初期機関誌から

文学と教育 第32号
1964年3月15日発行
 〈学習指導体系案〉 黒島伝治野作品群をめぐって(中学校・三年)  夏目武子
 一、 三作品を中心に
     『電報』 一九二四年六月「潮流」
       『豚群』 一九二六年十一月「文芸戦線」   
       『渦巻ける烏の群』 一九二八年二月「改造」

   はじめに 作品群として扱う意義

 「彼は自分の肉体で触れたものでなくては描こうとしなかった。描かれているものは、すべて手堅い実感に支えられている」(筑摩、現代日本文学全集 昭和小説集(一) 解説より)。ここで問題にしたいのは、自分の肉体で触れたものの意味を、一作ごとにつかみなおしていった彼の成長である。彼の内部にあたためた本来の読者の質が一作ごとに高まっていったといえよう。処女作『電報』と同じく農村を扱った『豚群』、シベリア出兵の体験に取材し反戦文学にまで高めた『渦巻ける烏の群』と三作品を読み合わせてこそ、黒島文学の意義が明確になるであろう。

  1 主題 展開の軌跡

 『電報』
 「源作は十六歳で父親に死なれ、それ以後一本立ちで働きこみ、四段歩ばかりの畠と二千円ほどの金とを作り出していた。彼は五十歳になっていた。若い時分には二、三万円ためる意気ごみで喰い物もろくに食わずに働き通した。併し、彼は最善を尽してようよう二千円たまったが、それ以上はどうしても積りそうになかった。そしてもう彼は人生の下り坂をよほど過ぎて、精力も衰え働けなくなってきたのを自ら感じていた。十六からこちらへの経験によると、彼が困難な労働をして僅かずつ金を積んで来ているのに、醤油屋や地主は別に骨の折れる仕事もせずに、沢山金を儲けて立派な暮しを立てていた。
 別に学問のできる男ではなかったが、金のおかげで学校へ行った者は神主になったり、醤油屋の支配人になったり、小学校の校長になって村でいばっている。彼はそういう人々に対して頭を下げねばならなかった。そういう人々が村会議員になり、勝手に戸数割をきめているのだ。百姓たちは今では一年中働きながら、飢えなければならないようになった。畠の収穫物の売り上げは安く、税金や生活費はかさばって差引き切れこむばかりだった。そうかといって醤油屋の労働者になっても仕事がえらくて賃金は少なかった。が、今更百姓をやめて商売人に早変りすることもできなければ、醤油屋の番頭になる訳にも行かない。」
 源作は典型的な勤労農民だった。そして社会科学の媒介もなしに、彼自身の生活の中から、自然発生的にといってよい形で、右のようなことをつかみとった。そしてそこからぬけ出すことを考え出した。それは「息子を自分がたどってきたような不利な立場に陥入れるのは忍びないことであり、息子を学校に上げるという方向をとる。
 中学校を卒業し、高等工業へ入って出ると、工業試験場の技師になり、一二〇円の月給をとるのを想像し、幸せな生活の保証があると思い込む。
 「村の奴等がどう言おうがかまうこっちゃない。庄屋の旦那に銭を出してもらうじゃなし、俺が銭を出して俺の子供を学校へやるのに、誰に気兼ねすることがあるかい。」
 どん百姓が息子を中学へやることに対する村人の噂と皮肉にぐらつく妻おきのに対して、源作はこんなふうに言い切っている。自分の生活を切り拓こうとする必死さがある。
 学校へやったとは言えず、奉公に出したと言い張らねばならないおきの。試験がすんで帰るべきはずの日、停車場へ息子を迎えに行った時のおきのの気の使い方。母親としての気持と、どん百姓の嬶と卑下する気持とのせめぎ合い。夫は百姓であるが醤油屋に労働に行っている。地主であると同時に資本家であるという半封建資本主義の農村の二重構造。おきのにとってそれはどうしようもないものだ。どうしようもないものである以上、おきのは頭を下げ醤油屋の若旦那に顔をみられないようにするほかないのだ。そうまでしても、醤油屋の坊ちゃんに息子のことをききたいと思う母親としての気持。これが強ければ強いほど、それは重苦しく緊張したものになっていく。
 源作・おきのが自分たちのかかえている問題を意識的にとらえていない弱さは、それ故にまわりの者に対して嘘をつかねばならず、必死に生きようとすればするほど異常な緊張の中に身をおかねばならず、その重苦しさに耐えられずだんだんくずれていく。くずれたところで、なお重い暗さがやってくるのであるが――
 「労働者が息子を中学へやるんはよくないぞ。人間は中学なんかへ行っちゃ、生意気になるだけで、働かずに理屈ばっかしこねてかえって村のために悪い。……」村会議員小川の論理にならぬ論理が始まる。「息子を中学校やかいへやるのは、国の務めも村の務めもちゃんと一人前にすましてからやるもんじゃ。まあ、そりゃお前の勝手じゃが、とにかく今年から一戸前持たすせにそのつもりでおれ」。お前の勝手じゃがといいながら、単に勝手にできない圧力をちゃんと加えている。小川自身、自分の論理のでたらめさに気付いていない。理屈ではなく、村の人間関係の上に知らぬうちに小川はあぐらをかき、源作は理屈ではなくそれに従ってしまう。源作にはどうしようもない壁として立ちはだかる。
 「小川は、なおひと時、いかつい目で源作をみつめ、それからおこっているようにぷいと助役の方へ向き直った。収入役や書記はそろばんをやめて源作の方を見ていた。源作は感覚を失ったような気がした」。そして役場をすごすごと出て帰る。
 町では学校へ行くことはごく当たりまえとされている。県立がだめだったら私立をという発想が自由になされているのに、源作の村では大騒動に価するものである。
 「チチビヨウキスグカエレ」。十六歳から五十歳までの彼の経験の中から必死になって考え出しまとめあげた解放ののろしも、彼の経験の中だけでは、うちあげるまでのふんぎりがつかなかった。彼の経験は彼に脱出の知恵をさずけたが、同時に「小川を恐れる」ことを教え、それに縛りつけてしまった。
 彼は必死に生きた。もがき
(ママ)叫びがきこえるほど。だがそれは彼の経験を変えることはできなかった。個人的努力によってはうち破ることができなかった。
 三日たって、県立中学に合格したという通知が来たが、入学させなかった。息子は、今、醤油屋の小僧にやられている。

 『豚群』
 小作料のことから田畑は昨秋収穫をしたきりで耕されず、雑草がはびこるままに放任されていた。自分の田畑を持っている者だけが麦をまき、それが今三尺ばかりに伸びて穂をはらんでいる。小作料のごたごたは地主どもの経営している町の醤油屋にもひろがる。突然賃金も払われずに主人からひまが出たことを告げられる。健二と同村の連中は「君の家の方へ帰ってみればすぐわかるそうだが……」という調子で追い出されたのである。健二は自分のうかつさをくやしがったが、時遅しだった。地主の側からいえば、地子をとり立てられない償いに賃金不払い。農民の側からいえば不作の上に賃金未払い、そしてひま。二重経営をしている地主はどうころんでも損はないが、災難は農民がすべて背負いこむ。
 地主はさらに小作料の代りに、今相場が高くなって百姓の生活をささえる唯一の手だてになっている豚を差し押さえようとしている。三十貫の豚をツブシに売ると、一戸が一ヶ月食っていける糧が出る計算だ。農民たちはおいつめられてしまった。
 『電報』以上に農村の二重構造が明確に描かれ、地主の収奪ぶりが暴露されているが、より大きな相違は危機への対処の仕方であろう。
 百姓たちは会合を開き「押さえに来た際、豚をさくから出して野に放そう。そして持ち主をわからなくしよう」ということを申し合わせた。
 差し押さえは個人の財産に対するそれであり、それをのりこえるには所有主がわからない状態にする。それは差し押さえを不可能にすると同時に、個人の所有を否定する面をもっている。農民が個人の殻の中にとどまっている場合、オレの豚がオレの豚でなくなるかもしれないこうした方法を考えつくこともできないであろうし、また足並みがそろわないだろう。農民たちの知恵が生みだした新しい形の争議。源作の世界とは違う農民像が生まれた。しかも農民のおかれた位置からくる矛盾を見落さずにとらえている点も注目したい。
 会合では反対する者がなかったのに、自分の利益や地主との個人的関係から寝返りをうつ者が二、三出てきた。
 その代表として宇一が登場する。「宇一の家には、麦が穂をはらんで伸びている自分の田畑があった。またよく肥えた種のいい豚を二十頭ばかりもっていた。豚を放てば自分の畑を荒される憂いがあった。いい豚がよその悪い種と換るのも惜しい。それにかれは、いくらか小金をためて、一割五分の利子で村のだれかれに貸しつけたりしていた。ついすると、小作料を差し押さえるにもそれがないかもしれない小作人とは、かれは類を異にしていた」。
 子はらみの豚が池やみぞへ落ちこんで殺してしまうことも、がまんしなきゃならないと自分にも言い聞かせ、父親を説得する健二とは対照的に描かれている。
 いよいよ差し押さえの日。見張りの若者の連絡があり次第、いっせいに豚を小屋から野に放つという申し合わせはふみにじられるかにみえた。
 「こういうことはみながいっせいにやらなければ成功しない」「裏切りやがった」「これじゃだめだ」ということばが健二たちに交されたが、やがてこの不安はぬぐわれていく。
 野に放された豚のエネルギー。オレの豚というイシキをのりこえたところから出てくる農民のエネルギーの象徴といえるほど、野原をとびはねているおびただしい豚群。
 「二人(執達吏のこと)は初めのうちは豚を追い返そうと努めているようだったが、豚は棒を持った男が近づいて来ると、それまでおとなしくしていたやつまでが、急に頭を無器用に振ってはねとびだした。ふたりはいつの間にか腹だって怒ってたいせつなズボンやワイシャツが汗と土でよごれるのも忘れてむやみに豚をぶんなぐり出した。豚はうめき騒ぎながら、かれらが追い返そうと努めているのとは反対に、小屋から遠いのらの方へ猛獣の行軍のようになだれ寄った」
 やせてがいこつのような、そして険しい目つきのじいさんが、山高をあみだにかぶり、片手に竹の棒を握ってがけの下へやって来た。「おい、こらっ。」大きな腹を投げ出して横たわっている牝豚を見つけて、かれは棒でごつごつしりを突いた。豚は「ウウ」とうなって起き上がろうともしなかった。「おい、こら」じいさんはまた棒を動かした。「おい、こら」「ウ、ウウ」豚はやはり寝ていた。「健二と留吉は草に隠れてくっくっ笑った」
 三人の執達吏は結局豚一匹思いのままにすることができなかった。農民を思うままに出来ない地主と同じように。農民の抵抗を豚が象徴しているといってもよいだろう。
 うそをついたり、おどかされて頭を下げることのない世界、争議という緊張した中にも、くっくっという健二たちの笑いがある。
 おかしさは次にも出てくる。一日かかって三人の役人は、裏切り者の小屋にそれとは気づかずに故意に厳重に封印をして帰って行った。
 二週間ほどたって、健二が封印された小屋に入ってみると、裏切り者の豚は、ふんでまっくろけに汚れ、やせこけて眼をうろうろさせながらはっていた。それから一週間ほど昼夜わめき続けていたが、ついに一つ一つばたばた斃れ出した。
 裏切り者に対する憎しみは正面きって顔は出さないが、裏切り者の豚は、あの野原を気違いのようにはねまわった豚に比し、何とみじめでこっけいだろう。ふんでまっくろけ。やせこけた豚。未来をになえないものの象徴。一週間後、死という最大の敗北のみが待っている豚。
 野に放され騒いだ豚は、今、さくの中でおとなしくえさを食っている。オレの豚という意識をのりこえて争議に参加した者のみ結果においてオレの豚を手に入れることができたのだ。

 『渦巻ける烏の群』
 「誰のためにかれらはシベリアで雪に埋もれていなければならないのだろう。それは自分のためでもなければ親のためでもないのだ。内地でふところでをしてかれらを酷使した奴等どものためだ。そしてかれらはそいつらのためにこの国へ侵略に来ているのだ」
 シベリアへ来てから二年。かれらは家庭の温かさと情味に飢え渇していた。戦意はいうまでもなくない。情味のある家庭をのぞきたいという欲求から、かれらは雪の坂道をよじのぼった。必ずパンかかんめんぽうか砂糖を新聞紙に包んでもって。
 吉永も松木も武石も雪の坂道をよじのぼった。しかし松木の給料の八五倍以上の俸給をとっているえらい人も貪欲に肉を求めていた。大隊長の憤怒と嫉妬から松木と武石の中隊は吉永たちにきまっていたイイシ行きを変更して命令された。
 生命をかけて労働者農民の祖国を守ろうとするパルチザンのいるイイシへ向けて、大隊長の性欲の犠牲になった武石、松木の中隊は出発した。それは「広い、はてしない雪の広野で実に二、三匹の蟻にも比すべき微々たるものであった。疲れて元気がなかった。すべての者が憂うつと不安に襲われていた」のである。葬式のような兵隊のかたまり。戦争の目的もつかめず、戦意もなく、どうにかして雪の中から逃れて生きていたいというそれのみがねがいだった。
 「イイシにはパルチザンの一隊が頑張って反動的侵略軍に一撃を加えようとしていることはほぼ想像がついた。これまでにしばしば自分たちと同じような労働者農民の一隊であるパルチザンと、自分の意志に反して衝突せしめられて、危険に身を曝したことを思った。(吉永の回想)」
 自分の属している日本軍(侵略軍)のみじめさに比して、パルチザンの勇ましさ。しかもパルチザンは自分たちと同じ階級だというとらえ方をしている。
 中隊長の恨みをかった松木、武石は朝から斥候にのみ出されるが、不安と疲労のためにやがて雪の中に倒れる。彼の中隊全部、白い広野に散り散りに横たわって雪に埋められてしまう。
 他の中隊が探索に出されたが、わからなかった。大隊長は心配そうな顔をしたが、実際気にかかるのは師団長に出す報告のことのみだった。軍隊の非人間性の暴露。
 やがて春、松木と武石の中隊が雪に埋もれていることが明らかになった。「吉永の中隊は早朝から烏が渦巻いている空の下へ出かけて行った。烏は、既にあさましくも、雪の上に群がって、貪欲な嘴でそこをかきさがしつついていた。兵士隊が行くと、烏はかあかあ鳴き叫び雲のように空へまい上った。そこには半ばむさぼりつつかれた兵士達の屍が散りぢりに横たわっていた。顔面はさんざんに傷つけられて見るかげもなくなっていた……」


  2 作品に反映された民族の体験

 電報の発表された年一九二四年は「種蒔く人」廃刊後、文芸の共同戦線として、改題して「文芸戦線」が創刊された年である。プロレタリア文学の草創期、貧農に生まれた彼が、自ら労働者作家として筆をとり出した。彼の肉体の触れたものを素材にして。
 『電報』はしいたげられた人々の生活を、しいたげられた人々の立場から実感をこめてとらえられている。源作は典型的な勤労農民である。彼は何とかして自分の生活を切り拓こうとするが、個人の努力だけではどうにもならない。自分の経験のわくのなかにおり、見通しをもつことができないため、個人のワクをこえることができず、生活のあがき・叫び・暗さとしてしかつかむことができない。
 第一次大戦後、資本主義の矛盾は深刻化し、大正末期には労働争議小作争議が頻発するようになる。こうした中で「種蒔く人」以来急速にプロレタリア文学運動が盛んになってくるが、黒島伝治が書き出した頃はごく初期であり、文芸理論もまだ明確にされず、民族としても見通しをもつには至っていない頃であった。まだはっきりした方向をもてないが、自分たちを解放するために懸命に生きている人々、内なる読者として彼の内部にあったのはそんな人々であったのだろう。
 二年後の作『豚群』において農民のとらえ方はいちぢるしく変っている。典型的新しさがうち出されているといえよう。健二は争議の成功のために、自分の家の子はらみ豚をギセイにすることもがまんすべきだという考えに達する。個人のワクをのりこえることができた農民たちは会合で申し合わせをし、みんなで豚を野に放つという争議を組織し、実践していく。地主は相変らずあるのだが、地主の手におえなくなった農民たちの登場。どうしようもなく頭を下げた源作とは違った世界だ。しかもすべての農民が一様にそこに到達したのではなく、宇一に代表される裏切り者たち。裏切り者のもつ矛盾をきちんと分析して描き出している。新しい農民たちと裏切り者、そして執達吏。人物そのものを描くのではなく、野原をはねまわる豚群と、ふんによごれたさくの中の豚に象徴させて簡潔な文体でぐいぐい描いていく。
 『電報』の暗さと比べて、何と明るいことだろう。この明るさは見通しをもつ明るさといえよう。
 『渦巻ける烏の群』――。『電報』が源作という個人の体験、『豚群』が健二たちの農民集団の体験を描いているとするなら、ここには階級としての視点、帝国主義的侵略戦争に対する反戦の視点が浮かび上がってくる。一九二一年のシベリア出兵の体験を、六年間彼の内部であたためていた。彼の体験は階級的な高さにまで高められている。彼の体験した世界を、源作の世界にとどめず、階級的な意味においてみごとにとらえている。
 「『渦巻ける烏の群』が発表されたとき、非常な反響がおこった。たしか「改造」だったと思うが、当時工場ではたらいていた私も大きなショックをうけた記憶をもっている。強固な天皇制の下に君臨していた日本軍隊が、このような一将校の欲望の犠牲になって、雪の曠野にカイメツしてゆく有様は、当時まではまだ前代未聞のこととして国民にうったえられたのだと思う。さらには、当時の検閲下で多くを殺して表現したにしても、たとえば『彼方の山からは、反動的な日本軍に追いつめられた、パルチザンの一隊が復仇の機をねらって、こちらの村を覗っていた』…略…とかいうわずかであるが行間にはさまれているいくつかの文字である。これは新鮮な、しかも偉大なる真実であった。当時の日本にあって、この作品ほど反戦的・階級的なものは、その発表がまったく困難なのである」(国民の文学 近代篇 P241 徳永直)
 当時の読者であった徳永直は右のように言っている。この作のかかれたのは小林多喜二の『一九二八年三月一五日』が出る一年前であり、『蟹工船』、徳永の『太陽のない街』、中野重治の『春さきの風』のでる二年前である。
 「この作にでてくるわずかの文字、パルチザンこそ、ロシヤの労働者政権を守る、侵略軍隊とたたかうロシヤ人民の前衛であった。そしてその中には、地球にはじめて生れでたプロレタリア政権を守ろうとして人種のちがいをこえて、世界各国の労働者農民出身または進歩的インテリゲンチャ出身の人々、その他が参加していた。…略… 当時作者黒島が、たとえば佐藤のような日本人が、死を決した行動をもって、危険な日本軍隊の後方ふかく入りこんで、『日本の労働者農民の兵隊よ、ロシヤの労働者農民に銃を向けるな』というビラを撒布してあるいているような事実を知っていたかどうか知らない。また今日、日本のプロレタりアートが到達している複雑な政治的見解ほどに、作者黒島の見解が複雑な高さにたっしていなかったとしてもそれは当然である。それはたんに黒島一人ではなく、当時の日本のプロレタリアートの若さであり、当時のプロレタリア文学全体の若さであるというべきである」(前掲)
 雪に埋もれていく死体と、春、死体に群がる烏の群と。黒島の文体のもたらす強烈な印象は、感情ぐるみの“反戦”を表現しているといえよう。
 翌年発表された黒島の『反戦文学論』とあわせよむとおもしろい。


 二、 発達からみた学習過程

  1 生徒と教材

 生徒は現実を現象の面でとらえようとする。一人一人の体験を個人のワクの中だけで考える傾向がある。そのため不幸感と幸福感がうらはらな形で雑居している。自分のおかれた位置を知ることとか、体験をどういう角度でみつめるかという問の中で、もっと明るい見通しをもてるようになるのではないか。自分の体験を別の意味でつかみなおし、高めていく必要があるのではないか。そういう角度でこの作品群と取り組んでほしいと思っている。

  2 学習の展開した先行体験の形成

 見通しのもてない暗さが、見通しをもつことにより明るいものに変っていく。体験がどういう角度でつかむことによって、体験そのものの意味がちがってくる。こうしたことを意識化し、定着させたい。作者の成長の跡を読者の側から準体験するわけだ。
 作品群として扱うので、三つの作品を読みくらべることにより、それは可能なことになるであろう。一作を読んだだけでは気づかなかったことが、他を読む中で、気がつき、また前の作に立ちもどるということもあろう。
 三作同時に与えていきなり三作の比較をすることも考えられるが、先行体験の形成にまでもっていくには、一作ずつきめこまやかにやる必要がある。最初に『電報』をとりあげる。視点のみを列挙してみると
『電報』
 ○ 源作が息子を学校へやらせようと思ったいきさつ。
 ○ 源作・おきのと村人の関係。どうしてうそをついたのか。
   おきのは停車場でどうしてあんなに気を使ったのか。
   小川をどう思うか。
 ○ 源作・おきのの考え方の変化
   どう変ったか、どうして変ったのか、かれらは弱かったのだろうか。
 ○ 「息子は今醤油屋へ奉公にやらされている」この最後のことばから何を感じるか。
『豚群』
 ○ 健二と宇一の物の考え方や行動のちがい。
   どのように描かれているか、ちがう根本的原因は何か。
 ○ 野に放された豚群と、ふんで汚れた豚との比較。
   どんな感じをうけるか、何をあらわしているのか。
 ○ 源作と健二の、現状打破の方法。
   そのちがい、それはどこからくるのか、どう描かれているか。
『渦巻ける烏の群』
 ○ 松木、武石のシベリア出兵の目的。
   明確か、かれらは知っているのか、彼等の行動から何を感じたか。
 ○ イシシへの派遣。
   松木たちが行くようになったわけ、松木たちの行軍状況からなにを感じたか。
 ○ 渦巻ける烏の群の描写から何を感じたか。
 ○ この作の発表された当時の日本の社会状態を考えてみよう。
 ○ 松木や武石たちはシベリアでつらい体験をした。源作もつらい体験をした。この二つの体験の描かれ方をくらべてみよう。
一九六四・三・一五
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