初期機関誌から

文学と教育 第33号
1965年5月20日発行
   『文学の教授=学習過程』 ―中学校編と取りくむ―  夏目武子 

 中学三年生の国語教科書に、文学教材としてのせられているのは、井伏鱒二の『屋根の上のサワン』と、太宰治の『走れメロス』である。私自身が希望しなかった教科書が採択されてしまったのであるが、この教科書を手にしたとき「やれるな」というよろこびがふと心をかすめた。『走れメロス』の授業に汗を流そうというのではない。井伏鱒二と太宰治、この作家の作品がとりあげられているということでなのだ。義務教育最後の年に、この二人の作家の作品を通して、日本の暗い谷間の体験をくぐるきっかけを作ることができそうだ、そんな気がしたからだ。
 なんとかとりくんでみたいと意気ごんだのだが。と同時にそれはたいへんむずかしいことだと気がつきだした。
 井伏鱒二。大人の文学なのだ。ところが、指導書には『屋根の上のサワン』が動物への愛情物語だという方向だけで、中学生にわかる 作品として書かれている。ほんとうにそうなのかしら。
 第一、私自身、井伏文学がわかってはいない。もし、わかっていたとしても『屋根の上のサワン』一本で、勝負しなければならないとしたら、何という冒険なのであろう。
 中学生に、とにかく、ほんものにつながる“文学”をと思って、本年度はじめての試みとして、文学読本を作ることにした。その中に、井伏の『山椒魚』をのせることにした。黒島伝治の『電報』『豚群』、有島武郎の『小さき者へ』、芥川龍之介の『鼻』『トロッコ』なども。
 準備態勢は少しずつととのったが、一番肝心な、教師である私が、井伏鱒二の作品を文学としてよむことが残された。ぼつぼつ作品を読みだした頃、文教研が三回にわたり、井伏作品をとりあげることにきまった。もちろん私は会員であるから、私の希望・意見も反映されて、そのようにきまったわけなのだが、サークルのよさをフルに発揮して、うんと学ぼうと決心した。
 『漂民宇三郎』『丹下氏邸』『多甚古村』とよみすすむ。今まで私の知らなかった井伏の作品のよさとむずかしさがわかりだす。いよいよ、今回は『山椒魚』と『屋根の上のサワン』。
 作品をよみかえしてノートしたり、授業をやるときの生徒の顔を考えながら授業化を考えたり……。自分の全財産をかき集めて会場にかけこむ。

 私たちが、今やろうとしているのは、中学校段階の文学教育のあり方を、ことばと芸術の論理の側と、子どもの発達の側とからあきらかにしようということなのだ。
 毎日、私たちがとりくんでいる現場、それは私たちにとっては、かけがえのないものだが偶然的所与にみちている。それに気がつかずに、それだけにとりくんでいたら、いつまでたっても見通しがもてないし、実践が実践の役目を果たさない。方法は原理を失っては技術主義に陥ってしまう。
 たえず原理にたちかえり、原理そのものを検討する中で、原理に与えられた実践、実践のなかで原理がたしかめられていく。そんな方向で“中学生”の発達段階の特質と中学校段階における文学教育の特質を明らかにしようというわけだ。
 このことは、すでに一九六三年十二月二十七日から意識的にとりくんできたことである。
一九六三年十二月二十七・二十八日  阿佐ヶ谷集会
  指導方法の原理/伝え理論/第一信号系と第二信号系の間/感情の位置づけ
一九六四年八月十一・十二・十三日  武蔵野集会
  文学教育の順次性・発達に即して発達を促すための文学教育
  小学校低・中・高学年の発達の特色と文学教育の特質/中学校の段階のそれ/国語科の教科構造
一九六五年一月二十三日  エルム荘にての定例研究会
  中学校の文学教育の特質
一九六五年四月一・二日  明星集会
  今までに学び得た伝え理論の視点での中学校の文学教育の整理をする。
 こうした集会の中であきらかにされたこと、されつつあることを一九六五年五月十六日の時点でまとめてみることにする。

 中学生。私たちはすぐ目の前の生徒を基準にして考えてしまいがちであるが、思いきって、あるべき姿、到達点から考えて、文学教育の方向をさぐってみようという姿勢で取り組んだ。
 中学生。おとなの目からみると急になまいきにみえだす。が、ナマイキということでそれをとらえてよいのだろうか。
 この時期を“自我成立の端緒”ということばで、私たちは一応整理している。観念が観念としてはたらきだす。物事を論理のことばにおきかえることができるようになる。大人にからめるような観念操作ができるようになったことを、ナマイキということばで片付けるのではなく、むしろ、進歩とみてはげましてやる必要がある。観念操作ができるようにたったといっても、大人のそれとはまだちがう。かれらはつま先で立っているわけだ。せのびしている段階だ。
 大人にからむことをおさえないで、からみ方、方向をきちんと示してやること。全面発達の方向で、せのびさせる。せのびをしながら、いつのまにか自分で立てるようにはげましてやる。
 こんな目で少し注意して、かれらをみつめていると、文学のよみ方にも変化がでてくる。文学とは? という問いがでてくるようになるし、またこのような問いがでてこなければならない。観念をくぐって生まれる真の具体的思考がはたらきだすので、文学の典型を典型としてとらえうる感情の素地が急速に成長する時期ともいえる。

 私たちは、国語教育を伝え合いの二つの側面から考えて、文学教育と文法教育と、そして論理教育という三つの側面においてとらえている。(『文学の教授=学習過程』参照)
 この三側面がそれぞれ独自の機能を発揮しはじめるのが、この中学段階、とくにその後期であると考える。したがって、中学校後期を文学教育入門期と名づけ、前期を入門準備期と位置づけてみた。
 前期・後期をどこで区別するのか、あるいは中学生段階を、前・中・後の三段階に分けて考えた方がよいのか、まだ明確にはいいきれないが、中学校二年生の夏休みを境として、急速な成長度をみせることから、大体この時期を境にしてよいのだろう。もう少し諸科学の力を借りて、さらに子どもの観察を通してここをはっきりさせようということになっている。
 到達点の姿をはっきりさせるという意味で、この後期の文学教育の内容を考えてみる。

                 ┌(1)鑑賞教育
          ┌ 文学教育┼(2)文学理論学習
         |       └(3)文学史学習
   国語教育┼ 文法教育
         |
         └ 論理教育

 文学の表現機構を、概念の世界に翻訳することで、より高い次元での感動を保証する。そこに理論学習のねらいがある。だからといって、作品のはじめからおわりまで概念化したのでは、文学でなければつかめないものをこわしてしまう。文学の世界をくぐることで、自己の感情にテーマを与えていく――鑑賞学習の中心点はここにあろう。
 『屋根の上のサワン』を動物愛の物語として読んでしまったら、そこに何があるといえよう。こんな読みあやまりをしてしまうのは、作品を本来の読者の体験と無媒介なところで問題にしているからであり、典型として描かれているものを典型としてとらえないことから起こるのであろう。
 文学史学習を支えにして、本来の読者の体験を媒介して作品にむかうかまえを用意すること。文学の約束ごとに気づいたり、文学でなければあらわせないものを意識化したりしていくなかで、作品をよんでいく。(2)(3)はあくまで(1)をまっとうな形で学習するうえの手段として位置づけられているといえる。この段階では。
 当然『屋根の上のサワン』なら、この作品を鑑賞するためには、他のどの作品を用意したらよいか、文学史学習としてどこまでおさえたらよいか。理論学習としてどの面まできりこめるのかという問いと準備が、教師の側になされていなければならないわけだ。
 さらに、大切なことは、中学生の発達段階と、井伏文学の本質からいって、中学生にどの作品を、そしてさらに、どの側面で与えることなのか、という問いが最初になければならないのだ。

 初めにもどろう。会場にとびこんだところで話は終わっていた。
 正直にいって、私は『屋根の上のサワン』の方を、『山椒魚』よりすばらしい作品だと思っていたし、高く評価していた。
 『山椒魚』の「ああ、寒いほどひとりぼっちだ!」というセリフはナマだ、なんて読んでいた。「諸君、山椒魚を嘲笑しないでほしい」なんて表現はきざだなんて思っていた。
 ところがである。報告と討議のなかで、この私の読みとりがまったく方向ちがいであることがわかった。くしゅんとする。が、遠路はるばるやってきたのだから、もとをとろうという根性で質問をはじめる。私のよみとりの浅さ。背のびをして――おたがいにぶつけ合いながらうみだしていくその日の成果。くしゅんとしたことは忘れて、何だかひとつ財産がふえたような気になってしまう。
 ところがである 。わかったつもりで、ほくほくしていると、次の会あたりでこっぴどくやっつけられる。あなたのわかり方は、そんなわかり方だったのかと。簡単に“わかった”なんていったことが悔やまれたり、恥ずかしい思いをしたり……。いや、この次は、ほんもののわかり方ができるのかわからない。わからないからこそ、毎週土曜日、せっせと、文教研へ足を運ぶのであろう。

 紙面と力のつごうで『屋根の上のサワン』『山椒魚』をちょっとかじっただけで、作品論としてきちんと位置づけていない。出版を予定している“中学校編”に報告される予定。

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