初期機関誌から

「文学と教育」第29号
1963年7月20日発行
  音楽教育、芸術体験の関連から  大内寿恵麿  

 余りにも与えられた問題が大きく幅広過ぎて、経験と勉強の浅い現状では、とうてい整然と統一のとれた報告はできませんが、四年間の学生生活と某高校での十数時間にわたる教壇授業をふり返り、映画等からも例を引き、これだけは間違いなく断言できると思われるような側面の問題を述べてみましょう。
 非常に大きな期待と、異常なまでの執着を持って音楽学校という特殊なワクの中に入ったわけですが、日が経つにつれて、次第に学校内での音楽(クラシックの一辺倒)に興味を失くし疑問を持ち始めました。殆んど完全に大衆から遊離してしまっているクラシック音楽をやることに、愚にもエリート意識を感じ、間違った傲慢な芸術家意識を持っている音楽指導者や学徒の群。声楽科においては、声のボリュームと音域の広さが第一に問題とされ重要視され、イタリー人やドイツ人の歌を最も良く真似て唄うことが“うまい”という評価につながるのです。だから裏からいえば、“うまい”ということは物真似の器用なことであり、そこには独自性も主体性も殆んど見受けられないということになります。毎年多数の新人が各音楽学校から輩出して、あちこちで演奏を開始したりテレビ出演がなされますが、テレビに映っている表情だけを見る時、見ているこちらの方が耐えられないような恥ずかしさに見舞われるのが大部分です。
 歌と表情とのアンバランス。果して音楽を本当に心から楽しみ必要として唄っているのかどうか? 生命の奥底からほとばしり出るような実感に支えられ、作品の持っている内容を完全に自己の感情に媒介し、又自己の感情を媒介させ合っての表現がなされていないからこそ、表情と歌との調和のとれた統一が出来ないのだと思われます。それ故すでに大衆の実感に触れるような演奏が、必然的になされていないということが断言出来そうです。
 大衆のすぐれた部分につながる実感を自己に媒介させ、それを作品を通して表現してゆくという音楽家の自覚なくして、音楽の、生活との密着も発展も望めません
 音楽家自身が、エリート意識に支えられ歪められた芸術家意識を持って、クラシック音楽を「台座の上のものとして」理解し(本当は理解などしていないのですが)高尚な人種であるかの如く錯覚して、物真似的演奏をしている限り、大衆との断層が解決されず、相変らず不自然な表情を平然と御披露に及ぶという醜態を演じてゆくでありましょう。歪められた意識に左右され目的が転倒している限り、音楽芸術の真の表現には、とうてい到達出来ません。人間的内容形成の勉強は、全く軽視され邪魔者扱いされているクラシック音楽界。音楽芸術学校ならぬ音楽技術学校(もっと正確に云ったら、お稽古事学校、悲鳴出しくらべ学校、西洋音楽技術模倣学校)の傾向の方が圧倒的に強いのです。だからこそ、これの延長である交響楽団では、最も正常な人間としての、芸術家としての意識を持った若き天才指揮者が、追放されるという例さえ起りました。悲しむべきことであります。
 日本の作曲界では、まだその殆んどが、大衆の実感を媒介して作品に表現させている例がありません。創作オペラにしても、映画音楽にしても、西洋の和声学をこねまわして、只単に音をならべたに過ぎないような味のない音楽が多すぎる感じがします。だから聴いていて殆んど感動を覚えません。金がなければ出来ないような音楽、社会的外部の条件にも原因はありますが、日本音楽の幅をせまくしている大半の責任は、音楽家自身の内にあるようです。だから、今後の音楽家の使命として当然要求されるのは、音楽家自身の正しい方向への限りない自己変革と共に、社会的諸悪条件の変革、それに音楽芸術の芸術的認識の正しい把握に立っての音楽教育や演奏活動であると思います。
 勤務先の高校で、文部省唱歌「ふるさと」をあらゆる角度から唄わせて、生徒の反応を調べたのですが、突然唄わせた場合と、最初にことばによるイメージの方向づけを与えてから唄わせた場合とでは、全然異なった結果が出て来ます。各個人の過去の体験の多様性から、当然ことばや歌から与えられるイメージは、十人十色以上のものがあります。
 昔は、うさぎと云ったら月のことを思い浮かべた人もあったでありましょう。白い兎、黒い兎、茶色い兎、その大小、季節感等々、それぞれの違いが出て来ます。だからこそ、芸術作品の表現理解には、個人差はまぬかれず、一義的に理解が成り立たないからこそ、その表現は具体的で生々しい表現だと云うことが実証された思いです。ことばを手段として、実感をふまえたイメージの方向づけによる教育の効果と重要性を知りました。
 さて最後に二、三の映画の例を上げて、芸術表現のどういうものかを私なりに掘り下げてみようかと思います。
 素晴しき芸術は、殆んど少しの無駄も感じさせず、各部分部分が全体を支えるための必然性を持った部分として、有機的につながっています。商業主義に支配されている現在の日本映画界は、一つの穴がみつかると全部そこに集中し、今は御存知のように残酷映画がブームを起しています。
 これらの映画は、その殆んどが各部分の残酷場面だけを見せるのが目的であり、全体を支える必然的意図を全然持って居りません。
 井上和監督作品の「無宿人別帳」にしても、他の残酷さをもって鳴らす諸作品にしても全く同じであります。これらの作品と比較して黒沢明監督作品の「用心棒」を上げてみますと、残酷なショッキングな場面が各所に出て来ますが、これらの部分は、単なる部分ではなく、全体を支える素晴しき部分(地づら)としての意図を持っています。例えば、最初の「馬目の宿場」において、犬が人間の手首をくわえて走り抜けるシーンがありますが、あの部分はあの映画の背景を暗示させるに足る素晴しき部分であり、陰惨な音楽が、更にその効果をひき立たせます。又、浪人の腕が切り落される個所は、主人公の強さと人間性を象徴するような役目を果しています。
 一本の包丁が、最後に非常に重要な役目を果したり、とにかく他の駄作に比べて、少しの無駄も感じないような作品であります。これは、どこに原因があるのでしょうか? ……
 おそらくすぐれたこれ等の作品の背後には非常に緻密な計算と計画の裏づけがあるからでありましょう。
 緻密な計画性、これは、「芸術の表現は、感情の単なる発散や、外化・表示ではなく、まさに表現そのものであり、事物への体験における、あふれるような熾烈な感情は、むしろ別個の感情によってつかみなおされなくては、それは表現行為に結びつかない、又、芸術にあっては、感情は表現される内容ではなく、素材の秩序と配列を支配するもの」と云うデューイの理論につながるように思えます。
 自己の主観の主観性の自覚によって、他と自己との凝視がなされ、お互いを媒介し合って質を高め典型化されたものを表現として返してゆく、このためには、当然その背後に完全さを期した緻密な計画性が必要とされるでありましょう。だから自己凝視が鋭ければ鋭い程、それは緻密な計画性につながるように思えます。そしてもし鑑賞している作品から計画性を感ずるとすれば、それはまだ一人よがりの自己発散的な要素の方が強く、芸術表現の域にまでは到達していないのだと云えそうです。
 チャップリンの芸術にしても、黒沢明の芸術にしても、また諸々の素晴しい芸術にしても、鑑賞の最中にある時は、完全に我々をその中に没入させ、感動させ、背後の計算や計画性など微塵も感じさせません。我々の実感をするどい凝視によって、的確につかんでいる証拠でありましょう。
 それからもう一つ重要なことは、典型化を探るための対比における表現効果ということであります。これは例えば、悪人の表現を更に効果的にするために、それと対比させて必ず善人の設定をするとか、大男を効果づけるために小人との対比によって表現するということです。もちろんそれぞれに必然性を持たせた上での表現でないと、表現の肉づけにも真の表現効果にもつながりません。  -以上-
(駿台高校)
HOME「文学と教育」第29号初期機関誌から機関誌「文学と教育」