれども、そうした自覚をもちながらも、なお自分のところにとめておきたいのである。 「私」のサワンに対する愛情のゆがみも、そこからでてきているし、そうした愛情は、しょせん敗北するにきまっている。「私」の孤独も、そこにあるわけだ。そして、この「私」は、昭和四年という時点での、井伏をふくめた「私たち」なのである。 井伏月間 初めに書いたように、わたしたちの井伏へのとりくみは、この研究会でおわったのではない。たった一つの問題「孤独の質」でさえ、まだ十分とはいえない。「井伏のリズム」「井伏の文体」などなど……解明しなければならない問題はいくらでもある。 『屋根の上のサワン』も、そうした井伏の成長・発展のなかに位置づけてみなおすとき、さらにはっきりすると思う。 したがって、文教研としては、今後、井伏の『丹下氏邸』『多甚古村』さらに『漂民宇三郎』などをとりあげ、井伏とじっくりとりくむことにした。これが「井伏月間」である。その成果については、おって出版される『文学の教授=学習過程・中学校編』でごしょう知ねがいたい。
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