初期機関誌から

「文学と教育」第24
1962年5月31日発行
  国語教室の現状――あるつぶやきによせて  福田隆義  

 先日、二年生担任の先生から「二年生だけ、どうしてこんなに国語の時間が多いのだろう? 九時間もあって、持てあましてしまう。」という、質問とも、つぶやきともつかぬ声を聞きました。なにも私が、むきになってそれに答える必要もないかと思います。が、そのつぶやきのなかに、国語教室の一断面があると私は思うのです。
 私は、そのつぶやきを、左のような、二様の解釈をしました。


  (一) 学習領域論批判に通じる

 私は、その先生が、社会科のオーソリティーであり、高い理論による、すぐれた実践者であることを知っています。たぶん、そのクラスは、よく聞き、よく考え、よく発表する子どもたちがそろっていると思います。
 とすれば、このクラスでは、国語の指導も相当におこなわれている、ということになのではないでしょうか。たとえそれが、社会科の時間におこなわれたにせよ、国語教育のある側面は、子どもたちの身につけることができている、といっていいと思うのです。
 社会科のねらいは、コトバの指導ではないはずです。しかし、コトバの指導をともなわせないかぎり、社会発展の法則をつかむという、社会科本来のねらいもはたせないのだと思います。というより、むしろ逆に、二年生では、社会発展の法則なり、自然の法則なりがつかめるような、つかめるようになるための、コトバの指導をこそ重視すべきだ、といったほうがいいくらいだと思うのです。コトバの指導とは、そうした、将来の伸びを約束する基盤をつくること、基盤となれるようなコトバの訓練をすることだと私は思います。
 ところで、国語教育を、言語の現象面から、話す・聞く・読む・書くというようなおさえ方を指導要領でしてあるために「なにも、国語の時間を九時間もとる必要はない。社会科の中で、それら言語活動は、充分におさえられる。」ということになってしまうのだと思います。
 単に、話す・聞く・読む・書くというようなことはありっこないので、それは、何かを聞くわけです。その“何か”をぬきにして、コトバの指導なんてありっこないし、できっこないと思います。例の四領域論をご破算にして、その“何か”を軸にした国語教育を考えるとき、社会科や、理科のねらいが中心軸になって、先にふれたようなコトバの指導も、とうぜん、おこなわれなければならないと思います。
 けれども、国語教育は、それだけではないと思います。コトバのはたらきの別の側面として、コトバを媒体とした芸術“文学”の学習も、とうぜん、その中心軸にならなければならないと思います。また、コトバのきまり“文法”の学習を軸にした学習活動も、とうぜん、要求されます。要求されるというより、科学的な思考や、認識に連なるコトバの訓練が、他教科で充分に成果を挙げているとすれば、国語科では、むしろ“文学”や“文法”の学習を軸としたコトバの教育をこそ、重視すべきだと思います。
 「時間をもてあまして困る」という声、その実は、コトバの本質をふみはずした、指導要領の学習領域論に忠実であろうとするところからおこるものだと思います。そうした意味でも、指導要領は、罪がふかいといわなければないません。


  (二) 教科書批判として

 もう一つ「国語の時間をもてあます。」というつぶやきは“教科書がつまらない”という苦言にも解されます。なるほど、一ページに何十字しかないような、二〜三ページの教材を、一週間も二週間もということになれば、誰しも時間をもてあますでしょう。二年生ならずとも、五年生でも“教科書がおもしろくない”ということは同様です。話しあいをしようにも、その素材にならず、読ませようにも興味がない、そのはては「二回読みなさい。」とか「話を聞くときは、話す人の方を見るのだよ。」などと、躾の時間とまちがえるような授業になってしまった経験が、私にはあります。
 ところで、先日私は『ヴィーチャーと学校友だち』を、子どもたちに読んでやりました。二百何十ページかの長編で、刑時間はかかりました。二時間連続で読み続けたこともありました。けれども、そこでは、躾けがましい、注意や、苦言はまったくいりませんでした。がまんできなくなって「先生、読んじゃだめよ。」と、読むのをやめさせて、大いそぎでお手洗いにいく子もいました。一言半句たりとも聞きもらしたくないわけです。
 それだけではありません。読み終わってからの話しあいも、教科書のどの教材よりも活発でした。感想文のかわりに書かせた「ヴィーチャーへ」という作文も、実に生き生きと書けました。じっくりと、ヴィーチャーや、シーシキンを通して自分を見つめているのです。
 ヴィーチャーからの返事は、私が朱でかきこみました。子どもたちはニヤニヤしながら読んでいましたが「どうしても、自分でもう一度読みたい。」と、十三人もの子どもが、新しく本を買って読みはじめました。
 こんな教材が、もし教科書があったら、たぶん、「時間をもてあます。」ようなことはないと思います。そして、こういう教材でこそ本当の意味でのコトバの指導もできるのだと思うのです。
(業平小学校)

HOME「文学と教育」第24号初期機関誌から機関誌「文学と教育」