初期機関誌から

文学と教育 第31号
1963年12月20日発行
 〈文教研・十二月集会・基調報告レジュメ〉
  集団主義文学教育の理論による学習指導体系の構想  熊谷 孝 

1. この夏の館山集会では、〈集団主義文学教育の原理と方法〉について報告した。こんどの東京集会では、標記のような課題が私に与えられている。つまり、館山集会で示した〈原理としての方法〉を、ここではいわば〈技術としての方法〉〈指導手順の体系〉というかたちで示すことが課題として要求されているわけである。

2. しかし、課題に対する具体的な答案が書かれるのは、むしろ、討議の過程においてであろう。私の報告は、ここでもやはり、原理的な面に傾斜した形でおこなわれることになりそうだ。というわけは――館山集会以後、私たち東京グループのあいだでは、〈伝え〉の構造理解に関して、ある新しい視点を用意しつつある(「文学」十月号所掲拙稿・「第一信号系と第二信号系のあいだ」の項など参照)。そのことで、また、問題全体に対する展望がかなり変わってきている、というようなことが、そこにあるからだ。今回の報告では、まず、その点に関して各地方グループの批判と検討の場を用意しなくてはならない。(この点、集会に参加される地方会員の方々の批判的発言に期待したい。)

3. この集会は、サークルのメンバーだけの内輪のものだし、少人数の集まりなのだからして、お互いに楽屋をさらけだして、問題を深めるかたちで徹底的に話し合いたい。報告もその線にそって、話の区切り区切りで質疑と討議をかさね、そういう質疑なり討議の過程で出てきた問題は次の話のコマにおりこんで考えていく、という形の報告にしたい。二、三〇分もしゃべったら、やはり三〇分なり四〇分なり質疑と討議の時間を持ち、そして次のコマに移る、という方式である。むしろ、私の報告は、自身に疑問としているような事柄についてサークルのナカマたちに問いかける、という形の報告である。

4. 当日、話題にしたいと思っているのは、たとえば次のようなことである。
 @ 文学教育が分担する子どもの人間形成・人間変革は、どのようなものであるか? したがって、その方法・手順は?
 A 上記の問題の性質と処理の仕方を明らかにするために、〈人間〉〈人間性〉の観念をここで追求したい。また、〈人間変革〉ということの実質的な内容を明らかにしたい。
 すなわち、(a)分業による協業という形での自他の変革――自己の〈持ち場〉の発見と自覚、予見にもとずく行為・実践。そこに見られる人間プロパアなもの。
 (b)そこの場面における〈伝え合い〉のはたらき。とくに、「ことば」による伝え合いを中心に、他のコミュニケーション・メディア(たとえば視聴覚的メディア)による伝え合いと言語コミュニケーションとの相関関係の検討。
 (c)不在なるもの(過去の、また未知の民族の体験)をもくぐっての、不在なるもの(未来の状況)への適応と招致。民族の共通信号としての第二信号系の機能と役割(国語教育・文学教育の任務と役割)。――不在なるものへの適応と招致という、実践的視点・姿勢による自己凝視・自我対象化の問題 etc.(アイデアリズムがアタマと「ことば」だけで考えだした「理性」的人間像や、プラグマティズムの志向する「実用」」的・「実践」的人間像、あるいは実感主義的な欲望充足型の人間像などとの対比。ここのところで、欲望の次元についてかんがえてみる必要があるかもしれない。)
 B 上記Aの(b)を処理することの中で、internal speech(内語)による伝え合いと、external speech による伝え合いの関係を、可能なかぎり図式化して扱ってみたい。(図式の原形は、アメリカにおける伝え理論の研究でもちいられているもの――たとえば、Guthrie, Factual  Communication, 1948.などによって構図してみることにする。ただし、図形の流れや動き、図形の部分に標記されている名称(概念)などは原図とまったく変えてある。たとえば、そこで fact(事実)という概念でおさえているものを私は、“事物”という概念でつかみなおしている。)ともあれ、そのことで、十一月集会における私の図式による報告の未整理な点を反省し、若干の誤謬について修正をくわえたい、と思う。

   〔(第1図)〜(第4図)省略。なお、これらの図には、本文にある以上の説明は添えられていない。〕

 C また、発達と「ことば」の役割について話し合ってみたい。こどもの言語獲得の過程的構造と、こどもとおとなの、そのそれぞれの伝え合いの連続・非連続の関係について考えてみたい。
 D 上記Aの(a)(c)を処理することの中で、〈概念的な伝え〉を重視するあまり、〈形象による伝え〉ものつ実践的なはたらきを軽視する偏言語主義的な考え方一般について批判したい。そうした批判を通じて、いっさいの事柄のいっさいの側面、いっさいの属性を「ことば」(概念)でとらえることは不可能であり、概念(ことば)による事物ハアクは、「ことば」の媒材・媒体としての性質にしたがった抽象以外ではないこと、またそれゆえに「ことば」による概念的抽象は大きな意義と役割をもつと同時に限界をもつこと、国語教育における事物の概念化(たとえば文章の要約による概念化)の仕事は、「言語化しなければならないことが、言語化されないでいるために本質がぼかされている」ことのないようにするための指導作業であることの自覚、etc.――概念的な抽象による意味ハアクと、意味形象と。
 E また、上記Aの(a)(c)の処理をとりおこなう中で、文学の機能的本質にふれ、こどもとおとなとの、文学理解の連続・非連続性について考えてみたい。子どもの感情をくぐった、おとなの別個の感情(「集団の中の自我形成」所収の拙稿『創造過程における自我対象化の問題』45〜46ページ参照)。文学評価の基準と、児童文学作品評価の基準、etc.
 F 上記CおよびEの関連の中で、指導手順ならびに教材選択の基準の問題として、〈同一作品の二つの教材化〉について考えてみたい。たとえば、アンデルセン文学(『五つのえんどうまめ』その他)は、小学校段階だけの教材なのか?……高校段階におけるその扱い方の視点と指導手順の問題、 etc.
 G 上記Dを扱う中で、〈思考と言語〉の関連について、私たちのこれまでの考え方に部分修正をくわえると同時に、考え方の基本線を再確認したい。すなわち、概念的な伝えの場合といえども(形象による伝えの場合と同様)、それは、思考の内容と見合う形の「ことば」をそこにさがし求める(つまり一定の思考内容に「ことば」の衣をかぶせる)、というふうないとなみではなくて、「ことば」をえらび、「ことば」を組み立て、「ことば」をつくる中で思考そのものが確実なものとなり、認知・認識が進行する、という形になることの確認。
 H 文学概念、作品概念について。――「ことば」や文字の行列が〈文学〉なのではなくて、「ことば」を媒体としたイメージによる意味形象が〈文学ということ〉なのだ、という点の確認。〈作品〉というのは、そうした意味形象喚起の媒体(媒材としての「ことば」の加工による媒体)以外ではない、という点の確認。
 I 「ことば」の論理、文学の論理による三読法(通読・精読・味読の三読法式、あるいは知覚読み・分析読み・表現読みの三読法式)や、一読法(総合読み)に対する批判。受け手の体験のありよう、感情のありようを疎外して、順序を立てて伝えをおこない、伝え理解をおこなえば〈伝え合い〉が完結すると考える、楽天的で薄手な伝えの構造理解への批判。(「国語教育」64年2月号所掲拙稿など、刊行のおり参照していただきたい。部分的にしかふれていないけれど。)
 J 以上の視点と整理をふまえて、『大導寺信輔の半生』(芥川)や『葉』『道化の華』(太宰)などの作品表現にそくして、それの教材化の仕方や指導手順のはこび方について語りたい。なお、これらの作品に事例を求めて、@〜Iの諸問題を具体的に考えてみたい。(『信輔の半生』については、その三「貧困」と六「友だち」の章を注目していただきたい。『葉』については、〈一行の真実〉〈芸術の美は〉〈花売りむすめ〉などの項を、とくにご注目いただきたい。)
(国立音楽大学教授)

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