初期機関誌から
「文学と教育」第28号 1963年5月25日発行 |
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表現理解の方向差・個人差 『虔十公園林』をめぐって 福田隆義 | |
『虔十公園林』は宮沢賢治の作で、教育出版 6・上にある教材です。だが、原作とはかなりちがったものになっていますので、『子どもの文学・六年生』ポプラ社、または『日本の文学・小学五年生』あかね書房、などでお読みねがえれば幸です。 ◇ 指導書によると 主題は……人間の幸福というものは、外見で測り知れるものではない。ひそかな自分の願いを満たそうと努めたものにのみ訪れるものである……となっています。 そして、……作中の人物の行動に共感し、反発させることによって、主題をとらえることができるようにする……を、目標の第一にあげてあります。 ここにあげている主題のつかみ方はまちがっているとか、目標がおかしいなどというのではありません。ただ、五十名の子どもをおしなべてそこへ引っぱっていく、あるいは、何回も読むことで、たんねんに語イ指導すれば、そこへ行きつくはず、という考え方がそこにはあると思うのです。そういう考え方には賛成しかねる、ということを私はいいたいのです。 ◇ 多様な反応 この作品に対する子どもたちの反応は、実にさまざまです。たとえば、虔十に対して、共感したもの、批判的なもの、あるいは、両者のいりまじった複雑なものなど、なかには「すぎの黒いりっぱな緑、さわやかなにおい、夏のすずしいかげ……」という公園林の美しさに魅せられてしまった子もいます。 また、一口に“共感”といっても「自分のやりたいことをやり通したから」というもの、「一生に一度しか、反抗したことがないなんて、ずいぶんがまん強い」、あるいは「すなおな人だ」など、いろいろです。 ところが、ある子は「すなおだ」と思ったそのことを、別の子は「なんでも人のいうことを聞くなんてどうかしている」とか「いくじなしだからだ」と批判しています。「けんじゅうの家は、お金もちらしいし、家の人がいいか(ママ)死ななかったけど、あんなウスノロは今だったら生きていけないよ」と、てきびしい子もいました。 むろん、これだけではありません。が、ともかく子どもたちは、個々の体験を通して、虔十と向きあっています。心理的にはどの子の反応のしかたも事実であり、ここから学習は出発せざるをえません。 ◇ 個々の反応のちがいはうめられるか くりかえしになりますが、右のような子どもたちの受けとり方は、学習の出発点です。従って、そこには作品全体からではなくて、部分的なものへの反応もあります。そうした子どもたちには、それを全体の中に位置づけてやる作業や、わからない語句を考えていく作業は欠かせません。 しかし、いくら読みをかさね、語句の指導を徹底したところで、前記、指導書のような一義的な表現理解になるでしょうか? 個々の実感を切りすてて、一義的なものにしなければならないかどうか? そのへんに問題を感じるわけです。 くどくなりますが、教科書に「けんじゅうという人はどんな人だったか、その言ったことや行動から読みとっていく」という問題があります。「言ったことや、行動」これは一義的でなければなりません。ここにくいちがいがあってはならないのですが、「どんな人」ということになるとどうでしょうか? 前述の個々の子どものちがい“個人差”は、どこまでもつきまとう、うめることはできないと思うのです。 ◇ 方向差 ところで、個人的な表現理解のひずみがうめられないということは、個々人のそれぞれの反応を総て認めるということではありません。 たとえば、公園林の美しさに魅せられてしまった子、この子の理解は部分的なものへの反応としては認めても、作品全体としてみたときには方向的にくるっています。つかみどころがちがっています。どこかでたしなめないわけにはいきません。 この場合、虔十公園林の美しさ、これは、部分主題ともいえないほどの自然的背景でしかありません。私のクラスでは、教養?があるといわれるおかあさんに、詩や作文を見てもらっている子が、こんなつかみ方をするようですが……。 ◇ 自己変革 文学教育も自己変革のいとなみにちがいありません。自己変革、それは、一義的な理解に子どもたちを引っぱっていくことではないと思います。ましてや、教師の理解のおしつけであってはならないと思うのです。 ……人間の幸福とは云々……と、ことばで整理してみたところで、それがどれだけのねうちがあるでしょうか。実感にうらづけられないことばのうえでの整理、それは、ことばあそびでしかないと思います。 自己変革、それは、子どもたち個々の体験にそくして、それを前むきの姿勢でかえていくことだと思います。個々の体験のそくすかぎり、個人差はまぬかれません。ただ、個人差を主張するあまり、方向差をみのがすようなことがあってはならないと思います。
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