初期機関誌から
文学と教育 第31号 1963年12月20日発行 |
〈実践研究会報告〉『手ぶくろを買いに』をどう評価するか―作品論の立場から― 佐伯昭定 |
新美南吉が作った『手ぶくろを買いに』という作品は教科書にも、よくとりあげられている。この作品は、いったいどんな作品だといったらいいだろうか。「良い作品か」「それほどでもない作品か」それとも「まるっきりだめな作品か」。 十二月七日の文教研例会では、蓬田さんの実践報告をもとにしながら、まずこういう形で問題をとりあげた。 これに対して、出席者の中から、いろいろな意見が出た。それをひとあたり紹介しておきたい。 〈福田隆義さんの意見〉 この作品は何か遠い世界のできごとがえがかれている。そういう感じがする。だから、現実に、教室にいる子どもたちの住んでいる世界とは、きり結ばれないような感じを受ける。 だが、たとえば豊田正子が作った『大晦日』のような作品を媒介にすれば、今の子どもたちでも、『手ぶくろを買いに』の世界に、あるいは入っていけるんじゃないかと思う。 豊田正子の作った『大晦日」とは、とうちゃんがけがをしたということにして、浅草まで、子どもにお金を借りにやらせる。自分(母親)が行くよりも、その方がかえって借りやすいと思った。母親は近くの路上で、帰りのおそい子どもを心配しながら、待っていた、こういう作品である。 〈山本郁子さんの意見〉 わたしがこの作品に初めて出会ったのは、脚本風に書き替えられた教科書に載せられていた作品でした。その後、原作を読んでみて、教科書作品があまりに原作とちがうことにおどろきました。今ここにとりあげている原作についてですが、わたしはこの作品のムードに何かひかれるものがあります。 では、教室ではどう与えていったらいいか、まだよくわかりませんが。 〈夏目武子さんの意見〉 かつて、ある研究会で教科書作品と原作とのちがいについて検討をしたことがあります。その時にもやはり感じていたことですが、子ぎつねをひとりで町に行かせることの必然性が何かはっきりしません。そしてまた、母ぎつねを美化しているような感じを受けるのも納得できません。 文学的真実性の弱い作品だと思います。 〈内藤哲彦さんの意見〉 さいしょ読んでみて、おもしろそうだなと思った。特に初めの方にある雪景色の場面の上掲描写などはひかれるところだ。 だが、それ以後の物語の展開には何か疑問が残る。 以上が代表的な意見であった。これらの意見の中には、自分が実際に子どもに教えた体験をもとにして出された意見もあるし、また自分なりの読み方から感じとったものをもとにして出された意見もある。要するに、いろいろなニュアンスの違いはあるにはあるが、とにかく賛否両論が出された。 多くの……といったらゴヘイがあるかもしれないが、たいていの研究会では、じつはこのあたりを堂々めぐりして終わる場合が多い。終わらないにしても、このあたりで無駄ともいえる多くの時間を費やしてしまう場合がある。 この日の会では、熊谷さんの名リードに負うところが大きかったのであるが、この無駄をはぶき、堂々めぐりを避けることができた。つまり、作品を評価する場合には、評価の視点をまず明らかにしてかからなければならないだろう。それをはっきりしておかないと、討論がどうしても経験主義的になってしまったり、相対主義的になってしまう。これでは話にならない。 作品評価の視点については、たとえ全員の一致がみられなくても、やはり仮説としてでも出してかからなければならないのではないか。以上、熊谷さんの発言である。 言われてみれば全くそのとおりである。いちおう、熊谷さんの提案という形になったのであるが、「児童文学における作品評価の視点」を次のようにとらえてみることにした。 一、 作品を読んで、そこに表現されている感情とふれあうものが、やはり読者の側にもなければ、いくら読んでみたってわからないだろう。このことは「作品がわかる」ということの基本的な条件であるはずだ。作品を理解できる“感情の素地”が読者の側にあるのかどうか、まずこの点から作品をみていったらどうだろうか。以上はこの会で話された熊谷さんのことばをぼくなりにまとめたものである。この問題について、熊谷さんは法政大学の心理学研究会の記録「集団の中の自我形成」という本の中で次のように言っている。 × × × (カッコ内のことばだけが本文からの引用である。) 「読者・鑑賞者の側の感情の素地とか、もとになる体験」がなければ作品は理解できない。そういう形で作品が理解されるのは「作者が子どもたちの感情や体験、体験の仕方、生活の実感をくぐりぬけてきて書いている」ということがあるからだ。 だから、「子どもの感情を理解し得る感情の素地を自我の内部に掘り起こして、作家は子どもの感情を媒介的にそこにつかみ出している」、こういう働きの中で作品が形成されてくる。「アンデルセンなら、アンデルセンの童話の世界というものは、子どもが実感するものとは別の実感をおとなの上にもたらす」「子どもの感情体験を別個の感情で体験する」ということである。〈「集団の中の自我形成」P45〜46 ―創造過程における自我対象化の問題―〉 × × × 熊谷さんはどうしたら“作品がわかる”かという問題に対して、読者の側から、また、作者の側から、作者も含めたそれをふくみこんだおとなの側から、この二つの側面からその機能を説明している。 この日の研究会では、児童文学作品の評価の視点をこのようにとらえた上で、さらに討議を進めていった。 次に、その時の主な発言をとりあげてみたい。 ○ 自分(母ぎつね)ではこわがっている人間のいる町に、子ぎつねひとりでやらせるということは、どう考えてみても納得いかない。(我妻) これに対しては「作品をずっと読みとおしてみていけば、決してそういう矛盾は感じられない」という蓬田さんの反対意見がだされた。 ○ 手ぶくろが必要だという必然性が感じられない。雪景色のえがきかたから見て、きつねの親子をとりまく自然は決して「きびしい自然」としてはえがからていないように思える。(荒川) 熊谷さんはこの発言に対して、「メルヘンの幻想性は敬愛しながらも、やはり何か中途半端な感じもする」といっている。 というのは、たとえば 「ものすごい音がしてパン粉のような雪が」 から始まって 「白いきぬ糸のような雪がこぼれていました。」 までの文章は、そこだけを見ればなかなかきれいですばらしい文章である。熊谷さんはここの部分を波多野完治流の文章心理学で分析してみせてくれた。名詞とか形容詞の数などを分析してみれば、じつにむだのない文章になっているそうである。 要するに熊谷さんの言いたいことは、この部分の文章はそれだけ見ればすばらしい文章になってはいるが、では『手ぶくろ――』全体から見てはてしてきちんと位置付けられているかといえば、そうは思えない、ということである。 だから、「おててがつめたい、おて手がちんちんする」が読者にとってどうもちぐはぐな感じがする。たとえば『森は生きている』などにえがかれている描写は、同じ自然描写でも作品全体の中にきちんと位置づけられていて、ちっとも違和感がない。熊谷さんはさらにアンデルセンの作品などの例も引用しながら、『手ぶくろ――』のこの部分については積極的に批判的だった。 内藤さんも先の自然描写の部分について、「サシミのつまだな、それにしてもサシミがサシミになっていないよ」と彼独特のいいまわしで批判していた。 この問題はこれぐらいにして、次の話題に移ろう。 ○ 作品の終わりに書いてある「ほんとに人間はいいものかしら……」という母ぎつねのつぶやきは、読んでいてどうもピンとこない。バラバラな感じだ。(内藤) 夏目さんもこの指摘には同じ意見であった。 ただ別の問題で内藤さんと夏目さんとの間に激論が展開された問題がある。つまりこういうことである。 夏目さんが言うことには、「この作品はとにかく、こういう書き方がなされているのであるから、まず、どう書いてあるか、それを手がかりとしては表現の理解をなりたたせなくてはならない」ということであった。 それに対して内藤さんは、「もちろんそれを無視するわけではないが、その表現を読者の側どう受けとめたか、その方の要素も考えないでは、表現理解が成り立ったかどうかいえないじゃないか」という指摘がなされた。 この問題は、過去通算二回にわたって文教研の研究会でもとりあげられた問題と関係してくるものであるが、「作品、サクヒンといっているが、いったい作品とは何のことをいっているのか」両者の発言は“作品”の規定の問題にからんでいる討論である。 別な側面から見れば、文学の表現理解における「送り内容」と「受け内容」の問題ともからんでくるわけであるが、これは『芸術とことば』の中にも載せられているように、この問題については、文教研では数年前に一応の結論が出されている。だから、その結論を批判する、再検討するという形で出すのであれば、もちろん話し合わなければならないが、とにかく、そういう文教研の財産をふまえたうえで確認していこうということになった。 こういう討議を経ながら、結局しぼられてきた問題は ・ 『手ぶくろを買いに』は、いったい読者にどんな「新しさ」を保障しているのか。 ・ 作者 新美南吉の媒介している感情は何なのか。 という問題であった。これについては福田さんと熊谷さんとの間に、そうとうつっこんだやりとりがあった。 福田さんの「この作品の中には、親ぎつねをのりこえる視点がある」という発言に対して、「のりこえる」とは作中人物(子ぎつね)がそうだといっているのか、それとも、読者においてそれがなりたつということなのか、という熊谷さんの追求である。 だが、この日の研究会ではこれについては断定的な結論を出すまでには至らなかった。 会の大勢としては『手ぶくろ――』に対して否定的方向に進んでいったことはたしかだったが、その方向においては、あえて結論を出さなかった。多数決主義による圧迫をさけたかったからだ。 だが、そのためのいくつかの分析の視点は出されたのではないかと思う。ぼくの荒っぽいまとめ方で、それがみんなに伝えられたかどうか、はなはだおぼつかない気がして、申しわけないが……。 この会でお互いに確認し合ったことなのだが、つまり、教科書には南吉の作品に限らずいくつか文学作品が載せられている。まるっきり手をもいだり足をもいだりしてヘンボウされた形で載せられている教科書の作品とくらべて、原作の方がどんなにすばらしいかといつも思わせられる。しかし、だからといって、原作はみんな良い作品なんだという妙な横すべりには気をつけようということであった。教科書にくさのあまり、原作の方を無批判にホレこんでしまうことには十分なすべり止めを用意しなければならない。そういうことだった。 ――出席者―― 〈報告〉蓬田、〈司会〉荒川 熊谷、福田、我妻、山本、内藤、夏目、佐伯 |
‖「文学と教育」第31号‖初期機関誌から‖機関誌「文学と教育」‖ |