初期機関誌から

「文学と教育」第25号
1962年8月20日発行
  〈座談〉文学教育の可能性―第五回文教研集会をふりかえって― 
司会 荒川有史
熊谷 孝  佐伯昭定  鈴木 勝  内藤哲彦  福田隆義  蓬田静子

  第一印象をもとに

 荒川  私たちの文教研も、集会をかさねるごとにすこしずつ前進しているような気がしますね。今日は、第五回への印象やら感想から話をはじめていきましょうか。
 福田  全青教から参加した仲間なんですが、文学教育をやっていくはげみがついた、と言っていました。文学教育というとだれにもできそうで、そのくせむずかしい。つい、ぶんなげたくなるけど、やはりいろんな方法があるんだなあ、という感じらしいんです。
 熊谷  ぼくが聞いたのは、現場のいわゆる文学教育の専門家ではありませんよ。国立音大の学生で、学園の民主化に今一生懸命なんです。と同時に、音楽サークルをつくろうと、また努力しているわけです。その学生諸君は、文教研の活動に接してサークル結成へのはげましになったし、一面では音楽教育の立ちおくれを痛感したといってますね。
 蓬田  明日の実践のために、というと、とてもせっかちになりますけど、読解指導のマイナスの面が理論的にも明らかにされ、それをきりぬけていく具体的な手順が出てきたのはよかったですね。それと、読書指導の重要性が、教科とのつながりのなかで強調されたのはよかったとおもいます。
 内藤  すばらしい問題提起がたくさんあって、消化するのに一苦労だった(笑い)
 佐伯  でも、教育の問題というとすぐ実践的といわれるんですよ。それが、理論的に片づけなくてはいけない問題は理論的に、という雰囲気が出てきたでしょう? いいですねえ。
 熊谷  とにかく、問題の所在がはっきりしてきたからね。
 福田  寒川さんの生きた資料をふんだんにもりこんだ生活綴方の反省もよかったね。
 佐伯  福田さん、鈴木さんの提案を十二分に検討できなかったのは、なんといっても残念だったなあ。
 福田  それと、墨田区の渡辺先生ね。あの方が、京都教育センターの国語教育三本立て論についてぜひ文教研の意見を聞きたいとおっしゃっていたのに、時間切れでだめになってしまった。
 荒川  それは、今日の一つの課題になりますね。デュウイー『経験としての芸術』(1969年春秋社版函)
 熊谷  それから、われわれは、ここ二三月というもの突貫工事でジョン・デュウイーの『経験としての芸術』を勉強してきたわけですね。その成果が集会にすこしも反映されなかった。デュウイーほど芸術のための芸術を排撃した学者はいないし、いつも日常経験とのつながりの中で、芸術の創造を考えてきたわけでしょう。だから、われわれは、文学教育否定論に対して反対する明確な理論的根拠をもったわけですよ。ところが、、デュウイーをふまえ、ジャーナルな感覚で発言することができなかった。残念でしたね。
 荒川  「デュウイー読みのデュウイー知らず」というところでしたね。
 佐伯  われわれは理論的に問題を処理しすぎたんだね。ハッハッハ……(笑い)
 荒川  その穴うめに、今日は、じっくりと文学教育否定論に対するわれわれの態度を検討しましょう。で、まず、福田さんの出した問題から検討していきましょうか?


  生活綴方と文学教育

 鈴木  京都教育センターが、国語教育を、言語・文学・作文の三本の柱で構想している点ね。ちょっとちぐはぐな感じだなあ。子どもたちの思考をよりたしかなものにはぐくんでいくという点では、科学・芸術の視点をそれぞれふまえて、言語教育と文学教育の構想はうなづけるんだ。ところが、作文となると、ちょっと座標軸がちがう感じだな。
 福田  生活綴方の過去・現在に対する敬意もだいぶ含まれているみたいな感じですね。
 荒川  デュウイーによれば(笑い)
 佐伯  学のある所を見せてくださいよ(笑い)
 荒川  まぜかえすなよ。彼によれば、表現とは、心の中のものをたんにはきだすことじゃない。客観世界と主体との矛盾を、主体自身が反省し整理するところに生まれる、ひじょうに積極的なはたらきなんだね。
 鈴木  そのばあいでも、やはり思考をささえとすることなしには、表現活動は成りたたないわけだ。
 蓬田  その意味では、京都の分類は、認識の座標軸と、読み・書き・話し・聞くといった、ことばの現象形態による座標軸とを、すこしごっちゃにしている感じですね。
 熊谷  われわれはジャーナルなテーマなもんだから、よく“生活綴方と文学教育”ということばを口にする。が、ほんとうを言えば、生活綴方と文学教育は同位概念じゃない。このことをはっきりさせる必要がありますね。生活綴方は、芸術過程・象徴過程にぬけでる地点で仕事をしているわけだし、文学教育は、芸術過程の極そのものを準体験させる仕事なんだから。
 荒川  その点では、生活綴方にうちこんでいる人たちも自覚してきているようですね。
 鈴木  ただ、それをシェーマとして整理しないうちは、ほんとう自覚したとは言えない感じもしますね。
 熊谷  そう。体験をはなれて、文学表現も理解も、綴方もないんだから、その体験を大事に育ててきた生活綴方の仕事は、ひじょうに意味があるわけですよ。ただ、たんなる特殊をこえて普遍的なものを実現するには、文学教育をささえとする必要がある……
 佐伯  それと、このあいだの集会で熊谷さんがおっしゃったこと――文学教育は、可能性における読者もふくめて、生活体験の変革にまで行かないと教養主義になるということ、それがつながるわけですね。
 熊谷  そうなんです。


  文学教育主義への傾斜

 荒川  さいきん、日文協あたりで“状況認識のための文学教育”ということをいってますね。われわれ自身“日文協の会員でもあるので、あんまり人ごとふうには言えませんが、とにかく、今までの文学教育は作品中心でありすぎた、これからは、日常的世界での矛盾をも積極的に凝視し、状況におしながされず、状況をきりひらいていける人間をつくっていこう、という主張らしいですね。
 福田  どっかで、生活綴方とふれあう面もありますね。
 鈴木  文学教育において、文学作品が中心になるのはあたりまえでしょうね。
 蓬田  教養主義的な文学教育への批判も底流としてあるんでしょうけれど……
 熊谷  それはそれとしていいんですよ。われわれも教養主義的な文学教育には反対なんですから。ただね、文学教育のプロセスに、あるいはその手段として文学作品は欠きえないですね。すぐれた文学作品こそ、典型的認識をはぐくむ媒体なんです。言おうとしても言えないこと、訴えようとしても訴えることのできないこと、それらを作家は代弁するし、そこにこそ作家の仕事のすばらしさがあるんだから。
 福田  激動する世界での体験を重視するあまり、文学創造の意義を軽視した感じですね。
 熊谷  その点では、文学教育の可能性を否定する科学主義も、文学教育ですべてを解決しようとするみたいな文学教育主義も、本質的には一つのもののウラ・オモテなんですよ。
 佐伯  どうも、一つのもののウラ・オモテという弁証法的な表現はわかりにくいですね(笑い)
 熊谷  佐伯さんも人が悪いよ(笑い)
 佐伯  いや、ほんとにわかんないんです(笑い)
 荒川  形式論理ふうに翻訳すると、こういうことじゃないかなあ。さいきん、水道方式を主張する人たちが、今まで正しいと言われたことのある部分が間ちがっていると証明されれば、一つの全体としての正しさを主張できなくなる、と言ってますね。それと同じことなんです。わたしたちは、子どもたちの全面発達をねがっている。そのためには、歴史や理科、数学などの科学教科だけではなく、文学の教育も必要なんだ、と言っている。どれ一つを欠いても、全面発達は望めない。ところが、その中のどれか一つがいちばん大事だと主張することは……
 佐伯  あ、わかった(笑い)。 ただ、状況認識の文学教育を主張する人だって、そこまで、はっきりわかっているわけじゃないだろうけど……
 内藤  まあ、結果においてね(笑い)


  認識と象徴

 佐伯  鈴木さん、福田さんの報告は、“思考”を軸に整理したわけですね。ゆたかな文学的思考を実現するために生活体験を大事にしていこうといった……。それと、熊谷さんの芸術過程は象徴過程であるという論理とはどうつながるのかな。
 熊谷  対外的に説得力は弱かったが、純理論としてはつながっていますよ。
 荒川  そこのつながりを具体的に……。
 熊谷  認識とは、仲間の体験をくぐってする客観世界の反映だ、とおさえてきましたね。その反映の仕方に、つまり認識のプロセスに二つある。一つは、概念による反映をめざす科学過程。他は、象徴による反映をめざす芸術過程。ところで、これらの認識過程は、白紙の状態ですすむのではない。仲間の体験をくぐるというはたらき、つまり思考のはたらきで、認識はすすめられていくわけです。
 福田  ほんとうを言えば、生活綴方の成果に学ぶ、というわれわれの文学教育理論も、熊谷先生のおっしゃる象徴過程論を十分にふまえてはいませんでしたね。ただ、そんなふうにつないでいただくと、これから勉強していく、一つの足場ができた、という感じです。スーザン・ランガー『芸術の問題』
 鈴木  象徴過程を明らかにしていくためには、デュウイーやランガーにもっと学ぶ必要がありますね。象徴過程の本質をわれわれがどうつかむかで、文学教育の条件もだいぶちがってきますからね。ただ、デュウイーが、科学の過程を象徴とつかんでいるのには賛成できませんが。
 熊谷  認識過程の二つの側面をきちんとおさえ、分化の上に立った真の統一を実現することが大事なんです。生きた日常の世界では、むろん統一されているんですから。
 蓬田  子どもたちは、文学作品を読むことで、今まで知らなかった新しさを発見するわけですね。そのばあい、「感情ぐるみの意味体験の世界」と規定される象徴の性質がとても大事になってくるような気がします。ただ、ここで、子どもたちにどう象徴を準体験させていったらいいか、いつも迷ってしまいます。


  文学教育否定論をめぐって

 熊谷  原理的には、自己の既往の体験につながる ものを象徴に発見したとき、未知なるものが既知なるものに転化するんでしょうね。
 内藤  そういう原理をふまえたとき、荒川さんが指摘した具体的な指導手順も生きてくるわけですね。切れっぱし教材を全体の中で位置づけること、印象的な場面の比較検討、サインとシンボルの関係をおさえること、主人公の体験をくぐって自分の体験を見なおさせること、といった……
 荒川  たしかに、どんなにこまかな指導手順でも、いつも原理にささえられ、いつも原理を反省していく姿勢がないと、死んでしまうものね。……ところで、わたしたちの話しあいも、文学教育の可能性を前提にしてここまで進めてきたわけですが、さっき、熊谷先生が指摘されたジャーナルで、かつ本質的な問題にはいりたいとおもいます。
 蓬田  わたしたちだって、読解指導ふうの文学教育論は否定するんですけどね。
 佐伯  鳥越さんのは、一見文学教育を否定しているようで、実は、図書館活動とか、読書指導という形で、大きく肯定しているわけでしょう?
 鈴木  そうなんですよ。ただ、現状の文学教室を否定するあまり、授業の否定にまでつきぬけているところは問題だね。熊谷先生が、『日本児童文学』6・7月合併号でおっしゃっているように、国語教育としての文学教育の考え方を、もっともっとわれわれもおしすすめていく必要があるね。
 内藤  そうすると、いったい完全な文学教育否定論なんてあるんでしょうか?
 熊谷  ところが、あるんですよ。(笑い) 江藤淳なんかは、その代表的な人物ですね。文学を教えるなんて不可能だといってるんですよ。作家の意識を代弁している所も大分ありますね。
 荒川  そのばあい、どんな意識の作家を代弁しているのか、また、どんな文学を文学として考えているのか、ずいぶん問題がでてきますね。
 鈴木  先年、熊谷先生からサピアの意見を紹介していただきましたね。文学には大別して、訴える文学と眺める文学とがある。江藤の文学論は、だいぶ“眺める文学”を基調にしているところがあるんじゃないかな。
 福田  それに、計画的に本を与えることがどうして悪いのかなあ、と思いますよ。計画性こそ、教育の大事な側面なんですから。
 荒川  職場の友人で、小学時代、文学書を読むのを禁じられていたそうです。おとなになって、あの時、あの本を読んでいたらなあ、という思い。そういう思いをなくす仕事が、教育なんですけどね。
 佐伯  とにかく、教育とは? 文学とは? という内容がずいぶんちがうわけですね。
 熊谷  文学を特別なものと考えると、教育はできなくなりますよ。文学なしにゆたかな人生は考えられない。と同時に、文学の世界は、日常の体験のなかからのみ出てくるという認識が大事ですよ。
 荒川  デュウイーの『経験としての芸術』にとりくむ意味もそこにあるわけですね。
 (一九六二・七・二一)


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