初期機関誌から
「文学と教育」第27号 1963年4月14日発行 |
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事物とコトバをつきあわせるということ 福田隆義 | |
△ これなあに? 二歳になる女の子ですが、よるとさわると「これなあに?」と問いかけます。いいかげんにウンザリした家内から、バトンタッチをされ、夕食前後、、しばらくは「これネクタイ」「それはマンネンヒツ」……と相手をしますが、しまいには「もうネンネの時間だよ」と、これなあに攻めから逃げ出してしまいます。 何十ぺん「これネクタイ」をくり返したら、ネクタイという名まえと、物とが結びつくでしょうか。なかなか容易なことではないようです。が、彼女は熱心(?)です。物には名まえがある、ということに気付いたのでしょう。あきず、こりずに質問を続けます。 コトバの学習の出発点といっていいかと思います。事物とコトバとをつきあわせるということも、ここでは、至極かんたんなのですが……。 △ “げいとう”ってなあに? こんどは姉のほうです。五歳になったばっかりです。誕生祝いに買ってやった、岩波子どもの本「りすとかしのみ」の中の〈がまのげいとう〉を読んでやろうとしたところ、いきなり「げいとうってなあに?」と聞かれ返答に困ってしまったのですが、そこは先生です「いまにわかるよ」といって、読みすすめました。 「げげげ げいとうをやる」 がまが、また、いいました。 …… 読みおわって「げいとうって、どんなことだった?」と聞いてみますと「かえるの口から、ちょうちょがでたり、おまつりのたいこがなったりする、まほうみたいの」といいます。“まほう”はたぶん、テレビの“まほうのじゅうたん”でおぼえたのだと思います。 この場合、妹とは逆に、コトバに事物(事がら)をつきあわせてやったことになると思います。 △ いいなおしたところで 事物や事がらと結びつかないコトバの指導が、ナンセンスであることは、いうまでもありません。 先に「げいとうってなあに?」と聞かれて返答に困ったと書きましたが、“げいとう”を、辞書的に“曲芸”とか“はなれわざ”とおきかえることぐらいは、私にだってできます。しかし“はなれわざ”とおきかえたところで、やはり、事物(事がら)には結びつかないわけです。この場合は、この〈がまのげいとう〉を読んでやるのが、いちばんよい手だてではないかと思います。 お話を聞くことで、子どもの頭の中にイメージがわいてくる。そのイメージと“げいとう”が結びついてはじめて、コトバと事物をつきあわせたことになるのだと思います。そこで、先に述べたような整理が、子どもの頭の中にできる、ということになるのではないでしょうか。 △ 友情のテープ 〈友情のテープ〉、これは、教出五下の教材のサブタイトルです。このコトバと、事物とをつきあわせるということは、どういうことでしょうか。 教材を要約しますと、 北海道の山村の学校で、世界一周をする大洋丸の船長が「世界の国々」というお話をしてくれます。子どもたちはみんな大喜びです。そして、大洋丸が出船する日、お礼のことばと“われは海の子”の合唱をふきこんだテープをおくります。それが機縁で、乗組員と子どもたちの手紙のやりとりが続きます。そして、大洋丸が日本に帰ってきたとき、乗組員一同から、世界各地で録音したテープが届けられる――といったものです。 @ これを辞書ふうに、「友情=“ともだちどうしのしたしみ” の テープ=“紙や布でつくった細いひも”」と、おきかえたところで、テープを目の前に置いたところで、事物とつきあわせたことにはならないでしょう。 A しかし、一読することで、子どもたちは「なんだ、録音テープのことか」と気付きます。確かにこの場合は、録音テープのことにちがいありません。けれども、これを〈録音テープ〉、あるいは〈友情の録音テープ〉と置きかえても、へんだということがわかります。 B そこから〈友情のテープ〉は、単に録音テープという物を指すのではなく、乗組員と、子どもたちとの心と心を結ぶ象徴としてのテープである、ということをわからせる方向へ、私は授業を展開しました。この場合、事物は人間の気持・感情だと思います。 △ 事物もいろいろ 一口に、事物とコトバをつきあわせるといっても、その事物はさまざまです。ネクタイであったり、説明しにくいものであったり、また、ある場合は人間の感情であったりするわけです。 そうした、もろもろの事物に対応できる、コトバの教育の構想は、どんなものでなければならないでしょうか。
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