初期機関誌から

「文学と教育」第19号
1961年2月?発行
 回顧と展望  鈴木 勝 

 はじめに――
 日本の文学教育の停滞と、その壁をうち破ろうというねがいから、われわれは、文学教育の会にも積極的に参加し、広くナカマと結集する意味において、一九六〇年一月末に研究集会をもつことを提案した。しかし、この提案は、われわれが抱いていたほどしんけんには受けとられず、流されてしまった。われわれはこの会に見切りをつけて脱会した。それと、政治的な、あまりにも政治的なからくりを見せつけられ、われわれの「純粋」さをもちこたえることが不可能になったこと、さらに加えて、われわれの行動力の不足、等々も手伝ってのことではあった。こうして誕生した文学教育研究者集団。あれから一年の歳月が流れた。一年間、それは決して一ようの過程ではなかった。少ない会員であり、決して財政的のも恵まれたとはいえない。しかし会員の一人一人は精いっぱいの努力を文学教育運動のために傾けつくしてきた、いま、ここに一年の歩みをふりかえって整理することはわれわれにとって大きな意義があると思われる。整理する。それは、かならずしもプラスの面だけではない。マイナスの軸を自覚することによってプラスに転化することを意味する。これが、われわれをして成長させることにもなるからだ。
 佐藤・福田・鈴木の三人で、一年をふりかえり話し合った。それを鈴木がまとめたものである。


  小金井集会のころ

 新しく発足をした「文学教育研究者集団」の第一回研究集会を六〇年四月二十三、四日の二日間、都下武蔵小金井浴恩館で催した。芸術が認識であるか、もし認識であるとするならばどういう性質のそれであるか、こうした問題をめぐって、学界(日本文学協会)や、教科研の間で盛んに議論をわかせていたまっただ中での集会であった。日文協の場合は「認識というのは科学に固有なものであって、文学的(この場合芸術的とおきかえてもよい)認識というのは自己矛盾じゃないかと思う」「感性が認識と出会うところに芸術の表現が成り立つ」等々の発言が見られた。さらに、教科研の場合は「芸術的認識の存在を実感」していることはたしかだった。しかも、それは、実践体験の中でのそれであるという点、学者先生方とのちがいを感じた。しかし、その論理もとどのつまり は「芸術は認識と異る内容と、認識とを同時にふくみつつ成立する 」というところへぬけていく、なにか、その昔の漱石の文学論「Fプラスf」を思い出させるものでしかない。
 芸術は認識であるかどうかを確立しないかぎり、改訂学習指導要領の文学観は批判できないし、認識でないという論であれば、単なる情操を高めるための手段やアクセサリーでしかないわけだ。われわれは、このような渦中にあって、芸術は認識であるという前提でこれらと対決をしたのであった。しかして、われわれがいう認識とは「ナカマの体験をくぐってする客観世界の反映のこと」つまり反映論として認識をおさえた。この発想はもちろんいまでも少しも動かないものだが、理論的にあまりにも理論的だったためか、当日の会場では反論を生じることがなかった。このこと自体は、また、理論の確かさの証明にもなろうか。ともあれ会員はしんけんに考え合った。われわれがかつて体験したことのないほどすぐれた、質的に高い研究会だったといえる。しかも、国語教師というワクの会員だけではなく、理科や、社会科からも参加し、科学的認識は、芸術的認識の支えなしにはまっとうなそれにはならない、ということが話し合いの中でたしかめられた。
 ただ、おしまれることに、これだけの参加者を組織化する力・用意が集団自身に不足していたために、この会員も一回的なものになってしまった。これはなんとしても残念なことである。


  夏季集会のころ

 第一回集会の成果は広く現場教師の実践的な方向に示唆を与えることができた。われわれは学習研究の手綱をゆるめることなく月例の研究会をもちつづけた。そうして、小金井集会を機に、常任講師として、川合章先生、塚原亮一先生、巖谷栄二先生の三方をおむかえすることができた。集団発展のために、大きな力である。
 そうして、夏季研究集会をむかえた。四者共催(日生連、全青教、体育同志会、文教研)というかたちでである。しかし、他の集団はその会員数も多く、われわれ文教研はあらゆる面での負担をかけなければ出来ないのではないか、こんな不安がつきまとっていた。が、川合先生のご厚意にはげまされながら、きりぬけてきた。正直にいって、われわれの考えの中には第一回集会のすばらしかった感激があったし、また同じような内容や質の高さを予想していた。ところが、会員の質は相当のひらきがあったといっていい、つまり、提案を自己の軸でしか整理せず、その軸に都合のわるいところは切りすててしまう。だから、こちらの提案軸はまったく生かされていなかった。そんな感じを率直にうけた。もちろん全部がというのではない。このような結果を招いたのは、提案のがわにも問題があったことは認めなければならないと思うが、われわれは、教師としての自己と、さらに運動家としての自己を統一することがいかに容易でないかを自覚した。正しい理論にささえられた運動家としての自己を、というのである。
 しかし、この集会を機会に、大阪グループの発会を見たこと(荒川有史氏発起)や、当日の集会々員の中から、数名が誌友としてナカマに入ってくれたことは、第一回集会から見ると大きな飛やくだといえよう。(夏季集会は八月六日〜九日、日本青年館を会場として開かれたものである。)


  第十次全国教育研究集会のころ

 実践を汲み上げて理論化を、めざしながら地味な研究活動をつづけてきた文教研の理論が、ついに市民権をかくとく することになった。それは第十次全国教育研究集会の国語部会のひのき舞台でである。夏季集会の折に発足をみた大阪グループの荒川有史氏によって提案がなされたのである。氏は、大阪府教研国語部会を代表して参加した。会場に東京尾久小学校があてられ、第一日目から活発な討論がみられた。第九次までの全国教研をのぞいてみると、指導の技術が、ハバをきかせていたことはたしかだった。しかも、その技術が、例の指導要領の四領域をそのままに肯定し、つまり、話すことの指導方法、書くことの指導方法、読解の指導手順、聞くことの指導方法といったもの、そのワク組みの中での指導技術というのである。技術、われわれはそれを否定するものではない。もっと研究されねばならないとさえ思っているのだが、技術は本質から出たそれでなければ意味をもたない。われわれが否定しつづけてきた技術は、つまるところ技術主義そのものなのである。よく研究会での発言に「理論よりも、子どもたちに、どう教えたらよいか困っているんです。」ということばを耳にする。「どう教える」その「どう」が目的ではないはず。「何を」から出発しない「どう」は意味をもたないというのである。全国教研(第九次までの)では、その「どう」に相当比重がかけられていたのだ。
 荒川氏の提案は、まず、四領域を打ちこわすことに成功したし、この提案は、東京をはじめ、大分、和歌山、三重、あたりから盛んな賛同があった。しかし、一般的には、まだ現場に残る技術主義そのものが台頭してきたりしていたが、全国教研国語部会の分布図がぬりかえられることも近い将来に可能だという見通しがもてる。そのためにも、文教研の発展が大きくその役割を負うことになろう。なお、都教研にも福田氏が提案をしている。


  実践活動にふれて

 われわれ集団が、実践に実験的意味をもたせて、教室実践を行った作品は、坂道(壺井栄)空気がなくなる日(岩倉政治)あたたかい右の手(壺井栄)金の魚(プーシキン)などであった。実験的な意味、それは、小・中・高と一貫した、いわば、発達段階を考慮に入れた実践であった。教科書作品があまりにも書きかえられ、われわれが主張する「典型の認識」をさせるためにはあまりにも不備なものでしかなかったのだ。書きかえられた作品の意図は、だから特設道徳教育の時間でねらうような内容を多くふくんでいる。文学が通俗道徳に反逆するところで価値を有する、という観点での教科書作品などは全くないといっていい。われわれは、そうした教科書に大いに不満を感じた。だから、教科書作品と、原文とを両方子どもたちと共によんだり、考えたりした。その中で、やはり、子どもたちが、もっともよく考えられるものは、原文の方だということも発見した。しかし、それだって教師の作品研究がなされてこそ可能だという点の発見、一口に「子ども文学」といい切ってしまうことのできない内容、すぐれた「子ども文学」は、すぐれた「大人文学」でもあるということの発見、さらに、福田氏の「空気がなくなる日」の実践と、篠原氏の同作品の実践(福田氏は小学三年、篠原氏は小学五年)を通して、発達段階における指導のねらい、方法など、われわれの仮説の一部分ではあるが正当性をつかみえた。なおこれらの実践は、校内研究会、都教研、夏季集会などで報告されている。


  今年度の展望にふれて

 実践を汲み上げて理論化を……この実践活動は、もちろん今年度をもつづける。ある意味で昨年度は、夢中の時代だったといえる。したがって、われわれが主張しつづけた、理論に自覚化を、われわれ自身が自覚できずに見すごしてしまったものが多くあったように思われる。理論と実践を確実につき合わせ、検証する仕事がおろそかにされていたのではなかったか、ということである。今年度は、ここを運営の方法上においても確立しなければならないと思う。さらに、教育、国語教育という面から、教育理論の研究も合わせてなされねばならない。本質的には、国語教育の理論を追求することは教育そのものの理論にせまることになるのだが、それらを、考慮に入れた上で、今年度は、教育理論の学習、文学教育理論の学習と二本の軸をたて、さらに、これに加えて、文学作品の研究、(教材作品研究を含めて)実践研究も併せて行う。つまり、われわれの「文学観」の確立をめざす、という意味においてである。そして、教育理論の部門を篠原氏が担当し、文学教育理論では鈴木が、作品研究部門には佐藤氏、実践研究部門には福田氏と、それぞれ担当部門を確認したのもこのためである。さっそく行動を開始し、月例の研究会を充実して行く。熊谷先生には、各部門での指導や助言を乞うことになった。機動性に欠ける文教研という自己批判にもとずいて、これから脱皮する。過去のマイナスの点をプラスに転化することを精一ぱいにねがっての運営方法でもある。その間、教室訪問のスケジュールも実践研究部門で立案し実行され、そこでは広く、その職場、地域サークルとも交流交換しながらナカマを広める。
 さらに、すでに発足をみた大阪支部や、地方会員とはたえず連絡を密にし、機関誌上で広く紹介する。
 以上、大まかに経過と展望にふれた。まだまだ見落しの側面が多くあったし、三人での話し合いが全面的に収録できなかったことは残念である。とにかく、文教研の会員がすばらしい情熱と意気ごみであたることはたしかだ。この意気ごみを一時のそれで終らせてはならないとほんとうに考える。日本の教育のために。

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