初期機関誌から

「文学と教育」第22
1961年11月10日発行
 作家の内部  
  はじめに

 第二信号系理論をふまえて作家の認識構造をさぐるように、という編集グループからの課題ですが、課題の趣旨にどの程度そいえているか、全然自信がありません。この稿では、反射とか条件反射ということば(概念)を使っておりませんが、反射・反映・反省という三つのことばが reflexion ということばの三つの訳語にほかならない、という点をつかんで読んでいただければ、筆者の意図は誤まりなく理解していただけるかと思います。
 これは、ところで先ごろ、教養課程の「文学」の時間に、標記のテーマについて三回連続講義を行なったわけですが、その第二回目のレクの一部要旨であるというふうに、ご承知ねがいます。教育科の学生のB君が、速記録に近い丹念なメモをとっていてくれたので、話題の重複しているような個所や、多くの読者には煩わしく感じられるに違いない、学説や文献の紹介の部分などはカットして、あとはほとんどその儘ここに転載しました。旅行を前にして書きおろす時間のない儘、課題に多少ともふれるところのあるこの文章を掲げます。編集グループの方たちに、自由に手を入れていただくことにしましたが、なおかつ通りのわるい所があるとすれば、すべて僕の責任です。


  自己凝視

 創作とは自分をみつめることだ、という意味のことを、これまで機会あるごとに語ってきました。それは、たんに、壁の向う側にいる読者に向って、壁のこちら側で進行している事件を紹介する、コミュニケイトするというようなことではなくて、(コミュニケイションということをいうならば)創作のいとなみは、作家の自己凝視をとおしての伝えである、ということなども前に語ったことがあったように思います。
 つまり、作家にだけ事件が見えているわけではない。読者もまた、それを見ているのです。ばかりか、読者は、ときとして自分が渦中の人間の一人であるような場合さえあるわけです。だから、それはたんに《見る》ということで追ってみたとしても、それは読者とともにみ、むしろ読者の体験をくぐりながら事件(事物)を見ている、ということになるのだろう、と思います。創作が自己凝視をとおしての伝えである、ということは、そこで、つまり、作家が自分をみつめることを通して自分のなかに読者をほり起していく作業である、ということになるのであります。
 だからして、あまりにも不十分な自己凝視がもたらすものは、読者を疎外した、ただの自己弁護か無反省な自己主張の作品にすぎない、ということにもなろうかと思います。


  対象化された作家の自己

 しかし、それでは自己凝視とは何か、ということなのです。作家の意識にのぼってきている《自己凝視》がどういうものであるのか、ということもあるが、そのこと以上に、それの現実の内容、それの実態と機能についてであります。そういう点になりますと、じつは今のところ、いっこう明らかでない。明らかにされていないのです。
 自分をみつめるというからには、当然、《自己の対象化》ということが、そこに行なわれるわけなのでありましょうが、しかし、そこのところで、《見る自己》と《見られる自己》とが《読者》を間にしてどういう関係に立つのか、というような点がつかめていない。というより、そういう視点から問いを発することを、ひとは、あまりやろうとはしない。が、そういう視点、そういう角度から切り込まないことには、作家の内部は明らかになってこないのではないか、と思うのです。
 ともあれ、外化された人間の内部――つまり《対象化された自己》と、それの向かい合っている《自己》との相関関係、弁証法的なそれの相互規定の関係というようなところに、しぼって考えないと、解決の手がかりはえられない、ということになりましょう。むしろ、作家による《自己の対象化》のプロセスが、そこに探ぐられなくてはならないでありましょう。


  創作過程 (一)

 創作活動というのは、作家の側からすれば、作者と読者とのダイアローグ(対話)にほかならない、というふうな考え方を安部公房氏などは示しておられます(「芸術と言葉」)。
 創作が対話である――あるいは、そのことが読者とのダイアローグを通して行なわれる、というのは、「不可避的に作者は読者から逃げられないという内部」をもっているから(安部氏・同上)ということらしい。氏の発言をそんなふうに理解して、多分まちがいなかろう、と思うのです。
 作家の内部がそうしたものである、ということは、創作のプロセスをふり返ってみることで明らかだ――と、氏は語っているわけです。新しいドラマを書く、というようなことだと、「大体テーマを思いついて」から、たっぷり二年はかかる、というのは、最初はむしろ、作者の立場で考えるというより、読者として現実に対するからだ、というわけです。作者としても考えるが、読者としても考える、見る、ということなんだと思います。
 で、こんなふうに、たえず作者と読者とのあいだを往復していて、「自分自身の中でものが展開していく」「本当に自分のものに変わる」のに二年くらいはかかる、ということのようです。
 ともかく、このようにして自分自身の中でものが展開していくような自分になれて、はじめて作家としての自分に帰り着いたということになるわけです。作家に帰り着いたこの状況を、僕は、作家の《第二次状況》と名づけております。第二次状況に対する《第一次状況》は、安部氏のばあいを例にしていえば、大体テーマらしいものを思いついた(つまり読者との往復がはじまった)その時から、ということになります。
 それは、しかし、作家がひとたび第二次状況に到達すれば、もはや《作者》と《読者》のあいだを《往復》するようなことはなくなる、というふうな意味では、むろんありません。ある意味では、そこに、つねに、無限の往復があるわけです。「作者のなかに、どんなになっても、読者は残っている」(安部氏・同上)のです。
 誤解を避けていえば、それは、たえず第一次状況から第二次状況への転化をくり返しながら、創作のいとなみが行なわれていっている、という意味なのであります。一度はつかめたつもりの《読者》が、よくはつかめていなかったことに、やがて作家は気づく。そこで、また読者のところへもどっていく。――つまり、そういうことを、くり返すわけです。
 それは、しかし、ただのくり返しではありません。まさに、発展的な上昇循環であります。
 つまり、また、そのことで作家自身の鑑賞体験が深まってくる、というか、それが幅をもった展望ゆたかなものになってくるのです。ということは、いいかえれば、作家の《内なる読者》が質のいい読者に高まってくる、ということです。作家自身、すぐれた意味におけるアダブタビリティーとフレクシビリティーを身につけてきた、ということにほかなりません。相手が意識の低い、おくれた読者だからといって、それを見放してしまうようなことはしないだけの、アダプタビリティーとフレクシビリティーを身につける、という意味であります。
 いってみれば、それは、すすんだ読者とおくれた読者、鑑賞力の高い読者と低い読者というようなつかみかたではなくて、ひとりの読者のなかに、すぐれた部分とおくれた部分を見分け、そのすぐれた部分につながっていく、という姿勢なのであります。
 作家の姿勢がそういうものになってきている、ということは、ほかでもない、作家その人の内部における《作者》と《読者》との往復・循環の輪が次第に大きくなってきている、ということなのです。往復・循環の輪が大きくなる?……物理学のほうでいう遠心力、あれを思いあわせていただければよろしいかと思います。

  内なる読者――創作過程(二)――

 そこで、ともかく、作家が第二次状況に達したときに《読者》は作家の内部のものになりきるのです。あるいは、現実の読者が《内なる読者》として定着したときが、第二次状況における《作家の内部》の形成されたときである、というふうに言ってもいいかと思うのです。
 内なる読者は、現実の読者の反映であります。たとえば、コマーシャルな作品の氾濫に愛想づかしをしたあげく、こんにちの文学に対しては背を向けてしまっているような人びと――そういう《可能性における読者》、或いはさらに」《未来形における読者》などをもふくめての、それは現実の読者(現実の読者の反映像)ということなのであります。
 で、あるいは、それは、ももろもろのそういう読者のすぐれた部分を発展的につかんで、再構成したところの、いわば作家のイメージにおける読者である、と言ったらよいでありましょうか。ともあれ、第二次状況において、作家がそこに対話の相手としてつかみとった《内なる読者》というのは、(積極面に関していえば)そういう読者である、といっていいかと思います。
 だから、作家の内部に読者があたためられてくるようになると、相手に対する反応をいちいち計算しなくとも、自然と相手をつかんだ表現ができるようになる、ということにもなるわけです。
 と同時に、そこにべったり もたれかかると、表現のステロタイプ化が結果します。それは読者との対話が、きわめて不十分な内部コミュニケイションによってしか支えられていないような場合に、表現のステロタイプ化、マンネリズム化が起こる、ということにほかなりません。
 いいかえれば、相手(受け手)の体験を自己の体験に媒介させることが不十分であるというか、相手を自分の内側にあたためることが不十分にすぎるというか、ともあれ相手との内部コミュニケイションが自己変革をもたらすようなものにまで至りえていないような時に、このステロタイプ化が起こるのです。
 表現がステロタイプ化するというのは、だれを相手にコミュニケイトしようと、いつも相手をひとしなみにしかつかまないからのことであります。自分の固定した部分につながる面においてしか、相手をつかまないからなのであります。
 つまり、いつも相手の固定した部分にだけ向けてコミュニケイトする――そこに結果するのが表現の固定化ということなのであって、それは同時に認識の固定化、思考活動の停止・停滞ということにほかならないのであります。
 問題は、そこでやはり、作者と読者のあいだの往復が「どこまでスムーズにいくか」という点にかかっています。つまり、「うまくいかない時には、それが途中でとまる」(安部氏・同上)のです。「読者のほうでとまれば、ステロタイプみたいな文体になってしまうし、手前のほうでとまってしまえば、自分だけではこう書いているつもりだが、相手には伝わらないという文章になる」(同上)のです。


  創作と鑑賞の弁証法

 そこで、創作ということが実現するためには、じつは鑑賞のいとなみが作家自身のなかに行なわれていなくてはならないわけです。安部氏の内省報告にしたがえば、作家その人の「感受性が非常にたかまって、ものを読んだり見たりして受ける感動、喜びを、ほんとうに深く味あう」ことができるようになって、はじめて「そういう喜び」を「共有しようという要求が出てくる」ようになるのです。「そこからつまりそれを作って与える側 に転化してゆく」ことにもなるのです。
 これは芥川龍之介が指摘していることなのですが、鑑賞できる美は必ずしも創作できないかもしれない。けれど、鑑賞できないような美は、とうてい創作できません。
 「創作にこころざしのある――少なくとも、こころざしのあると称する青年諸君の勉強ぶりを見ると、原稿用紙と親密にする割に、どうも本とは親密にしません。……わたしは、ひごろから、こういう傾向をすこぶる遺憾に思って」いる、と芥川は語っています。創作と鑑賞、作家と読者との弁証法がそこにあるわけです。
 もっとも、芸術は相手を要しない自己表現だ、と考えているような人もないわけではない。また、そういう人であって、かなりすぐれた――というのは、読者なり聴衆なり観客に対して、やはりある種の感動を与えているような作品をものしている作家がいないことはないのです。
 が、それも、作家その人が同時にすぐれた鑑賞者であるような場合にかぎって見られる、《すぐれた創作》ということにほかならないのであります。
 さらにいえば、それは、みずからの《内なる読者》との対話がそこに行なわれていることを、自分自身、意識していない、というだけの話なのであります。つもり事実 は必ずしも一致しない。一致するような場合は、むしろ稀れである、と言っていいのかもしれません。
 かさねて申しますが、すぐれた作家は、同時にすぐれた鑑賞者なのであります。すぐれた鑑賞者・必ずしもすぐれた作家ではありませんが、すぐれた鑑賞体験をそこに伴なうことなしに、彼はすぐれた作家であることはできません。


  未分化から分化へ

 そこで、また、前の項で語った《自己凝視》ないし《自己の対象化》ということなのですが、作家が自分を対象化してみつめるということが行なわれるのは、すでに上記の第一次状況においてであります。いいかえれば、《読者との往復》がはじまったときに、対象化への第一歩がふみだされた、と見てよさそうです。
 というより、作家にとって自己凝視とは、自分自身のなかに読者(鑑賞者)との対話がはじめられた状況をいうのであります。作家は、自分が読者になってその未完成の作品(表現)を鑑賞すると同時に、ほかの読者(現実の読者)の鑑賞体験をくぐってそれを享受・鑑賞する――ということで、また自己を対象化するのです。
 いわば作家が作家自身のなかで向かい合うのです。《見る自己》と《見られる自己》とに分化するのです。初めにいったように、見るとか見られる、といったのでは、つかみきれないものがありますが、しかし例のノエマ的自己・ノイエシス的自己というふうに言ったのでは、ますますズレてくるように思います。一応《見る自己》――と、そう言っておきましょう。
 ともあれ、対象化された作家の自己は、たえず読者とコトバを交わしている自己であります。内語にささえられて、読者とコミュニケイションを行なっている自己なのであります。それは、対面交通・相互変革のコミュニケイション――内部コミュニケイションにほかなりません。
 が、作家の《自己》が、そういう活動をはじめるようになるのは、自己が対象化されることによってであります。それは《見る自己》に対する《見られる自己》として対象化されることで、読者との交通がはじまるのです。
 で、そんなふうに、《見られる自己》が《内なる読者》を獲得することで、《見る自己》のほうもまた、自分の対話の相手となり問答の相手となるような読者を、自分自身の内側に獲得する、という関係にあるわけです。
 こちら側――《見る自己》の側の読者(内なる読者)というのは、だからことばを重ねるまでもあるまいと思いますが、《見られる自己》《対象化された自己》の側にあたためられた《内なる読者》の反映というか、そちらから送りこまれてきた読者である、というふうに見ていいかと思います。
 このようにして、対象の側の読者の映像が、すっかりこちらのものになってしまった時が、「こう書けば、こう相手に反応しているんだ、ということを、あまり考えずに」書けるようになった時だ(安部氏・同上)、ということになるのでありましょう。つまり、作家の第二次状況がそこに成り立ったわけなのであります。
 が、しかし、この第二次状況の実現したときが同時に、新しいオーダー、別の次元における第一状況のはじまりである、というのが、作家にとって、むしろ普通のようです。この点は一応前にふれたとおりです。
 あちら側とこちら側――《見る自己》と《見られる自己》との双方における《内なる読者》が同一歩調をとりはじめ、それらが一体化したとき、二つに分化されていた作家の自己も一つになるわけです。作家は、そこのところで作家として ペンを執れるようにもなるのですが、それも途中で投げ出さざるをえなくなるような時がある。
 ――この現実認識、この表現では読者から浮き上っているのではないか?
 ――このオレの文章はなんだ。あい変わらずの紋切り型じゃないか……
 そうした自問自答のはじまった時が、つまり新しいディメンションにおける第一次状況のはじまりであり、また新しいオーダーにおける《自己の対象化》のはじまりであるわけです。
 このようにして、それが創造・創作の名にあたいするような表現活動であるばあい、そこに絶えざる読者との往復・循環・問答がつづけられていくことになります。そうした絶えざる問答の結果は、「小説は書き終わってみなければ分からないものである」(中山義秀氏『“春の眉”を終わって』 朝日新聞 10.30)ということにもなるわけです。
 ――「小説は書き終わってみなければ、分らないものである。最初は美しい人間・苦難にたえてしたたかに生きぬいた男、そのような主題をぼんやり考えていたが、結果はむしろ逆になってしまった。」
 ――「良い子供を生もうとして、期待はずれの子供が生まれてしまったという訳ではない。かえって設計通りゆかないところに、生き物であるべき創作の面白さがあるのではないかと思う。」
と、中山氏は語っています。創作は生き物です。作者の意図した主題と作品の現実の主題とのくいちがい、というようなことも、そこに生じてくるわけなのであります。
 話を安部氏のところに戻していえば、「大体テーマを思いついて、それがものになるに二年かかる」ということを、しかも、それが実際には二年ぽっちですみはしない。二年がかりで仕上げたこの作品に対して、自分自身なおかつ満足できないからこそ、作家は次の仕事にとりかかるのです。次の仕事が、そしてたんに 次の仕事ではない。少なくとも、良心的な作家の場合、そういうことになるのであります。
 で、これと思うような作品がつくられるまでには、そこに《内なる読者》とのかぎりない循環が行なわれなければならない。それは、あるいは、作家・芸術家によって、生涯の循環であるのかもしれません。ライフ・ワークにとり組もうとした時は、すでに死の時であるというようなことが、ないとは言えない。漱石の未完の大作『明暗』を前にして僕はふとそんなことを思うのです。


  子守唄と行進曲

 内なるものは外なるものの反映である、ということは、現実の読者と、作家が対話の相手として内にあたためた読者との関係についても言えることなのであります。内なる読者は、現実の読者の反映像にほかなりません。あえていえば、それは作家という媒体に屈折した、現実の読者の反映像にほかならない、ということなのであります。
 そのことは、また、鑑賞体験が創作体験に先行する、ということでもあります。作家自身、みずからの鑑賞体験に支えられることなしには、創作の名にあたいするような表現活動はいとなみえない、ということ、しかもその鑑賞体験は現実の読者の鑑賞体験に媒介されてのそれである、ということなどについては前の項にのべたとおりです。
 だからして、その意味では創作は鑑賞に、作家は読者によって制約されている、と言わなくてはなりません。内なる読者は現実の読者の反映である――と、そう言っていいのであります。
 が、ひとたびそこに成り立った読者の映像は、やがて次には、現実の読者に対して制約を加えることになります。たとえば、読者の弱い部分を拡大して、それがまるで読者の全体ででもあるかのようなつかみ方(反映の仕方)を作家がしているような場合、一体どういうことになるか?
 また、相手のそういう弱いところが自分にはしっくり――というふうな作家にとっては、期せずして自分を甘やかし相手を甘やかすような問題のつかみ方になっていくことは見えています。そうした作品が、こころよい眠りをさそう子守唄として、読者のヤワな気持をいっそうヤワなものにしていくことも、また見えています。
 その反対に、読者の強い部分をつかんだのはいいとして、相手のそこだけに向けてアピールしようとしたような作品も、これは読者としてはやり切れない思いです。なん曲もなん曲も、行進曲だけをたてつづけに聴かされているようなものだからです。読者のつかみ方――作家による読者のつかみ方に問題があるのです。
 つまり、作品鑑賞にさいして読者は、自己の反映像であるはずの《内なる読者》と作家との対話を、いま、そこに、目にし耳にしている格好なのです。にもかかわらず、それが他人ごととしてしか響いてこない、というのは、作家による読者のつかみ方に狂いがあるからです。そういう場合は問題外として、そこに慰めや励ましを感じたり、時として反発を感じたり、あるいは立ちどまって考えさせられたりとい場合、内なる読者による制約ということを言っていいかと思うのです。
 というのは、その対話(その作品表現)に耳を傾けることをとおして、読者は、自分の意識や感情を固定化させたり、それを前向きなものに変革したりする要因――要因の一つをそこに見つけているからであります。
 ですから、読者の本当のところをつかむ、ということが作家にとって、どうしても必要になってくるわけです。つまり、相手のすぐれた部分を軸にして、相手の全体を再構成してつかむ、ということなのですが。
 自分の現実の相手は、それこそ全体としてみては「弱い」とか「おくれている」というような場合があるとします。が、それを相手の体験をくぐりながら、しかもつき放すところはつき放す格好でみてみると、さいしょ思ってもみなかったような、シンの強いところや何やすぐれた面を発見することがあります。まず、それをつかむことだと思うのです。
 いいかえれば、そういう前向きのものが頭をもたげるのは、ところでどういう場面、どういう状況においてであるのか、という、そこの所をつかむことなんだ、と思うのです。その点をつかみ、その点に中心を見つけて、相手にとって可能な生活の行動半径をイメージとしてそこに描いてみる、ということが作家には必要なのです。
 そういうイメージが、ただの空想や観念の遊戯としてではなく、根のあるものとしてそこに実現するまでには多くの時日を要するわけですが、そうしたイメージをつくり上げる素材として欠けないのは、読者その人に反映している現実(現実像)のどういうものか、ということなのであります。つまり、鑑賞者大衆の主体に屈折した現実の映像をとおして、逆に現実をつかまないことには、芸術的認識として現実をつかんだことにはならないのです。
 ところが、別の機会に語ったことがあるように、こんにちの作家のおかれている文学状況は、読者との交通遮断であります。創作のしごとは、すでに密室の作業と化してしまっている、という現実がそこにあるわけです。
 一度、何々文学賞というのを受賞したら最後オシャカになるまで読者に会わせてもらえない。マーキュリーとその召使いどもが、その間に立ちふさがってしまうからです。
 そこで、読者に会えないし相手がつかめないから、表現のオリエンテーションがつかなくなる。これでは、時のたつにつれてオシャカになるのも当たりまえだ、と言っていいでしょう。
 そこで、また、多くの作家の場合、自分が一度内にあたためた読者を「永遠の読者」として固定化してしまう傾向におちいりがちです。それは、もはや、いきいきとした対話の相手としての読者ではなくて、いわば老人のくりごと を辛抱づよく聞いてくれるような、ただの聞き上手にすぎません。
 しかし、現実の読者のほうには、そんな気のいい人間ばかりはいない。ヘンにボソボソした調子で理屈をこねたものより、いっそ割り切った調子の風俗小説のほうが、よっぽど面白い、ということにもなるのです。そこで逆に、目はしの利いた作家は、どしどし風俗作家に転身していきます。このほうは読者の固定した感情の面をさぐり当てて、そこへ向けていつも同じ調子で書きまくればいいのだから世話なしです。そのほうの才能がありさえすればの話ですが。
 そのほうの才能?……タイムリーに、風俗的なムードを追って作品を色揚げする才能、というほどの意味であります。(未完)
(国立音楽大学教授・文芸学専攻)


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