初期機関誌から
文学と教育 第30号 1963年10月10日発行 |
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〈ことばの機能と文学〉 表現理解の地域差をめぐって 千葉一雄 | |
表現理解の地域差がいろいろいわれています。そのことを、文学作品に限って、具体的にどのようなかたちで現われるものか考えてみたいと思います。 あまりよい例ではないのですが、以前に東京の福田さんが扱ったことがあり、くらべるのにつごうがよいので、ことしの一月、三年生で新美南吉の『手ぶくろを買いに』(学図三年下)を扱ったときのことを考えてみます。 教科書を読んでのはじめの感想では、大部分の子どもたちが母ぎつねのやさしさを指摘し、数人の子どもが子ぎつねの勇気をほめていました。やさしい理由として、冷たいといったのですぐ手ぶくろを買ってやること、冷たいおててをあたためてくれるところ、暖かい胸にだきしめてくれるところ、歌をうたってくれるところなどをあげ、さらに、おこらないでやさしく何回も何回も説明してくれるところなどをあげていました。 授業は、文章に即して母ぎつねの愛情を読みとることからすすめました。その中で、数人の子どもから「母ぎつねはやさしくない」という発言があり、他の子どもたちはギクッとしました。暗い雪の道を、しかも、おそろしい人間が住んでいる町まで子ぎつねだけをやるなんて少しもやさしくない。おかあさんだったらぜったいにしないというわけです。やさしくない、いや、やさしいという話しあいから、どうしてひとりでやったのだろうということになり、また教科書を読みすすめてみましたが、教科書では、町のあかりを見た母ぎつねが「ふと」ひとりでやろうと思ったとだけしか書いてないので、想像だけしか出来ません。 授業がそこで行きづまったので、原作を与えました。母ぎつねの町での失敗したにがい経験のため、町のあかりを見たとたん、「どうしても足が前へ進まなくなり」「しかたなく」ぼうやをひとりで町までやることにした経過が、子どもたちによくなっとくされました。そのため後半の、母ぎつねが子ぎつねの帰るのを今か今かと待っているところや、帰ってきた子ぎつねをあたたかい胸にだきしめたところなどの理解がスムーズに行われました。 しかし、前に、やさしくないと感じた子どもたちにとっては、母ぎつねの行けなかった原因はわかったが、子ぎつねだけを町までやったことにたいしてのひっかかりが、ぬぐいさられたわけではなかったようです。最後の感想文の中に、つぎのような考え方をしている子どもが相当数ありました。 わたしは、手ぶくろを買いにを勉強して、かあさんぎつねはやさしいところもあるし、やさしくないところもあると思った。わたしのおかあさんとくらべて、おなじくらいだと思った。なぜかというと、雪の中を、町までひとりでやったからです。かあさんぎつねは、こぎつねが町のことをちっともわからないことをしっていたからです。わたしのおかあさんだったら、そのことをしっていたら、ぜったいにひとりではやりません。でも、子ぎつねが手ぶくろを買えたのでよかったなと思いました。(佐藤典子)このような子どもたちとはべつに、はじめに、手ぶくろを買ってやる母ぎつねのやさしさを強く感じた子どもたちには、しかたなく子ぎつねだけをやったことが、比較的スムーズに理解されたようでした。また、前の感想文にもあったように、手ぶくろを買えてよかったなという感じは、両方に共通してありました。 わたしの授業の進め方は別として、東京の福田さんの場合と比較しますと、最初の感想で大きなちがいがみられます。福田さんの場合、子ぎつねの勇気が大きくクローズアップされ、母ぎつねについては「そんなにやさしいおかあさんはいないよ」という態度だったそうです。農村では、いそがしさのあまり、やさしい声もあまりかけられず、つい叱ってしまったり、買ってやりたくてもおいそれと買ってやれない母親への不満が、母ぎつねのやさしさをクローズアップさせたのではないかと思います。また、その反対に、母ぎつねのやさしくない点としてとりあげられた、雪の夜道を恐ろしい人間の住む町まで一人でやったことに対しても、「雪」や「夜道」や「町」などの理解が、東京と山間農村ではちがいがあったと思われます。東京の場合、そのことがあまり問題にならなかったのも、子どもたちの現実の生活のしかたのちがい、経験のないことへの理解の差が現われたものと思います。 このように、子どもたちをとりまいている生活環境の差が、作品の表現理解に強くひびいているようです。社会のあり方、子どもをとりまくオトナや家庭のありようによって、子どもたちが作品にむかう以前の考え方、感じ方に大きな差があり、作品の理解に、いろいろな面でズレを生みます。個人個人の感情に差があり、作品理解に個人差が生ずるのは当然ですが、方向的に決定的なズレを生みだすような生活感情は、そのズレに気づかせるように指導していくべきだろうと思います。『手ぶくろを買いに』の最初に現われた母ぎつねへの感じ方の、東京と宮城の場合の差は、その一例ではないかと思います。ただ、ここでいいたいことは、雪や夜道や町に対する理解は、東京の子どもでも、作品を読みすすめる中で、ズレのない方向である程度できるのではないか、そのために、作品理解の方向をくるわせるような場合が少ないのではないかということです。 子どもたちに、よりすばらしい文学作品を与える中で、教師がより正しい文学への眼をもつ中で、都市と農村における作品理解の差をちぢめることができるのではないかと考えています。
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