初期機関誌から

「文学と教育」第29号
1963年7月20日発行
  芸術体験の基底にあるもの――夏期集会のレジュメに代えて  熊谷 孝  

  行きずりの恋

 ノーモア・ヒロシマ――その広島へやってきた若いフランスの女が恋をする。エトランジェの行きずりの恋である。恋? むしろ、情事といったほういいかもしれぬ。ともあれ、これは何年か前に目にした映画である。
 題名は忘れた。ストオリーも、今はうろおぼえ。主演者のひとりが岡田英次だったという記憶は――この記憶は、しかし多分たしかである。
 岡田の役は、つまり彼女のこのかりそめの恋の相手だ。(たしか、そうだったと思う。)岡田にむかって彼女は、とぎれとぎれにこんな話をする。自分は前からヒロシマを知っていた。本で読み映画でも見て知っている。いま、また、この目でヒロシマを見た。そう、博物館へも行った。病院でケロイド患者も見た。ヒロシマのすべてが、いまの私には明らかだ――と、そんなふうに話しはじめるのである。
 そういう彼女のことばに相い槌を打つかわりに、この恋の相手は、そのつど、つき放した調子で次のようなことばをくり返すだけである。「きみは、何も見はしなかった。何も知りはしないのだ。」
 いや、こういう説明の仕方では誤解をまねきかねない。そのつど、そのつどの相手の反駁に対して、だって私はどこそこへも行ったし、また、どこそこも見てきた、それでもあなたは、私がヒロシマを知らないというの? ……といった調子の彼女のことばがつづくのである。しかし、相手は依然として同じことばをくり返すだけなのだ。「きみは、何も見はしなかった」ということばを、である。
 たわむれの恋には、真実めかしたことばが必要だ。真実めかしたことばを伴なうことで、瞬時、恋のムードをつくりだすことができるからだ。また、そのことで逆に、恋のいとなみを行きずりのものに終わらせることもできるからだ。しかし、二人のことばは内心の真実そのものだ。お互いの真実をぶっつけ合って、火花を散らしている。かりそめの恋が、かりそめの恋なるがゆえにもつ甘さの代わりに、そこにあるのは、きびしさである。むなしい甘さの代わりに、真実へ向けてのきびしさが、そこにあるのだ。とすれば、これはもはや、ただの情事、行きずりの恋ではないということになるのであろうか。


  ノーモア・ヒロシマ

 が、しかし、それがただの行きずりの恋かどうかを問うことは別の機会にゆずりたい。ともかく彼女にとって、それは、行きずりの恋でなければならないのだ。彼女は前に恋をした。真実の恋を、である。戦争はしかし、瞬時にして彼女の手から恋人を奪いさった。
 目をとじれば浮んでくる恋人の面影。けれど、今はそれを忘れねばならない。忘却だけが救いだからである。彼のことを忘れるためには、その思い出につながるいっさいの過去、いっさいの体験が忘却の渕に沈められなくてはならない。彼を奪いさった戦争のことも何もかもが、である。
 忘却への必死のあがきが、そして、いま、彼女に行きずりの恋をさせるのである。新しい恋への期待からではない。いっさいは忘却のために――である。忘却のために、ひとえにそれゆえに、かりそめの恋のたわむれに身をゆだねるのである。このようにして、彼女にとってこの恋は、行きずりの恋でなければならぬのだ。
 このようにして、また、いっさいを忘れ、いっさいを行きずりのものに終わらせようとする彼女の“ヒロシマ”は、やはりエトランジェの行きずりの目に映ったヒロシマでしかない。彼女のいう、この目 で見たヒロシマ――のこの目に問題があるのだ。どんなにつぶさにヒロシマの惨劇の爪跡をまさぐろうと、ヒロシマは彼女につかめない。それが今の彼女につかめるはずがないことを、岡田は、相手の心のうつろさと、自分の恋のむなしさを実感することのなかで見ぬいている。

 あいだを端折ったいい方をすると、しかし、やがて、彼女にヒロシマがつかめるときが訪れる。過去の体験から自由ではない自己の内面に気づいたときに、である。過去の戦争体験が、現在を生きるうえに避けられぬ先行体験であることが意識されはじめ、戦争が奪いさった恋人の顔が目の前の恋人と重なり合ったときに、である。
 もはや、それは、ただの情事ではない。ではなくなったのである。恋が自分自身の、自己内面の問題となりはじめたのである。いや、自己の内面に目が向けられたとき、過去の恋愛体験、過去の戦争体験が体験として よみがえり、新しい体験をそこにつくりあげるところの、それが《もとになる体験》として再生された、ということなのである。いわば、彼女は自己の内面に恋とヒロシマを発見したのである。
 恋の発見とヒロシマの発見――それは、彼女のばあい、相即的である。相関的である。それは一であって、二ではない。行きずりの相手と、しかし行きずりの話題を楽しむことのできなかった自分。行きずりの話題に満足しえなかった自分。その自分の実体が今は明らかなのである。このようにして、自己に帰り着くことで彼女は、また、ヒロシマをそれの本来の姿、本来の意味において「知る」ことができたのである。


  体験ということ・先行体験ということ

 ここまでが話の前置きだ。と同時に、以上が僕のきょうの話題のすべてでもある。僕としては究極において、芸術体験における《先行体験》ないし《もとになる体験》の役割ということについて考えてみたかったのである。以上は、そのことを考えるうえの、足がかりとなる事例の提示だ。
 しかし、これは単なる事例ではない。一例――一つの事例には違いないが、しかし普遍をふくみこんだ特殊というかたちで構成された、それは典型的な事例なのだ。という意味で、僕のいいたいことも、じつはこの事例に尽くされている、といっていいのである。
 つまり、こういうことだ。そこに新しい体験が成り立つためには、先行体験のささえが必要だ、ということなのである。先行体験のささえを欠いては、新しい事物との出会い(あるいは接触)も、けっして新しい体験を構成しはしない、ということなのだ。それは体験にまで高まらないで、事物とのただの行きずりの出会い(接触)に終わってしまう、という意味である。上記、映画のヒロインが最初そうであったように、である。
 先行体験――もと になる体験のささえを欠いては新しい体験は成り立たない、ということは、しかしもと になるものが、ただ、そこにあればいい、ということではない。先行するものが、新しい意味づけにおいて、つかみなおされねばならぬのである。あるいは、それの本来の意味が、そこに再発見されねばならぬのである。先刻の映画のヒロインが、忘却への姿勢から立ちなおることで、彼女の戦争体験が戦争体験――体験 としての意味を彼女自身にもちきたしたように、である。またそのことで、過去の体験が現在的意味と役割において、新しい体験をそこに成り立たせるうえの《もとになる体験》となりえたように、である。
 事物との接触(出会い)ということと、事物への体験ということとは別のことだ。体験というのは、意味においてつかまれた一まとまりのものだ。事物との出会いにおいて、その事物のもつ主体的な意味について思索をはじめるころに《体験》への端緒があるのだ。
 あのときは、あんなこともあった、また、こんなこともあった、というふうな過去の追憶は、体験――先行体験を形成しない。過去における事物との接触が自分自身の内面の問題になっていないからだ。苦しかった生活も今となっては楽しい思い出だ、などといわれる場合、その過去は、自分にとって、もはや外側(主体の外側)の出来事でしかなくなっている。しかし、体験はつねに内的体験以外のものではない。自己の主体、自己の内面にかかわるかぎりにおいて、それは《体験》なのである。
 先行するものが、そのような体験としての意味と機能を自分自身にもちきたしたような場合、まさにその先行体験は、自己の新しい体験を形成する支えとなるのである。いや、その支えなしには新しい体験がそこに成り立ちえないような、決定的な役割を、その先行体験が果たすことになるのである。


  鑑賞活動と先行体験

 創作活動や鑑賞活動を成り立たせるささえがこの先行体験だ、と僕がいうのも同じ意味においてである。先行体験――あえてことばを重ねるが、意味 においてまるごと につかみなおされた先行するものである。事物へのこの先行体験が、その事物についてのまるごとの表現と表現理解を可能にするのである。
 創作体験と鑑賞体験の双方をふくめて芸術体験は、新しい体験である。ことばの正しい意味における真実《新しい》体験である。芸術体験のそのような新しさを約束するものが、この先行体験、もと になる体験だ、というのである。
 作品の鑑賞において、その表現に新しさを感じるということは、そこに提示されている事物のつかみ方、その事物をつかむ感情の新しさに打たれる、ということにほかならない。そこには、やはり、自分の感情、自分のつかみ方とつながるものがある。つながるものはあるが、しかもそれは一つではない。新しい――のである。
 自己の習慣化した事物のつかみ方や、事物をつかむその感情――感情体験、先行体験と、作品が示す新しい感情、新しい事物のつかみ方との対決が、そこにおこなわれる。このようにして、鑑賞――表現理解のプロセスは、先行する自己の感情体験、事物のつかみ方との対決のそれであり、先行するものへの自己反省のそれである、ということになるのだ。また、そのような対決と反省が、事物のもつ新しい意味、真実の意味の発見と主体化・内面化を実現することにもなるのだ。


  佐伯批判をめぐって

 サークル誌の気楽さ、気安さで個人の名前をだそう。佐伯(昭定)さん。どうだろう、上記の叙述であなたのこあいだの疑問、氷解していただけただろうか? それとも? ……
 もう先、サークル・ゼミで佐伯さんから小著の考え方についてご批判をいただいた。「表現理解が成り立つためには、事物そのものに対する理解が、受け手の内側に先行し実現していなければならない」云々、という個所についてである。
 佐伯さんの批判は、たしか、こういうことだった。文学教育の現場の問題としていえば、生徒たちのあいだに見られる事物への先行体験(先行する理解)のおさなさやら、ゆがみ――それがカベとなって、まっとうな表現理解の実現を妨げている、という事実がある。そういう事実があるとすれば、先行体験がささえとなって表現理解が成り立つ、というきみの論理は矛盾しているということにならないか、云々。
 それが矛盾していることにならない理由については、すでに紙幅をついやして書きつけたとおりだ。この場合、佐伯さんに、二つの誤解が先行していたように思う。一つは、先行体験 の体験ということと、接触(出会い)ということとの異同についてである。あるいは、先行体験と新しい体験との相即的、相互規定的な弁証法的な関係・関連についてである。
 もう一つの誤解は、表現理解が成り立つとか実現する、という場合の《成り立つ》《実現する》ということの意味内容に関してだ。佐伯さんの場合、それを、まっとうな理解が完全なかたちで成り立つ(といわないまでも、方向的にはズレのないかたちで実現する)というふうな意味に解しておられる。しかし、僕がいうのは、ともかく事物の認知がそれとして誤りなく成り立つ、というふうな意味だ。むろん、ズレのない、まっとうな理解の実現、という場合をふくめての表現理解の実現ということではあるが。
 佐伯さんの指摘された個所(その同じページ)に、そのことを説明する意味もこめて、次のような表現の事例(文例)をあげておいたはずである。
 ――「ジロチャンめがけて、一ぴピキのイノシシが、まっしぐらに、かけてきました。」
 その個所に、また、こんな説明のことばをそえておいたはずだ。「猪がどういう動物か見たことも聞いたこともないような子どもには、スリル感は起こりません。いや、起こりようがないのです」云々。「表現は、なんらかある事物(――ある世界、ある現実)についての表現にほかなりません。表現は、いつ、いかなるときにあっても手段であって、目的ではないのですから、また、それの理解 は、表現によって喚起されたその事物に対する、自己のひごろの反応様式を前提としたものであるはずです」云々。
 僕としては、もうこれ以上の説明のことばを用意していない。そこで、同語反復みたいなことになるが、パパが三つか四つの子どもにお話ししてあげてるとして、
 ――「そのとき、森かげからイノシシがあらわれてね……」
 というふうにいってみせたとしても、子ども(受け手)がイノシシというものも、イノシシということばも知らなかったとしたら、この表現は表現としての意味を失ってしまうのだ。この場合、「森かげ」という気の利いた(おとなにとって、気の利いた)表現では表現にならないで、かえって「森のなかから」というヤボなことばづかい(?)をしたほうが、受け手(子ども)をつかんだ表現になる――というようなことなども、そこにあるかもしれない。
 もっとも、これは、ことばや絵やスライドや映画などを使って事物についての知識をあたえる、という教育のいとなみとは、そのかぎり次元の違った話だ。以上は、表現理解の成り立つ場と、その場を構成する前提条件について考えてみたまでの話だ。
 教育的な操作としては、未知の事物について子どもの理解をみちびくために、(上記の例でいえば)パパが故意に意識して「猪」ということばを話のなかに織りこんでつかい、また「森かげ」ということばを使ってみせる、というようなこともあるわけだ。或いは、子どもが首をかしげたところで、その事物やそのことばについて説明をくわえる、というふうな操作がおこなわれることにもなろう。親や教師は、ふだん、いつも、それをやっているわけだ。
 しかし、それはそれ、これはこれだ。というより、先行体験にささえられてのみ表現理解が成り立つ、という理解が親や教師に欠けていては、そういう意識的な教育のいとなみも実現するはずがない、ということを僕はいいたいわけだ。
 と話してくると、そういう理解は、すでのわれわれ自身において成り立っている理解であることが知られよう。そのことが分かっていなくては、教師がつとまるはずがないのだ。つまり、それは実践的には明らかなことだ。むしろ、自明のことだ。その自明のことが理論化され、論理に要約されると、「その論理は、おかしいんじゃないか」というふうな議論になるのは、これは、どういうわけなのか?
 佐伯さん。誤解しないで欲しい。これは、あなたに向っていっていることばではないのだから。この場合の仮想敵は、世の言語実体論者や、言語過程説を信奉する人たちの考え方――その論理なのだから。話のはずみで、話題がそこへきちまった、ということなのだ。
 事のついでにいうと、これはある現場の先生から受けた批判だが、表現理解に必ずしも先行体験は必要ではない。イノシシをかいた絵から逆に、イノシシというものを子どもに理解させることもできるのだから、云々。
 改めて答えは書かない。答えに代わるものを先刻、書きつけておいたはずだから。むしろ、子どもにとって体験の裏づけを欠いたイノシシならイノシシという表現(表現部分)が、全体と部分、部分相互の相剋のなかに、さしてズレのないある方向的な理解をみちびき得る、という点をこそ、この先生は、そこのところで問題にすべきだったように僕は考えるのだが。


  フィクションと、もとになる体験

 多分、こちらの説明が不親切だったか舌足らずだったせいだろう。先行体験云々、もとになる体験云々の個所についての質疑や批判が、じつに多い。
――「もと になる体験が作家その人になくては、フィクションがフィクションにならないで、ただのウソになってしまう」云々。
――「創作ということが何らかフィクショナルな表現のことを意味しているとすれば、そのフィクションにはもと になる体験、下敷きになる体験が必要」だ、云々。
 たとえば、そんなふうに、表現面での《もとになる体験》ということにふれたわけだが、それでは自分に人ごろしの体験がなければ殺人のシーンは書けない、というのか、といった式の反駁をそっち、こっちから耳にするのだ。
 が、むろん、実際に人ごろしをやらないと殺人の心理や殺人の場面は描けない、という意味で《もとになる体験》あるいは《下敷きになる体験》を云々したわけではない。でも、きみのいうのは、やはり、殺人の体験が自分にあったほうがいい、という意味だろう? ……どうも、この例には弱い。あまり、いじめないでください。
 そこで、殺人の例はブッソウだから引っこめていただくことにして、最初の事例にもどって《恋》といこう。実際に自分に恋人がいなくとも、だれそれと実際に恋の語らいをしたことはなくとも、恋が描けないものでもない。自分にいわゆる意味の恋愛体験はなくとも、もと になる恋愛体験が先行し、もろもろの他者の恋愛体験を自己の感情に媒介し得るだけのものが自分自身にあればの話である。
 しかし、やはり、自分自身に実際に体験があったほうが、よりよい、というわけだろう? ……さっきもいった通り、どうか、いじめないでいただきたい。僕がここでいえることは、ひと山いくらの、その辺に掃くほど転がっているレンアイを体験しても人間的な、真に人間的な恋愛を描くうえのたし にはならない、ということぐらいだ。
 もと になる体験というのは、いやその点については、すでにことばを重ねた。先刻の映画のヒロインの場合や、表現理解の面で語ってきた先行体験・もとになる体験ということを、今ここで表現の問題として、別のルートをたどって考えてみていただければ、と思う。(別のルート? ……小著、P22〜107で、その道筋だけは明らかにしておいたつもりだ。)また、そのことにつなげて、フィクションということについて、改めて考えてみていただきたい、と思うのだ。(小著、P22〜30参照。)


  鑑賞指導の役割

 紙幅が尽きた。だいいち、所定の原稿シメキリ日に三日もおくれている。大あわてで次のことをいいそえて、この稿を終わらねばならぬ。それは、何のための鑑賞指導か、というような点についてである。いや、その一コマ前の話だ。
 文学教育としての鑑賞指導の役割――その役割について総括的に語る時間のゆとりは、もはやないが、今いえることは、こういうことだ。作品を分らせる、ということが鑑賞指導の欠くことのできない目標には違いないが、それを実践する教師の構えとしては、むしろ、《分からせる》ことにあまり力コブを入れないほうがいいのではないか、ということなのだが。
 文学・芸術の表現の特徴は、マチス流にいえば、「その作品を描いた当人にも分からないところがある」という点だろう。それを鑑賞者、読者の側に回っていっても、分かるところもあるが依然分からないところが残る、というのが作品鑑賞のほんとうのところではないのか。
 これまでの文学教育は、ところで、どうも全部を分からせる(分かったことにさせてしまう)ブンガク教育だったような気がしてならない。先刻の映画のヒロインが、あれも調べたし、これも見た、何もかももうすっかり分かった、と語っているようなぐあいに、である。そういう分からせ方をしたのでは、これは、文学教育としての鑑賞指導であるとはいえないのではないか、という僕の疑問である。
 そんなふうな分からせ方をするよりは、むしろ、まず、作品の表現に示されている事物のつかみ方や感情、感情体験――それを理解する《もとになる体験》を、学習者自身の内側に喚起し自覚させることなんだ、と思う。作品をあたえ、作品の読み を実現させていく過程で、それを行なうのである。
 いいかえれば、そのような《もとになる体験》を学習者が自分自身の内側に自覚し形成していく作業に協力することが、鑑賞指導の任務であり役割である、ということなのだ。そのことが実現しさえすれば、あとは当人まかせでいいくらいのものだ。作品の表現がさし示す問題を自己の問題として感じとることができるような、主体的な姿勢の基本は、すでに、そこに成り立っている、と見ていいからである。ともあれ、作品にたちむかう姿勢がまっとうだったら、あとのことは、気にしない気にしない――である。少しランボウだろうか。
(国立音楽大学教授)
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